雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

ブルボンビーンズドーム

2023-11-30 06:33:37 | 発想$感想

★毎朝のように行っている三木総合防災公園には競技場やサッカーコートなどスポーツ施設も多いのだが、
 そんな中に日本最大世界でもTOPクラスの屋内テニスコートの『ブルボンビーンズドーム』がある。
 
 


久し振りに中に入って写真を撮ってきた。


 
 
  
 こんなセンターコートを中心に左右に8つのコートがあって
 誰でも気軽に利用できるのがいい。


  


 Google Map を拡大したところだが、
 このように豆型になってるのでその形から
 『ビーンズ』と名付けられたのだと思う。 
  
  
 

 それくらい大きいのだが、
 公園が広いのでそんなに大きさが目立たない感じなのである。
 よく大きさを表すのに『甲子園球場が幾つ』と言ったりするのだが、
 真ん中に公道が走って東と西に分かれてはいて、
 その広さは甲子園球場が100は十分に入るだろと思われる広さなのである。
 ビーンズドームだけで、甲子園球場と同じぐらいの広さかも知れない。




 阪神大震災の時には救援物資の置き場に困ったという経験から、
 災害時にはこのビーンズドームが救援物資の置き場にもなるように、
 外から中にトラックが入れるように設計されている。

 そんな地震の大掛かりな装置の E-Defence なども園内にあるので、

 

 三木総合防災公園と名付けられているのだと思う。


  
 
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私の日記から   昭和40年(1965)

2023-11-29 06:30:23 | 自分史

昭和40年(1965)32歳、新しく出来た広告宣伝課での2年目である。
 1億2000万円の予算を頂いたのだが、
 1年目は7000万円ほどしか使えずに、『お前ら金を遣ってもよう使わ』と本社の専務に怒られたこともあって、
 年明け早々全国50社もある地方紙に全頁広告を出すという『前代未聞』のことをやったのである。
 多分、こんなことをやったのは日本でもカワサキのこの1回限りのことだと思う。
 地方紙は殆どすべて使ったのだが、朝日・毎日・読売などの全国紙は使わなかったのである。
 なぜこんなことになったのかというと、当時のカワサキは全くの実用車で
 大都会では売れてなくて主販売地域東北や九州を中心とした田舎市場が主だったからである。

 そんなことで、広告代理店の方と大阪の地方紙の支局50社余りの挨拶周りもしているし、
 3月8日には地方紙の明石工場見学会も行っているのである。

 テレビコマ―シャルもつくって、
 「あちゃん、ても、んせい,めたカワサキ」と藤田まことに喋らせたのである。

 


★モトクロスはカワサキの二輪事業のスタートとも密接な関係があったのだが、
 ロードレースはまだやっていなかったのだが、
 この年の5月に鈴鹿サーキットであったジュニアロードレース山本隆がどうしても出たいというので会社には内緒出場させたら、
 ホンダについで3位入賞したのである。
 5月のことだがこれがカワサキが初めて走った鈴鹿サーキットなのである。
 一気にロードレース熱が燃え上がって、翌月の6月にはアマチュア6時間耐久レースに3台のマシンを出場させることになるのだが、
 山本はジュニアロードに出場したため資格がなく、
 歳森康師が相棒に連れてきたのが金谷秀夫なのである。
 そんなこともあってカワサキも本格的にモトクロスロードレースも始めることになり、
 GPマシンの開発もスタートし10月にはレース運営委員会が正規に発足したのである。
 このメンバーは技術部門が山田熙明を長に高橋鐵郎・中村治道・大槻幸雄・
安藤佶郎・田崎雅元、営業部門は苧野豊秋と古谷錬太郎といういうメンバーで、
 事務局は私が担当したのである。

 これはファクトリーチーム結成25周年の写真だが、
 当時アメリカに行っていた安藤佶郎さんを除いてすべての関係者が顔を揃えている。


 


 因みにこのレース運営委員会の中から
 後、川崎重工業の社長・副社長(2名)常務も出ているのである。

★会社ではそんなレースの正規のスタートの年だったが、
 家庭では長女が5月に誕生して、長男・長女と二人の父親となったのである。
 長女のお産で家内が里に戻っている時期に、
 自動車学校に入学して免許を取得したのである。
 遅いと思われるかも知れぬが、
 当時はクルマなど持っている人は殆どいなかったし。
 そんなことで免許も持っている人は珍しい時代だったのである。
 たまたまレースに関係していて、鈴鹿サーキットなどにも行く機会が多かったので、
 会社の車を運転してあちこちに出掛けていたのである。
 私的には甥っ子がクルマを持っていたので、
 それを借りてあちこち行ってたのを想い出す。
 そんなことで『車の運転スタート』の年なのである。
 
 その後もずっと運転はしていたが、ずっと会社の車ばかりで、
 個人で車を持ったのは5年後の昭和45年(1970)大阪地区を担当した時からなのである。
 



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家内の定期検診

2023-11-28 05:29:22 | 発想$感想

★昨日は家内の4か月に一度の定期検診北播磨総合医療センターに行ってきた。
 血液検査で診断してもらうのだが、
 前日に血液採取で翌日主治医の診断だから、
 2日続けて病院に行くことになる。

 こんな大きな病院だが

 


 こんなに沢山の方が来ている。
 世の中には体のどこかがおかしい方がこんなに多いのかなといつもびっくりする。
 



 私が90歳家内は86歳高齢者夫婦だが、
 私は至って健康で、近くの町医者には年に3回ほどの血液検査などはするのだが、
 それ以外は特におかしなところはない。
 強いて言えば最近耳が少し遠くなったかなということぐらいである。

 家内も膠原病のような症状はあるのだが、
 病院に来ている人の様子からすればまだまだ元気な方だと言えるだろう。


★ 今日は10時に主治医の定期検診の予約が入っているので、
 もう一度北播磨総合医療センターに行くのだが、
 その立地はこんなところなのである。

  


  毎回のことだが、右のほうから行って、
  帰りは左の方の175号線を通って戻ってくる。
  大体、片道30分の距離なのだが、
  若し、車でなければどのようにして行くことになるのだろう?
  多分、1日仕事になってしまうと思う。

  そう言う意味では、未だに免許があって車の運転ができることがいい。
  高齢者は危ないからと、免許を返納される方も多いのだが、
  私はよほどの自信がなくなるまでは、車のある生活を続けたいと思っている。
  まだ5年は間違いなく大丈夫だと思っている。
  北播磨総合医療センター通いもあと5年はクルマでと思っている。
  そんな病院通いをしている限り、夫婦健在なのである。

  9時には家を出るので今朝は5時半起きで
  いまから三木総合防災公園に走りに行ってくる。
 

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私の住んだ町いろいろ   仙台

2023-11-27 06:52:00 | 発想$感想

★ 東北の仙台に住んだのは昭和42年(1967)1月から
 昭和45年10月(1970)までの4年間で、
 55年も前の話だが、まだ西暦は一般的ではなく昭和の年数で呼ばれていたころである。

 カワサキの二輪車がまだ実用車の時代で、
 東北6県が最大の市場であったし、各県には自前の代理店があって
 そこからサブ店と称されていた主として自転車屋さんに
 バイクを委託販売していた時代である。

 その東北6県の代理店会から「仙台事務所を」という要望が出されて、
 それに応えて『仙台事務所』を創るために私が指名されたのである。
 会社からの指示も『仙台に事務所を創れ』という単純なもので
 具体的には何も決まっていない状況だった。

 事務所もないので、仙台の宮城カワサキの事務所に机を一つ置かして貰ってのスタートだったのである。
 会社の事務所も兎も角、まずは住む家を探したのだが、
 関西に比べたらべらぼうに安くて、庭付の1軒家に住むことが出来たのである。
 結婚以来ずっとアパート暮らしだったが初めての1軒家だった。長男は幼稚園、長女はまだ小さかったそんな時期だった。
 初めて自分で作った事務所で『事務所長』という肩書を頂いて、
 当時の自前の代理店の社長さんから見ると、初めて直接関係するメーカーの人ということで、結構大事に扱って頂いたのである。


★いまの仙台市はこんなに発展しているが、
 当時は今は4号線となっているが、当時は新しくできたバイパスで、
 周囲は何もなかったところに土地を買ってカワサキの新事務所を創ったのだが、
 水道も来ていなかったので井戸を掘って水を求めたのである。
 仙台駅との間に我が家があったのだが、そのあたりまでようやく家が建ち始めた頃である。

  
 
 
 家の東側はすべて田んぼか野原で、ドジョウがいっぱい取れたのを想い出す。


仙台の街も今とは全く違うのだが、
 東北6県も高速道路などどこにもなく、
 峠道は殆どが未舗装の砂利道だった。
 広さも仙台-盛岡盛岡-青森が各200kmもあって、
 関西でいうと明石から名古屋までの距離だから、ほんとに広大なのである。


  

 
 そんな広大な東北6県にはこんなに多くの代理店やその拠点があって、
 そんな店を車で訪問する生活だったので、
 東北の道も、いろんなところもひょっとすると東北の人より詳しいかも知れない。
 どこに行っても東北人の人情は素晴らしく、
 そう言う意味でも、『』を見直したし、
 仙台に住んだのだが、『東北に住んだ』とも言える4年間だった。

 子供たち二人もようやく幼稚園を卒業、入学という時代だった。
 「ホヤ」や「いくら」はよく食ったが、この頃にもあたのかも知れぬが、
 「牛タン」などは聞いたことも食ったこともなかった。

  

 
 大体、肉屋で牛肉を売ってるところが少なくて
 『すき焼き』と言えば豚だった時代である。


 そんな初めて人生で経験するいろいろなことがあったし、
 生まれ故郷の明石から初めて離れて住む仙台だったのだが、
 いま思い返しても仙台にも東北6県にもいい想い出好印象を持っている。
 
 
  

 
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協同学苑の外周を歩いてきた

2023-11-26 06:55:04 | 発想$感想
★11月に入ってから、毎朝の散歩の目標も1万歩に上げた。
 いつもはこの写真の右のほうの三木総合防災公園に行くことが多いのだが、
 昨日は協同学苑の外周のこんな道を1周してきた。

 

 結構な距離だと思ったが1周して8200歩だったので、
 協同学苑の中をちょっと歩いて目標の1万歩を達成した。


★ 途中、写真を撮ってきたが、
 いま、協同学苑の隣のかなり大きな部分に『高齢者の街』を造る工事が始まった。

  大和ハウスが手掛けているのだが、再来年の春には完成するらしい。

  

  
 どんな街になるのか、『高齢者の街』というから、ちょっと関心がある。
 高齢者が住みやすい街になるはずである。




 ひょっとしたら、お世話になるかもと思っている。


 野球が強い関西国際大学の野球場の横を通って、
  


 こんな坂を下ると




 生前、母がお世話になっていた老人ホーム
 りんどうの里の横に出る。





 そこからはこんな田舎道である。




 さらにこんな田舎の風景の横を通って




  こんな新しい道を右に曲がると




 昔、よく鮒釣りにきた池の横に出る。
 よく釣れたのだが、昨今は野池で鮒釣りなどする人は減ってしまった。




 さらに丹生山を遠くに望んで、
 坂を登って行くと、
 



 協同学苑に戻ってくる。
 1万歩は十分にあると思ったのだが、8200歩だった。

 


 いつもは三木総合防災公園を歩くのだが、
 公園の片側だけで1万歩になるから、
 めちゃくちゃ広い公園なんだなと改めて思った。

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〇〇周年   雑感

2023-11-25 07:02:18 | 発想$感想

★世の中には『〇〇周年』という記念行事がいっぱいあるが、
 例えばカワサキのKX50周年という行事が来月12月にあるのだが、
 KXが発売された年が1973年だというので、
 2023年の今年が50周年だというのだが、それで『50周年』でいいのだろうか? 
 とツマラヌことを考えている。

 私は933年生まれの90歳なのだが、
 今年2023年90周年というのか、
 来年の3月になって91歳の1年が90周年なのだろうか?


  



 年齢は兎も角、結婚1周年とは結婚した翌年が1周年になるのではなかろうか?
 私は1962年12月21日に結婚しているのだが、
 『結婚60周年』というのは2022年だったのか?
 今年2023年60周年なのか?
 来月の12月21日が『結婚60周年』だと思っているのだが、
 果たして、どうなのだろう?

★そんなことで「〇〇周年」の数え方と検索してみたら、
 こんな説明文に出会ったのである。

「周年」の数え方をご存じですか?
結婚1周年プロデビュー10周年、創立20周年といったように、記念日や特別な日には「〇〇周年」という表現がよく使われています。
でも、この「周年」の正しい数え方については、意外とよくわかっていないという方も多いようです。
周年」と「年目」を同じように捉えている方もいるかもしれません。

■「周年」の数え方は、物事が始まってからどのくらいの年数が経過したのかを表す際に用いられる言葉で、
例えば、2019年4月に会社を立ち上げた場合であれば、その1年後の2020年4月を「創立1周年」として数えるのだという。
■「周年」と「年目」とは異なっていて、
 1年が経過しているかどうかがポイントで、
周年」は丸1年を迎えた場合、「年目」は1年未満の場合と覚えておくと、わかりやすいでしょう。

とあるから、
カワサキKX50周年2023年になってからだとも思うが、
結婚記念日や市政10周年のようにスタートの日がそんなに明確でもないので、
 KX50周年が今年でもいいのかも知れない。
 それも最終月の12月2日に『KX50周年の祝賀会』をやるので、
 そんなに間違っているとも言えないだろう。


  


★まあそんなことで、
 粗っぽく言うと、2023年という年はいろんなことで『〇〇周年』と言える年なのである。
先ずは、90周年ではないかも知れぬが、生まれて90年目の年である。
 結婚記念日は来月12月21日で『結婚60周年』を迎える。
 日記を書きだしたのは20歳の時で、1953年11月8日だから、
 これは『70周年』に入ったと言えるのだろう。


  

 

 長く勤めて密接な関係のあったカワサキの二輪事業でいうと、

 カワサキがレースをスタートさせたのは、
 1963年5月のことだから『レーススタート60周年』ではないが『60年目』であることは間違いない。
 それから10年経った1973年のKXのスタートの時については、
 技術部が正規にレース活動を開始した時期とも言えるのである。

 当時の写真もあって、KX40周年の時の記事によると、
 KXの発売1973年だが、技術部に開発1班結成されたのは
 1972年だというので、
 これを基準に「KX50周年」と数えられているようである。

 
 

KX40周年を祝う有志の会」をカワサキモトクロスOB会が立ち上げた。
カワサキの二輪車の中で、開発、生産、販売そしてレース活動を41年間も絶えることなく続けてきた唯一のモデルが”KXシリーズ”。
1972年に技術部に開発1班が結成され、始めて名付けられたモトクロス専用車”KX”、その機種名を一度も変える事なく続いた41年間だと書かれている。


★実は来月12月2日にある『KX50周年』の記念行事には
 幕開けのご挨拶をすることになっているので、
 事業部のことやKXの開発・発売など、私なりにいろいろ調べているのだが、
 その一環として『〇〇周年』の数え方もちょっと気になったのである。
 気になりかけると、結構いろいろとこのようにチェックしたりするのは私の性格で、なかなか治らないものである。
 このブログを纏めてみて、『〇〇周年と〇〇年目の違い』も解って、一つ賢くなったのである。 

結論的に言うと、間違いなく『KX50周年』で正しいのである。
すっきりした。

 
 
 
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私の日記から  昭和39年(1964)

2023-11-24 07:26:37 | 自分史

★この年からカワサキの単車事業が本格化したと言っていい。
 従来は発動機事業部の中の単車課という位置づけだったのだが、
 1月に単車を分離独立する職制が発表されて、
 単車事業部となり販売促進部・広告宣伝課の所属となった。
 まだ31歳の若さだったが、広告宣伝課には課長も掛長もおらなくて、実質私が長で部長に直結していたのである。
 
 これは広告宣伝課という職制が初めてだったし、
 この年から3年間、本社の開発費として1億円を超える予算で、
 いまの金に直すと10億円を悠に超すような大金だから、
 本格的な広告宣伝の実施になるのだが、
 そんなことを経験した人は全くいないので、
 それならいっそ係長にもなっていない若造だが、 
 従来結構新しいことに取り組んできた古谷にでも任すか、ということになったのだと思う。

★そんな広告予算を目指して電通・博報堂・大広・万年社などなど広告代理店が殺到したので、
 先ずはカワサキ自販の小野田滋郎さんと一緒に、
 広告代理店への質問を幾つか創っての選考が初めての仕事だったのである。

   
   

  
貴社の創造的能力を図示説明してください」というような質問で、素人とは思えぬ的を得た質問と代理店間で評判になったのである。
 このほとんどは小野田滋郎さんの主導で創られたもので、私自身も大いに勉強になったのである。
  そんな小野田滋郎さんも3月末でカワサキ自販を辞められるのだが、
 私は人生の恩人と位置付けているのである。

★この年からカワサキのモトクロスレースも本格的になり、
 カワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木の実の歳森康師・山本隆5人の契約ライダーでスタートしている。

 


★この年に発売されたのが、中間車種の85J1や85J1Tで、
 この年の9月には3万人もの観衆が集まったモトクロスでそのデビューを飾ったのである。
 さらには10月の伊豆丸の山高原でのMCFAJの全日本で、 
 4種目中3種目優勝して、カワサキはモトクロスでの地位を確固たるものにしたのである。


  


★ ただ全日本で優勝しても一般紙は全く取り上げてくれないので、
 広告代理店の万年社に働きかけてスポーツニッポン主催のモトクロスレースを立ち上げることにしたのである。
 その第1回の記念すべきモトクロス11月8日和歌山の紀の川で、レースとしては地方の草レースだから、
メーカーチームの出場が少なくて、簡単に優勝できるのである。
 スポーツニッポン紙には大々的に取り上げて貰って、非常に高い報価値があったのである。
 この企画は大成功で「スポニチ主催の西日本モトクロス」は第7回まで続くのだが、
この頃になると地方の草レースだと放っておく訳にはいかないと、
東京から城北ライダースなども参加するようになったので、
簡単には勝てなくなったので、第7回で最後となった次第である。

★ そんないろいろとオモシロイ企画の中の一つに
 『源平芸能合戦』への出場もあってことの始まりは、毎日広告がやってきて『三洋電機との対戦に出ませんか、タダで1時間番組に出れますよ』というので、

  
 
 簡単に出ることに決めたのだが、4種目の出し物を決めねばならないのである。
 コーラスと、手塚部長の剣舞岐阜のハワイアンバンドとフラダンスまでは何とかなったのだが、あとの一種目がどうにもならないのである。
 困り果てて毎日広告に相談すると『吉本興業に頼んでみる』ということになって、
 当時月へのロケットが話題だったので、
 それに関連した『かぐや姫の物語』を創ってくれて、
 その演技指導なども本格的にやったので、
タダで出来る』ということだったが、この費用だけでも大変な額になったのである。
 当日の三洋電機との対戦は、チームレベルの高い接戦で、両チームとも普通には出ない100点以上の高得点が出たのだが『淡路の人形浄瑠璃』などを演じた三洋電機に僅差で敗れたのだが、
 これはなかなかの想い出になったのである。
 これ以降、少なくとも川崎重工がテレビの人気番組に登場することなどなかったはずである。


★この1年の日記も殆どが会社のことばかりなのである
 長男は2年目になって、二人目も生まれることになっている。
 9月には社宅が当たって、社宅に引っ越ししている。
 そんなことで家賃も少し安くなったし、会社も直ぐ近くになったのである。
 個人的にはそんな結婚2年目の年で、
 因みに給料は4万円ぐらい、ボーナスが72000円のそんな時代だった。
 
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晩秋の三木山森林公園

2023-11-23 06:37:37 | 発想$感想

★三木には広大でいい公園がいっぱいあるが、
 三木山森林公園は自然が残されているという意味で最高にいい公園だと思っている。
 そんな晩秋の三木山森林公園を歩いてきた。
 もみじ谷を中心にこんなルートを歩いたのだが、
 久しぶりにその歩数は1万歩を越えた。

 公園の中の一部なのだが、
 如何に広大かということがお解り頂けると思う。

  


 毎年、この時期にはもみじ谷の紅葉を観に行くのだが、
 写真を30枚ほど撮ってきたのでご覧ください。

 写真を撮った順番に並べますが、それは歩いた順番でもあるのです。
 こんな公園なのです。

 
  

  
雲一つない秋空に聳え立つ大木




 その葉は繊細だが紅葉している。

 もみじ谷を観に行ったので、もみじ谷の写真をいっぱい。




  ここは植林されたものではなく自然林




 だが、圧倒的にモミジが多い。




 
  自然の中に調和している。



 紅い葉だけではないのがいい。



 足もとには小さな流れがある。




 もみじ谷と言われる所以である。




 すべてが自然林なのだが、
 こんな小さなモミジが芽生えているし、





 これくらいになったのは、支えがしてある。




 この辺り素晴らしい自然の景観。





 紅葉もいろいろあっていい。




 常緑樹の大木もある。





 イロハモミジの大木。



 登って、また戻ってきた。




 風情のあったもみじ谷、やはり自然の森はいい。




 また、大広場に戻ってきた。



 広場から見上げる山は、まさに森林公園である。




 芝生の大広場の両側は自然の山が残っている。




 ここからは山の尾根を歩いている。




 その先にある展望台なのだが




 樹々が大きくなって、
 かっては見えてい芝生の広場が全く見えなくなってしまった。




 ここからは、もう一つの尾根の途中にある茶室





 これは植樹されたものだが、
 椿がいっぱい咲いていた。




 ここは庭園に造られている。



 なかなかの風情である。





 1万歩歩いたので、
 少々疲れて、茶室休息して、車に戻った。




 ざっと2時間の行程だった。
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車の運転と私の人生

2023-11-22 07:00:28 | 自分史

★ 昭和32年入社だから1957年なのだが、
 1999年まで務めたので、実質42年間の現役生活だったのである。
 
 二輪事業は地方の販売店まで訪問する機会が多いので、
 その業務には車の運転が必須なのである。
 この二輪を担当することになって運転免許も取ったのだが、
 当時はまだ免許を持ってる人は少ない時代だった。
 
 最初は国内市場だけだったのに、アメリカに進出し、ヨーロッパにも手を広げ、
 さらには東南アジアや開発途上国市場のCKD事業にも関係したので、
 世界各国の道を知っているということになっていったのである。
 
★ そんな二輪車担当を卒業して、最後の2年間は北海道札幌で、
 『北海道川重建機』という優良会社の経営を任された2年間だった。
 その社名から川重の子会社のように思えるのだが、そうではなくて
 地元資本の会社なのだが川重の建機車両を主として扱っていたので、このような社名になっていたのである。
 
 この北海道川重建機は道内に10以上の支店があり、
 こんな支店網だったのである。



 
 そんな支店訪問も、移動手段は二輪時代の慣習で、
 与えて貰った4駆のクラウンですべて自分で運転していたので、
 北海道の道は殆ど走ったような気がする。



 
 雪道も走ったのだが、4駆のクラウンは素晴らしくて、
 若いころ東北の雪道を走った時代からは、
 考えられないほどの安定感だったのである。
 
東北6県4年間担当したから、
 東北の道は、大げさに言えばすべて知っていると言ってもいいほどだが、
 当時の道は峠は殆どすべて未舗装の砂利道で、むしろ雪道になった方がスムースに走れたようなところもあったのである。
 

 

 
 東北の後は、近畿2府4県の担当で、中部日本も東京も担当したし、
 九州は直入にサーキットを創るときにいろいろ走り廻ったので、
 結構詳しいのである。
 ひょっとしたら運送業のトラックの運転手より詳しいかも知れないのである。



 

★日本ほどは詳しくないのだが、世界の道も結構走っている
 国内を10年間担当して出向から戻ったら、
 カワサキの初めてのCKD 市場の担当となり、
 タイ東南アジアなどは、何回も長期間行ってるので、走行距離も結構長いのである。
 ずっと国際免許を持っていて、どこに行っても空港でレンタカーを借りて走り回っていたのである。
 オーストラリアも海岸線の長距離を車で移動したし、
 何度か出張してその内陸も走っていて、結構詳しいと言えるだろう。
 その後のヨーロッパ市場も、距離的には各国間をレンタカーで行き来出来たし、
 スペインの海岸線の観光地もジェットスキーの調査で走ったことがある。
 
 こんな社用での車の走行とは別に、
 プライベートで家内とのオーストラリアやヨーロッパ旅行でも
 レンタカーで好きな道を走り回ったりしたのである。
 元来、『車の運転』が好きなのだと思う。

 アメリカも現役時代は空港からレンタカーだったし、
 現在は娘婿一家がアーヴァインにいるので、
 これは乗せて貰っているのだが、結構な距離を走っているのである。

 


★ これらの国々を出張旅費を頂いて行けたので、
 ほんとに『いい現役生活』だったと思う。
 末端のユーザー販売店はみんなバイクが好きな方たちで、
 お客様と言っても、ほかの業種の『お客様』のようなところは全くなく、
 逆にお客様から『メーカーの人』ということで特別の目で見て頂いたようなところもあった。
一般のサラリーマンの方のような堅苦しい会社生活は全くなくて、
 ずっと好きなことを、好きなように出来た自由業のような現役生活だったのである


★そんなことで「私の車の運転」は現役時代から今も、
 ずっと毎日続いているのだが、
 お陰様で、無事故無違反のゴールド免許が続いているし、
 運転は好きだし、結構自信もあって、90歳の今も毎日車に乗っている。
 果たして何歳まで運転できるのか? 
 いまのところまだまだ大丈夫だと思っているのだが、
 若し免許を返納するような時になったら、
 私の人生も終わりかなと思ったりするのである。
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ホントに何にも解っていない

2023-11-21 08:04:52 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★結構ブログをアップしたり、毎日Facebook にいろいろ書いたりするので、
 ネット関連もよく解っているとお思いの節もあるのだが、
 何も解っていないので、一端トラブルが起こるとどうしようもないのである。
 
 実は昨日スマホの電池がほどんどなくなってしまって充電をしたのだが、
 充電できたというマークは出てくるのだが、
 それ以外は何も動かないのである。
 スマホが壊れてしまったとのかなと思ったりもしたのだが、
 どうしようもないので、スマホを買ったドコモショップに行ってそのように言ったのだが、
 店の人が私のスマホを持って何かしたら、
 何秒かで治ってしまったのである。

 あまりにも簡単だったので『どうしたのですか?』と聞いたら、
 電池が少なくなって充電した時は、
 「ボタンを長押しすればいい」というのである。
 簡単なことだが、解っていないとどうしようもないのである。
 『長押しする』一つ賢くなったかなと思っている。

★これには付録がついていた。
 先日来、スマホで撮った写真をパソコンに取り込めなくなっていたので、
 アメリカにいる孫に電話していろいろやって貰ったのだが、治らないのである。
 孫は正月前には日本にやってくるので、それまでの辛抱だと思っていたのである。

 パソコンのお気に入りには『スマホの写真や動画』という項目があって、
 そこをクリックするとスマホで撮った写真が並ぶので、
 それを使ってブログにアップしていたのだが、
 それが10月中旬以降に撮った写真が出てこないのである。

 昨日までは出てこなかったのだが、
 今日は突然現れたので、これは治ったのかな?
 と庭のいろんな実の写真を撮ってきたら、
 ちゃんとこのように並ぶのである。

  

 
 スマホの『ボタンの長押しで』これも治ってしまったのだろうか?
 スマホの写真がネットに取り入れることが出来るようになったので、
 その写真を並べてみる。
 これはザクロ

 
 

 これは万両




 これは千両





 そして『みかん』である。





 ほんとに何も解っていないのだが、
 『オマケ』がついた今朝のスマホの1件なのである。

 でも兎に角よかった。
 また、スマホで写した写真をブログで使うことが出来る。
 普通の方なら普通の話なのだろうが、
 私にとっては『特別な出来事』だったのである。
 『スマホのボタンの長押し』一つ賢くなった。
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大學の野球部のOB会に行ってきた

2023-11-20 03:50:43 | 発想$感想

大学の野球部のOB会に行ってきた。
 世の中にOB会なるものはいろいろあると思うが、
 この兵庫県立大学(旧神戸商大)のOB会は秀逸だと言っていい。
 こんなスケジュールで進行する。




 

 朝10時半にOBと現役の野球試合に始まって、
 硬球の本格的な試合には流石に出場は出来ないが、
 お楽しみイベントのベース一周タイムトライには
 90歳ながら参加してベース1周30秒で走り切った。
 110メートルはあると思うが、走りきれたので大満足である。

  


 高齢者のOBも参加できるソフトボール大会があるので
 これには1番セカンドで出場した。


  



 セカンドごろも1本だが飛んできたが、アウトに出来てよかった。
 被っている帽子はアメリカのエンゼルス球場で購入したものである。
 
 



★ 3時半からは所謂、OB総会である。
 これは型通りのOB会でOB会会長挨拶に始まって型通りの会計報告などが行われ、
 その後は懇親会がスタートするのだが、
 最高年齢のOBとして乾杯の音頭と

   


 ご挨拶をさせて頂いた。





 このOB会の花形は遠方や高齢で出席できないOBたちから寄せられた品々の
 チャリテイーオークションである。
 ホテルの宿泊券や酒などいろいろあってそれを競り落とすのだが、
 その金額合計が25万円にもなって、
 これは現役諸君の部費の足しに寄付されるのである。

 当日出席したOBだけでなく、こんな形での現役応援が出来る仕組みが秀逸である。

  


 そんなことで昨日はほぼ1日運動と総会で終わったのだが、
 OB諸君から私は結構目標にされていて、
 そう言う意味でも今後も参加できるように頑張りたいと思うのである。


★大学のキャンパスは、かっては垂水の海の近くから商大坂を登ったところにあったのだが、
 いつ頃だったか、大規模開発された『学園都市』に移動して、
 いまはいろんな大学が存在する文字どり学園都市の中にある。

  


 結構な距離、北に移動したので、
 三木市からは近くなって、車で家から20分の距離なので、
 参加しやすくなったのである。
 来年も参加できればいいなと思っている。
 
 
  





  
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コロナ   雑感

2023-11-19 07:48:29 | 発想$感想

7回目のコロナの予防注射をしてきた。
 コロナが言われてもう久しいが、7回もやったかなと思うが、
 間違いなく7回目のようである。

 予防注射を打っても副作用などはないと思うのだが、
 接取後は15分ほど、接種した場所で待機させられる。

 接種後の注意点もあるようだが、体調が良好なら何をしても大丈夫だとか、
 車の運転も、風呂も、飲酒も問題ないということらしい。

 ただ、このようなこともあって、接取の翌日が要注意だとか。
 「コロナワクチンの副反応である発熱や倦怠感などは、接種した翌日に発生することがあります。
可能ならば接種日の翌日は仕事を休んだほうがよいかもしれません。」

 ただ、今日は大学の野球部のOB会があるので、それに出席することになている。
 若し、体調がいいようならOB対現役のソフトボール試合にもピンチヒッターぐらいなら大丈夫だと思うので、
 久しぶりに野球の真似事をやってみたいなと思っているので、
 前日は風呂もやめて大人しくしている。


★そんなコロナだが、今どんな状況か調べてみたら
    兵庫県は400人弱で 

  
 

 全国平均よりは下回っているようだ。




  
 お陰様でコロナには関係なく3年間が過ぎたのだが、
 果たしていつまで続くのだろう?
 もう、インフルエンザと同じレベルなのではと思ったりするのだが・・・

 兎に角、罹らないように注意して過ごしたいとは思っている。

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カワサキ単車の昔話   28    富士山登頂成功

2023-11-18 01:07:25 | カワサキ単車の昔話

★ この話は一度アップしたこともあるのだが、
 改めてもう一度まとめ治してみることにする。
 このプロジェクトは昭和40年(1965年)7月のことだが
 カワサキの品証部にいた福田泰秀君が当時広告宣伝を担当していた私のところにやって来て、
 「8月の休みに85J1で富士山に登ろうと思うのだが、その費用を持ってくれませんかという話から始まったのである。

 カワサキの二輪事業は昭和36年12月に初めて単車営業課が出来て、
 私はそこに異動したのだが、それ以前に営業課はなかったが、
メーカーとして技術を担当するサービス係が3人いてその一人が福田康秀君だったから、
 彼は本当にカワサキの単車のスタート時代から関わっていたのである。
 そんなこともあって福田君は単車営業に異動した私の下についたので昔馴染みで頼みやすかったのだと思う。

 別に会社の起案ではないし品証の連中のプライベートでの企画なのだが、
 「富士山の山頂での写真」を撮ってきたら費用の面倒をみようということでスタートした話なのである。

 いまの時代ならバイクで富士山に登るなど、許可されないだろうし、
 そんな写真を広告宣伝に使うことなど考えられないと思うのだが、
 その時代はこんな無茶な計画も世間は許してくれる時代だったのである。


★ 結果は大成功で当時のバイク雑誌にも掲載されたし
 広告宣伝課の広報としても「雑誌広告」に使ったりしたのである。
 



 そして「85J1の抜群の登坂力」などと正規の広告に使用したりしたのである。

  


  
 富士山頂でのこんな写真もあるし


 


 当時の品証の懐かしいメンバー達である。




 2台の85J1をレース職場で整備し
 モトクロスタイヤを装着したりしたのだが、
 登頂はなかなか大変だったようで、
 ロープで引っ張り上げることもあったとか。

 戻ってきた85J1のタイヤのヤマは殆どすり減っていたのである。






★ それにしても、よく登ろうと思ったと思うし、
 広告に使っても会社から文句を言われるようなことは全くなかったのである。
 この企画を私も上司には相談などしていない。
 そんな自由な雰囲気があった時代のことなのである。
 昭和40年8月3日のことだから、
 いまから58年も前の話なのである。

 お互い若かったなと思う。
 これは2013年だから10年前のことだが、
 ある催しで『バイクで富士登山』を語る福田康秀くんである。

 


  
 久しく会っていないが、元気にしているのだろうか?

  
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私の日記から  昭和38年(1963)

2023-11-17 06:17:29 | 自分史
★前年末の12月21日に結婚式を挙げたので、
 この年の新年は文字通り新婚生活がスタートしている。
 人生で初めて居を構えたのだが、所謂小さなアパートで始まった。

  
  


 当時はこの辺りはこんなに沢山、家など建ってなくて、
 上ノ丸の実家も大きな土地の中に
 戦後建てた本家我が家の2軒だけだったのだが、
 ちょっと離れたところのアパートを借りての新婚生活だった。


 この年の3月に満31歳になるのだが、
 その3月の給料が25900円とある。
 別に共働きでもなかったので、よくこんな給料でやってたなと思うのだが、
 会社では結構出張が多くて出張旅費などが浮くものだから、
 そんなことでやりくりしていたのだと思う。

 因みに私は子どもの頃から今まで小遣いなるものを貰ったことがない。
 子供の頃は父が『子供は金など持つな』と言って小遣いなどなかったし、
 大学時代は引揚者で片親だけということで最高の奨学金を頂いて、
 授業料免除でもあったので、給料を貰って大学に行ってたようなものだった。

★会社は新しい事業の単車の2年目なのだが、
 最初の車の125B7が散々な状況だったので、この年から125B8が新しく発売されたのである。
 2月にそのポスターのための撮影などもやってるが、
 これは今住んでいる三木でロケをやっている。
 モデルも専門のモデルなどではなくて、会社の女子社員を使っている。


  


 このB8が何となく好評で、特に何をしたというのでもないのだが、
 好調に売れたし、
 6月には青野ヶ原モトクロス1位から6位までを独占したりするのである。

  

 
  ただ、このレース1位から6位まで独占しているのだが、
  特にカワサキが速かった訳でもなくて、
  当日雨で水溜りがいっぱいで高性能のレーサーはみんな止まってしまって
  実用車に近いカワサキだけが止まらずに走り切ったのだと思う。
  1位から6位まで独占など、このレースだけだし、
  不思議なことに優勝者が誰なのか解っていないし、
  どこにも優勝者の記録がないのである。
  因みにこのレースがカワサキのはじめてのレースだった。
  まさに神様が勝たしてくれたレースだったと思うのである。

  
 このレースには直接関わってはいないのだが、
 レース自体が製造部の有志たちで自発的にやったもので、
 別に会社は予算を取ったりはしていないので、残業料も出ないし、
 営業の上司が『パン代ぐらい出してやれ』と仰るので
 営業の交際費から幾らかの金を渡したぐらいのことなのである。

★ この時期は初代のB7が全然ダメだったので、
 当時の川崎航空機の本社が日本能率協会に『この事業続けるべきか否か』の
 調査を依頼していた最中だったのだが、
 青野が原の勝利で社内の意気は上がっていたこともあって、
 『この事業続けるべし』という結論が出るのである。
 そう言う意味では昭和38年はカワサキにとって記念すべき年だと言っていい。

 前年末に結婚して、この年の3月には家内に子供が出来たということが解るのだが、
 9月28日に長男古谷大治が産まれている。
 子供の名前を付けるのも初めてのことだったが、
 何事も大きく治めることが出来るようにと願って大治と名付けたのだが、
 私一人の独断で決めたし、そう言う意味では家内は意外に昔気質というか
 私のやることに文句など言ったことがない。
 そう言う意味では、私は自由にいろんなことをやれたのでよかったなと思っている。

★ この年の11月にカワサキ自動車販売川崎航空機吸収案が出ているが、
 これも多分「日本能率協会の一連の調査の結」だったのだと思う。
 そんなこんなで、この年はカワサキにとっても我が家にとっても
 『新しいスタートの年』になった年だった。

 日記の中に色々出てくるのだが、
 この年は明石海岸での海釣りに凝っていて、
 まさに昔流の竿などないただ放り込むやり方だが、
 カレイなどよく釣れて40匹あまりも釣っている。
 いまと違って、魚がいっぱいいたのだと思う。


  
  
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昨今の毎日

2023-11-16 05:41:10 | 発想$感想

★このところ年末で忘年会など会合もあったりもするのだが、
 それ以外の日は家内以外とは話もしないような静かな毎日が続いている。
 こんな毎日がこれからもずっと続くに違いない。
 
 そんな毎日なのだが、結構忙しく過ごしているのは私の性格から来ていると思っている。
 勝手に自分で『忙しさ』を創っているようなところがある。

★最近は早く寝てしまうので、朝は早く目が覚める。
 大体5時半には起きていて、つい先日までは直ぐ公園に走りに行ってたのだが、
 だんだんと陽が昇るのが遅くなったので、
 昨日あたりは、6時過ぎまでパソコンをいらったりしてたので、
 公園に走りに行くのも7時の開門ぐらいになって、車を中の駐車場に止めるようになっている。

 これがFitbitの記録だが、雨以外は運動もしているし、
 消費カロリーも高齢者としては多いのだが、
 一向に体重は減らないし、むしろ肥え気味なのである。




体重は85キロになって、
腹回りが肥えてしまって、ズボンがみんなボタンが止まらなくなってしまったので、
ユニクロにズボンをいに行ったのだが、


 

 
 測って貰ったら110cmもあって、
 店には置いてなかったので、取り寄せになったりしたのである。


★運動以外は昼寝もするし、
 パソコンの前に座っている時間も結構長い。
 毎日アップしている『雑感日記』が毎日の仕事の一つになっているのだが、
 毎日書き続けるのは、題材に苦労するので、
 最近は昔話をいっぱい書くようにしている。

 昔話もアタマの中では正確でないので、
 旧い日記を開いて記録を読み返して整理などしているのだが、
 これは結構時間もかかり、ある意味『会社で仕事してる』ような感じになったりする。

  
  
 
 最近のGoogle検索は情報発信さえしていれば、
 私のような個人の発信もちゃんと記録してくれていて、TOPに現れる
 『日記帳 雑感日記』と検索するとこんな私の日記帳の写真がいっぱい並ぶのである。

 
  

 こんなにいっぱい並ぶということは、
 それだけ日記について書いて情報発信しているということなのである。

 『〇〇〇〇〇 雑感日記』と検索すると殆ど何でも出てくるので、
 写真やその他、自分で整理しなくてもGoogleがやってくれるので重宝しているのである。

 そんなこともあるので、毎日欠かさず『雑感日記』を続けているのである。

 まあ昨今の毎日はそんなことなのだが、
 毎日発信するのは、なかなか大変になってきた平凡な日常が続いている。



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