山本隆君とは今でもずっと頻繁に付き合いがある、
歳森康師君とは昨年、ON ANY SANDA で久しぶりに出会って、その後Z1会のゴルフなど楽しんだ。
星野一義君とは鈴鹿の2&4の時に会ったのだがもう10年も前である。
山本隆君はブログもやっている。
結構いろんなことに手を出して忙し過ぎるのか、いっぱいいいネタを持っているのに、ブログの更新は忘れたころにやっと出る。
最近、にほんブログ村に誘って、無理やりブログをアップするように仕掛けているのだが、
その結果出たのがこのブログである。懐かしい3枚の写真つきである。
左から山本、星野、歳森である。
カワサキの創成期のライダーはこのほかにも沢山いるのだが、この3人は関西に住んで、星野も後、山本、歳森と同じも神戸木の実に所属したこともあって、会社にも毎日のように顔を出していた。
いつも練習をしていた加古川の川原での写真ということだが、ヘルメットを見るとこのときは星野はまだ三橋、安良岡、などのいたカワサキコンバットの所属である。
星野については、みんなよくご存知だが、このころはまだ新人時代でずっと山本が面倒を見ていた。まだ星野一義20歳ぐらいだと思う。
山本はずっと2輪の世界で過ごしたが、一番早く4輪に転向したのは歳森である。
天才肌のライダーで器用だった。
日産に入り星野を4輪の世界へ引っ張ったのも歳森ではなかったのではないか。
目を悪くして引退しているが、惜しいと思っている。
山本が書いている、MFJの第1回全日本モトクロスは、担当部門ではあったが現地には、行かなかった。
カワサキがレースを始めたころで、地方の草レースで連戦連勝だったのに、なぜぼろ負けしたのか解らない、そんな程度のレース知識であった。
第2回は名古屋、この年に星野は新人でデビューしている。
第3回の四国までは直接のレース担当であった。
名古屋から第5回の札幌まで、すべて現地でレースを見たので懐かしい。
3人ともこの時期油の乗り切った全盛期であったと言っていい。
この3人に東京の岡部、梅津を加えた5人がモトクロスの中心選手であった。
誰がトップに来てもおかしくなかったし、事実みんながアタマを取っていた。
後半はF21Mがデビューして最高によかった時代である。
まだ私も30代で元気盛んなころであった。
山本隆のブログで、いろんなことを思い出した。
昨日,ひょこむに簡単にこの記事に関してアップしたら、山本隆君からこんなコメントが入った。
『rfuruyaさん有難う御座います。
一枚目と2枚目の写真は直ぐそばに、榊さん、古谷さんが居たはずです、たしか「神戸っこ」とかの取材撮影だったと思います!
3枚目は懐かしの手稲オリンピアです。
ボチボチにアップして行きます。 』
「神戸っこの取材」で思い出した。
当時はまだ、モトクロスはまだ一般によく知られていなかった。
何とか世に知らせるべく、スポニチに働きかけてスポニチ主催のモトクロスを開催したのである。
その第1回大会は和歌山の紀ノ川であった。星野一義のデビュー戦である。
それがスポニチに大きく報じられて、それを見た「神戸っこ」の取材になったのである。
もし60おじさんのブログ、ご覧になったら、
是非『バイクモータースポーツ』のバナーをぽちっと、クリックしてあげてください。
それで、順位が上がります。
歳森康師君とは昨年、ON ANY SANDA で久しぶりに出会って、その後Z1会のゴルフなど楽しんだ。
星野一義君とは鈴鹿の2&4の時に会ったのだがもう10年も前である。
山本隆君はブログもやっている。
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左から山本、星野、歳森である。
カワサキの創成期のライダーはこのほかにも沢山いるのだが、この3人は関西に住んで、星野も後、山本、歳森と同じも神戸木の実に所属したこともあって、会社にも毎日のように顔を出していた。
いつも練習をしていた加古川の川原での写真ということだが、ヘルメットを見るとこのときは星野はまだ三橋、安良岡、などのいたカワサキコンバットの所属である。
星野については、みんなよくご存知だが、このころはまだ新人時代でずっと山本が面倒を見ていた。まだ星野一義20歳ぐらいだと思う。
山本はずっと2輪の世界で過ごしたが、一番早く4輪に転向したのは歳森である。
天才肌のライダーで器用だった。
日産に入り星野を4輪の世界へ引っ張ったのも歳森ではなかったのではないか。
目を悪くして引退しているが、惜しいと思っている。
山本が書いている、MFJの第1回全日本モトクロスは、担当部門ではあったが現地には、行かなかった。
カワサキがレースを始めたころで、地方の草レースで連戦連勝だったのに、なぜぼろ負けしたのか解らない、そんな程度のレース知識であった。
第2回は名古屋、この年に星野は新人でデビューしている。
第3回の四国までは直接のレース担当であった。
名古屋から第5回の札幌まで、すべて現地でレースを見たので懐かしい。
3人ともこの時期油の乗り切った全盛期であったと言っていい。
この3人に東京の岡部、梅津を加えた5人がモトクロスの中心選手であった。
誰がトップに来てもおかしくなかったし、事実みんながアタマを取っていた。
後半はF21Mがデビューして最高によかった時代である。
まだ私も30代で元気盛んなころであった。
山本隆のブログで、いろんなことを思い出した。
昨日,ひょこむに簡単にこの記事に関してアップしたら、山本隆君からこんなコメントが入った。
『rfuruyaさん有難う御座います。
一枚目と2枚目の写真は直ぐそばに、榊さん、古谷さんが居たはずです、たしか「神戸っこ」とかの取材撮影だったと思います!
3枚目は懐かしの手稲オリンピアです。
ボチボチにアップして行きます。 』
「神戸っこの取材」で思い出した。
当時はまだ、モトクロスはまだ一般によく知られていなかった。
何とか世に知らせるべく、スポニチに働きかけてスポニチ主催のモトクロスを開催したのである。
その第1回大会は和歌山の紀ノ川であった。星野一義のデビュー戦である。
それがスポニチに大きく報じられて、それを見た「神戸っこ」の取材になったのである。
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