雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

4駆のクラウンの想い出

2007-01-31 06:12:58 | 北海道&建機
札幌での2年間、私の仕事と毎日の生活にずっと付き合ってくれたのは、4駆のトヨタクラウンだった。

札幌に赴任したその夜に、専務の中本さんから「4駆のほうがいいですね。運転手はつけますか」とびっくりするような質問があった。

運転手は即座にお断りした。
雪道は4駆が絶対というので、それはお任せした。
クラウンに4輪駆動があるのは始めて知った。そして車とのお付き合いが始まった。

北海道は広い。
ちょっとそこまで、といっても100キロ位は直ぐ走る。
道内の支店が10ヶ所以上もあったので、お陰様で北海道の殆どの道を走ることができた。

赴任が6月だったから、北海道の一番いい季節を車と共に満喫させて頂いた。
もともと、車も運転も好きだったので長距離のドライブも全然苦にならなかった。

11月になるとタイヤを履き替える。いよいよ北国の雪道走行の時期を迎える。

若い頃、東北で4年間雪道は経験した。
難しい雪道走行に「山本隆、直伝の運転テクニック」は役に立ったが、「はっとしたシーン」も何回かはあった。

北海道の冬は、特に気温は東北の比ではない。
冬のドライブを迎えるに当たってそれなりの覚悟で望んだのだが、それは杞憂であった。

20年の年月を経て、技術の進歩、タイヤの性能向上の素晴らしいさを実感した。
後輪駆動独特の車の流れをカウンターをあてて修正するなどの必要は皆無で、ブレーキングも非常に楽だった。

そんな4輪駆動、ブレーキ性能、タイヤのお陰で本当に一度も怖い目にも遭わずに、むしろ冬のドライブが楽しめた。

ただ、ひどい吹雪に遭わなかったのは幸いであった。
特に夜、車が舞い上がっていくような経験を東北では何度か味わったのだが、
ニセコの近くの倶知安の営業所開店披露の帰り道、少し吹雪いたぐらいである。

会社では、営業マンは冬道のドライブで50台もの車が毎日走っていることになる。
全ての車が4駆でもないので大変だったと思うが、幸い事故も無かったのは基本的に運転が上手いのだろう。

北海道川重建機の皆さん、冬真っ盛りです。くれぐれも安全運転を祈ります。
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受注と量産事業の常識 昔話ー25

2007-01-30 06:42:31 | カワサキ単車の昔話
受注事業と量産事業の常識

1982,3年頃はまだ赤字事業部で本社の理解も乏しかった。

単車以外は、全て受注生産という会社の中では、受注事業の常識が主流になるのは至極当然のことである。
そんな中で量産事業そのものがどんなものかを理解をしてもらうのに骨が折れた。


今ならホントに笑い話の範疇であろうが,本社企画との間で真面目な話で論議された。

ニューモデルの開発時点で、試作車を何台も作り走行テストなどいろんなテストを行う。
新たな部品も使ったりするので、試作車は結構高く付くのが常識である。
開発費の話のときにこれが話題になった。

「そんなオモチャみたいな高いものを何台も造るのか。」と吃驚する。
「そんなことをしているから赤字になるのでは」と言わんばかりの議論になるのである。

確かに考えてみれば、船も鉄道車両も橋梁も、ぶっつけ本番で製造され試作などないのが当たり前で、それが受注事業の常識なのである。

こんな、お互いに持っている常識が全然異なっている人たちが、お互いを理解することはなかなか難しかったのである。


大庭さんが本部長に来られてからも、
棚卸しで「ラインを止めてビスやナットの数を数える」「そんな無駄なことは止められないのか」と言われたりした。
受注事業では棚卸しの概念がないのである。

決算時に部品在庫のうち、動かない部品を廃却する。
その金額はトータルすると億になったりするので、本当に捨ててしまうのかと驚かれて決済を躊躇されたことがある。
大前太さんと二人で「ちょっと印お借りします」と言って沢山あった書類に勝手に捺印させて頂いた。

確かに、注文さえあれば使える部品、不良品でもないものを捨ててしまうのは勿体ないのだが。
廃却という概念がないのである。これも事業形態の差であろう。


大庭さんは、
怖かったが一端理解して頂くと「自分もずっと以前からそう思っていた」というようなすっきりとした態度で支持して頂けたので、本当に説得甲斐もあったし気持ちが良かった。

本部長時代の懐かしい大庭さんの思い出である。


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三宅島オートバイレース大会

2007-01-29 06:32:30 | M/Cレース
こんな話があるのは、知っていた。
石原都知事がマン島に現地視察にいったという話も聞いた。

本当に日本で実現するのかなと思っていたが実現しそうである。

今年11月9日から11日まで具体的な日程も決まった。
ネーミングの募集も開始された。

実施されれば、バイクフアンだけでなく、島を訪れる一般の観光客も増えるだろう。

流石、石原慎太郎と拍手喝采したい気持ちである。

100周年を迎えた本場イギリスのマン島TTレースに対抗するには、100年の開きがあるが、スズカでロードレースが始まって約50年、日本では画期的な出来事である。

夢があっていい。

いろいろと予想される難しい課題があることは容易に推定できるが、それを乗り越えての開催決定と思う。

モーターサイクルを愛する人たちはじめ、MFJ,二輪業界挙っての協力支援体制が望まれる。

三宅島スポーツ振興会のHPの写真をみると、このコースを疾走するライダーの姿が目に浮かぶ。

壮大ないいコースである。
いい大会に仕上げて欲しい。是非とも成功して欲しいイベントである。


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息抜きの方法は何?

2007-01-28 08:39:48 | 発想$感想
gooの「今週のお題」である。そんなものがあるのを知らなかった。

小学生の作文を書く心境である。トライしてみたい。息抜きの積りで。

好きなことをする。やりたいことをする。
それが息抜きだとすれば、ずっと「息抜き状態」で生きてきたということか。

殆どのことが「生き抜き状態で」、楽しく出来ると思っている。

それ以上の難しいことは、敢えて狙わないことである。
それでも結構いい線までは、いくものだ。

何事も、ハンデイ10の人生と割り切っている。そこから先は専門家の範疇。

そこまでは、楽しみながら大体達成できる。
そこから先を無理して狙うから、息抜きも必要になるのでは。

自分の能力の範囲で一生懸命励むことは「息抜きの範疇」と思います。

例えば、カラオケでも。


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ブログとコメントとカワサキ屋

2007-01-28 06:23:14 | カワサキ単車の昔話
カワサキ屋。名古屋の名西カワサキのインターネットショップである。
名西カワサキの名前は現役時代からよく承知していた。

もうだいぶ昔の話だが、別府へ行くフエリーのなかで、
何となくそんな気がして「SPA直入に行くのですか」と声をかけたら、びっくりした顔で「そうです。」と答えてくれた若いライダーが名西カワサキのお客さんだった。


つい最近、「W650とタカミーのブログ」に出会って,名西カワサキ主催の苺がりツーリングに行く記事に「楽しそうですね」とコメントしたのがはじまりである。

このなかで、カワサキ屋店長公認ブログにも名西カワサキにも、インターネットショップーカワサキ屋にも出会ったのである。
ネット社会の現在、カワサキ屋も面白いと思ったし、公認ブログカワサキ屋はもっと面白いと思った。

フエリーのなかで出会ったように、偶然の出会いであった。

起点はタカミーさんなのである。

どんどん繋がるものだと自分でも感心している。繋がるだけでなく会って言葉を交わしたような親密感が残るのがいい。

「名西カワサキさんにもよろしく」とコメントし「店長よろこんでました」と戻るだけで、そんな感じになるのである。

タカミーさんのブログには、W650に関連するブログやHP,KMJ,名西カワサキ、カワサキ屋など沢山のリンクが貼られている。今回「雑感日記」も加えて頂いた。


自然に出来上がっていくネットワーク、そんな感じである。
意識的にネットワークは造れるが,機能させるのはなかなか難しい。

そんなことを解決できるのではないかというヒントを、ブログと「そのコメント」に見つけたような気がする。


ブログを立ち上げている、販売店も幾つか出来だした。
世の中、まさにSNS(ソーシャル、ネットワーキング、システム)の時代である。

カワサキ屋を取り巻くこのネットワークも「より楽しいモーターサイクルの世界」を造って欲しいと思っている。

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ジェットスキー世界戦略 昔話ー24

2007-01-27 06:30:42 | ジェットスキー&KAZE
「ジェットスキー世界戦略」


アメリカ以外の日本、ヨーロッパなど世界にジェットスキーを広めようと世界展開を企図した。
1960年8月オーストラリアから帰任した鶴谷将俊君が藤元、福井君らと共に専任でこのプロジェクトの展開にあたってくれた。
当時日本ではJSに関して殆ど素人ばかりで、全くの白紙から市場開拓をスタートさせたのである。

国内は、いち早くJSの輸入販売のあった西武自動車とカワサキ側は苧野豊秋さん、藤田孝明君らの努力で台数は少ないながらも格好は付きつつあった。


問題はヨーロッパで、果たしてどのように受け容れられるのか、夫々の国の反応もさまざまで、藤元君がスペインに駐在して市場調査から始めた。

9月末にドイツのボーデン湖畔で行われたボートショウに出品すると同時に、アメリカからライダーを招いて、デモンストレーションも行った。

このショウと地中海沿岸での市場調査のために、鶴谷君と共に出張したのだが大変な旅であった。

9月26日から10月9日まで。
フランクフルトからボーデン湖の会場、そこからはレンタカーを借りてフェリーに乗ってスイス、チューリッヒへ、この辺りに来ると英語は通じない。駐車場に入れるのも昼飯を食うのも大変だった。

それから空路スペインのマドリッド。更にジブラルタル海峡の直ぐ近くの有名な避暑地マラガへ。ここからは商品企画の連中もジョインしたが、スペイン語はさっぱり解らず、藤元君頼りで切り抜けた。

然し言葉は理解出来なくても、自分の目で見て確かめるということは、マーケッテングの基本である。何とかなるという確かな感触だけはつかめた。

ヨーロッパの人たちのバカンスとはどのようなものか。こんな雰囲気は体験しないと本当のところは解らない。
ペアが常識の華やかな避暑地で、男ばかりの東洋人のグループは異様な光景に移ったことだろう。

ロンドンに戻って、街の標識が読め英語が聞けて、キザなようだが本当にほっとした。

その後、また言葉の解らぬフランスが最後だったが、イギリスとフランスはいずれも現地のM/C販売会社があったので、特に困ったりはしなかった。


鶴谷君と気安く言っているが、今、彼は川重商事の現役社長である。
イラン、オーストラリア、日本、アメリカ、ヨーロッパと現地末端での体験、経営経験も長く、市場を見る目も確かなカワサキでも屈指のマーケッテングマンである。

そんな彼にとっても、この2週間は想い出に残る貴重な体験だったと思うのである。
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硫黄島からの手紙

2007-01-26 06:39:05 | 発想$感想
「硫黄島からの手紙」を観に行った。
確かにいい映画ではあったが、上映時間の半分ほど映画とは関係があるのだが、別のことを考えていた。
はじめての経験である。

映画の最初のほうで、「1944年」という年号が出た。昭和19年である。私は小学校6年生、今の韓国の首都ソウルにいた。
戦時中ではあったが、内地と違って空襲も無く、食糧難や疎開もなかった。

戦時中とはいえ、何不自由のない普通の生活であったが、戦果については詳しく教えられた。
小学校5年からは軍事教練めいたものもあった。
然し、戦況が思わしくなくなった44年頃から、大本営発表も何となく怪しくなっていくのである。

その中で、アッツ島の玉砕サイパン島の悲劇までは知っていたが、硫黄島については全然知らなかった。

どのあたりにあるのだろう。今、日本なのか。それすらも知らなかった。
信じられないと思うが、当時シンガポールは昭南島と呼ばれていた。
映画を観ながらそんなことが脳裏をかすめ、次から次に当時のことが思い出された。

戦場で伯父を失い、空襲で叔母を失った。
学徒動員で出陣する先輩たちを駅に何人も見送った。

戦後、1945年に引き揚げてきて、伯父に空襲の話を何度も何度も聞かされた。映画の中の、特に飛行機からの機銃掃射は伯父の話そのままだった。伯父を思い出し、空襲で死んだ叔母を思った。


そんな中で映画は進行した。映画も観ていたが、そんな戦時中のことばかりがが思い出されて、映画に集中できなかった。

映画に出てくる手紙のシーンも、満足に届かないかも知れない、本当に書きたいことも検閲があって書けない。
それに比べて、今は自由にブログなどで世界に同時に、自分の意見や思いを発信できる。
そんな平和は本当にありがたく、幸せなことだとずっと映画を観ながら思ったりしていた。

帰宅してから、いろいろと調べた。申し訳ないが、硫黄島が東京都であることをはじめて知った。


こんな沢山の人たちの犠牲の上に、今の平和があるのである。大切に守りたい。
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大滝さんからのメールで思うこと

2007-01-25 06:57:45 | 北海道&建機
大滝幹夫さんから丁寧なメールを頂いた。

サラリーマン最後の2年間を札幌の北海道川重建機でお世話になったが、
大滝さんは今、この会社の代表取締役という肩書きらしい。普通の会社で言う社長さんではない。
もう一人の代表取締役丹野さんとお二人で会社を支えておられるようである。

なるほど、と思った。グッドアイデアである。
私の2年間、お二人には本当に支えて頂いた。あれからもう10年になろうとしている。

当時、大滝さんは営業を統括する常務だった。
それを直接支えていた営業部長の花房君が、今は川重の建機事業部長である。
10年経つと人は10年をとる。

北海道川重建機は川重の子会社ではない。このような会社の人事は本当にむつかしい。
いいアイデアだと思う。そんなことはどうでもいい話かも知れぬ。

大滝さんのメールには、建機のことよりも、延々とデグナーのことやバイクの話が書いてあった。大滝さんがそんなにバイクに詳しかったとは知らなかった。
そういえば、どこかの取引先に頼まれてレースをやりたいという息子さんか誰かを、大阪のBEETに紹介したような記憶もあるのだが。

私自身は、お世話になった2年間、殆ど建機の商品知識など勉強せず、建機独特のことについては、覚える努力も一切せずに過ごした。
営業活動など全て大滝さん以下の経験豊かな人がやってくれた。
お役所の挨拶廻りや銀行にも行くに行ったが、あまりぺこぺこせずに自分のスタイルで通したが、意外とそれで十分通用した。

何の経験も無い建機業界のことなど今更真似してやってみても、うまく身に付くはずはないと思っただけである。

建機一筋で育ってきた人たちには、二輪業界で育った私の発想や行動は意外に新鮮に映ったのであろうか、極端に言えば宇宙から来たと見えたのかも知れない。
取引先もお役所も、会社の中でもあまり苦労することなく、自由気ままに過ごさせて頂いた。

会社のベースが確りしていたから出来たと思う。非常に幸せな2年間であった。

メールには、建機業界はもうひとつ芳しくないような、そんなくだりもあった。
確かに暖冬で雪が少なくなったり、お役所の関係などもいろいろとあるのだろうが、まだまだ大丈夫と何となく思っている。

個性豊かな元気な人たちが、柔軟に考えれば、北海道の大地のように世界は拓けると思うのである。

ほんとにまだ顔を忘れられないうちに、北海道にも行ってみたいものである。



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二つのコメント

2007-01-24 10:18:51 | M/Cレース
二つの嬉しいコメントが寄せられた。どちらも昔々私も関係したレースに関することである。


ひとつは、カンサイオトキチクラブさんから。

「春のアネックスmikiでのビンテージモトクロス、<オンエニーサンダ>、4月22日です。お時間あれば観に来てください」とのご案内である。

このブログをはじめてから間もない頃、オトキチさんからコメントを頂いた。

どうしたらいいのかも解らず、コメントにあったアネックスに電話をして話をしていたら、「山本隆さんにお世話になっています。」などと言うものだから、懐かしくなってホントに何十年ぶりに山本隆君の声を聞いた。

そんなことからどんどん広がって、オトキチさんは山本の店を訪ねられたり、山本君もビンテージレースに出場するとか、言っている。

是非、4月22日にはアネックスで、久しぶりにMX独特のノイズや砂ぼこりを楽しみたいと思っている。
こういう広がりはいいですね。アネックスが私が住んでいる三木だったのも幸いでした。



もうひとつは、ロードレース。金谷秀夫君に関するお話。MURASAKIさんからのコメントです。
これは非常に詳しく面白いので是非、直接「金谷秀夫君のこと」のコメント欄をお読み下さい。

MURASAKIさんは、Wikipediaの金谷秀夫の項を書かれたご本人です。
私は金谷のことを書くにあたって、ヤマハ時代のことをこの項を参考に引用したのですが、当のご本人からコメントが入るなど全く予想だにしませんでした。

今回は2度目のコメントです。

私にとって金谷は、昨日の安良岡健さんのことでも述べたように、レース自体もさることながら、いろんな意味で「想い出を共有する仲間」である。

カワサキ時代は特に大記録もなかったが、ヤマハで花開いて本当に良かったと思っている。
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「そのまんま東」で思うこと

2007-01-23 06:41:14 | 政治
そのまんま東が宮崎県の知事になった。

特に関心があった訳ではないが、同時に行われたほかの県知事選挙の関心が皆無であったのに比べると「どうなるのかな」ぐらいの関心は持っていた。

結果を見て、新聞記事など読んで「なるほどと思うこと」もいっぱい、自分なりに発見をした。

末端はやはり鋭く見ていると思った。

無党派層などと,新聞などでは「その他大勢」のように言うが、本当はそれが末端、一般大衆なのである。
本当の政治の目線は、その他大勢の一般大衆に向けられるべきである。

党派だとか支援団体ばかりを大事にする目線、
ヨコ一線のはずの末端を無理やりタテ型のピラミッドを造って、「そのトップの人たちとの接触」を「市民参画」などと錯覚する目線の延長上に汚職や談合があるのだと言えば、言い過ぎであろうか。

そのまんま東の経歴は、従来の常識で言えば、芳しいものではない。
然し、彼の歩んだ道を見ると、大学でもう一度政治を目指すために勉強をし直している。
その態度は簡単なようで普通一般の人には出来ない真面目なものを、私は感じる。

多分、私と同じ一般大衆も、そんな真面目さを何となく感じたのだと思う。
本当の末端が動くと、自然に時代の流れに沿ったいい動きになるのだと思う。

知事や市長、いわゆる首長は世の中で言う「賢い人」「経歴のある人」「お役人上がり」でないと本当に務まらないのだろうか。

首長の資格はそんなものではなく、経歴などよりも資質だと思う。
資質さへあれば、お役人だろうが、民間人だろうが別に問題はないと思うのだが。

中央に顔が利く、陳情に有利、金が流れる、そんな基準で選ぶから汚職になったり談合が起こったりするのである。

今回は、何度も繰り返されるそんな体質に嫌気がさして、末端はそんな体質から一番遠いところの人に期待を寄せたのではないだろうか。

ところが、新聞などの報道で見ると、議会は全て野党で大変と長野県と同じことをまた言っている。
確かに、自分たちが推薦した人とは違うのだが、そんなに無茶苦茶おかしな主張をしたわけでもないだろう。県民はそれを選択したのである。

党の考えも、反対意見も当然あるとは思うが、各党の議員さんも個人個人の考えで判断し行動する態度も、少しだけでいい、見せて欲しいと思う。

安倍さんの言う「再チャレンジの見本」みたいなものだから、自民党も本当の末端が選んだ知事に協力する度量も見せて欲しいと思うのである。
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安良岡健君のこと

2007-01-22 06:28:03 | M/Cレース
安良岡健君とカワサキが契約した当初は、まだロードレースは本格参入していなかったので、もっぱらモトクロスでの出場であった。

カワサキコンバットを三橋実とともにマネージしていたが、若手の選手たちの面倒見が非常によく人望が厚かった。
星野一義は健さんに手紙を出してコンバットに入ったとも言われている。当時どちらかと言えば、やんちゃなライダーが多かった中で、紳士と言える人柄だった。
東京の世田谷のお宅には何度か泊めて貰ったりしたこともある。
ライダーを止めてからも、商売の関係もあり何度かお付き合いがあった。
東北のころ、若手のライダーだった加藤君をレースに派遣してくれたりした。


そんな健さんだったが、カワサキではロードレース、特にGPレーサーの開発に尽力して貰った。
まだ、125ccのGPマシンがスズカで2分50秒が切れない頃からだったので、大変だったと思う。

私は契約だけ担当し、運営は技術部だったので余り詳しい内容は解らないのだが。

タイムが上がらないのは、マシンなのかライダーなのか、上手くいかない時によくある議論である。
そんな時期、健さんの契約問題が出たことがある。

その時、猛烈に私に意見を言ってくれたのは金谷秀夫だった
スズカから二人で帰る車の中で、
「いつ、壊れるか解らない危ない車の時代からテストさしといて、それはない。」というのである。
名神のA1のテストでミッションが焼き付いて、危なかった経験のある金谷の話は非常に説得力があった。

無理やり契約だけは、継続したのである。

66年FISCOの日本GPではじめてGPに出場したのだが、シモンズや谷口よりも安良岡がカワサキのライダーの中で一番の成績(7位)であったことは、私自身本当によかったと思っている。

昔のライダーたちが一同に会しOB会をやったのは88年末のことだから、もうあれから20年になろうとしている。
安良岡も星野、岡部、梅津、特に東の連中とはそれ以来会っていない。元気にしているのだろうか。
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ジェットスキー世界戦略ー2 昔話ー23

2007-01-21 06:48:32 | ジェットスキー&KAZE
「ジェットスキー開発ー2」

先日、1984年に突如としてJS440/550が計画の3倍も売れたというお話をした。

ジェットスキーはもともと発動機事業部が開発したエンジンを使っていて、単車のエンジンとは関係が無かったのだが、突如25000台も売れて一挙に脚光を浴びたのである。

単車の開発陣が、独自の新商品を開発すべく開発NO183、158の2機種が候補にあがった。

NO183はKX250ベースの300ccエンジンを搭載したJS300.これはバイクで言えば小型の底辺層(初心者、女性)を狙った需要創造のためのエントリー型のジェットスキー。
NO158は新650エンジン搭載の二人乗りジェットスキー、X-2。

と85年2月15日の開発計画書に記述されている。
2機種とも開発され上市されたが、JS300は散々な失敗作に終わってしまうのである。

当時の単車事業部にはエンジンの専門家は沢山いたのだが、水の世界は始めての経験で、ジェットスキーにちゃんと乗れる人も居なかった。
発動機事業部にJJSBAでレースをやっているのがいると聞いて、何とか単車に貰おうと同期の藤川さんに頼み込んで、私の担当の企画に来てもらったのが、福井昇君である。

日本のジェットスキーの業界では、殆どの人が知っている、
ジェットスキープラザ明石の福井君である

バイクの感覚では、「初心者は小さいものから」は常識である。
需要を拡げるためには小さいものも開発して初心者や女性の導入を図ろうというコンセプトに、誰も何の疑いも持たなかった。

開発テスト段階で、福井君も参加したのだが、彼が乗っても「突如ひっくりかえる」というのである。
然し、彼の所属は企画部門で商品評価専門の品証部門ではなかったので、彼の意見は通らないまま商品化されたのである。

ところが水と陸とは大違いで、水の上に浮いているものは大きいモノほど安定し、小さいと不安定であるということが、はっきりと認識されたのは、JS300が発売されてからだった。

考えてみると、素人でも解る当然の理屈であるが、永年二輪の常識のなかで育った判断力が邪魔をした。今思えば不思議な話だが現実に商品化されたのである。
ウソみたいなホントの話である。

こんな失敗もあったが、新しい商品も開発し、企画部門では、武本さんやオーストラリアから帰ってジェットスキーに専念してくれた鶴谷さんと福井君、藤田君などがアメリカ以外の日本やヨーロッパ、豪州などの市場も開拓し、世界展開を図っていったのである。


その後、福井君はちゃんとしたテストをやるべく品証部に転籍し、更に独立開業して、今ジェットスキープラザ明石の社長さんである。

発動機に貰いにいかなかったら、彼はどんな人生を歩んだであろうか。
人の人生は、本当にひょんなことで、ひょんなことになるものである。

今でも時々家に遊びに来てくれる。J/Sは勿論、四輪も好きだし、二輪にも興味がある面白い男である。
昨日、店のHPでアドレスを探して、はじめて彼にメールを打ったら、直ぐ返事が来た。前回のジェットスキーのブログを見て、懐かしいと言う。これはもっと懐かしい筈である。
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末端への目線

2007-01-20 06:29:33 | 発想$感想
北海道の夕張市の話が有名になって地方自治体の借金話がTVでも採り上げられることが多くなった。
何か話題になることがあれば、どこもここも同じ話題を一斉に追いかける。

差別化という発想が殆ど無い。何故もこう同じことばかりを追随するのだろうか。

昨年中ごろから、個人的に関心を持ち出した地方行政をみても、余り特徴のある市は少ないのである。
大体の市が言っている政策は健全財政、市民参画、安全、健康、住みやすさ、教育など。
市政展開のスタイルは、タウンミーテング、ワークショップ、市長メール、など。

どこにでも通用する独自性のなさが特徴である。

市政などあまり突飛なことも出来ないのは理解できるので、百歩譲ってそれは仕方がないとしても、「目線を末端に直接向ける」姿勢ぐらいは示して欲しいと思う。

市民参画と言いながらも、目線はタテ型組織を通じて「上から下に」順次辿って市民の、またこれもタテ型組織のトップクラスにやっと到着するスタイルである。「お客様第一」と言いながら、「お客様をないがしろにする」結果になってしまう民間企業も沢山あるのだが、「顧客とは誰のことか」と言いたくなる。二つとも日本のタテ型組織ピラミッド型の弊害だと思うが、従来の昔ながらのやり方を踏襲する限り直らない。
SNSなどという最も新しい時代の流れを理解しようともしない。
そんな経営者やトップが言葉だけは「時代を先取りして」などと言われるのが面白い。

昨日、私のブログに武雄市の樋渡啓祐市長から直接コメントが届いた。2度目である。
別にこちらから連絡した訳でもない、情報収集力は流石である。
樋渡さんの市政の展開は何度も紹介しているが「本当の末端に目線をあてた」数少ない例だと思う。

末端の人たちはものは言わぬが、ものごとを見る目は鋭く正しい。
口先だけの市民参画など直ぐ見抜いて、何の反応も示さないのである。

何がホンモノかは、市民に限らず,下の人たち「末端」は鋭く見抜くものである。
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ZEPHYRの話

2007-01-19 06:25:32 | カワサキ単車の昔話

昨日、ブログを見ていて,名文で綴られた弁天小僧さんのカワサキゼファーの終焉にたまたま出会った。
懐かしく、コメントなどさして頂いた。是非ご覧下さい。

89年5月発売された今までにないコンセプトのバイクZEPHYRは、予測を大幅に上回った売れ行きを示した。

従来のレーサーレプリカのような馬力も、特に誇れる技術的な長所も無く、ただ何となく独特の雰囲気が感じられる人の感性に訴える車だったのだが、もっと気軽に乗れる車は時代の要請だったのだろうか。

文字通り「西からの風」となって全国のモーターサイクルファンを魅了したのである。
ZEPHYRというネーミングがいいという人たちと、やはりKawasakiが欲しいという熱烈なカワサキシンパがいてオプションで別にプレートを用意したりした。

この車を開発した、新しいコンセプトを造り上げた開発スタッフに本当に敬意を表したいと思う。
営業の第一線にいたのだが、正直これほど売れるとは思ってもみなかった。2年を超えてバックオーダーが続いたのである。

1991年6月1日、11時55分、年間移動値で目標の70000台を達成した。事務所で大きな拍手が起こったのを覚えている。

カワサキにとって、はじめて7万台の壁を破った一瞬であった。
当時のZEPHYRに関係した全員の誇れる勲章であった。

それはZEPHYRをこよなく可愛がって頂いたユーザーを中心に、数多くのカワサキファンによってもたらされたものである。

1100,750が生産中止になる話は知らなかった。
もう15年以上もも経つのかと感慨もひとしおである。

W1,Z2,400FX,GPZ400,など幾つものいい思い出がある。
近い将来、また新しいヒット商品が出ることをユーザーとともに期待したい。


Kawsaki let the good times roll




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ジェットスキーの開発 昔話ー22

2007-01-18 06:28:32 | ジェットスキー&KAZE
「ジェットスキーの開発」

1983年ごろHY戦争ほかいろんな外部要因も重なって、カワサキの単車事業は存亡の危機に見舞われるのだが、幸運にも恵まれ何とか切り抜けることができた。。
ジェットスキー市場の予想を上回る急激な拡大もその一つである。

アメリカのジェットスキー市場は毎年5~7000台で安定して推移していた。
エンジンはもともと発動機事業部が開発したもので、従来単車の技術部はタッチしてなかった。
安定した商品ではあったが、それまでは大した期待も持っていなかったのである。

83年末ごろだろう、技術部の商品企画を担当していた百合草三佐雄さんが、ジェットスキーのJ/S400,500の改良計画を提案してきた。
予算の苦しい時期だったが、百合草さんと企画の武本一郎さんとで無理やり予算を捻出し実行に移したことを、何となく承知している。

そんな結果生まれた、JS440/550が突如として無茶苦茶売れ出したのである。
84年度計画の8100台に対し実に3倍の24400台の実績となったのである。

当時は独占商品で競争相手もなく、利益率も相当に良かったので、これで得た粗利の額は事業部、KMCとも業績改善の大きな要素になった。
10億や20億円のレベルではなかった、より大きい相当のレベルであったのである。

世の中には思いも寄らぬことも、ままあるものである。
こんなことが初めから解っていたら、誰でもそうするのだが。

カンというのも大事である。カンがいいのも実力の内である。
この時の「百合ちゃんのカン」も相当なモノだし、武本さんの予算捻出のワザも見事であったと思っている。

これを契機にジェットスキーは主力事業としての座を確保し、全世界への展開となっていった。

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