雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

門野哲也  優勝おめでとう!

2023-10-31 05:35:40 | スポーツ

★ 海の向こうのアメリカの話だが、
  孫の末弟・門野哲也は日本人ながら、
  大学のサッカーチームのキャプテンで頑張っている。

  今年の大学リーグの優勝を決めたようだ。

  
  


 それも8連勝など圧倒的な勝利で、
 無得点に抑えた活躍で

 Player of the Week  に

  


 2週連続して選ばれている。





 応援して頂いた皆さんと喜びの1枚。
 シャッターを切ったのはお父さんかな?

 


   
  お母さん(娘)も大喜びである。
  背は190cmもあるから、キーパーになったのか?
  キーパーになったから背が伸びたのか?

    


★ 有名人がが身近にいた、子どもの頃からの環境もよかったのだと思う。

  ベッカムとも一緒に写真に納まっているし、

  
  
  
 アメリカ代表監督クリンスマンさんとは非常に近くて、
 同じクラブの次男のチームのキーパークリンスマンさんの息子さんだったりした。
 

 
 

  そんなアメリカのいい環境で育ったので、
  こんな選手になれたのだろう。


  これは中学3年生の頃に日本に遊びに来てた時、
  ヴィッセル神戸の練習に参加させて貰った時の写真だが、
  石末コーチと背は変わらないほど大きかった。

  

 

  次男の門野真也はすでにアメリカのプロ選手なのだが、


   

 
  哲也も来年大学卒業したら、多分プロを目指のだろう。


  


 
 二人の孫がアメリカのプロ選手になったら、
 一度アメリカまで観に行こうかなと思ったりしている。

 兎に角、優勝おめでとう!


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庭木の剪定と・・・

2023-10-30 05:16:14 | 発想$感想

庭木の剪定は私の趣味だと言ってもいい。
 庭木は放っておくとどんどん枝や葉を出して乱れてしまう。
 年に何回やるか解らぬほど、思いつくと剪定をしている。
 本職の方は庭全体を一度に綺麗にするのだが、
 そんな能力も体力もないので、気が付いた数か所をやるようなことになる。

 昨日はこんな3か所をやった。
 こんな状態のなっていたのだが、
 特に大したことはなかったのだが、何となく気になって、

 



 これくらいまで切ってしまった。





 
 こちらは天が乱れてので、






  
 それを直したぐらいだが、
 



 
 
  
  このように伸び放題になっているのは、



 


  薔薇の枝なども整理して、
  これくらいスッキリとなるくらいまで切ってしまう。






★小さな庭だが、樹は結構植わっているので、
 次々に伸びるので、その都度切っているのである。
 今年の夏は猛暑だったからか、何本かの小さな木が枯れたのだが、
 自然の生命力は強くて、放っておいても毎年新しい樹の芽が出てくるから不思議である。

 一番数多く新しい芽を出すのは種が落ちて生えてくる万両だが、
 今年はなぜか樫の木が小さな芽を何本か出している。
 そんな小さな芽を育てるのは楽しみである。

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私の日記から  昭和34・35年(1959・1960)  

2023-10-29 05:00:09 | 自分史

★新入社員の業務部財産課に配属されて3年目である。
 担当した業務の中で毎期行わねばならぬ作業に財産物件の償却計算という業務があって、
当時は電算システムなどない時代だから、手動のタイガー計算機をぐるぐる回して1件づつ計算をするのだが、
この件数が圧倒的に多いのが私の担当していた『工具器具備品』だったのである。
本来財産物件は取得価格1万円以上のものを言うのだが、
当時はジェットエンジン工場が新設された時期で、新設事業に限り取得価格300円以上が財産物件に計上できるという規定があって、
本来なら財産物件などにはならない机や椅子までが財産物件なので、べらぼうな数になっているのである。
 そんなことで、償却計算の時期になると極端に言うと私だけが忙しくなるのである。

★ そんな毎期の償却計算を3度ほど経験して、
これは何とかならないものかと、その機械化を検討しだしたのである。
当時のジェットエンジン工場には米軍が駐在していて、IBM室があったので、そのIBMを使っての機械化に取り組んだのである。
日本にIBMが一般化したのは東京オリンピックの頃だから、それよりも10年も早い時期のことである。
 川崎航空機内でも米軍以外の民需はIBMなど使っていなかったので、社内ではじめての取り組みだったのである。
 
 
★簡単にIBMでの償却計算に取り組んだのだが、
同じやるならと本社も岐阜工場も巻き込んで全社統一の実施としたので、
それはなかなかの大事業だったのである。
例えば、物件名も統一した名称にしてそれぞれ『コードNO』を付けねばならないのである。
簡単なようだがこの物件名の策定だけでも大変な作業だったし、
社内ではじめてのことだから、教えてくれる人はいないので、すべて自分で考えねばならなかった。
耐用年数』『償却率』など償却計算に必要な項目をすべて決めて、
これが財産物件1件ごとに1枚作られる『パンチカード』なのである。
このカードに必要項目を打ち込みさえすれば、償却計算などあっという間に出来てしまうのだが、
このカード設計をIBM室の人と一緒に創り上げ、財産物件すべてを登録するのに1年半ほど掛ったのである。

 


 多分、こんなIBMカードなどご覧になった方はおられないと思う。
 極言すればこの時期IBMなど日本社会に存在しなかったのである。
 このシステムが出来上がると財産課の償却計算の作業は無くなってしまって、
 償却計算するためにいた人員は必要なくなり、財産課の人数は激減したのである。

★この2年間は、この償却計算のIBM機械化がメインの仕事だったが、
 その間、野球もやってるし、家内とのデートも続いていて結構忙しく過ごしていたのである。
 学生時代から肺浸潤・肺結核になって空洞があったりしたのだが、
 ずっと野球は続けていた。
 診療所の先生に『野球はダメ』と言われていたのだが、ユニホーム姿を先生に見つかってしまって、
 そのあとの検査で『菌が出ている』ので入院しなければならないということになって、
 昭和35年10月末から三田市にあった川崎関係の大原療養所に入院することになったのである。

 療養所で改めて検査があったのだが、菌など出ていなかったである。診療所の先生は『野球はダメ』と言っても言うことを聞かないので、この際入院させようと思われたに違いないのである。

 当時は結核になる人は多くて、
 この大原療養所にも沢山の入院患者がいたのだが、
 いま地図を見るとそれらしい建物も無くなってしまっている。

  


★ この療養所に約1年入院していたのだが、
  お陰様で空洞も消えたし、全快して退院して異動した先が、
  新事業のカワサキの単車営業課だったのである。

  昭和36年(1961)12月のことだが、カワサキの二輪事業のスタートから、それに関わることになったのである。
 125B7や50M5の時代である。


  

 
 
 私の担当した業務は新入社員時代から新しいことばっかりだったので、
 上司からの指示など殆どなくて、自分が思う通りのことばかりがやれたのである。
 そう言う意味では、自営業のような現役生活だったと思う。

 振り返ってみると「ツイていた人生」だったなと思うのである。
  

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秋だな

2023-10-28 05:37:36 | 発想$感想

★ 秋と言えば『紅葉
  樹々が美しく燃える。

  三木総合防災公園もそんな紅に染まっている。
  秋らしい写真を撮ってきた。


  葉だけでなく、赤い実がいっぱいである。

  


 
 紅葉真っ只中だが、





  すでに落ち葉もいっぱいである。






 どうだんつつじも色づいて、






 桜並木も赤に染まっている。

 


 まさに秋たけなわの樹々たちを眺めながらの朝の散歩。

 


  今朝も約7000歩歩いてきた。


  かって北海道や東北で山が燃える壮大な紅葉も観たが、
  こんな一つ一つの紅葉もまたいい。
  四季のある日本に住む幸せを感じるひと時である。 
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カワサキの工場見学と青木隆さん  

2023-10-27 07:06:06 | カワサキワールド

★10月25日に行われたカワサキの工場見学だが、
 遠く豊岡からカワサキのバイクで参加された青木隆さんが、
 当日のいい写真を送っていただいた。

 青木隆さんいつものことだが、
 私などと違って写真に小さな気配りがあっていい。
 私も一ぱい写っていて、いつの間に撮ったのだろうと思うのである。

 これは工場見学後、カワサキの昔を私が話した時の写真である。
 カワサキの二輪事業のスタート時を語れる方も少なくなってしまった。

 


 この工場見学に事務局が準備された資料だが、
 つい先日亡くなったばかりの山本隆のことが語られている。
 実は、青木隆さんと繋がることになったのは、山本隆さんのご紹介なのである。




 


 これは青木隆さんのブログからだが、このように語っておられる。
 ついこの間だったような気もするが2014年のことだったから、
 もう10年近いお付き合いなのである。

  

 
★そんな青木隆さんだが、
 今回の工場見学でも私の写真をいっぱい撮って送って下さった。 

 これは昼の会食後だが、
 明石大橋が望める江井ヶ島の海岸に立ち寄った時の私の後ろ姿である。
 右に写っているのは淡路島である。
 私は明石の生まれ、明石の育ちだから、明石海峡にはいろんな想い出がある。
 明石海峡大橋を眺めながら、そんな昔を想っていた。


  


 これは昼食後、江井ヶ島の海岸に出発する直前、
 こんなカワサキのZ1100で参加されていた。

  
  


 
そんな青木隆さんとカワサキの展示場でのツーショット




 
 川崎神社は今回帰りがけに、私がご案内したのだが、
 そんな川崎神社での何枚かの写真を送って下さった。

 いつの間に撮られたのだろう? 私は全く気付かなかった。

 


  この川崎神社は1990年代に大きく改装されたのだが、



 

 それをおやりになったのは、
 大庭社長ではなくて当時の高橋鐵郎事業本部長なのだが、
 こんな風に大庭さんのお名前が残っているのは
 高橋さんのお気遣いなのだろう。




 大庭浩さんは社長におなりになる前1986年ごろは二輪事業本部長をおやりになっていた。
 その時の副本部長高橋鐵郎さんで、企画室長が私だったのだが、
 この川崎神社はもっと後、1990年代高橋鐵郎さんが事業本部長時代に大改装されたのである。

  そんな川崎神社の参拝を最後に、
  今回のカワサキ工場見学は終わったのである。

  

  
  
  私の最後のカワサキ工場訪問になるかも知れません。
  青木隆さん、写真いろいろ有難うございました。
  この工場見学に参加された皆さん、有難うございました。


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山本隆さんへの弔辞

2023-10-26 18:04:27 | カワサキワールド

★ 山本隆さんが突然亡くなってしまった。
  公式には昨年11月のZ50周年記念にこんなに元気に
  出席していたのだがそれが最後になってしまった。

  

 
  彼が21歳の頃(1963)からのお付き合いなのだが、
  私が一生に出会った人の中で
  ひょっとしたら、彼が一番長く密接にお付き合いがあった人かも知れない。
  現役時代は勿論退職後もずっと密接に繋がっていたのである。

  若い時はレースで繋がっていて、
  私がレースの世界に入ったのも、
  その原因を創ってくれたのは、山本・歳森のBSとの仮契約問題だったのである。
  この事件は神戸木の実クラブの片山義美さんの一喝で、無事元のさやに納まるのだが、
  そのことから私はレースの世界に足を踏み入れたのである。


★ それ以来の継続したお付き合いだから、
  山本隆の写真も手元にいっぱいある。
  旧いと思われる順番に並べてご紹介してみたい。


  先ずは現役時代、カワサキがはじめてライダー契約をした当時で
  左から岡部・歳森・山本・三橋・梅津だが、
  岡部・歳森はすでに逝ってしまって、山本も続いてしまった。
  三橋・梅津は音信不通である。



  


 これが伊豆丸の山高原で行われた、MCFAJ全日本モトクロスで、
 山本隆は当時の久保・荒井の両雄を下しての優勝だった。
 この優勝でカワサキのモトクロスが一人前だとレース界認められた優勝なのである。
 東京オリンピックの開催式当日のことである。


 


 1955年5月には、カワサキのライダーではじめて鈴鹿サーキットに出場し
 ホンダに次いで3位入賞、
 『ヤマ3、シオ8、セイコウ、カワ』の電報が川合さんから送られてきた。
 そんなことからカワサキはロードの世界にも進出し、
 金谷秀夫との契約もスタートしたのである。
 そう言う意味でカワサキのロードレースの祖でもある。
 
  


  現役時代は文字通りカワサキのエースライダーとして活躍し、
 3年連続・全日本チャンピオンの栄にも輝いたのである。

  
 




 これは僚友、歳森康師とモトクロスのお弟子さん星野一義とのスリーショットだが、加古川の河原での練習風景である。

  
  

  これがF21Mが出た時の青森での全日本の時の写真で、
  1966年の年である。

 


 モトクロスライダーとしては、1973年ごろまで現役ライダーで活躍し、
 華麗なライデイングを披露した。

 
  
   


その後、トライアルにも出場したりしたしたが、

 
  


 

 自ら『60おじさん』と称してモトクロスにも長く出場した。

 
   



 これは荒井市次70歳・山本隆63歳の時だが、
 三木アネックスパークで、二人は昔同様の見事な走りを見せたのである。




   
  
 当時も現役時代と同じような見事なライデングで、

 


 若いアマチュア諸氏などは寄せ付けない、
 見事なライデングだったのである。






 そんな山本隆だが
 晩年は、私の後のNPO法人The Good Times の理事長も引き受けてくれていたし、

 

  
 これは私と一緒に東京に行った時の写真だが、
 星野一義がかってのお師匠さんにご馳走してくれた時の写真で
 シャッターを切ったのが私である。

 岡部能夫金子豊もこの時が最後になってしまった。

  
 

  これはマウンテンライダースの50周年記念パーテー
  京都に金谷・清原とも一緒に出掛けた時の写真だが、
  安良岡も金谷もこの日が最後になってしまった。





 同じ日に北川とも太一ちゃんとも一緒に、
 私の80歳の誕生日だったので、いまから10年も前である。
 ところで、山本隆は私よりちょうど10歳若いのでこの時は
 70歳だったはずである。





 これは神戸木の実クラブの記念祭だが、
 片山義美もまだ健在だった。
 彼とはいろいろ繋がっていて、私がライダーと一番初めに言葉を交わしたのは片山義美なのである。
 何故か何となく気が合って、その後もいろんな形で繋がっていたのである。




 これはその片山義美を偲ぶ会での山本隆である。





 そしてこれが昨年の11月だが、
 これが最後になってしまった。
 全く元気そうな山本隆である。

 



★彼は若しライダーにならなかったら、植物の世界に入っていただろう。
 植物が好きで、これは昨年彼が我が家に届けてくれたイチジクである。
 今年はここまで大きくなった。

  


 山本隆の想い出として大事に育てたいと思う。







  山本隆の写真はいっぱいあるのだが
  これが一番山本らしさが出ているなと思っている。


  



  それとこれは彼がただ一度だけ
  鈴鹿を走った時の3位入賞のトロフィーである。


  


 カワサキのロードレースの道を最初に拓いたのは
 モトクロスライダーの山本隆だったのである。

 いろいろと長いお付き合いだったがほんとに有難うございました。
 安らかにお眠りください。
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川重明石工場会

2023-10-25 18:39:32 | カワサキワールド

★ 川重明石工場の見学会神戸ベンチャー研究会主催で行われた。
 私は昭和32年(1957)に当時の川崎航空機工業の明石工場に入社して、
 1999年の退職時には3社合併があって川崎重工業になっていたが、
 現役時代の約40年の舞台となった懐かしい工場なのである。

 当時に比べると数段綺麗に立派に伸長した川崎重工業だが、
 いま二輪事業は分社されて『カワサキモータース』として存在しているのである。
 従って正規に言うと『カワサキモータース』明石工場見学会だったのかも知れない。


  総勢14名での工場見学会だったのである。
  ちょっと少なくて寂しいかなとも思ったのだが、
  実際に工場見学してみるとちょうどいい人数だったなと思っている。

 
  




 こんな立派な会議室で、
 会社側からの丁寧な説明も聞いたし、

 



 私自身から、現役諸君もご存じない二輪事業スタートの頃の昔話もご披露したりしたのである。

 工場内は写真撮影はダメなので、
 こんなロビーの写真や、

  



  これは現在お勤めの方も、ご存じない方が多いのではと思うのだが、
 正門の横の奥にある川崎神社にお参りして戻ってきた。


  
  


 これは今吉田純一さんが、全国に「オートバイ神社」のネットワークを創られつつあるのだが、
 出来ればこのカワサキ神社もその輪の中に入らないかなと思ったりしている。

 この神社は高橋鐵郎本部長時代にこんなに立派に造られたものなのである。
 立地が国道2号線の直ぐ横だから、ちょっと工夫すると工場に入らなくても
 誰でもお参りできる神社になる立地なのである。
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川崎重工業明石工場見学会

2023-10-25 07:20:13 | 発想$感想

★ 今日は神戸ベンチャー研究会の明石工場見学会である。
  9時半に西明石駅に集合して、
  10時から12時までが見学会である。

  約40年間勤めた会社だが、
  明石工場に入るのはホントに久しぶりである。

  9時半に西明石駅に集合し、正門まで移動し
  10時から明石工場の見学会が始まる。

 
  

  

  果たしてどんなことになるのか?
  楽しみにしている。
  結果はまたご報告するので、ご期待ください。
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蜜柑がいっぱい成った

2023-10-24 08:00:14 | 発想$感想

★ 昨年は1個しか成らなかった我が家の蜜柑だが、今年はいっぱい実を付けた。

「柑橘類は、隔年結果と言って、よく実がなる年とならない年を繰り返す現象が起こりやすい性質です。 
実を多く付けると木に負担がかかり、翌年は花芽が付きにくくなるためです。 毎年ならせるためには、幼い果実を摘み取る「摘果」が大切。
 摘果は年2回行います。 」

 などとあるが、そんなことは一切していないし、
 自然に任している。
 少し黄色くなり始めたところだが、
 今年の蜜柑はものすごく大きい。
 肥料だけはちゃんとやったからだろうか?
 



 いっぱい実を付けている。





 小さな蜜柑の樹を買って来たのは何年前だろう。
 小さな鉢だがすでに蜜柑は2個ほどなっていた。
 その木を庭の一隅に植えただけなのだが、
 これまでにも何回か成ったが、今年が一番見事である。


   
  

  黄色くなり始めたところだが、
  このまま完熟させて、正月前にでも採ろうかなと思っている。
  
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今朝の散歩

2023-10-23 07:45:00 | 発想$感想

★ 今朝は早く目が覚めたので、三木総合防災公園に着いたのは5時半だった。
 それでももう何台かの車が止まっていた。
 流石にまだ暗い。 陽は上がていないが、東の方はちょっと明るい。
 それでも写真は撮れた。

 
  


 歩き始めて10分、方角によってはまだ真っ暗である。





 


5時40分、東の方は明るくなった。






 5時50分、撮る方向によってはこんなに明るく撮れる。







  
これが6時なのだが、時計の文字盤が写らない。





  それでもだんだんと明るくなる。
  写真には写っていないが、こんな時間でも歩いている人は結構いる。





  ゲートボール場当たりでは明るくなった。
  



 

 歩き始めて1時間、やっと太陽が顔を出した。
 6時半である。
 今朝の日の出時間を調べたら「6時10分」とあったが、
 この辺りでは山なので20分ぐらいは遅れるようである。





  朝から約7000歩歩いてきた。
  家に戻って朝食、このブログをアップ、
  いま、7時40分である。

  
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私の日記から   1958(昭和33年)

2023-10-22 17:54:16 | 自分史

★ 社会人生活2年目である。
 川崎航空機に入社したのは伯父の友人でもあった当時の川航副社長の砂野仁さんのコネだったからである。
 伯父との接点は旧く戦前になるのだが、明石で伯父が片手間にやっていた錦江ホテルが当時の川航に来ていた軍人の宿舎に接収されるのだが、
 砂野仁さんは、その時の川崎航空機の総務部長でその売買契約書は二人の名前で結ばれているのである。


  




 本当に偶然なのだが私は財産課に配属されたので、
 旧い書類の中からその契約書を見たのである。
 戦前の金だが、80万円の売買価格だった。給料が100円にもならない時代だったから相当な額ではある。


  

 会社ではそんなこともあり、入社2年目も結構ちゃんと仕事をしたはずだが、
 日記の多くの部分が家内との交際のことで埋まっている。
 私は何事にも熱中するタイプだが、
 人生でこの年は恋愛に熱中した1年であったと言っていい。
 
 そういう意味では、記念すべき日記帳である。

  
    


  
★ 隣の給与係にいた家内には、配属後すぐに関心もあって
  日記にもその記述があるのだが、その後も特に何事もなく過ぎている。

  この年の5月28日のことだが、
  三ノ宮で同じ電車から降りて声を掛けたのが始まりである。
  その時のことを日記にこのように書いている。

    




  こんなやり取りがあって、映画に誘ったらついてきた。
  記念すべき初デートである。
  これが5月28日だが、翌週の6月7日には新世紀に踊りに行っている。
  そして6月24日にも新世紀に踊りに行っている。

  1ヶ月も経っていないのに、会社の誰かに見つかってしまっていて、
  その頃にはみんなに知られているのだが、全然、気にすることはなかったのである。

  そして7月9日には、彼女の方から誘われた
  7月10日が誕生日で、誕生日を一緒に過ごしたいと思ったのだと思う。
  私が26歳の時だから、家内は22歳の誕生日だったのである。

  
  


  神戸の摩耶山に登ったのだが、
  帰りは真っ暗な山道を歩いて降りてきている。

  その後も毎週のようにデートは続いたが、
  7月22日に布引の滝ではじめて『好きだ』と言っている。
  人生で女性に対して、はじめて言った言葉で、
  家内以外に『好きだ』と言った女性はいないのである。

  彼女の自宅が神戸の灘区であったこともあって、
  その後のデートも、神戸や大阪まで足を延ばしているし、
  夏には淡路島の洲本まで泳ぎに行っている。


  その当時の家内の写真で、送って来てくれたものである。
  当時、私はカメラなど持っていなかったので、
  彼女の写真などはこのほかにはないのである。

  


★ 会社の仕事の話は日記には少ないのだが、
  会社で2年目結構ちゃんとやった筈で、
  これは日記ではなく私に記憶なのだが、
  財産課に配属されて工具器具備品を担当するのだが、
  当時、その財産台帳もないしその物件は償却計算された紙に件数だけが解る状況だったのである。
 
  この財産台帳を創ると言ったら、周囲の先輩たちはみんな、それは不可能だからやめておけと仰るのである。
  そんな言葉にも反発して、財産プレートなるものを創って、各課の物件にそれを貼って、1件ずつ財産台帳を創っていったのである。
  これはある意味大変な作業だった。現場の事務所を周って例えば机などにも、財産プレートを打ち付けていったのである。
  そんなことばかりしてたから『古谷はいつ見ても金槌を持って社内を歩き回っている』と言われたりしたのだが、
  この年1年掛って、ほぼ全体の財産物件がどの課に幾つあるかも解り、
  財産物件台帳が完成したのである。

 入社したばかりの新人の頃から、
 自分で仕事を創っていったので、振り返ってみると、
 上司の指示で仕事をした経験がないのである。

 入社2年目は、仕事もしたが『家内との交際が始まった』そんな記念すべき1年だったのである。

    
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誕生日おめでとう

2023-10-21 17:01:12 | 発想$感想

★ 「誕生日おめでとう」なのだが、
  息子や娘は兎も角、孫の誕生日など覚えていないから、
  お祝いのメッセージも出せなくて済んでしまう。
  娘のほうの孫の末弟が、極く最近その誕生日だったらしい。
  娘から家内のほうに『誕生日でしたよ』と連絡があったらしい。


   

  そう言えば、9月28日は、息子の誕生日だし、同時に結婚記念日である。
  それにも『おめでとう』を言わなかったので、
  遅ればせながら、息子・古谷大治に60歳の誕生日と結婚記念日おめでとう。
  同時に、孫・門野哲也23歳の誕生日おめでとう
  このFacebook にアップすることで勘弁してもらうことにする。
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私の日記から   1957(昭和32年)

2023-10-21 13:25:29 | 自分史

1957年(昭和32年)は大学を卒業し川崎航空機に入社した会人1年生の年である。

この年は1月19日に大学野球部主催のダンスパーテイー開催からその幕が開いたと言っていい。
人生でいろんなイベントを主催してきたが、これが私の初めてのイベントだったのである。
 
パーテイー券もデザイナーに頼んで、結構立派なモノだった。

  


ダンスパーティーをやった目的は単純で、
後援して頂いている運動具店への借金返済が目的だったのである。

 


ダンスパーテーでの収入目標額は10万円で、
初任給が1万円ぐらいの時代だから、現在に直したら200万円ぐらいになるのだろう。
200万円は売上高ではなくて『利益目標額』だから、
その規模の大きさはお解り頂けると思う。
当時の学生が主催するダンスパーティーは大体200名ぐらいだったのだが、最初からその10倍ぐらいの規模での開催だったのである。
新しくスタートしたばかりの神戸国際会館の大会議場を借り切って、2000枚のパーテイー券を販売することで部員一同頑張ったのである。

 これがその収支だが、
 目標の10万円の収入を達成して、話題にもなったし、大成功の催しだった。


 


  
当時、私は結構ダンスにも凝っていて、明石のダンスレッスン場で教師の真似事などやってたので、
私個人で300枚近く販売しているのである。

今思い返してみると、結構な大仕事だったと思うのだが、
よくやり切ったものだと思うし、当時の部員たちの協力・努力も相当なモノだった。

お陰様で野球部の運動具店への借金も綺麗にして卒業出来たのである。


★ この年は『神武以来の』というのが流行語になった神武景気の年で、
 川崎航空機工業の明石工場だけでも30名ほどの新入社員を採用したのである。
 そんなことで我々の同期会の名称は『神武会』なのである。

 工場付近もまだこんな時代で

 


 いまの西明石駅は、山陽本線ではなくて川崎航空機の明石工場に行くために、 
 戦前に作られた支線の時代だったのである。
 戦前の明石工場は10万人もの従業員がいたというので、
 大変な規模だったのである。





 
 勿論、飛行機を作っていたのだが、
 川崎航空機があったために明石は大空襲にあったのである。





★ 私は明石の生まれで、本籍も今でも明石だし、高校も明石だが、
 川崎航空機にはいろいろとご縁がって、入社することになるのだが、
 その最初の配属先は業務部財産課だった。
 まだ大学卒は少ない時代で、そんな課に初の大学卒として配属されたのである。
 どちらかというと地味な課で、そんな課に大卒が配属されたこと自体が注目された様だった。
 先輩たちの言は一様に『地味な課でオモシロくない』と仰るのである。
 
 財産課とは財産物件の管理をするところで、
 当時の金で1万円以上のものが通常財産物件になるのである。
 財産物件の項目には土地・建物・機械装置・車両運搬具・工具器具備品などの項目があるのだが、
 私は入社早々車両運搬具工具器具備品の担当となったのである。
 車両運搬具とは4輪・2輪は勿論、自転車なども入るのだが、
 当時は4輪・2輪などは少なくて、自転車が台数的には主体だったし、
 工具器具備品というのは文字通り工具だとか、棚などを言うのだが、
 当時新設したばかりのジェットエンジン工場は新規事業ということで、
 特別に300円以上が財産物件になるので、机も椅子も300円以上のものはすべてが財産物件に計上されていたのである。
 当時の会社は再スタートしたばかりで、財産台帳など皆無というような状況で、
 極端に言うと『会社の体を成していない』ような状態だったと言っていい。

私の担当した車両運搬具は、自転車が結構大量にあってそのパンク修理が毎日発生するし、
椅子も当時は木製の回転椅子で、壊れて修理に出すのがトラックに満載されるほどで、信じられないかも知れぬが、そんな修理作業が毎日あって大変な時代だったのである。
 そんな仕事が最初は大半だったが『オモシロくない』などと思ったことは一度もなく、結構楽しんでやっていた。

 末端の現場の人と話をする機会が多く、
 つまらぬ修理のことだが、当方は『頼まれる』ほうだから、
 ちゃんと早くやると喜んでくれるのである。

 当時は野球やソフトボールが盛んで、社内大会もしょっちゅうあって、
 そこでは中心の人気選手だったから、新人ながらすぐに『顔は売れ』のである。
 
  
★ 財産物件の償却計算というのが毎期あるのだが、
 その計算はタイガー計算機を使っての手動計算なのである。


  

 
  この計算は当たり前の話だが、
  財産物件の金額ではなくて、件数のほうが手間が掛かるので、
  そう言う意味では件数の多い『工具器具備品』が圧倒的に作業量が多くて、
  決算期には大変だったのである。

  そんな新入社員時代の半年ぐらいだったが、
  私は1年目からこれらの問題の解決諸対策に当たって、
  財産課には3年ほどいたのだが、その間にすべての問題の対策をしてしまったと言えるほど積極的に動いたのである。

  例を一つ上げるなら、例えば椅子は壊れない金属製の『ネコスの椅子の採用』を提言し、翌年の2月にその採用が決まっている。
  この椅子を一斉に換えるわけにはいかないのだが、
  配布の順番の決定権は入社早々の新人の私にあって、
  なかなか面白かったのである。

    


 そういう意味では、めちゃオモシロかった3年間だったのである。

★ 入社が4月1日で、配属されたのが4月15日で、
  財産課の隣が勤労の給与計算係で女子社員がいっぱいいたのだが、
   4月19日の日記には勤労の女の子の記述があるのだが、それが今の家内なのである。
  その時点では見てただけで、それ以外は何もなかったのだが、
  6月5日の日記に、私の大学時代の親友の小野田からの電話が勤労の電話に掛って、
 「小野田さんという方から電話です」とわざわざ伝えに来てくれたのが家内なのである。
 その時は、ただそれだけのことだが、日記に書いているということは、
 それなりの関心があったのだろうと思う。

 家内と付き合いだしたのは翌年のことなので、この年にはそれ以上のことにはならないのだが、
 神戸高校(神戸1中)出身だということが、この年の11月にはじめて、言葉を交わして解ったのである。

★入社1年目は、ざっとこんなことなのだが、
 野球部に入ってすぐにキャプテンなど仰せつかったものだから、
 結構、社内では名も売れて、自分で言うのもおかしいが、
 人気だけは悪くなかったように思うのである。
 
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志染の里と伽耶院

2023-10-20 17:58:03 | 発想$感想

★ 三木は旧い歴史のある町でもある。
 旧くからの村や田園風景と、新興住宅とが入りまじった町と言えるだろう。
少し前までは緑濃い里山が連なり、桜のころには「春の女神」とたたえられるギフチョウが舞っていたこのあたりも、
高速道路が通り道が整備され、広大な防災公園が造成されて、景観は急速に変わりつつある。
その里の一角に、1500年以上も前の伝説を伝える志染の石室や、伽耶がある。


  

  
 久しぶりに伽耶院に行ってきた。
 静かないい環境にあり私が一番好きなお寺でもある。
 いつ行っても殆ど人はいないし、独りで借り切ったような環境がいい。

 こんな小川の対岸に伽耶院はある。
  




  今日も誰もいなくて、
  駐車場には私のクルマだけだった静かな伽耶院であった。






 
 その歴史は旧く1300年以上にもなるのである。


 



 いつもは殆ど人のいない静かな環境なのだが、




 年に何度かの伽耶院 万燈会など催しの時には大勢の方が訪れたりする。

   


  こんな大勢の山伏が集まったりする。

 


  


 今朝は山伏が並んだ道だが、
 こんなに静かな環境の中を独り静かに歩いてきた。







 境内には、もともとの建物は秀吉の三木攻めの時に焼失したので、
 それ以降に建てられたものだが、
 いくつかの立派な建物が残っているし、





  水子供養なども行われている。





  こんな静かな環境を独り占めに出来るところが好きで、
  年に何度かは訪れるのだが、家から車で15分ぐらいの距離である。





 ほんとに静かな環境で、周囲の大木はその歴史を感じさせるのである。





 ここの紅葉はま素晴らしいので
 次回は12月初めごろに来てみようと思っている。





  帰りの田舎道からの眺めだが、
  わが町は丘の向こうなのである。
  こんな自然や歴史がすぐ横にあるのはいい。
コメント (2)
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カワサキの二輪工場見学、参加されませんか?

2023-10-20 10:44:17 | 発想$感想

★ちょっと急な話ですが、
 この10月25日に神戸ベンチャー研究会主催の川崎重工の明石の二輪工場の見学会があります。
 まだ何人かの余裕がありますので、ご希望の方がおられましたら、
 この私のFacebook に参加希望とメッセージをください。
 先着順になりますが、7名程度は大丈夫だと思います。





若し、参加の希望者がおありでしたら、折り返し詳細ご連絡いたします。
当日はJR西明石駅に9時半集合です。






開催日時:2023年10月25日(水)
      10:00〜 14:30 ※見学会は、12:00終了予定 

場所:川崎重工業株式会社 明石工場 (兵庫県明石市川崎町1番1号)           
       

 
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