雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

菊澤こゆりさんを応援します

2013-04-30 05:14:34 | NPO The Good Times

 

 

★ 菊澤こゆりさん、 三木市出身のイラストレーターです。

大阪にお住まいですが、

三木市の『ふるさと三木応援大使』として、三木のいろいろなことに協働されています。

 

 

 

ご自身のFacebook にアップされた情報です。

熱い思いをブログに、と言われているブログです。

 

その中に載っている写真の幾つかです。

 

 

   

 

★菊澤こゆりさんとは、ちょっと繋がっています。

NPO The Good Times の個人会員さんでもありますし、Piece & Peace という特別プロジェクトでも、今後活動が期待されます。

単なる 

イラストレーターの発想ではなく、ものごとをシステイマティックに対応されようと姿勢が、今回のこのプロジェクトにも見られます。

最初は、せんべいに金物キャラクターの焼き印を押して
新商品をつくりたいというお話でしたが
ただ焼き印を押すだけでなく
このせんべいを三木のお土産として売り出しましょう!
と、ラベルデザインも一新。
化粧箱や包装紙も新しくつくりました。

 

どのようにして、これが完成したのか? 

こゆりさんのブログを読まれると解ります。

 

今お声かけいただいてる仕事が全部おもしろくて
一番やりたいPiece&Peaceに手がつけられないくらい身動きとれなくて・・・・・

と先日、メッセージを頂いた時、書いてあったお仕事がこれだったのだと思います。

 

 

 

これは今注目の佐賀県武雄市のFacebook のイラストです。

 

 

これは、2月に京都で1ヶ月やっておられた展示会です。

 

単にイラストを描くだけでなく、いろんな行動が、一緒に付いているのがいいと思っていますし、

『応援したいな』と思っているのです。

 

三木でも、武雄でも、京都でも・・・

ひょっとしたら、海の向こうの海外でも、

piece & peace  の活動の一環として

NPO The Good Times が応援出来たら、オモシロイな と思っているのです。

 

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NPO The Good Times 理事会

2013-04-29 05:24:41 | NPO The Good Times

 

★毎月1回、NPO The Good Times の理事会が開催される。

通常の理事会などとは、ほど遠い雰囲気で行われる会議だが、理事さんのほかに会員さんでも希望される方は出席OKだから、議事も全くオープンなのである。

 

 

 

昨日は、こんなパリパリのKawasakiのニューモデルに乗る会員の藤原さんが先月に続いての飛び入り出席だった。

昨日の正規の議題は、5月に行う予定の『総会マタ―』であった。

決算と事業計画を兵庫県に提出しなければならないのだが、そんな資料のレベルは上場企業並みに確りとしたもので提出される。監事の小川さんも、管理部長の吉田さんも、どこでも通用する実力者だから任しておけばいい。

今後1年間の活動の方向の基本コンセプトさえ纏めておけば、熱心な団体会員さんの活動も、最近はホントに充実してきて、高いレベルでの展開が予想されるので、全く大丈夫なのである。

 

★今年は、このNPO法人も、5年目を迎える。

今年は改選期なので、理事長の任期も来るのだが、もう1期、2年だけは私が務めるが後は、山本隆さんに理事長を引き継いでもらうことを宣言して、理事長職を引き受けることにしている。

『来年のことを言うと鬼が笑う』のに『再来年のことを言うと誰が笑うのか?』などと山本隆くんは、言ってるがこんなのは公にして、その気になって貰わぬと困るし、あと2年もあれば、盤石のものにNPO自体を仕上げたいと思っている。

大体、半年あれば、殆どのことは何とか形になる。 半年経っても出来ないものは、10年掛っても出来る保証などないのである

安倍さんの動きを見ても、大阪の橋下さんでも、武雄の樋渡さんでも、ちゃんとやりきる人は半年あったらちゃんとやっている

 

昨年7月に立ちあがった『二輪文化を伝える会』 

9月に立ちあがった『KAWASAKI Z1 FAN CLUB』 

そのFacebook ページの『いいね』の数は、800 と 1000を超えたところだが、どんどんその中味は充実して、世の中から客観的に認められるレベルに既になったと思っている。

 

 

★ これは昨日のFBに登山さんがアップしたものだが、ご覧の通り世界へ向けて英文なのである。その内容も世界中の人が解る内容なのである。

 理事会の途中に、突然ニュージーランドから本が本人のサイン入りで送られてきた。

送り主はこの本の著者、世界的に有名なスター クロスビーなのである。

 

何の関係も、関心もないところに、こんなに沢山の本など送ってくるわけはないのだが、今年はこのように世界的な活動になるはずなのである。

どんどんオモシロく、なかなかメーカーでも出来ないようなことにチャレンジしたいのである。

 

 

クロスビーについては、こちらのブログに、本を送ってもらった登山さんが、早速アップしています。

 

 

★『二輪文化を伝える会』のその内容も、半年間でこんなホームページの内容になった

関心のある方は、ご覧になればいい。その辺の専門誌を十分に凌駕している内容になっている。

7月には、こちらも独自でまた、いいイベントを東京で立ちあげる計画のようである。

 このように、NPO 本体は何もしなくても、末端はどんどん活発に動くのである

 

さらにこの4月、三木でも具体的な新しい動きがスタートした。

このところ、あちいこちで広報されている 『粟生線 Y's フォトコンテスト』だがこちらを主宰されている山本医院の山本篤先生は、NPO The Good Times の会員さんだし、関係されているメンバーも、みんな会員さんなのである。

そして、『粟生線の未来を考える市民の会』の世話人代表なので共催となっているのである。

NPO The Good Times も共催となってはいるが、そのシステムで広報のお手伝いなどはいろいろ頑張ってやろうと思っている。

 

 

 4月に始まったばかりだが、既に私のブログなども、ホームページに載っている。

昨年も『笑って遊ぼうミキランド』などもお手伝いしたが、こちらは一歩進んで『仕組みがベースのイベント』なので、どんどん実績は積み上がって行くのだろうと思っている。『Piece & Peace』 も同じようにシステムの上に積み上げた展開になるので大いに期待大なのである。

 

★そんなことで今年のNPO The Good Times の計画は、非常に充実したものになるだろうと思っている。

理事会と言っても非常に気さくな会である。

 

上の本の写真も、郵便物が着いてすぐ議題を放り出して、そちらの話題に集中したし

    

これは途中の煙草喫煙休憩である。 休憩の間も、実際は話は続いているのだが、直ぐ脱線してしまう。

もう一つの写真は、小川監事の家の燕の子たちの写真で、Facebook に載せられたものだが、これは5羽ともヒナだそうである。ひとしきり燕談義になったりした。

 

そんな雰囲気だから、いい案がいっぱい出るのだと思っている。

これは、私流のやり方で、川重の現役時代も大事な会議はこんな雑談形式で自由に検討したものである

大した内容ではナイ伝達や報告会は、普通の会議のようにきっちりとやったが、きっちりとやる会議は、そんなに重要な会議ではないような気がする。

みんな『重要』だと錯覚しているのだと思う

 昨日も、そんなことでいい理事会が出来たと思っている。

 

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カワサキ単車物語50年  その6  特約店制度

2013-04-28 05:34:24 | カワサキ単車の昔話

 

★ 昭和で言うと20年代はバイクの中心はエンジン付き自転車で、カワサキですら明発工業に単体エンジンを提供していた時代だったのである。

昭和30年代の主力は50ccのモペット、その販売は全国に4万店もあったと言われた自転車屋さんで販売されていたのである。

『販売』と言ったが、正確に言うと販売ではなくて、自転車屋さんがお客さんに取りついで、その取次手数料を払うと言う『委託販売制度』だったのである。

『委託販売』とは、自転車屋の店頭にバイクを置いてもらって、それが売れたらお客とは直接地方代理店(メインデーラー)が販売し、自転車屋さんにはその『取次手数料』を支払うと言うシステムなのである。自転車屋にとってみれば、店先にバイクを置かせてあげて、客が付いたらマージンが貰えると言うそんな仕組みで、何のリスクも負担もないのである。店の面積は限りがあるので各地方代理店はそんな場所取り合戦をやっていた時代なのである。

そんな自転車屋のことを通称『サブデ―ラ―』の『サブ』と呼び、地方デーラー(メインデーラー)は、メーカーとの間に挟まって大変な時代だったのである。

サブ殿さまのデーラー乞食』などと囁かれていた、そんな時代だったのである。

昭和40年代に入って、ようやくCBやA1などスポーツ車も世にでるようにはなったが、二輪の販売形態はそのまま、自転車屋が主力の委託販売制度が続いていた。

今のようにお金の回収が容易な時代ではなくて、田舎では盆払いだとか、秋のお米が採れたらその代金でとか、銀行には通用しない私制手形みたいなのまであって、その回数も長いし、『モノを売ってもなかなかお金に変わらぬ』そんな時代が長く続いていたのである。

 

★A1、W1につづいてマッハⅢなどの新機種の発売が続いて、ようやくスポーツ車が都会では人気の出始めた昭和44年(1969)ごろからカワサキだけが、それも東京だけで、スポーツ車を中心の販売網構想から、都内を約60店に絞ったカワサキ独特の販売網を敷いたのである。

城東カワサキ、城南カワサキ、城西カワサキ、城北カワサキ北多摩モータースなどの懐かしい意気盛んな時期だったのである。

この新しいシステムを展開されたのは、当時東京を担当されていた茂木所長の発想で、茂木さんの強烈なリーダーシップで実現したのである。

東京でこのような新システムがスムースに展開出来たのは、大東京の市場の大きさがあったからで、その他の地域では、自転車屋さんからの販売網の脱皮はそんなに簡単ではなかったのである。

ホンダ、スズキ、ヤマハなどにとっては、国内の販売の主力は圧倒的に50ccモペットだから、委託販売の自転車屋主力の販売方式からの転換など考えられなかったのだろうと思う。

 

 

北多摩モータースも、城東城北などの名前も見える)

 

昭和44年に3社合併があり、川崎航空機から川崎重工業となって、今後の単車事業の展開を中大型スポーツ、海外市場特にアメリカ中心に展開するという方針に転換した時期でもあったのである。

それまでは、B8からB1などが中心の『実用車のカワサキ』であったし、その主力市場も、九州や東北といった地方が販売台数でもリードしていたのだが、1970年代に入って、従来一番弱かったと言われた大阪市場など注力することになり、私は仙台から大阪へ異動となったのである。1970年(昭和45年)大阪万博のあった年である。

それから約5年間、国内のカワサキは国内市場に於いて、全く新しい特約店制度展開の時代に入るのである。

 

★ 毎年日本一の実績を続けていた岩手カワサキなどの販売網は、自転車屋ベースだが、それなりにカワサキに対しても忠誠心もあったのだが、大阪に来てみると、販売網らしきものは殆どなくて、取引店の数は500店とか600店とか何店あるのか解らないほどあるのだが、年に部品を何点か購入してくれるようなところも入っていて、カワサキへの忠誠度などは殆どないそんなお店ばかりであった。

当時の中心店、船場モータースの岡田博さんなども、どちらかと言えばスズキが中心で、

『仙台ではどうだったか知らぬが、大阪でのカワサキは、「ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ」ぐらいだね』 などと言われてしまうような状況であったし、販売台数もお隣の兵庫県は地元で、平井稔男さんなどが頑張っていて、大阪よりははるかに多い販売台数を誇っていたのである。

まず特約店制に入る前に、カワサキシンパの店を創るべく『カワサキ共栄会』を組織して対策に入ったのである。この共栄会のメンバーを大阪の全販売店600店の中から選んで組織化をし、その会長を船場モータースの岡田博さんに務めて頂いたのである。

その選定は店の大きさなどよりは、店主の人物中心に、カワサキから見れば、育て甲斐のある考え方の確りした店という選定基準で徹底した。

二輪の販売網は4輪と違ってネット販売、販売網というシステムで売る訳だから、その中心の店が弱体であったのではどうにもならないのである。

なぜあんな田舎の岩手が毎年ダントツの日本一の実績を続けるのか?

それは岩手の久保克夫社長のトータルシステムの発想と、その販売網なのである。最初の営業経験で久保さんに会えたのが、その後の私の人生の基本的な発想のベースになっていて、そういう意味で久保克夫さんは恩師だと思っている。

 

★大阪商人はエゲツイなどと、よく言われるが口は悪いが結構本音が通るところだと思う。最初はマージンの額の多寡みたいなことばかりを言うものだから、営業所の仕入れ値を教えたら、その後一切マージンの額の話はなくなった。

共栄会の25店で大阪の600店全体の60%を売るような実績になったら、その時点で25店の特約店制に移行する、と宣言したら一挙にお客から『仲間』に、そして『同志』に変わっていったのである。会長の岡田博さんは、わがことのように先頭に立ってこの制度の実現に尽力して頂いたし、当時はホントに小さな店だった、伊藤モータース、今の忍者の伊藤さんなど熱心を通りこして熱烈だったのである。

共栄会時代を約2年を経て、まず大阪、京都、愛知の3県から特約店制度はスタートしたのである。

 

その特約店制度とは、

● 特約店契約を締結した店以外とはカワサキは取引しない

● 特約店契約を締結する店は担保の提供、または保証金の積立をMUST とする。

● その最初の契約は甲乙平等の立場で、1店1店、店の希望なども入れたもので、一律に印刷された約款のようなものではなく、手書きのモノからスタートした。

● 大阪で言うと600店の店を25店に、京都では京都市以外は宇治カワサキの1店だけで京都府全体で10店ほどの徹底したスタートだった。

● 台数契約ではなく『金額契約』とし、取引価格も一応の基準はあったが、1店1店、店の希望を入れたものであった。

● 中大型車で金額も張ることから原則『委託』としたが、担保の提供のある店には買い取りも、手形による支払いも許容した。

● 特約店を育てると言うコンセプトであるから、特に財務面の徹底した経営指導を行い、これにより店の経営内容は飛躍的に改善が見られた。

● お客とはユーザーのことを言うのであって、特約店はお客ではなく、仲間、同志という認識であった。

この特約店制度がスタートたのが40年前で、カワサキの名車Zの販売された時期になるのである。特約店制度の展開にZの果たした役割も大きかったし、一挙に店の規模を大きくしていったところも現実に多いのである。

上記の中で特筆できるのが、担保の提供と保証金の積み立て制度である。担保提供した店や保証金が一定額に達した店は『手形発行』を可能とし、通常の利率の適用をOKとした。 当時の金利は『アドオン方式』と言うべらぼうに高い金利が二輪や4輪業界では一般的だったのである。担保はともかく、保証金はお金など持っているわけはないので、3年とか5年とかの長期分割の手形支払い方式であった。これはその後販社にとっては資金繰りに効果したし、特約店にとっては利益蓄積として機能したのである。

 

この最初の時期に特約店契約を結んだ店で、現在も頑張っている店としては、

●大阪では株式会社忍者、当時の伊藤モータースだったり、

名古屋のミスターバイク  当時の店名は春日井スズキ(斎藤さん)という小さなお店だったのである。

●岡崎では、今は世界一のバイク販売店かも知れないレッドバロンの前身ヤマハオートセンター(杉浦斎さん)が、当時は岡崎1店だけで、店をスタートさせたばかりだったのである。

 伊藤さん、斎藤さん、杉浦さん、それぞれなかなかのうるさ型で仕事ではいろいろとあったのだが、私は結構仲がよくていいお付き合いをさせて頂いている。40年経つと立派になるものである。

 

★そんな特約店制度は、世の中によくある全国一斉の実施ではなくて、大阪、京都、名古屋からスタートし、その後兵庫、さらには広島、千葉、福岡、などと大きな県から順次『特約店説明会』を開催し、その趣旨に共感する店だけで1県、1県順次展開していったのである。

 ●まず、各地の責任者が共感し『やる』と自ら手を挙げたところからの順次実施で、現地の責任者が『やる気』であったこと

●全国展開の実務担当として、当時、古石喜代司くんが非常に細やかに現地と繋いでくれたのである。

●『特約店説明会』で、最も説得力があったのは、大阪の船場モータースの岡田博さんが、現地まで行って頂いて、特約店制について話して頂いたことである。

●そして、カワサキ側の厳しい条件ではあったが、現地の販売店のうち納得、共感された方だけが、特約店として仲間に入って行かれたのである。

 

 この最初の時期特約店制度の実現に関わってくれたカワサキオートバイ販売の中心的なメンバーは、(失念した人もいるのだが・・・)

 大阪 古石喜代司、宮本進(滋賀カワサキ)、竹内優、北村 

 京都 藤田孝明、久後淳一郎、関初太郎(モトボックスセキ)、柏原久 吉川健一(山科カワサキ)

 名古屋 鍋島英雄、南昌吾、五島頼孝(ファイブテン)平田篤郎さん達である。

推進した人たちとともに特約店として活躍してくれた人も多い。

兵庫地区は当時平井稔男さんが担当をしていて、大阪などよりはずっと多くの販売実績があったのだが、典型的な自転車屋の旧い店ばかりで、殆ど候補店がなくて、カワサキの従業員からの独立開業ののれん分け制度で展開したのである。

財満君(灘カワサキ)が第1号店で、次々にカワサキ関係者の出店が続いたのである。西宮カワサキ、明石カワサキ、姫路カワサキ、加古川カワサキなど、みんなそうだし、大阪なども八尾カワサキなど全国的にカワサキ関係者からの独立が多いのも特約店制度特徴と言えるだろう。

と書いていたら、山本レーシングサービスの山本隆くんに『私が抜けてる』とオコラレタ。彼はちゃんと特約店説明会から出席したようで、その時の話をよく覚えていていろいろ話してくれたりした。

 

この特約店制度は、大阪でカワサキ共栄会からスタートして、約5年の歳月を経て全国展開がほぼ完成したのである。

全国約1000店の二輪専門店網が、ホンダ、ヤマハ、スズキさんに先んじて、カワサキ独特の制度として完成し、その後各メーカーも、同じような方向での販売形態を取り現在に至っている。

カワサキは、特約店ARK(Authorized & Reliable shop of Kawasaki)などの時代を経て、現在に至っている。

独りカワサキだけでなく、国内の二輪販売網の嚆矢としての役割を果たしたものと思っている。

 

昭和45年から、この特約店制度展開の5年間は、国内のカワサキにとってはZ2の発売があって、初めて『バックオーダー』を体験するなど、特筆すべき5年間だったのである。

私自身は、この特約店制度のほぼ完成を見て、ちょうど10年間のカワサキオートバイ販売の出向期間を終り、川崎重工の発動機事業部企画室への異動となり、また違ったカワサキの単車事業の展開を経験して行くことになるのである。

 

 

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朝日相扶製作所  と 『差別化』

2013-04-27 06:28:21 | 私の生き方、考え方&意見

 

★ 私が生きてきた、その基本コンセプトは『差別化』 であったと言っていい。

差別化』と言うのは、基本的にマーケッテングの世界で特に使われる言葉なのだろう。

あまり一般社会では使われてはいないが、広告やマーケッテングの分野では『差別化戦略』などと、その発想の根幹をなすものなのである。

 

若いころ広告の分野を担当した時期に出会った言葉で、当時は仕事の中でもしょっちゅう出てきたのだが、

そのうちに、自分の生き方までも『差別化』が基本となってしまった感がある。

 

ちょうどそのころは『差別』が世間で問題になっていた時期で、『差別』と言う言葉自体が、なかなか口にするのが難しかったそんな時期だったように思う。

会社の『市場戦略』などの書類に『差別化戦略』などと書いたら、

区別』ではダメなのか?  と上司に言われたことがあったりした。

区別』では ダメで、『差別化』でなければならないのである。

 

ちょっと普通とは変わっていて、そしてちょっとだけでもいい『高度』と言うか優れていて、一段と高いレベルの差がなければならないのである。

ただ単に変わっているだけでは単なる変人だが、少しでも普通のことよりも『いい方に差がある』ことがMUST なのだろう。

ブランドイメージなどでも、そこには『イメージの高質化』がなくてはならないのである。

 

★生き方なども『差別化』は非常に意識して生きてきたので、

いろんな意味で『差別化』出来ていると、勝手に自認しているのである。

このブログにしても、

ツイッターでも、

今、やっているNPO The Good Times のNPO法人についても、それは『差別化からの産物』なのである。

 

特に。NPO法人については、殆どの法人が行政や大企業などからの補助金や寄付金をアテにしているところが多いのだが、

このNPO法人は、『補助金や寄付金』は一切宛てにしない仕組みになっている。

 

★そんな差別化だが・・・

昨日こんなニュースを見つけた。

こんなのが、典型的な『差別化』なのである。

 

 

 ★産経フォトにこんなニュースが載っていた。

山形県の家具やさんの椅子が、国連本部の議場に採用されたと言うのである。

 

その家具屋さんのホームページを覗いてみた。

その家具屋さんの名前は『朝日相扶製作所』  山形県の家具屋さんである。

 

 

まさに『差別化』なのである。

ちょっとどころか、相当のレベルで他との『差別化』がなされている。

量的拡大、経済大国だけを目標にするのではなくて、

今後の日本の将来は、高度な差別化こそが、いろんな意味で競争力に繋がるのだと思う。

 

農業なども、単に『TPP反対』などと言わずに、

他国の農業との差別化を目標に頑張るべきだと思っている。

農業の高質化  日本人なら出来ると思うのだが・・・

 

 

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侵略や国益や、靖国問題などなど・・・

2013-04-26 06:01:00 | 私の生き方、考え方&意見

★安倍さんの支持率は非常に高い。

中国や、韓国に対しても毅然とした態度であるのはイイ。

私自身ももどちらかと言うと『右寄り』だとは思うが、昨今の中国や韓国との対立も、もう少し何とかならぬのかなとは思っている。

 

 

特に、『侵略の定義は、学問上確定していない』と安倍さん国会で仰ったらしいが、

確かに『侵略』とは、どんなことを言うのであろうか?

 

もし、戦前の韓国の状況を『侵略』と言うのであれば、私はその『侵略状況のど真ん中』で中学時代まで過ごしたことになる。

当時、日本は韓国に進出していたし、満州、今の中国北部にも色濃く関与していた。

子どものころだが、それは至極普通のことのように思っていた。

決して侵略していると言う意識などもなかったし、今もそう思っている

ただ、中国との戦争が始まって、どんどん中国を占領していった事実は、これは『侵略』かなと、今でもそう思う。

 

 

★『侵略の定義』などなかなか難しいのだろうが、人類の歴史を見ると、世界各国『侵略の連続』であるようにも思える。

大体、人間は自分の支配する範囲を広げようとしたがるのは本性のような気もする。

侵略ではないが、経済におけるマーケットのシェア競争なども、自らの勢力を拡大しようという動きであることは間違いない。

こんな動きは、単に利益確保のためではなくて、シェアアップそのものが目標になったりする場合も多いのである。

 

かって欧米諸国が中国に対しても、東南アジアに対しても、アフリカに対しても取った態度は、植民地化政策などと言われてはいるが、侵略とどのように違うのだろうか?

そんな態度は『間違ってた』から、今はなくなっているのだろう。

それはそれでいいが、何十年経った現在も 『謝れ』とか『反省しろ』とか、言い続けているのは、これはまたどうかと思うのである。

そんなこと言われているのは、日本だけである。

 

国益と言うことも、よく言われるようになったが、国益とは文字通り国の利益、国民の利益、 日本に有利になるように動く、ことなのかな?と思う。

同じことに対しても、必ず意見は別れるものだと思う。

それ自体は、それでいい。

でも、どちらかと言うと、自分の国が有利になるように、自分の家庭にプラスになるように、動くのが普通なのだが、

特に、戦後日本の知識人と称する人たちが、むしろ日本に対して厳しく考え過ぎたその反動、みたいなものが今の右傾化に繋がっているように思えてならない。

 

靖国神社参拝の問題も、言われていることは当然のことが多いのだが、

私は未だお参りしたこともないし、今後も行くことはないだろうと思う。戦死をした伯父もいるのだが、靖国神社に祀られていると言う実感はない。

日本国民の方で靖国神社にお参りされた方は、何%位なのかなと思う。

 

 

個人の意思で、個人が国のために尽くされた人たちに感謝の念を持つ、そして靖国神社に参拝する。これは何等他国から文句を言われる筋合いはないと思うが、

なぜ、国会議員が、あんなに大挙して群れをなしてデモのようなお参りの仕方をするのか?

みんなで渡れば怖くないと言うようなそんな感じなのだろうか?

 

★安倍さんは、私はイイと思う。

ただ、一国の総理で、国を纏める立場におありなのだから、ぜひ国益を考えて、確りとやって頂きたいと思う。

一つ一つ取り上げたら、いろんな意見があるのは当然である。そんな意見が自由に言えるから民主国家なのだと思う。

戦争に負けて、そんな世の中になったことは、事実なのだが、

戦前が全てダメなどと言うことではないと思う。

 

そんなことを国民が、「ちょっと考える」そんな時代にようやくなったかなと思っている昨今なのである

 

 

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シクラメンの夏越し方法

2013-04-25 16:46:52 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★ シクラメン、この冬ずっと綺麗に咲いた。

夏を越して来年の冬も咲かせたいのだが、上手く夏が越せるだろうか?

 

 

こんな二つの方法があるようだが、夏水を切る方が面倒でないのでそちらにすることにした。

いずれにしても忘れないようにブログに記録しておくことにする。

 

★めちゃ天気がよかったので、近くの公園まで行ってちょっとダッシュなどして戻ってきた。

 

 

     

公園の藤たな、藤は今からかな。

チュウーリップも綺麗だった。

 

 

 

前のお宅のクリスマスローズは見ごとである。

 

 

我が家の薔薇も、ようやく蕾を付けたあと2週間ほどかな。

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カワサキの単体エンジン時代の話

2013-04-25 05:58:03 | NPO The Good Times

 

★『二輪文化を伝える会』 という NPO The Good Times の特別プロジェクトがあります。

 

 

昨年の夏に立ちあげられましたが、日本の二輪文化を伝えるべく非常に地道な活動を続けています。

その中心の実務を担当しておられるのは松島裕さんです

今から30年かかって纏めると、壮大な夢を語っていますが、たった半年ほどですが、既に立派な資料がいっぱいです。

二輪文化にご関心のある方は、xぜひご覧になってみてください。 非常にまじめな取り組みであることがお解りになると思います。

このブログでも、新しく『二輪文化を伝える会』と言うカテゴリーを創って、ご紹介をして行きたいと思います。

 

昨日はそのFacebook ページに、こんな記事が載りました

 

 

以下ご紹介する記事は、そこに紹介されているブログの記事です。

詳しい人からすれば、違うよ~、という事もあるでしょうが、少ないなりに一応それなりの資料を参考にしていますので、大きな間違いはないと思います』

と書かれていますが、殆ど間違いないと思います。

昭和28年に発動機の単体エンジンからのスタートですが、そのように聞いています。

私は昭和32年に川崎航空機入社ですが、ここに書かれているような話はよく聞きました。

高槻工場でもバイクのエンジンをやっていたようです。単車事業本部長、KMJ社長など歴任され、後川崎重工業の副社長をされた高橋鉄郎さんは、高槻工場でバイクのエンジンやられてたと、ご本人から聞きました。

大日本機械や、川崎明発工業などの名前もよく聞きます。私が単車に異動した昭和36年末には、カワサキ自動車販売に既になっていました。

そしてクルマとしてはB7の時代です。既にそのころは完成車になっていました。

カワサキのエンジンの時代のことが、今解る方は 平井稔男さんだけかも知れません

 

こんなに、ちゃんと纏められて書かれてあるのは、初めて見ましたので、ご紹介したいと思います。

 

 

<メイハツKB-1/2/3>(1953~)

「カワサキ」としてのモーターサイクル事業は小型エンジンの供給から始まっています

まぁ、会社としての成り立ちが複雑で、名前が変わったり分裂したりくっついたりと、どこから「カワサキ」として扱っていいのか分かり難くて大変でしたが、原付の歴史ということで考えれば、やはりここが起源でしょう。

とりあえず「カワサキ」の成り立ちを要約しながら、順に進めていきたいと思います。
詳しい人からすれば、違うよ~、という事もあるでしょうが、少ないなりに一応それなりの資料を参考にしていますので、大きな間違いはないと思います。

まず、1878年(明治11年)に川崎造船所がスタートします。
1937年(昭和12年)に川崎航空機工業(株)が分離独立し、軍需産業として大きく成長します。
しかし、敗戦後の混乱で川崎航空機は川崎産業(株)となり、さらに(株)川崎都城製作所、(株)川崎岐阜製作所、川崎機械工業(株)の3つに分裂します。

その川崎機械工業の播州工場が、1953年1月に自転車補助エンジンKB-1型を生産開始します。

また、川崎機械工業の高槻工場では、1953年2月から4ストローク150㏄エンジンのKE-1、KE-2、KE-3が作られていました。
KE-1の設計はKB-1より早い1952年2月頃には出来上がっています。

ちなみに、カワサキワールドにはKE-1は1952年に製造販売となっていますが、どっちが本当でしょうね。
設計完了から生産開始までちょうど1年間ありますが、実はこの間に製造販売が出来ていたのでしょうか?
まぁ、とにかく、この2つのエンジンが「カワサキ」のオートバイ産業の原点でしょう。

そして、原付バイクの原点は、KB-1です。

その後KB-1は、同年3月に明石工場に生産を移して、同年8月にはKB-2型が生産開始します。
翌1954年2月には、川崎機械工業が再び川崎航空機工業(株)となり、同年3月にKB-3型が生産されます。

KB-1は、提携供給先の大日本機械工業にて自転車に搭載され、「電光号」として発売されますが、後に同社は業績不振でバイク産業から撤退しています。

川崎工業製エンジンは、他にも数社に供給されていたようですが、新たに発足した明発工業が、川崎機械製エンジンの総発売元となり、「メイハツKB-1」が誕生することになります。

エンジン単体と、専用の自転車に搭載されたものとが販売されていたようです。
50㏄を超えていますが、1955年の法改正までは原付として乗れました。

その後、「メイハツKB-2」「メイハツKB-3」と続いていきます。

メイハツKB-2は、ペダルスタートではなく、キックスターターを採用し、2段ミッション付きでした。

メイハツ製バイクは、造船・航空機などで有名だった川崎製のエンジンを搭載しているということで、人気があったそうです。

明発工業は、川崎機械の明石工場で作った発動機(エンジン)ということで、当時すでにあった「トーハツ(東京発動機)」に対抗して「メイハツ(明石発動機=明発)」と名付けられたそうです。

後に川崎明発工業(株)となり、さらにカワサキ自動車販売(株)、そしてカワサキオートバイ販売(株)となって、現在の(株)カワサキモータースジャパンになっています。

(メイハツKB-1)空冷2ストローク単気筒ピストンバルブ58.3cc、ボア×ストローク:42×42㎜、最大出力2ps/4,500rpm、最高速度45㎞/h

(メイハツKB-3)空冷2ストローク単気筒ピストンバルブ58.3cc、ボア×ストローク:42×42㎜、最大出力2.5ps/5,500rpm、最高速度45㎞/h

 

★実は昨日は久しぶりに、川崎重工業の明石工場を訪ねました。

川崎航空機が再開されて、本部があった『3研』という建物です。

懐かしかったので、写真撮ってきました。

単発エンジンをやってた50年以上も前の頃も営業部門は、この建物の中にありました。

単車準備室』もこの建物の2階にあったのです。

戦前の川崎航空機時代からの建物ですから、天井も高く階段もこんなに、広いのです。

 

 

 

懐かしい、会議室です。前方に見えるのが単車の組み立て工場です。

 

 これは、プレジデント室のある3階です。

 

『二輪文化を伝える会』  今後もいい資料をいっぱい集められると思います。

 

 

 

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ユニクロの世界同一賃金

2013-04-24 05:14:12 | 発想$感想

 

★ユニクロが『世界同一賃金を発表』というニュースが新聞のトップを飾った。

 

 

優秀な人材を確保したいからなのか?

同一賃金にして、トータルの賃金を下げたいのか?

いろいろ意見はあるようだが、

ネットでもいろんな意見がいっぱいのようである。

 

 

★いずれにしても、学者が言っているのではなくて、企業経営者が言っているのだから、

そのベースには『企業経営の効率化』 ということがあって当然なのだが、

一方で『企業の社会性』その国の、その環境に如何に、健全に適合するかと言う問題もあるのだろう。

 

ユニクロと言う同じような形態の多店舗店舗を世界に展開する場合は、特に現場の店長以下のクラスに、そんなに飛び抜けて優秀な人材がいても、いなくても結果はそう変わらないのではなかろうか?

商品の開発、商品の品揃え、陳列の方法、仕入れの方法、広告の内容など企画的な面は、確かに人材の優劣が付くのだろうが、現場の第1線は、誰がやっても同じ結果の出るようなトータルシステムの構築が、ベースなのだろう。

最終的には年収100万円でも仕方がナイという方向に集約されてしまうのではなかろうか。

『世界同一賃金を発想する』トップは、年収4億円が、本当に妥当なのか、高いのか?

それは、誰の判断でそう決められるのか?

こちらは同一と言っても、一人しかいないんだから『同一』と言えるのだろうか?

 

こんなのは、正解があってないようなものだけど、

人数的には、低賃金で抑えられる人たちが多くなる計算になるはずなのである。

そうでないとすれば、個別の店舗ごとの収支が果たして成り立つのだろうか?

 

よく解らないけれど、間違いなく 『話題は提供する』 出来事ではある。

 

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Facebookの賢さ加減

2013-04-23 06:11:58 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

 

★この頃は、1日の内でFacebook と対峙している時間が一番長いかも知れない。

兎に角、オモシロくて、飽きさせない。

対応も、極端に言うと秒単位で反応する。

その反応が見たくて、いろんなことにチャレンジして、チェックして見るが、期待通りの反応を示してくれるところがいい。

得られる情報も貴重で、高質なものも多いから、こんなのが見られないようにしている行政など、これはどんどん遅れてしまうのである。

 

ところで、これが私のFacebook ページだがこのブログをお読みになる方の何%ぐらいの方がこのリンクの内容をご覧になれるのだろうか

 

 

 

★ リンクが見られない方、リンクが貼ってあってもそれを開けない方もおられるので、その画面を切り取ってきたのがこちらである。

 

私が開くとこんな画面なのだが、これは世界で私だけのもので

多分私以外の方が、幾ら私のFB画面を見ても、こんな画面は絶対に現れないはずだと言うのが、今現在の『私の仮説』なのである

 

 

まず上の9画面は、1000人を超えるトモダチの中の9人なのである。

この9人が どんな基準で選択されているのか?

もしお解りの方がおられたらぜひ教えて頂きたいのである。

 

この9人のうち、息子と娘、孫二人に娘婿の5人は何となく解る。身内だと言うことで、もう一人孫はいるが、トモダチになっていないので、除外されているのだろう。

問題はあとの4人である。この4人の方は、確かに身近な方であることは間違いないのだが・・・・

なぜ、カバン屋さん と、60おじさんなのか

さらに、女性がなぜ 菊澤こゆりさん と 陸井薫さん なのか

確かにNPO The Good Times でも関係はあるし、親しいお付き合いであることはよく解っているのだが・・・・

 

 

★いろんなトモダチの画面をチェックして見たがどうもそのルールがよく解らない。

 

   

 

 これは三木の森田優さんの画面を私が開くと、こんな私と共通のトモダチが現れるらしい。

武雄の樋渡啓祐市長や箕面の倉田市長などが現れる。

 

その樋渡市長をクリックすると、右側の画面、

ずら―っと三木のメンバーと服部吉伸さんが並んだりした。

なるほど、

これは全て私中心にFacebook が瞬時に反応しているので、 

私以外の方が、森田さんや樋渡さんをクリックしても、決してこのような画面が現れたりはしないはずである。

 

確かに、Facebook が賢いと言うことはよく解ったが

最初の私自身の画面の4人の方は、どんな位置づけなのだろうか???

 

こんなことして遊んでいたら、1時間以上も過ぎてしまった。

こんなのを好奇心と言うのだろう。

みなさんは、あまり気にも留めていないのだろうか?

 

私がなにを言ってるのか、お解りにならない方が、多分殆どだろう。

ぼちぼち、ボケたかと思われるかも知れない。

この私の仮説、多分、半分は、間違っていないとは思うのだが・・・・・ 

 

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カワサキ単車物語50年  その5  川崎航空機時代の国内対策

2013-04-22 06:21:46 | カワサキ単車の昔話

 

★ 昭和40年(1965)がカワサキが本格的に単車事業を川崎航空機の経営の一つの柱とすべく決心をした年と言っていい。

従来の国内市場一本からアメリカ市場開拓を大きな柱にA1などの新機種も開発されて、カワサキにとってはアメリカ市場での華々しさが非常に顕著な時期ではあったが、日本国内に於いても販売会社や明石工場内での事業運営体制が着々と整備されていったそんな時期、そのころは未だ川崎航空機だったのである。

 

『販売会社体制』

★メイハツ、メグロの人たちが中心のカワサキ自販が東京に本社機能を持って全国を統括していたのだが、

カワサキオートバイ販売に社名変更すると同時に、その企画中枢を東京から明石に移したのである。それは、岩城良三常務が自ら社長を兼務されて、当時の川崎航空機の事務屋の精鋭たちが、集められたことから始まったと言っていい。

その中心となった営業企画部門には本社から川崎航空機再開の定期採用第1期生の矢野昭典さんが赴任され、誰が見ても会社としてここに全力投球だ ということが解るそんな体制だったのである。当時アメリカを担当された浜脇洋二さんも東大だが矢野さんはその1期上で本社人事課長からの異動であった。

販売促進部には販売促進課広告宣伝課が創設されたのだが、販促が八木健、広告宣伝課が私、いずれも未だ係長にもなってもいないのに、出向先とは言え、異例の課長抜擢だったのである。特に販売促進課には、八木健さん以下、北村敏、野田浩志、前田祐作、岩崎茂樹、鍋島秀雄と当時の川崎航空機の事務屋のトップクラスが集められたと言っていい。ただ、確かに潜在的な能力は優秀だが、バイクに関しては全くの素人ばっかりだったが、後々事業の中心的な役割を果たした人たちであったことは間違いない。

 

私が担当した広告宣伝課は、誠に対照的な高校卒の実務派ばかりで、かって野球部のマネージャーをやっていた川合寿一さん、営業の実務派大西健治さん、技術部のデザインルームから榊くんなどが明石で、東京にはカワサキ自販以来の広告宣伝課のメンバーの下原さん以下がいて、主として東京モーターショーを担当していた。担当する範囲は、単なる広告宣伝でだけではなくて、当時のファクトリーレース活動をカワサキのイメージ戦略と位置付けて、契約ライダ―達は全員が広告宣伝課の嘱託として名を連ねていて結構な人数だったし、当時のライダーたちはやんちゃなのも多かったので、エリート揃いの販売促進課に比べたら、おもろい元気なのばかりの集団だったのである。

カワサキ自販時代の企画戦略の中枢であり、カワサキコンバットの産みの親、私にも大きな影響与えた小野田滋郎さん(フィリッピンの小野田寛郎さんの実弟)は、この機に退社されたのである。

ただ、広告宣伝費予算は、本社から事業開発費として1億2000万円もの膨大な予算が3年間与えられていたのである。これは単車再建のための市場調査を行なった日本能率協会が事業再建の条件の一つにあげたもので、当時の単車事業の総売上高が10億円そこそこの時期に1億円を超す額は普通では考えられない額なのである。サラリーマンの年収が40万円ぐらいの時期だから、その額の大きさがお解り頂けるだろう。1年目は7000万円しか使えなくて、『お前らは金をやってもよう使わん』と本社専務にオコラレタリしたのである。

こんな予算を目当てに、大広、電通、博報堂などの広告代理店は神戸の支店ではなくて、本店の企画メンバーが担当で、当時の日本のマーケッテング関係ではトップクラスの人たちばかりの超エリートメンバーでもあった。この時期この人たちから得たマーケッテングのノウハウなどは、カワサキにとって大きなソフトの資産になったことは間違いない。

広告宣伝の世界では、例えば『カワサキ』と言う4文字のレタリングを『ちょっと有名な人にやって貰いましょうか』と言うので『そうしよう』と言ったら、オリンピックのポスターのデザイナーの亀倉雄策さんの見積が出てきて、そのデザイン費用が7000万円だと言うのでビックリしたリした。

本来の広告宣伝のテレビ番組などは、1億2000万円あっても簡単には使えない額だし、何よりも当時のカワサキの主力市場は実用車が主体の田舎ばかりで、東京、大阪、名古屋地区は要らない と言うものだから、テレビも、新聞も全国版は使えないのである。だから地方紙ばかり50紙をかき集めて広告したり、現実的なライダ―の契約金をちょっと弾んだり、中古のヘリコプターを所有して、地方のイベントやレース会場に参加したり、結構派手にはやっていたのである。

少なくとも、私の現役生活で、一番自由に金が使えた3年間であったのである。

広告宣伝価格と言うのは、その効果などが基準で、『カワサキ』と言う4文字はどの広告にも使われる『広告のもっとも基本的な4文字』だから高いので、これがZEPHYR のような商品名であったりすると、7000万円と言う値にはならないのである。同じタレントさんを同じ時間占有しても、それを全ての媒体に使う場合と、雑誌だけに使う場合では値段は違う、そんな世界なのである。そんな発想の仕方も、広告を本格的にやって広告代理店の本社の連中と付き合っていろいろ教えてもらったのである。

 この時期、カワサキの独特のイメージ創造にレースの果たした役割も大きくて、競合3社に対して何一つ1番になれるものがない時期に、レースだけは互角以上に戦ってきたのである。

三橋実、安良岡健、山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫、星野一義のほかロードレースライダーの金谷秀夫など錚々たるメンバーが広告宣伝課の嘱託社員だったし、当時厚木にあったカワサキコンバットには月20万円の選手養成費を渡し、全国から有望ライダーを集めて育成に務めていて、星野一義などもその中の一人で全部で何人いたのかはよく解らなかったのである。年間契約金もトップライダーたちには100万円を越す金額を払ったが全体の広告宣伝費の予算から言えば大した額ではなかったのである。

広告宣伝的な効果としては、何度も全日本MXを制覇したし、『赤タンクのカワサキ』と一世を風靡したレース活動は、その後もカワサキのイメージ創りに大いに貢献したと言えるだろう。

 

 (MCFAJ全日本MX 朝霧高原、ヘルメットにタテの1の印はカワサキコンバットの選手達。 山本隆、歳森康師の二人は神戸木の実クラブ、星野一義もいるから多分昭和41年度の春、全日本の写真である。)

 

★第1線の販売網対策として、、特に兵庫県などは幾つもの営業所を造り、川崎航空機から多くの人たちが出向し、現場第1線の経験を積んでいったのだが、みんな二輪の営業などは素人もいいところで、運転免許の取得から始まったりしたのである。

このころの先生役を務めたのが、兵庫メイハツから参加した平井稔男さんなのである。

だから、彼は『カワサキの真打ち』と自ら称しているのだが、言われても仕方のない実績なのである。後々カワサキの国内の二輪もジェットスキーの販売の中核を果たした藤田孝明君などもこのころからの参加で平井門下生の一人なのである。

さらに昭和41年度からは、カワサキオートバイ販売としての定期採用者の採用を開始するのである。その第1期生が昭和41年度の富永邦彦、渡部達也さんの二人だが、42年度は大量な採用で、これらのメンバーがその後のカワサキの国内市場を支えたことは間違いない。

この時期に、国内市場としての販売台数はそんなに芳しい結果は残してはいないが、単車事業を進める上での基本的なノウハウなど、全くの素人から、それぞれが身につけて行ったことがその後の事業展開に貢献したのである。

昭和40年から45年までの創成期の初期は、未だ地方代理店の時代であったが、その先駆者としては、後イギリス、、ドイツなどヨーロッパ市場を開拓し、カナダも担当した内田道夫さんを挙げねばなるまい。彼は元々メグロの出身だが、当初は北陸の代理店を担当し、後岡山に移った後川崎重工に移籍してヨーロッパ市場開拓の先駆者となるのである。営業だけでなく、レースにも熱心で、カワサキが初めて鈴鹿を走ったジュニアロードレースには山本隆とともに走った塩本選手を北陸から送ってくれたのである。イギリスの社長時代もヨーロッパのファクトリーレースをケン鈴木さんなどと引っ張り、カワサキのKR時代を演出したのである。

川崎航空機から最初に現地に出たのが井川清次さんで、当時の全国カワサキ会会長の荻原さんがおられた山梨カワサキに出向した。後ドイツの社長などを務められている。さらに、野田浩志さん(後アメリカKMC社長)が長野県のデ―ラ―に出向したし、営業企画部長の矢野さんご自身も岩崎茂樹くんと九州事務所を創って博多に出向されたのである。

そして私自身も、当時カワサキ最大の市場であった東北6県も担当として仙台事務所を創設するために仙台に異動となったのである。

後UKの社長などを担当した永友節夫さんや中島直行さんなどもこの時期の現地出向組なのである。

 

 『明石の工場体制』

 ★この時期には明石工場内の体制も、大きく整備されていったのである。特筆されるのはサービス、品証体制部品補給体制だと言っていい。

まず、サービス体制だが、昭和36年(1961)12月、私が単車の営業に異動した時にもサービス機能はあったが、吉田、福田、福井のサービス員3人だけの体制だたのだが、昭和40年JET部門から田村一郎さんがサービス部門に来られてから急激にその体制強化が図られたのである。

単なるサービスから、品質保証と言うコンセプトも含めて、現地第1線にいたメイハツ、メグロの経験者や当時の開発のテストライダーたちもその傘下に入って綜合的なシステム構築がなされたのである。田村一郎さんは、ユニークな人が揃っている単車グループの中でも突出した存在で、カワサキの単車では誰知らぬ人はいない有名人である。

その田村さんが一番最初にされたのは、当時の兵庫メグロに弟子入りして、自ら二輪の整備技術を学び、『整備士2級』の難しい資格を所得することからはじめられたのである。そんな実戦的なところがすごかったし、いろんなサービス関連の冊子などを作ったりするのに、広告宣伝費をと仰るので、当初の立ち上がりは結構な額を提供したのである。

下のメンバーもテストライダーには清原明彦、山本信行の今では有名人も揃っていたし、ユニークでオモシロイ人いっぱいだった。

この時期に、カワサキのJ1が富士登山に成功したことなどご存じの方はおられるだろうか? 

これにチャレンジしたのが、当時の品証の福田、加藤さんなどのメンバーである。加藤さんとは今の八尾カワサキの加藤さんである。確か、夏休みの時期だったが、山頂まで登って、ちゃんと写真を撮ってきたら、成功報酬で広告宣伝費で費用を見てあげると言う約束でのチャレンジだったのである。当時のレース職場でモトクロスタイヤを装着したりして、見ごと成功、当時のオートバイ誌にちゃんと写真付きで収録されている。昭和40年ごろの話である。

現場のサービス員3人でスタートしたサービス部門だが、この時期以降、単車事業の骨格の部門となって行くのである。

 

もう一つの部門が、部品部門と言えるだろう。この部門もメイハツから来られた正垣さんたちが、何となく細々とスタートしていてたのだが、アメリカの市場を経験された桑畑禎文、田崎雅元さんが担当して、急激に様変わりして行くのである。

アメリカの部品流通システムなども経験されたのだろうが、それ以前のJETエンジン部門で、アメリカ的な管理方式は、既に基礎として身についていたのだと思う。当時建てられた部品の自動収納、自動取り出し方式の倉庫は、50年近くたった今もそのまま使われているような当時としては画期的なシステムだったのである。

部品NOの付け方などもカワサキは車種から始まるものではなくて、JETの部品と同じ、部品そのものからスタートする先進的なものが使われて、その後の部品の共通化などの対策が容易に行われたのである。この時期の単車事業部の技術屋さんは、JET部門から来られた方が中心で引っ張ったので、生産関連はJET部門の当時では新しい管理方式や発想が次々に採り入れられたのだと思う。

『航空機の技術』と当時の広告にはよく使われたコピーだが、商品だけではなくて生産技術にも、それは活かされていたのである。

 

★昭和40年からの5年間、国内の販売や工場の体制は、このように着々と進行したのである。

クルマで言えばA1からH1ぐらいの時期、未だ川崎航空機であった時代であった。

『カワサキのイメージ、カワサキの単車事業の基盤』は川崎航空機時代に創られた と言っていい。

昭和44年に3社合併があって、川崎重工業となり、Z1が発売されてまたちょっと違ったカワサキに向けて進んで行くのである

 

 

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ネット選挙解禁

2013-04-21 05:22:26 | 発想$感想

 

★ネット選挙 改正法が全会一致で可決・成立したようである。

総務相が言ってるように、ホントに有権者、特に若者たちとの距離が近づけばいいと思っている。

 

日本の若者たちは、なぜ選挙や政治に無関心なのだろうか?

そういう自分も、現役のころは、殆ど関心がなかったし、選挙に行ったことも殆どなかったように思う。

幾つかの理由があるのだろうが、

●日本の選挙は国政選挙であっても、地元への利益還元みたいなのが普通である。

●そんな選挙なのに、現役の間は明石、仙台、高槻、三木、と転々として、住んでいるところが地元だとも思わなかったことがあったのだろう。

●それよりも、日本の場合、『生き方の主流』が会社みたいなところがあって、いい企業に入るために、いい学校に入る。家なども通勤に便利なところを選ぶ。など自分が住んでいる町よりも、仕事、会社優先なのである。

●『いい生き方』をするために働くと言う、欧米の発想とは基本的に違っている。

●やっと人生の目途もたった50才過ぎてから、やっと選挙などにも関心が向くのだろう。

 

自分自身を振り返ってみても、政治や選挙に関心を持ったのは、6年ほど前からである。

 

★そんな政治環境だから、政治家の視点は、年寄りに向いてしまって、若い人向きの施策が少なすぎるのである。

だから余計に若い人は、政治家から離れてしまうのだろう。

大阪の例を見ても解るように、若い人に政治家が目を向けたら、若い人が動いたら、政治の流れ、方向は変わるのである。

 

そういう意味で、今回のネット選挙の行方には大いに関心があるのである。

 

 

 

 

★先日もちょっと触れたが、 ネット選挙に対して、世の政治家たちは、そんなに万全の準備が出来ているようでもない。

不思議なぐらい自民党が圧倒的にリードしているのである。

 

 

 

 

 

★民主党など、ほんとに本気になってやらないと、全く引き離されてしまうのではなかろうか。

大体物事は何でも、マラソンと同じで、先頭グループについていかないと、どんどん置いていかれるのである。

そして、先頭グループは、勢いに乗ってどんどん引き離してしまう、これは半分気分の問題だと思う。

 

一つの例かも知れぬが、昨日 自民党を支持する会  相互フォロー』と言うところが、

私のツイッターを『お気に入り』にしたり、 『リツイート』 したりしているのである。

別に、自民党でなくても、こんな動きをされたら、ブログにでもアップして紹介してあげようか と言うのが人情である。

  

 

★このツイートは、http://rfuruya2.exblog.jp/19828687/ こんなブログを

リンクしてツイッターで流したもので、

明日の朝は、今書いているこのブログが、リンクされてツイッターで発信されるのである。

 

何人の人が、ホントに読むかどうかは別にして、294000人に向かって発信されるので、そこそこの効果はあるのだと思う。

『自民党を支持する会  相互フォローの会』 さん 今回も見つけて『リツ―ト』してくれるだろうか?

『お気に入り』に入っていたりするのでちゃんと見つけてくれるかどうか?

その辺の『マーケッテング』ぐらいの積りで、このブログ、アップしているのである。

 

さて、どんなことになるのだろうか?

 

 

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世界最高齢116歳

2013-04-20 05:20:38 | 発想$感想

 

★世界最高齢116才

スゴイなと思う。

明治30年とは、私の父が明治32年生まれだったから、さらに2年も年長である。

 

最近は、100才はそんなに珍しくはなくなったがさらに16年である。

写真では、ヨコになっておられるが、認定書だ、お祝いだと家族の方も大変だと思う。

 

 

 

 

★ 産経新聞の写真は確りされている。

木村さんは子供7人(うち5人が健在)、孫14人、ひ孫25人、玄孫(やしゃご)14人に恵まれた。

昨年末から体調を崩し、今月9日まで入院したが、現在は一緒に暮らす孫の妻、栄子さん(60)の介助を受け、おかゆやカボチャ、サツマイモをすりつぶしたミキサー食を1日3食ペースで食べるなど元気に過ごしている。

 

今現在家族構成は、どんなになっていて、どのようにお世話をされているのだろう。

記事では『孫の妻60才の介助・・・・』とあるが、子どもさんは5人が健在だと言うが、勿論高齢であろうし、家での介護は大変だろうなと思う。

こんな記録保持者になると、余計に大変だろうなと思ってしまう。

 

今まで経験のない長寿社会なのである

私自身も80才になってみて、自分のことは自分で出来る、歩けるまでは長寿の方がいいと思うが、寝込んでしまっての長寿はもう一つかなと思ってしまうのである。

自分はともかく、世話をする人が大変である。家で寝込むなど論外だと思う

何となく家で老後をと言う風潮が強いが、それは経験のない50才や60才までの人の発想だと思う。私自身も母は家でちゃんと見てあげようと50才のころはそう思っていた。

母が90になり95になり、そのころまでは未だぴんぴんしていて、買いものも食事も自分のことは全て自分でするようになっていた。

むしろ70才代のころはご隠居みたいに、家内が食事など全部面倒を見ていたのだが、子どもたちが大きくなって食事の時間など変わって来たので、自分の好きなように自分でする方がいいと勧めたら『そうする』と言って、それ以降逆に元気になったりもした。

一緒に暮らしてはいたが、殆ど手間など掛らなかったのである。大体100才に近くなると面倒を見る方が70才を超えてしまう。我が家は、二人とも後期高齢者である。家内もお陰さまで元気だが、もし今、母が家にいてその面倒を見なければならぬとすれば、現在のような生活パターンには決してならないし、不可能だと思ってしまう。

 

★母は今年6月で104才になる。 特別老人養老施設に入れて頂いているので安心なのである。

だが、なかなか特養にはすんなりとは入れないのが現実である。申し込みをしておかないとダメだし、仮に申し込んでいても、『介護の級』が上がらないと年齢だけでは入れないのである。母も101歳までは介護1級だったので、ショートステイはOKだったが、『歩けるから』ダメなのである。『もう少しお待ちください』と言い続けられて100才を超えてしまったのである。

101才の夏に足を悪くして入院したら、病院など初めてだったものだから、突如精神的にも参ってしまって急に何にも解らなくなり、たまたまその時期が介護認定時で『介護1級から介護5級』になったので、入所資格がとれたのである。ツイテいたと言うほかはない

特養に戻ってきたらすっかりまたよくなって、そのままお世話になっている。

 

介護○級 からと言う基準もいいが、せめて95才になったら、『仮に元気でも特養に希望する人は入れるような仕組み』 にすべきである。本人よりは介護をする側が持たないと思う。

この対応の仕組みを50代、60代の元気な人が考えるから間違ってしまうのだと思う70才以上の人たちの意見を聞けばいい

家で介護』など耳触りのいいことが考えられるのは50才や60才だからなのである

 

★116才、世界一の長寿 は日本としては、大いにおめでたいのだが・・・・

一方で、大変だろうなと 思ってしまうのである。

もし私や家内に、老後の不安があるとすれば、 『特養に、どうしたら入れるかな?』 と言うことなのである。

 

 

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○○周年雑感

2013-04-19 06:18:24 | 自分史

 

★ このところ身の回りで○○周年行事がやたらと多いような気がする。

今年はZ2国内販売40周年と銘打って7月にこんなイベント開催なのである。

 

 

平井稔男さんに言わすと、今年はチームグリーン30周年だと仰る。

考えてみると今年は2013年だから3の付く年はみんな○○周年になる訳で、○○周年が幾つあっても当然だと言うことなのである。

 

 

 

★ 1933年は80周年、だから今年80才になったわけである。1953年は未だ小学校だが

 

1953年は、60周年  20才

●この年は大学2回生であった。

●この年の11月8日に突如、日記を書きだしているから日記は60周年なのである。

新聞に蒋介石が30年日記を書いているのがエライとあったので、そんなことは出来るだろうとその日から大学ノートに書きだしている。それ以降は日記があるからちゃんと正確にその年のことが書けることになっている。

理由は、多分それだけではなくて、その年の秋肺浸潤だと言われて、絶対安静と医者に言われて、ひょっとしたら死ぬかもと思ったからだと思う。何か残しておきたいと思ったのだろうと思う。

一生懸命野球をやっていて結局一度も安静などせずに過ぎてしまった。翌年の3回生からはキャプテンをやらされて、休むことなど出来ない状況に追い込まれたのである。

 

1963年は50周年  30才

●給料やっと3万円台になった。夏のボーナスは、62300円。

●5月19日 青野ケ原モトクロスで1~6位独占の快勝。 青野ケ原がファクトリーチームのスタートなら今年はファクトリ-チーム結成50周年なのである。

●結婚1年目で、長男が生まれた。今年50才になるのか・・

単車事業本格的再建が決定。

この年から結婚生活が始まったのである。 同時にカワサキの単車事業も本格的にスタートしたと言っていい。

どちらも一生懸命だった。

 

1973年は40周年   40才

●高槻から1月13日に三木市に転入。 3月17日に引っ越し三木市移住40周年なのである。

●1月30日、大阪特約店会発会を 新阪急ホテルで開催、名古屋、兵庫地区など特約店説明会を。

●2月、Z2配車始まる。 Z2国内販売40周年

●3月直営部の本部を明石に移転、三木の自宅からの出勤に。東京、名古屋、近畿を直営部長として担当してた。大阪母店長平井、名古屋母店長鍋島、東京営業所長は兼務の体制、Zのバックオーダーで大変だった。

●10月に、カワ販本社管理部長 全国の特約店対策を担当することになった。特約店制度40周年と言える

 

 

1983年は30周年   50才

●前年10月に、単車事業本部企画部長にカワ販から復帰 単車事業再建対策 第2年度に入っていた。

●78年から続いていたハ―レ―のダンピング提訴、関税45%と決まった。アメリカのダンピング対策のスタートは79年からで、田崎雅元さんさんが担当、79年の国内新体制はダンピング対策だったのである。その後HY戦争と続いて単車事業が大変な時期であった。

●6月には 川重無配転落 原因は単車事業の赤字であった。 7月には、大庭単車本部長就任と続いた。

●主としてアメリカ対策で、KMCの増減資、P/L問題、その対策としてのFinance Co設立、新事務所統合、累損消去問題など対策金額の額も大きく大西、山田両副社長や本社財務部門の若手メンバーが全力投球で応援してくれた。主として営業外対策だから技術屋さんは殆どご存じない。ドラスチックな財務対策とトータルシステムの根本的な改革で乗り切れた。あの頃から30年なのである。

●そんな経営環境だったので、ファクトリーレースは止めたが、平井さんが繋いでくれたので、Team Green 30周年になるのだと思う。

●家では、息子が大学、娘は高校。家計は苦しかったと思う。

 

 

1993年は20周年  60才

1月 長男に初孫、 今年成人になったのだ。

●還暦  カワサキモータースジャパン専務(社長は高橋鉄郎本部長が兼務)時代で、

Kawasaki. Let the good times roll  !  をカワサキの基本理念として、20年ぶり国内で復活、

●世界展開のコンセプトに決定、新宿ショー-ルームのネオンにもその文字が躍った。

●6月に、博多にPlaza IMS オープン、7月のSuzukaで、  4耐月木優勝、 8耐カワサキ優勝  8耐優勝記念キャンペーンIMSで   8耐優勝20周年!

 

活気のあったいい時期だったと思う。

国内でのカワサキのイメージの確立されたそんな頂点の時期だった。

 

★余談だが、昨日このブログのアクセスは1000を超えた。

宇宙に行くと言う、岩城滉一での検索からである。岩城滉一とのお付き合い があったのはこの時期だが、この年のARKの新年会にも清水宏次郎達とやってきたし、夏の鈴鹿では、月木レーシングの総監督をやったり、J/Sのワールドカップには前夜祭からやってきたりしていたのである。

 

 

以下の写真は2013年今現在、発行されているものだが、

そこに使われている写真は20年前のものである。

琵琶湖の近江舞子で開催されたワールドカップ。

湖岸1Kがジェットスキーで埋まり、述べ3万人の観衆がつめかけた。

鶴谷JJSBA 会長時代のJ/S最高の時期であった。

 

 ●11月に、JJSBA 10周年を記念してのワールドカップを!

この雑誌、現在発売中のもので、福井昇君が寄稿している。

今年はJJSBA 創立30周年なのである。 イベントをやったの年次から言うと20周年なのである。

 

 

 

2003年は10周年     70才

10年前は特に何もやっていない。

前年度まで顧問料を頂いていたので、敢えて言うなら、年金生活スタート10周年である。

未だ、パソコンもやっていない。のんびりと過ごしていたのだ思う。

いろいろ動きかけたのは、パソコンをやりかけた73才以降である。

 

 

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今年のマスターズと「神戸屋スポーツ」の・・・

2013-04-18 05:46:57 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★今年のマスターズは、何となくだがよく観ていた方である。

藤田は全然ダメだったが、石川遼は最初と最終日だけはよかった。

そんな日本人選手もさることながら、ウッズのピンに当たっての打ち直しや、それが誤所からのプレーで、2打罰が付くなど話題も多かったのである。

さらに、最終日のトップ争いはなかなかの迫力で結局はプレーオフでのオーストラリア勢初のタイトルだったのである。

優勝したアダムスコットがユニクロのシャツを着ていたので、応援していた。

 

 

優勝の瞬間の写真を撮って、Facebook に記事の投稿などもした。

 

 

そのユニクロのシャツは1990円だとかと言うニュースが流れたりもした。

契約は今月1日に履行されたばかりで、15日はスコットがラウンド中に着用した1990円のポロシャツの新商品発表日。カリスマ経営者として知られる柳井正会長兼社長(64)による抜てきは、世界中に大きな広告効果を生むことになりそうだ。

優勝以上のミラクルかもしれない。契約直後のゴルファーが、いきなりマスターズで、しかも晴れ舞台で着用した新商品の発表日に勝つ―。世界のユニクロが恐るべき先見の明を発揮した。

 

★そんなユニクロのニュースのことも、気にはなっていたのだが、

このブログに突如マスターズの話題を取り上げたのは、

正真正銘、このマスターズの観戦に行かれた方に、そのお土産を頂いたからである。

 

 

★マスターズ観戦に行かれたのは、稲田三郎さんである。

稲田三郎さんと言ってもお解りにならないとは思うが、直ぐ近くにお住まいの神戸屋スポーツのオーナーさんである。

神戸屋スポーツとは、三木が本店だが、神戸にも加古川にも支店があり、九州の方でもいろいろおやりで、特にミズノとはトップクラスの取引量のはずである。

このご商売の方では何の関係もないのだが、園芸など特にバラのことなどで、お宅にお邪魔したりもする。私の方が20才も年上だが、何となくトーンが合うのだろうか。

 

もう社長は引退されていて、昨年はロンドンオリンピックにご夫婦で行っておられたし、マスターズも何回か行っておられるようである。

無茶苦茶、ご夫婦仲がいい。私が先にお知り合いになったのは、おかみさん『神様』の方である。

ミズノとのお取引関係で、貴重なチケットも簡単なのかも知れない。イチローとゴルフなどされたりするようである。

ひょんなご縁から、いろいろとお付き合いもあるのだが、私の方は頂いてばかりで恐縮なのである。

 

覚えておられる方もおられるかも知れぬが、

今年の3月2日の私の80才の誕生日には、『80本の薔薇の花』を送ってくださったのも、稲田三郎さんである。

 

 

 

 ★何のお礼も出来ないので、

せめてブログにでもアップして、感謝の一端を表したいと思っている。

 

Augsta の コースレイアウト  と

初日と最終日のグルーピングとスタートタイムである。

初日は7時50分に、アーノルドパーマー、ゲーリープレイヤ―、ジャックニクラウスの懐かしい名前があるが、ラウンドしたのだろうか?

 

 

 

気分だけでもマスターズをお楽しみ下さい。

 

 

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カワサキ単車物語  その4  1965年(昭和40年)からの10年間

2013-04-17 05:18:25 | カワサキ単車の昔話

 

★ カワサキの単車事業がどのような形で進んでいったのか?

非常に粗っぽく言うなら、1960年と言う年が一つの契機になったのだろうと思う。

メイハツとはそれ以前に繋がっていたのだろうが、この年にメグロとの提携も行われている。明石の工場の中に『単車準備室』と言う職制が出来たのが1960年からである。明石での一貫生産を想定して、資材部門など部品調達なども含めた生産準備の検討を主として行う部門であったと思う。

昭和35年のスタートからこの職制もスタートしたが、私なども未だ財産課時代で単車事業に関わった人など未だ少なかったのだが、この年の4月に、なぜか大量に大学卒を採用しているのである。それが単車事業展開のためのものであったのかどうか? 多分そうだと思う。

事実、その後カワサキの単車事業展開の中心的な役割を果たした、所謂 『昭和35年組』 、その人数は例年と比べ突出して多かったのである。

 

 ★ カワサキの単車事業は実質的に事業として動き出したのは、アメリカ市場開発が始まり、国内市場に対しても積極的な出向政策などをスタートさせた1965年、(昭和40年)ごろからなのである。この年に私はカワサキオートバイ販売に川崎航空機から出向になっている。

これからの1975年(昭和50年)までの10年間は、カワサキにとって、アメリカを中心にZの大成功などもあって大きく飛躍した10年間であったと言っていいだろう。非常にハリのあった、新しい事業に参加した人たちがそれぞれに頑張ったそんな10年間だったと思う。

この期間、事業を引っ張ったのはアメリカ市場ではあったが、国内市場もカワサキのモペットなど小型車を捨てて中大型スポーツ車を中心に、それに見合ったカワサキ独特の特約店制度など、各社に先んじた新しい時代の販売網政策などに集中していた時代なのである。

 

●この期間トップで引っ張った人たちは、粗っぽく言って『大正生まれの人たち』である。戦時中に入社して、川崎航空機が中断されている間は、川崎機械などに避難?していた人たちで、技術部門が山田熙明さん、営業が田中誠さんや苧野豊秋さん、生産技術が中村治道さんなどで大体部長クラスであった。

●そして、ホントに中枢で動いた人達が 高橋鉄郎、矢野昭典、浜脇洋二、安藤佶郎、大槻幸雄、高橋宏、桑畑禎文、田村一郎さんたちなのだが、高橋さん矢野さんは海軍兵学校、他の方たちも旧制高校だとかいろいろあって、その年次がもう一つよく解らないのだが、

昭和30年までの入社なのである。

昭和31年入社が柏木茂、川崎さん、

昭和32年入社が私とアメリカの7人の侍の一人久保勝平さんで、ここまでが『昭和1桁組』なのである。

わざわざ『昭和1桁』と言っているのは、どちらかと言うと『戦中派』で 『昭和2桁』とはちょっと違っているのかなと思っている。

何と言ってもこの期間の中心は、市場で言えばアメリカ、そのアメリカ市場を強烈なリーダーシッップでひっぱった浜脇洋二さんだろう。

そしてこの時代1963年には、カワサキの世界の名車と言われているZの販売が世界で始まっている。そのZ1の開発を主導したのもアメリカなのだが、その開発の責任者がミスターホースパワーと言われた大槻幸雄さんなのである。

 

●続いて昭和33年入社が、田崎雅元、那波義治、稲村暁一と実力者揃いで、昭和34年組は、北村敏さんただ一人である。

昭和33年からは『昭和2桁組』なのだが、その筆頭格の田崎さんに言わしたら、『昭和1桁は早飯で、女に弱くて、英語が喋れず、ダンスが出来ん』 などとよく言っていた。 言われてみると当たっていて、昭和2桁の連中は、なかなかスマートなのである。

 ここまでが、昭和34年(1959)までに川崎航空機に入社したメンバーなのだが、先に入社していただけで、別に単車事業に先に関係していた訳ではないのである。

 

●そんな状況の中で、昭和35年(1960)4月には大量に、新しい人たちが入社してきて、後、単車事業の中枢で活躍することになるのである。

順不同に名前を列挙しておくと、(下の名前が解らぬ人もいるが)

武本一郎、武本晃、百合草三佐雄、大前太、種子島経、斎藤定一、上月さん、角野さん未だ他にもいるのだろうが、兎に角個性派揃いで、この年次がいろいろと単車事業に影響を与えたのは間違いない。

武本一郎さんは私とは企画で2度のコンビを組んだ東大出の秀才である。武本晃さんは技術部でも、リンカーン工場でも、レース監督でもユニークだった。百合草三佐雄さん、A1の開発時代からアメリカを駆け巡り、レース監督も、アメリカKMCの社長も、ジェットスキーのエンジン440、550化には色濃く関係された。大前太さんは生産や品証から企画に。斎藤定一さんはKMCのR&Dの創立者だし、リンカーン工場を造ったし、上月さんも技術部でユニークだったがレース監督などもおやりになった。角野さんは本社からKMC その後カワ販にも。種子島経さんは一般には有名なので説明の要はないと思う。

こんな35年組で特に私とも関係の深かった方は武本一郎さん、私の企画時代を支えてくれた恩人である。百合草さんとも非常に深く関係があった。特にアメリカKMC社長時代は、一緒にやったと言う実感がある。大前さんも私が2度目の企画の時に品証から企画に招いた人材である。当時の企画部長武本一郎、生産企画部長大前太、アメリカKMC社長百合草三佐雄、特にこの3人の35年組とは一緒に仕事をさせて頂いた、そんな時代もあったのである。

●解る範囲で、昭和36年は野田浩志、佐伯武彦、 昭和37年が前田祐作、永友節雄、原田紀男、昭和38年が井川清次、鍋島英雄、昭和39年、中島直行、昭和40年、鶴谷将俊さんと続くのである。

 、

(この3社合併を遂行された、砂野仁さん、四本潔さんは、私など川崎航空機に入社したころは川航におられたお二人だったのでスムースだったのかも知れない。)

 

 

★ この期間の間には、川崎重工、川崎車輛、川崎航空機の三社合併が昭和44年に行われて川崎重工業になるのだが、

カワサキのこの期間を支えた人たちは、

●一つには、川崎航空機時代に入社の人たちであったこと、

●もう一つは、上記の大学卒の人たちだけではなくて、当時の高校卒の実力派の人たち などが第1線で活躍したのは特筆すべきことなのである。

●さらに言えば、川崎航空機の人たちだけでなく、旧メイハツ、メグロの人たちや地方代理店出身の人たち、カワサキオートバイ販売の定期採用も昭和41年度からは始まって、そんな新人達もようやく戦力化してきたそんな時代なのである。

海外で言えば、徹底した現地主義から現地アメリカ人たちが100%活躍したそんな時代であったと言えよう。

この時代の初期、レース関係のフレームなどマシンの完成を担当したのは、大学卒のエンジニアではなくて兵庫メグロからやってきた松尾勇さんだったりしたのである

大メーカー川崎重工業だけの体質ではない、そんな雑草的な強さが、その当時のカワサキにはあったと言えるのだろう。

 

こんなムードがなぜ出来たのか?

当時の単車に関係した人たちは、ホントにユニークだった。よくまあ、こんなに変わった人たちばかりが集まったものだとも思うのだが、

別に当時のカワサキが変わりものばかりが集まっていたのではなくて、普通世の中では、ユニークな人もホントは多いのだろうが、みんなその芽を摘み取られてしまっているのではないかと思うのである。大体、大きな企業になればなるほど、何もしない、ミスをしない人がエラクなるようなところがあって、みんな自分の個性を発揮できていないのではないかなと思っている。当時のカワサキにはそんなムードは微塵もなくて、職位などには全く関係なく、それぞれが個性を発揮して頑張れる雰囲気があったと思う。

この時代、単車の世界で経験豊かなのは、地方代理店や、メイハツ、メグロの人たち、アメリカ人たちで、川崎航空機の人たちは入社年次などには全く関係なく みんなヨコ一線の新人達 で、スタートラインは同じだったからかも知れない。

 二輪と言う世界は、商品の開発にしても全く自由だし、世界の市場もその環境は一つではない。未だスタートしたばかりの事業であったし、教えてくれる先輩などいないし、それぞれが自らの仕事を自分で考えてやらねばならない環境にあったのだと思う。

 

★ いろいろ理由はあると思うが、『自由にやらせた』当時のトップが偉かったと思うのである。

岩城良三さんも怖かったが、下がやることに細かく口を挟まなかったし、山田さんも、塚本さんも青野さんも、下がやることにあまり文句など仰らなかったのである。上に立たれた方たちも、ご自身に経験のあることでもないし、現地を担当する人たちを信頼して任さざるを得なかったのかも知れない。

 

この時代の人たちで一般によく知られている人で言えば、

まずは『浜脇洋二』さん、ご自身で本も書かれているし、カワサキのアメリカ市場開拓の旗を振られたことでよく知られている。もし浜脇さんが当時のアメリカ市場での成功がなかったらカワサキの単車事業がここまで大きくはならなかったのは間違いない。『種子島経』さんも本を書かれているし、二輪雑誌にも登場する機会も多いので、カワサキの顔のようによく知られている。

今年はZの販売40周年なのだが、そのZ1の開発責任者が大槻幸雄さんだし、そのエンジン担当したのが稲村暁一さんなのである。

カワサキが一番華やかであったように思われている1975年(昭和50年)ごろまでは、カワサキの中心はアメリカ市場であり、ヒット車種の中心はZで、それらによってカワサキいのイメージも徐々にだが確立されていくのである。

リンカーン工場が日本の自動車工業会のトップを切ってアメリカに進出し、Kawasaki . Let the good times roll !  と言う基本コンセプトが創られたのもこの時期だし、ジェットスキーと言う新商品もアメリカ市場向けに開発されたのである。その1973、74年当時が絶頂期であったと言えよう。

巷でカワサキのことがよく知られているのは、このころまでである

 

★国内市場ではZ2が発売された昭和48年から大阪、京都、愛知などから新しい特約店制度をスタートさせて、日本にもようやく自転車屋中心の販売網から、二輪専門店がスタートし出したそんな時期であった。カワサキはその先頭を走っていたが、1975年には3年目にしてようやく全国展開の販売網として、ほぼ完成を見たのである。ここ国内の販売網政策については項を改めて別途書いてみたい。

その販売網の推進を直接担当していた私はその完成を機に、カワサキオートバイへの出向期間を終わって、10年ぶりに川崎重工業単車事業本部企画室に戻ってきたのである。

1975年(昭和50年)の10月のことである。

 

当時、既にアメリカの絶頂期は峠を越していた

発動機の商品であったスノ―モービルが、雪不足で全然売れなかったこともあって、冬しか売れないシーズン商品の在庫などがリンカーン工場の足を引っ張りかけていたし、雲行きが怪しくなりかけていた時期であった。

当時の企画室は企画室長が本社財務から来られていた堀川運平さん、企画部長が高橋宏さん、その部員課長として田崎、田付、種子島さんと私で年次の関係で私が纏める立場にはあった。田崎雅元さんは、岩崎茂樹さんと主としてアメリカKMMのリンカーン工場などを担当し、スノ―モービルなども彼の担当だったのである。種子島さんは、アメリカから戻ったところで、ドイツへ行くちょっと前の時期だったのである。私のグループは35年組の武本一郎、森田進一さん(年次は多分39年)などもいたし、後単車も川崎重工も背負った人たちがいっぱいだった。

アメリカKMCは未だ浜脇洋二さんが最後のころである。

塚本事業本部長、青野副事業部長、技術本部長は高橋鉄郎さん、営業本部長は矢野昭典さんの時代である。

ようやくカワサキの単車事業も今後どのような展開を図るべきなのか?

本社の吉田専務が単車事業を担当されしょっちゅう明石にも来られていた。アメリカ市場の今後、スノーモービルの扱い方針、ヨーロッパ対策、開発途上国対策方針などなど、発動機を含む発動機事業本部の長期事業戦略の検討が吉田専務を中心に進められていた。

私のグループは、その『発本戦略』を直接担当していたのである。

 

これは当時私が纏めた『発本基本戦略』である。 

昭和50年(1975)自分史

昭和51年(1976)自分史   もあるのだが、

 

1976年からの10年間は、カワサキにとって激動の時代に突入するのである。

これらについてもまたいろいろと書ける範囲で、書いてみたい。

 

 

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