★この年からカワサキの単車事業が本格化したと言っていい。
従来は発動機事業部の中の単車課という位置づけだったのだが、
1月に単車を分離独立する職制が発表されて、
単車事業部となり販売促進部・広告宣伝課の所属となった。
まだ31歳の若さだったが、広告宣伝課には課長も掛長もおらなくて、実質私が長で部長に直結していたのである。
これは広告宣伝課という職制が初めてだったし、
この年から3年間、本社の開発費として1億円を超える予算で、
いまの金に直すと10億円を悠に超すような大金だから、
本格的な広告宣伝の実施になるのだが、
そんなことを経験した人は全くいないので、
それならいっそ係長にもなっていない若造だが、
従来結構新しいことに取り組んできた古谷にでも任すか、ということになったのだと思う。
★そんな広告予算を目指して電通・博報堂・大広・万年社などなど広告代理店が殺到したので、
先ずはカワサキ自販の小野田滋郎さんと一緒に、
広告代理店への質問を幾つか創っての選考が初めての仕事だったのである。
「貴社の創造的能力を図示説明してください」というような質問で、素人とは思えぬ的を得た質問と代理店間で評判になったのである。
このほとんどは小野田滋郎さんの主導で創られたもので、私自身も大いに勉強になったのである。
そんな小野田滋郎さんも3月末でカワサキ自販を辞められるのだが、
私は人生の恩人と位置付けているのである。
★この年からカワサキのモトクロスレースも本格的になり、
カワサキコンバットの三橋実・梅津次郎・岡部能夫、
神戸木の実の歳森康師・山本隆の5人の契約ライダーでスタートしている。
★この年に発売されたのが、中間車種の85J1や85J1Tで、
この年の9月には3万人もの観衆が集まったモトクロスでそのデビューを飾ったのである。
さらには10月の伊豆丸の山高原でのMCFAJの全日本で、
4種目中3種目に優勝して、カワサキはモトクロスでの地位を確固たるものにしたのである。
★ ただ全日本で優勝しても一般紙は全く取り上げてくれないので、
広告代理店の万年社に働きかけてスポーツニッポン主催のモトクロスレースを立ち上げることにしたのである。
その第1回の記念すべきモトクロスが11月8日和歌山の紀の川で、レースとしては地方の草レースだから、
メーカーチームの出場が少なくて、簡単に優勝できるのである。
スポーツニッポン紙には大々的に取り上げて貰って、非常に高い広報価値があったのである。
この企画は大成功で「スポニチ主催の西日本モトクロス」は第7回まで続くのだが、
この頃になると地方の草レースだと放っておく訳にはいかないと、
東京から城北ライダースなども参加するようになったので、
簡単には勝てなくなったので、第7回で最後となった次第である。
★ そんないろいろとオモシロイ企画の中の一つに
『源平芸能合戦』への出場もあってことの始まりは、毎日広告がやってきて『三洋電機との対戦に出ませんか、タダで1時間番組に出れますよ』というので、
簡単に出ることに決めたのだが、4種目の出し物を決めねばならないのである。
コーラスと、手塚部長の剣舞、岐阜のハワイアンバンドとフラダンスまでは何とかなったのだが、あとの一種目がどうにもならないのである。
困り果てて毎日広告に相談すると『吉本興業に頼んでみる』ということになって、
当時月へのロケットが話題だったので、
それに関連した『かぐや姫の物語』を創ってくれて、
その演技指導なども本格的にやったので、
『タダで出来る』ということだったが、この費用だけでも大変な額になったのである。
当日の三洋電機との対戦は、チームレベルの高い接戦で、両チームとも普通には出ない100点以上の高得点が出たのだが『淡路の人形浄瑠璃』などを演じた三洋電機に僅差で敗れたのだが、
これはなかなかの想い出になったのである。
これ以降、少なくとも川崎重工がテレビの人気番組に登場することなどなかったはずである。
★この1年の日記も殆どが会社のことばかりなのである
長男は2年目になって、二人目も生まれることになっている。
9月には社宅が当たって、社宅に引っ越ししている。
そんなことで家賃も少し安くなったし、会社も直ぐ近くになったのである。
個人的にはそんな結婚2年目の年で、
因みに給料は4万円ぐらい、ボーナスが72000円のそんな時代だった。