★ 昭和で言うと20年代はバイクの中心はエンジン付き自転車で、カワサキですら明発工業に単体エンジンを提供していた時代だったのである。
昭和30年代の主力は50ccのモペット、その販売は全国に4万店もあったと言われた自転車屋さんで販売されていたのである。
『販売』と言ったが、正確に言うと販売ではなくて、自転車屋さんがお客さんに取りついで、その取次手数料を払うと言う『委託販売制度』だったのである。
『委託販売』とは、自転車屋の店頭にバイクを置いてもらって、それが売れたらお客とは直接地方代理店(メインデーラー)が販売し、自転車屋さんにはその『取次手数料』を支払うと言うシステムなのである。自転車屋にとってみれば、店先にバイクを置かせてあげて、客が付いたらマージンが貰えると言うそんな仕組みで、何のリスクも負担もないのである。店の面積は限りがあるので各地方代理店はそんな場所取り合戦をやっていた時代なのである。
そんな自転車屋のことを通称『サブデ―ラ―』の『サブ』と呼び、地方デーラー(メインデーラー)は、メーカーとの間に挟まって大変な時代だったのである。
『サブ殿さまのデーラー乞食』などと囁かれていた、そんな時代だったのである。
昭和40年代に入って、ようやくCBやA1などスポーツ車も世にでるようにはなったが、二輪の販売形態はそのまま、自転車屋が主力の委託販売制度が続いていた。
今のようにお金の回収が容易な時代ではなくて、田舎では盆払いだとか、秋のお米が採れたらその代金でとか、銀行には通用しない私制手形みたいなのまであって、その回数も長いし、『モノを売ってもなかなかお金に変わらぬ』そんな時代が長く続いていたのである。
★A1、W1につづいてマッハⅢなどの新機種の発売が続いて、ようやくスポーツ車が都会では人気の出始めた昭和44年(1969)ごろからカワサキだけが、それも東京だけで、スポーツ車を中心の販売網構想から、都内を約60店に絞ったカワサキ独特の販売網を敷いたのである。
城東カワサキ、城南カワサキ、城西カワサキ、城北カワサキや北多摩モータースなどの懐かしい意気盛んな時期だったのである。
この新しいシステムを展開されたのは、当時東京を担当されていた茂木所長の発想で、茂木さんの強烈なリーダーシップで実現したのである。
東京でこのような新システムがスムースに展開出来たのは、大東京の市場の大きさがあったからで、その他の地域では、自転車屋さんからの販売網の脱皮はそんなに簡単ではなかったのである。
ホンダ、スズキ、ヤマハなどにとっては、国内の販売の主力は圧倒的に50ccモペットだから、委託販売の自転車屋主力の販売方式からの転換など考えられなかったのだろうと思う。
(北多摩モータースも、城東も城北などの名前も見える)
昭和44年に3社合併があり、川崎航空機から川崎重工業となって、今後の単車事業の展開を中大型スポーツ、海外市場特にアメリカ中心に展開するという方針に転換した時期でもあったのである。
それまでは、B8からB1などが中心の『実用車のカワサキ』であったし、その主力市場も、九州や東北といった地方が販売台数でもリードしていたのだが、1970年代に入って、従来一番弱かったと言われた大阪市場など注力することになり、私は仙台から大阪へ異動となったのである。1970年(昭和45年)大阪万博のあった年である。
それから約5年間、国内のカワサキは国内市場に於いて、全く新しい特約店制度展開の時代に入るのである。
★ 毎年日本一の実績を続けていた岩手カワサキなどの販売網は、自転車屋ベースだが、それなりにカワサキに対しても忠誠心もあったのだが、大阪に来てみると、販売網らしきものは殆どなくて、取引店の数は500店とか600店とか何店あるのか解らないほどあるのだが、年に部品を何点か購入してくれるようなところも入っていて、カワサキへの忠誠度などは殆どないそんなお店ばかりであった。
当時の中心店、船場モータースの岡田博さんなども、どちらかと言えばスズキが中心で、
『仙台ではどうだったか知らぬが、大阪でのカワサキは、「ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ」ぐらいだね』 などと言われてしまうような状況であったし、販売台数もお隣の兵庫県は地元で、平井稔男さんなどが頑張っていて、大阪よりははるかに多い販売台数を誇っていたのである。
まず特約店制に入る前に、カワサキシンパの店を創るべく『カワサキ共栄会』を組織して対策に入ったのである。この共栄会のメンバーを大阪の全販売店600店の中から選んで組織化をし、その会長を船場モータースの岡田博さんに務めて頂いたのである。
その選定は店の大きさなどよりは、店主の人物中心に、カワサキから見れば、育て甲斐のある考え方の確りした店という選定基準で徹底した。
二輪の販売網は4輪と違ってネット販売、販売網というシステムで売る訳だから、その中心の店が弱体であったのではどうにもならないのである。
なぜあんな田舎の岩手が毎年ダントツの日本一の実績を続けるのか?
それは岩手の久保克夫社長のトータルシステムの発想と、その販売網なのである。最初の営業経験で久保さんに会えたのが、その後の私の人生の基本的な発想のベースになっていて、そういう意味で久保克夫さんは恩師だと思っている。
★大阪商人はエゲツイなどと、よく言われるが口は悪いが結構本音が通るところだと思う。最初はマージンの額の多寡みたいなことばかりを言うものだから、営業所の仕入れ値を教えたら、その後一切マージンの額の話はなくなった。
共栄会の25店で大阪の600店全体の60%を売るような実績になったら、その時点で25店の特約店制に移行する、と宣言したら一挙にお客から『仲間』に、そして『同志』に変わっていったのである。会長の岡田博さんは、わがことのように先頭に立ってこの制度の実現に尽力して頂いたし、当時はホントに小さな店だった、伊藤モータース、今の忍者の伊藤さんなど熱心を通りこして熱烈だったのである。
共栄会時代を約2年を経て、まず大阪、京都、愛知の3県から特約店制度はスタートしたのである。
その特約店制度とは、
● 特約店契約を締結した店以外とはカワサキは取引しない。
● 特約店契約を締結する店は担保の提供、または保証金の積立をMUST とする。
● その最初の契約は甲乙平等の立場で、1店1店、店の希望なども入れたもので、一律に印刷された約款のようなものではなく、手書きのモノからスタートした。
● 大阪で言うと600店の店を25店に、京都では京都市以外は宇治カワサキの1店だけで京都府全体で10店ほどの徹底したスタートだった。
● 台数契約ではなく『金額契約』とし、取引価格も一応の基準はあったが、1店1店、店の希望を入れたものであった。
● 中大型車で金額も張ることから原則『委託』としたが、担保の提供のある店には買い取りも、手形による支払いも許容した。
● 特約店を育てると言うコンセプトであるから、特に財務面の徹底した経営指導を行い、これにより店の経営内容は飛躍的に改善が見られた。
● お客とはユーザーのことを言うのであって、特約店はお客ではなく、仲間、同志という認識であった。
この特約店制度がスタートたのが40年前で、カワサキの名車Zの販売された時期になるのである。特約店制度の展開にZの果たした役割も大きかったし、一挙に店の規模を大きくしていったところも現実に多いのである。
上記の中で特筆できるのが、担保の提供と保証金の積み立て制度である。担保提供した店や保証金が一定額に達した店は『手形発行』を可能とし、通常の利率の適用をOKとした。 当時の金利は『アドオン方式』と言うべらぼうに高い金利が二輪や4輪業界では一般的だったのである。担保はともかく、保証金はお金など持っているわけはないので、3年とか5年とかの長期分割の手形支払い方式であった。これはその後販社にとっては資金繰りに効果したし、特約店にとっては利益蓄積として機能したのである。
この最初の時期に特約店契約を結んだ店で、現在も頑張っている店としては、
●大阪では株式会社忍者、当時の伊藤モータースだったり、
●名古屋のミスターバイク 当時の店名は春日井スズキ(斎藤さん)という小さなお店だったのである。
●岡崎では、今は世界一のバイク販売店かも知れないレッドバロンの前身ヤマハオートセンター(杉浦斎さん)が、当時は岡崎1店だけで、店をスタートさせたばかりだったのである。
伊藤さん、斎藤さん、杉浦さん、それぞれなかなかのうるさ型で仕事ではいろいろとあったのだが、私は結構仲がよくていいお付き合いをさせて頂いている。40年経つと立派になるものである。
★そんな特約店制度は、世の中によくある全国一斉の実施ではなくて、大阪、京都、名古屋からスタートし、その後兵庫、さらには広島、千葉、福岡、などと大きな県から順次『特約店説明会』を開催し、その趣旨に共感する店だけで1県、1県順次展開していったのである。
●まず、各地の責任者が共感し『やる』と自ら手を挙げたところからの順次実施で、現地の責任者が『やる気』であったこと。
●全国展開の実務担当として、当時、古石喜代司くんが非常に細やかに現地と繋いでくれたのである。
●『特約店説明会』で、最も説得力があったのは、大阪の船場モータースの岡田博さんが、現地まで行って頂いて、特約店制について話して頂いたことである。
●そして、カワサキ側の厳しい条件ではあったが、現地の販売店のうち納得、共感された方だけが、特約店として仲間に入って行かれたのである。
この最初の時期特約店制度の実現に関わってくれたカワサキオートバイ販売の中心的なメンバーは、(失念した人もいるのだが・・・)
大阪 古石喜代司、宮本進(滋賀カワサキ)、竹内優、北村
京都 藤田孝明、久後淳一郎、関初太郎(モトボックスセキ)、柏原久 吉川健一(山科カワサキ)
名古屋 鍋島英雄、南昌吾、五島頼孝(ファイブテン)平田篤郎さん達である。
推進した人たちとともに特約店として活躍してくれた人も多い。
兵庫地区は当時平井稔男さんが担当をしていて、大阪などよりはずっと多くの販売実績があったのだが、典型的な自転車屋の旧い店ばかりで、殆ど候補店がなくて、カワサキの従業員からの独立開業ののれん分け制度で展開したのである。
財満君(灘カワサキ)が第1号店で、次々にカワサキ関係者の出店が続いたのである。西宮カワサキ、明石カワサキ、姫路カワサキ、加古川カワサキなど、みんなそうだし、大阪なども八尾カワサキなど全国的にカワサキ関係者からの独立が多いのも特約店制度特徴と言えるだろう。
と書いていたら、山本レーシングサービスの山本隆くんに『私が抜けてる』とオコラレタ。彼はちゃんと特約店説明会から出席したようで、その時の話をよく覚えていていろいろ話してくれたりした。
この特約店制度は、大阪でカワサキ共栄会からスタートして、約5年の歳月を経て全国展開がほぼ完成したのである。
全国約1000店の二輪専門店網が、ホンダ、ヤマハ、スズキさんに先んじて、カワサキ独特の制度として完成し、その後各メーカーも、同じような方向での販売形態を取り現在に至っている。
カワサキは、特約店ARK(Authorized & Reliable shop of Kawasaki)などの時代を経て、現在に至っている。
独りカワサキだけでなく、国内の二輪販売網の嚆矢としての役割を果たしたものと思っている。
昭和45年から、この特約店制度展開の5年間は、国内のカワサキにとってはZ2の発売があって、初めて『バックオーダー』を体験するなど、特筆すべき5年間だったのである。
私自身は、この特約店制度のほぼ完成を見て、ちょうど10年間のカワサキオートバイ販売の出向期間を終り、川崎重工の発動機事業部企画室への異動となり、また違ったカワサキの単車事業の展開を経験して行くことになるのである。
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