雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

肺結核で1年間の入院   自分史

2024-09-22 05:59:34 | 自分史

★ 学生時代から肺浸潤になり入社当時も空洞があったりしたのだが、
 全然休むこともなく野球などもやめなかった。
 入社してからも3年間休まずに勤めていたのだが、
 昭和35年(1960)に診療所の先生が代わって、当時も空洞があったので「野球は止めるように」と言われていた。
 夏頃だったと思うが、ユニホーム姿を先生に見つかってしまい。
 その直後の血液検査で「菌が出てる」ので「入院しなさい」と仰るのである。

 菌が出てたのでは仕方がないなと、この年の10月25日から
 当時三田・大原にあった川重の「大原療養所」に入院したのである。
 いまは無くなってしまったが、この辺りは国立の病院もあり、一大結核療養病院だった。
 当時はそれくらい「結核になる方」は多かったのである。

 入院してから療養所でも「菌の検査」は有ったのだが、
 菌など出ていなかったのである。
 「菌が出ています」は私を入院させる方便だったようだが、
 今になって思うと「天の声」だったような気がする。

 


★ この約1年の入院は私の人生で大きな転機になった。
 1年で空洞も消えてしまったのである。
 当時家内と付き合っていた最中だったが、
 家内はよく見舞に三田まで来てくれたし、
 週に1度ほどの頻度で手紙もくれたのである。

 ここに入院するまではそんな病気のこともあって、
 家内とは付き合ってはいたのだが、「結婚する」と言う決断は下しきれなかったのである。
 1年間の療養生活で完全に全治したこともあり、
 退院後1年で結婚することになるのである。

 この写真が手紙の中に入っていた。
 当時はカメラは持っていなかったので、3年も付き合ったのだが、
 当時の写真は手紙の中にあったこの2枚の写真だけである。

 


★ そして退院してから配属されたのが、
 新しくスタートした単車事業の単車営業課なのである。
 これが私の「二輪との出会い」になったし、
 退職する1998年までの約40年間一貫して「二輪事業」を担当したのである。
いまもFacebookなどで、二輪の愛好者とは親しく関係もあるので、
二輪車」は持っていないし乗りもしないのだが、
「二輪車」私の一生のトモダとなったのである。

 そう言う意味でも私の人生にとって、
 この1年間の療養生活は、その後の人生の核となった1年間なのでる。
 こんな日記を書きだしたきっかけの一つも「長くは生きられない」と思っていたからなのに、
 以来、結構元気に生き続けて今91歳なのある。

 「菌が出ています」が私の人生を決定づけた一言だったと思っている。


  
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新入社員時代の想い出

2024-09-20 05:53:30 | 自分史

★ 川崎航空機に入社したのは昭和32年(1957)だが、会社は戦後の中断の後再開したばかりの頃で、バイクもエンジンだけで完成車はまだ造っていなかった時代である。
いま、その頃の日記を読み返している。
私は業務部財産課に配属されたのだが、財産物件の償却計算と言う業務が毎期行われていた。

 こんなタイガー計算機を使って、財産物件の償却計算をするのだが、件数が多いので大変なのである。
 

 

  
  
  
2年間はそんな計算業務をやっていたのだが、昭和34年(1959)9月に当時の会計機などを使っての事務機械化に取り組んだのだが、
どうももう一つで画期的なことにはならないのである。
 
 


  
 
 
★当時JETエンジン部門のアメリカ空軍が持っていたIBMが使えないかとその研究を始めたのが、翌月の10月のことである。
 当時日本にはIBMなどはなかった時代なのだが、アメリカ空軍のJetエンジンのオーバーホールをやっていてアメリカ空軍が常駐していたので、明石工場にはIBM室があったのである。

 日本のIBMの歴史を調べてみるとこんな図表が出てきた。
 日本に初のIBMの設置が1958年とあり
 私がIBMと出会たのはその翌年のことだから、日本の一般社会にはIBMなど存在しなかった時代のことなのである。
 日本初のオンラインシステムは1965年三井銀行とあるから、
 この話はその5年も前のことなのである。
 そういう意味では「日本初」と言えるのだろう。

 ずっと後のことだが、IBMの研修に出席して「1960年にIBMでの減価償却計算をやった」と言ったら。
 「10年間違っていませんか?日本でIBMがスタートしたのはオリンピック以降です」と言われたのを想い出す。


 
  


 これは単なる計算機などとは違ってIBMの大型器械を使っての計算なので、
 その効果は抜群なのだが、IBMに載せるためには物件名の統一に始まって、そのコード化など非常にムツカシイ作業が要るのだが、
 それをやろうということで取り組み始めたのである。
 やる限りは明石工場だけでなく、本社も岐阜工場も巻き込んでの「全社統一方式」にしようと、新人社員ながら本社と岐阜工場を巻き込んでの「一大プロジェクト」にしたのである。
 ホントによくやったなと思う。
 翌年3月22日岐阜工場に出張してるのだが、岐阜の係長さんが、古谷さん、よく研究してるなと」2度も仰ったと日記に書いている。

 このIBM化は川崎航空機の民需部門では初めてのことだったし今思うとよくやったなと思う。そのシステムの完成までにはちょうど1年掛るのだが、見事完成することが出来たのである。


★ これが財産物件のIBM用カードで、償却計算に必要な項目が網羅されている。
 ちょっと詳細に触れると1枚のカードの桁数約100桁の中に必要項目を網羅しなければならないので、その「コード化」は大変な仕事なのである。

 



 そしてこれがIBM室への連絡票である。




 こんなカードが日記に挟まれていたので、こんな話をアップする気になったのである。
 
★ この結果、業務部財産課はどうなったか?
 いままで償却計算のためにいたと言ってもいい女子社員を含め10名ほどの課員だったのだが、償却計算の時間が無くなって人員が余ってしまい、半減することになったのである。
 その減員の中の一人が私自身で、私は新しく出来た単車営業課に
 昭和36年12月に異動し、新しく始まった二輪事業の担当になったのである。

 この「償却計算のIBM化」は当時の社内でも結構な話題になり、
 その後の「給与計算」「会計処理」などのIBM化が進むのだが、新人ながらその教師役を務めたりしたのである。
財産課も人員が半減したが、給与計算などは大勢いた女子社員がいなくなってしまったのである。

いま改めて思うと、新人ながらこれは結構な大仕事だったなと思うのである。


  
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ダンスパーティーの想い出

2024-09-04 06:40:27 | 自分史

★ 昭和31年(1957)1月19日(土曜日)神戸商大硬式野球部主催のダンスパーティーを開催した。
 主催者は野球部だが、その起案を含めすべてその中心は自身であった。
 大学の3・4回生ではキャプテンを務め、卒業を1年延ばして監督を引き受けるなど野球に入れ込んでいたのはいいのだが、
 運動具店などへの借金15万円ほどになっていたのである。
 大学出の初任給が1万円の時代だから、今の時代のカネに直すと200~300万円ぐらいのカネだから相当な借金だったのである。

 当時の野球部の風習では、借金はそのまま次の世代が引き継いでいくことにはなっていたのだが、
 ちょっと額も膨らんだので、この借金を何とかするために開催したダンスパーティーなのである。

 当時は学生主催のダンスパーティーは数多く開催されてはいたが、
 その規模は大体200人前後のものだった。

 そんな規模では野球部の借金の返済などには役に立たないし、
 パーティーは手段でその目的は「借金返済」なのだから、
 私の起案その10倍、2000人を集めるという大規模なものだったのである。

 それが実現できるように選んだ会場は、
 新装なったばかりの神戸国際会館の5階の大ホーを借り切って、
 兎に角、部員全員で2000枚を売り切るという構想で行ったものである。

★ いまから70年近くも前の話だが、現存する神戸国際会館が新装開場したばかりで、
 その会場での実施が人気を集めて超満員になったので、
 当日券は途中で販売を中止するという大成功のダンスパーテイーで、
 まさに満員御礼だったのである。


 
 
 
 私自身は会社に入社してからもいろんなイベントは手掛けたのだが、
 この国際会館での2000人を集めたダンスパーティーが、
 人生で初めてのイベントだったが、私の最大のイベントだったかも知れない。

 
★ 当時の日記を読み返していたら、1月にこのパーテーをやっていて
 懐かしい入場券やその収支報告などが挟まれていた。
 入場券のデザインもデザイナーに頼んだので、結構カッコよく出来ている。
 
 
 


  その裏面である。
  後援をしてくれたのは借金をしていた運動具店である。


  
 


 その収支が出てきた。
 収入が20万円、支出が10万円だから、10万円の収益である。
 これは「目指した額」だから大成功だったと言える。

 収入の殆どはパーティー券の収入だが、
 支出の最大は税金32,700円で、会場費が27,200円なのである
 ちゃんと税金も払っての事業だったのである。

  
  



 そして、これが支払い先なのだが、
 運動具店のほかにもいろいろと借金をしてたようである。



 



 このダンスパーティのお陰で気分よく卒業することが出来た。
 それにしても、部員一同よく頑張ったものである。


★ ホントに超満員で、当日売りを途中で中止したりしたので、
  当時三宮にあったダンスホール新世紀に流れて、
  新世紀も満員になったそうで、何故そんなことになったのか不思議に思ったそうである。

  このダンスパーティーの成功は、
  何と言っても開催場所を開場したばかりの神戸国際会館の大ホールにしたことが人気を呼んだようである。
  当初はあの大ホールが埋まるかなと思ったりもしたのである。
  一口に2000人と言うが、それはホントに大人数だったのである。

  当日の大盛況で神戸国際会館の方たちもビックリされたようである。
  私の青春のいい想い出なのである。
  

  
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大學、4・5回生の2年間  自分史

2024-08-26 06:04:09 | 自分史

★昭和30年(1955)年は4回生で
 成績は兎も角単位は取れていたので、卒論さえ出せば卒業は出来たのだが、卒業を1年延ばすことにしたのである。
この2年間の日記を改めて読み返してみたが、いろんなことがあった2年間なのである。


 



★ 4回生の昭和30年5月に何かと世話になっていた伯父が亡くなった。
 その葬儀に来られた川崎航空機の社長の砂野仁さんが、就職難の時代だったのだが「よかったらうちにいらっしゃい」とは言って頂いていた。
 春先は肺浸潤の経過もよく、野球部のキャプテンもやってたので、
 プレーもやっていたのだが、それがちょっと無理だったのか、
 9月には空洞が出来てると宣告されたりしたのである。

 秋には就職試験も始まったのだが、
 いろいろ考えた末に1年卒業を延ばすことにしたのである。
 この1年延ばしたことがその後の私の人生を決めたと言っていいのかも知れない。

 10月4日に砂野仁さんを訪ねて卒業を1年延ばすことを伝えている。
 砂野仁さんは、かって戦時中に伯父が片手間にやっていた明石の錦江ホテルが軍の指示で川崎航空機に接収された当時の総務部長で、
 伯父のほうが年上なのだが、その後至って親交があったのである。
  
 


 「片手間で」と書いたが、伯父の本職は、当時の日本は一番大きかった
 「南鮮合同電気」のオーナ副社長だったのである。

  
  

 私が神戸一中に入学したのも、実は砂野仁さんの薦めだったので、
 そんな子供のころから、伯父宅によく来られてた砂野さんを「おっちゃん・おっちゃん」と呼ばせて頂いたりしたのである

★ そんなことで大学は1年卒業を延ばしたのだが、
 翌年4月には野球部長から正式に野球部の監督を依頼されて、引き受けている。
 単位は取れていたので、5回生当時は野球部の監督をして過ごしたという大学生活だったのである。
 この年の4月に野球部に小山修身君と言う優秀なピッチャーが入って、6月には明石高の先輩だったプロの井筒さんに小山のコーチをお願いし、手首の使い方の指導を受けたりしたのである。

 その結果がよかったのか、秋のリーグ戦には、
 小山修身投手は、対市大2-0、対工大1-0,対工大0-0、対経大4-0、対経大4-0と1点も許さず53イニング連続無失点と言う、当時の学生野球記録を成し遂げたのでらる。
 監督をしていた私は30イニングを過ぎるころからそれを意識していて、本人も野球部の人達も気が付いていなかったのだと思うが、
私はそれを意識しての采配をしていたのである。
それが学生野球記録であることは私も実は知らなかったのだが、
ホントに大記録でその結果、秋のリーグは近大に次いでの2位に終わったのである。

そんなことで私自身は中学2年生から野球を始めたのだが、それ以降は、学生生活=野球部生活のような学生時代を過ごしたのである。
前述したように中学校は旧制神戸一中に入学したのだが、ここは秀才ぞろいであったが、2年生まではホントによく勉強をして、学年で「10番以内」にいたことがその後の私の自信に繋がっている。
 たまたまだが、3年生のときには男女共学となり、高校入学時は学区制で明石高に転入したこともあって、英語、数学などは勉強をする必要が無かったのである。
神戸一中の2年生の授業のレベルは、それくらい高かったと言えるのである。
そなこともあったし、何事もやりだすと熱中する性格で、その後の学生生活は野球にハマっていたと言ってもいい。

★ 最後は野球部監督と言う1年を過ごすのだが、入社試験を受ける昭和31年は不景気の就職難から一転して、
1956年(昭和31年)は神武天皇が即位して以来、例を見ない好景気という意味で「神武景気」と名付けられのである。
そんなこともあって川崎航空機も大量の採用人員となり、学校の成績は悪かったが、問題なく私も入社できたのである。
因みに、会社の同期会の名称は「神武会」なのである。

 若し、4回生で卒業していたら、川崎航空機に入社できたかどうかは解らない。この年までは非常に厳しい就職難の時代だったのである。
 何となく1年卒業を延ばしたことが、私の人生で多分よかったのだと思っている。
 人の人生は実力もあるが、運もある。
 そう言う意味では私はその後も「運のいい人生」を送ることが出来たと思っている。


  

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昭和29年(1954)大学3回生の年   自分史

2024-08-20 06:28:43 | 自分史

★ 前年度の昭和28年の秋、10月20日から突然日記を書きだしたことは
 前回の自分史で書いた通りである。
 前年度は大学ノートに書いているのだが、この年には日記帳に記している。

 前年度の秋に突然「肺浸潤」の宣告を受けたのが日記を書きだした一つの理由であったのだが、
 「絶対安静」などと医者には言われたのだが、寝てたのは前年秋の10日間だけで、
 その後は寝たりはしていないが、何となく気を付けた生活になっている。

 この年の1月には兵庫県の高校のOB戦があって、明石高校のメンバー表の中には私の名前も載っていて、優勝候補の筆頭と書かれているのだが、
 その通り1月13日にめでたく優勝を飾っている。


 
 

 当時の社会人野球の花形スターが名を連ねていて、
 朝日スポーツ賞に輝いた山本治さんや当時の社会人野球の日本代表の4番を打っていた大津淳さんや同期の完全試合投手溝端圭一郎ほかホントにそのまま社会人野球に出ても大丈夫だというようなメンバーだったのである。
流石にこの時期は私も野球を止めてたので名前は出ているがプレーはしていない。

 こんな野球で始まった1年で、前半期は学校には行っているが
 野球の練習などもやめていた。
 日記にも結構病気を気にした記述も多いのだが、
 8月に名古屋の中日球場で第1回の全国商大大会が開催されて、
 この試合には是非参加をとマネージャーに頼まれて、ベンチワークなどをやっている。
 残念ながら優勝戦で敗れたのだが、こんなことから野球を再開して
 翌月の9月の合宿には参加し、来年度のチームのキャプテンに選ばれたりしている。
 当時のチームは4回生は1人しかいなくて3回生の私が実質のキャプテンを務めたりしたのである。

 そんなこともあって、秋のリーグの予想記事には
 遊撃・古谷のカムバックで内野陣も締まりとあったりして、
 近大に次いで「2位を狙う神商大」などと書かれたりしているのである。
 


 


★ そんなこともあって「肺浸潤」は完治したわけではなかったのだが、
 この年の秋からはまた「野球部の生活」が復帰したのである。

 私の大学での生活はこの年の前半だけが、野球からちょっと離れていたのだが、
 その期間を除けば「野球漬け」の大学生活だったと言えるのかも知れない。
 授業にも出てはいるが「勉強をした」と言ういう記憶はないが、
 日記には授業のことも書いてはいるが、全く覚えていないのである。

 そんな大学生活は、翌年の4回生、更には卒業を1年延ばした5回生と続くのである。
  
 
  


  

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8月15日は終戦記念日

2024-08-16 06:07:21 | 自分史

★ 8月15日は「終戦記念日」である。
 1945年(昭和20年)のことだから79年も前の話である。
 私は「中学1年生」、当時の朝鮮京城城東中学校の校庭で、
 直立不動の姿勢で天皇陛下の「玉音放送」聞いた。
 よく聞こえなかったが、戦争に負けたということだけは解った。

 こんな内容だったのである。
 


 当時の「玉音放送」を生で聞いた人も、今では少なくなっただろう。

★ 漢江の近くにあった城東中学校は文字通りソウルの東にあって、
 我が家からは約3km、市電も走っていたのだが、
 その市電は大勢の朝鮮人の人に占拠されて、乗ることは出来なかったので、
 歩いて戻ってきたのを覚えている。



 

 朝鮮は即刻、北と南に38度線が出来て、
 いまの北朝鮮と韓国に分断されたのだが、
 韓国の人が望んだのではなく、アメリカとロシアの判断だから
 考えてみると不幸なことである。





 我が家の向かい側の家のご主人は当時、平常に出張中に終戦になり、
 南に戻ってこれなかったのだが、その後日本には戻られたのだろうか?

 南鮮はアメリカの管轄だったから終戦後も特に問題はなく、
 日本に引き揚げたのだが、家も財産もお金もみんな置いたままだった。
 そんなことになった8月15日なのだが、
 私自身はその年の12月8日に日本に引き揚げてきたのである。

 いまでも毎年「8月15日」には中学校の校庭で聞いた「玉音放送」を想いだす。
 でももし、あの時終戦にならなかったらどうなっていたのか?
 多分、非常にひどいことになっていたような気がする。

 以来、日本は平和である。
 そんなことで「私の人生」も平和な世界で生きることが出来た。


  
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日記を書きだした・昭和28年(1953)     自分史

2024-08-13 06:36:41 | 自分史

★ 昭和28年(1953)10月8日から突然日記を書きだしている。
 その最初の1日、10月8日の日記はこんな書き出しで始まっている。

 「昭和28年も早いもので今日は霜月8日、この1年もこの月と師走を余すのみである。
今日の新聞で蒋介石主席が30年間日記を付けているとかの記事を読んだので、自分も真似事ながら日々のよしなしごとを記してみようかと言う気になったのである。・・・」
 確か、「日記を書くぐらいなら自分にもできる」と思ったのである。

 突然だったのでこんな大學ノートを使っている。
 大学2回生の秋、20歳の時だから、もう70年以上続いていて、
 蒋介石の2倍以上になった。

 
  



 翌日の11月9日に日記とは別にこんなその時の想いを纏めているので、
 そのまま転記してみる。




 
 平安の昔より十六夜・かげろう・紫式部日記と日記も上の部類では文学として1000年の年代を経て現在に残っている。そのような部類のものにしようとは毛頭考えないのであるが、ただ単なる青春の想い出として、後々には自分の脳裏から消え失せてしまうであろうささいな日々の出来事をまた考え、大袈裟にに言えば思想というものをつたない筆ではあるが記していこうと思うのである。
 日記というものを自分で記そうと思いたったのはこれが初めてである。そしてその生まれて初めての日記の書き出しが、肺浸潤という病気に悩まされている日々であることは思っても不幸極まりないことである。
 日記とは読んで字のごとく日々の記である。このようなものは少なくとも後に自分の考えなり行動なりを残そうという意志表示であるとしなければならないだろう。体の健康な時は日記など見向きもしなかった代物である。
 10日間ほど寝たというだけで日記を記そうというような気持ちになるのはどういう意味を持つのだろうか?
 人生五十年という短いとされている期間を更に短縮されるかも知れないという人の弱い気持ちから出てくるのだろうか? いや一日の手持ち無沙汰からかも知れない。まあ兎にも角にも悪いことではなさそうである。世に名の聞こえた人々も多く記していることではあるし・・・
 いつまで続くかが問題である。これから先一生続いたら大したものである。2・3日で止まってしまっても又それもよかろう。
 身分相応に『あきしょう』の自分に最適な大学ノートによってその一頁を始めることにする。
 いついつまでも続くことを祈るや切である。

 昭和28年11月9日 朝  錬太郎 記

  
★ 最初は突然のことだったので大学ノート
 2年目からは一年ごとの日記帳を使っていたのだが、
 それが『3年連用日記』になり、更に『5年連用日記』になって、
 70年も続くと書棚がこんなにいっぱいになっている。
 いまは『5年連用の3年目』だが、できればもう1冊ぐらいはと思っている。

 


★日記を書きだした昭和28年は大学2回生の時で、
 この年の夏の野球部の合宿で『夏風邪』を引いて体調を壊したのだが、
 そのまま合宿も続けて、秋のリーグ戦に入ったのだがその間ずっとおかしかったのである。
 そんなことでリーグ戦が終ってから、医者に行ったら『肺浸潤』の宣告を受けて『絶対安静』を言われて10日間ほど寝ていた時に、
 朝日新聞に蒋介石の日記のことが出て、ふと始めた日記なのである。

 ホントに人生、そんなに長くは生きられないと思った。
 父も伯父も50代で亡くなってしまっていたのである。
 ただ、祖母は102歳、母は104歳まで生きたので、
 結果的には運よく『祖母と母の遺伝子』を受け継いだのかも知れない。

 ただ、私自身の性格は非常に楽観的で、安静をと言われた肺浸潤だったが、結局寝たのは10日間だけで、その後は野球もやめずに続けていたら、
 4回生の時には肺結核になり『空洞』も出来てしまったのである。
 そんなことで4回生の時には単位は取れていたのだが、
 就職難でもあったし1年卒業を延ばしたら、翌年は『神武景気』となって、川崎航空機に入社することになったのである。

 そう言う意味では『いい運』を持っていると自分では思っている。
 そんなことなので、昭和29年(1954)からは、日記帳が残っているので、
 1年毎に日記帳を読み返してみて、その年がどんな年だったのか、
 自分史として私なりにもう一度振り返ってみようかなと思っている。
 いまとなっては、日記があってよかったなと思っている。


 
  
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私の大学時代  

2024-08-08 06:38:22 | 自分史

★ 私が入学した大学は『神戸商科大学』なのだが、
 現在はこの校名も当時の大学の校舎も存在しない。
 校名が合併などで変わることはよくあるのだが、
 その大学の校舎などが消滅してしまっているのは珍しい。
 
 『神戸商科大学』と画像検索するとこんな懐かしい写真が現われた。
  




  現在は『学園都市』と言う学校がいっぱいの新しい街が北の方に出来て、かっての姫路工大と一緒になって兵庫県立大学となっている。



 


★ 私が入学した年は16.5倍と言う倍率だったのだが、
  よく通ったものだと今でもそう思う。
  当時はまだ日本も貧しくて、授業料の安い国公立の大学を目指す人が圧倒的だったのである。
  早稲田・慶応・関学などの私立高は授業料が高いので、
  目指す人は少なくて、そんなにムツカシクはなく極端に言えばだれでも通ったのである。


★そんな神戸商大であったが、
 私自身は殆ど勉強せずに、野球部に入って1回生からレギュラーだったこともあるが、野球漬けの大学生活を送っている。
 近畿6大学リーグで勿論1部だったが、当時は近大がいたので1位は難しかったが、
 常に2位、3位を目指すなど結構強かったのである。

 当時の神戸商大は垂水の駅から坂を上ったところにあって、
 結構きつい坂道を歩いて通ったものである。
 その坂道は今でも『商大筋』と呼ばれている。



  

 授業料もそんなに高くはなかったのだと思うが、
 私は片親で、引揚者家庭と言うことで『授業料免除』で、
 結構な『奨学金』を貰っていたので、給料を貰っての大学生活みたいな感じだった。

 3回生の秋のリーグ戦の時、何となく体調がおかしかったので、
 リーグ戦が終ってから医者に診て貰ったら『肺浸潤』だと仰るのである。
 『野球は止めて静養』と言われていたのだが、
 そのまま野球を続けていたら『肺結核』となり『空洞』まで出来てしまったのである。

 そんなになってもまだ野球は止めずに卒業は1年延ばしたのだが、
 5回生の頃は、野球部の監督をやっていたという『野球漬けの大学生活』だったのである。

★ 3回生の終わりころからは日記を書き始めているので、
 この自分史も日記から拾っていこうと思っている。
 なぜ日記を書き始めたのかと言うことから『私の日記』は始まっているのだが、
 そんなことも含めて以降の自分史は1年毎の日記から拾っていこうと思っている。


  
  









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私の高校時代

2024-07-31 05:27:51 | 自分史

★ 中学校は名門神戸一中に行っていたのだが、
 3年生の時に男女共学になり、高校時には学区制なるものが出来て、
 明石高校に転入した。
 まことかウソかは解らぬが、こんなことを言う人がいる。
 
 『これは神戸一中での天覧授業が原因である。GHQが天皇陛下が何故神戸一中に泊まられたのかを調べたら、あの学校は英才教育を行っているということが解って、それでまず男女共学にし、次いで学区制なるものを行った。』
 と言うのである。
 
 そんなことで当時の神戸高校からは明石高校に3人の生徒が転入したのである。 明石から神戸高校に通っていたのはほかにもいたのだが、それは私立の灘高校に転入したのである。
灘高には当時の神戸高校から学区制で各地の高校に行くのを嫌って、神戸高校から大量の生徒が移転したのである。
 もともといい私学ではあったが『灘が文字通りの進学校』になったのはこの年以降だと言っていい。

★ 明石高校はそれなりの伝統もあるいい学校なのだが、
 神戸高校に比べると授業の内容は1年ぐらい遅れていたこともあって、
 転入してからは、私は殆ど勉強をする必要もなかったのである。
 すぐに伝統のある明石高校野球部に入ったのだが、
 その野球部は結構強くて、3年生には全日本の4番を打った大津信さん、
 慶応当時朝日スポーツ賞に輝いた山本治さん、
 2年生にも日本生命の最強時代の国賀・西村さんなどもいたし、
 同期には『完全試合』をした溝畑圭一郎などもいた当時は兵庫県の名門校で『名門明石』と言われていた。

 


    昭和25年(1950)の夏には甲子園にも出場した。
 当時は明石市で高校は明石高校ひとつだったから、
 後援会も強力で、そんなお陰で野球部は裕福だったので、
 夏の予選の前の練習は校庭ではなく明石公園内の野球場での練習が主だったのである。




 この明石球場は当時はひょっとしたら甲子園球場よりも格上で、
 春は毎年読売巨人軍がキャンプを張っていた球場なのである。
 長嶋茂雄も王貞治も入団当時の春のキャンプは明石球場だった。
 因みに夏の予選は甲子園球場で行われていた。

★ 私の高校時代には父は脊髄カリエスを患ってずっと寝ていたので、
 私は大学には行かずに就職するつもりだったから、殆ど勉強はせずに野球ばかりに熱中していた。
2年生の時まではサマータイムで8時半ぐらいまで明るいので練習が終わるのは9時過ぎだった。
 結構な猛練習だったが、今と違ってバッテングマシンなどはない時代だから、練習の主体は守備が長くてノックで絞られたものである。
 私はショートをしていたが、当時の明石の内野陣は兵庫県でもトップレベルで、殆どと言っていいくらいエラーなどした記憶がないのである。
 当時のピッチャーのレベルもそんなに高くはなかったからだと思うが『三振』などもした記憶は少ないのである。

 いまの時代は大谷でもよく『三振』をするのだが、
 当時は打てないバッターを『三振バッター』と言っていて、
 『三振』は今と違って極端に『ダメ』だったのである。

 そんな野球漬けの高校時代だったのだが
 高校3年生の時の1月2日に父が亡くなってしまったので、
 伯父が『治療費も要らなくなったから大学へ行け』と言うのである。当時はまだ、健康保険などはなくて治療費が大変だったのである。
 そんなことで、にわかに1ヶ月ほど受験勉強して神戸商大に入学したのだが、
 その倍率は実に16,5倍もあって、通ることはまずないと思っていたのだが、不思議なことに入学が出来て進学することになったのである。
 
 
  
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私の中学校時代   自分史

2024-07-22 05:07:17 | 自分史

★ 中学校に入学したのは戦時中のことで、
 当時は朝鮮京城(今のソウル)にいて城東中学校に入学したが、
 その年の夏8月15日に大東亜戦争は終戦になったのである。
 夏休み中だったが、天皇陛下の玉音放送を運動場で、直立不動の姿勢で聞いたのを覚えている。
 よく解らなかったが『戦争に負けた』と言うことだけは解った。
 そしてその年の12月8日に日本に一人1000円と身の回りの物を持って引き揚げてきたのである。

 日本に引き揚げてからは明石の上ノ丸の家は焼失してしまっていて、
 いまは神戸市になっている田舎の伊川谷の疎開していた家に引き揚げてきた。
 そして、翌年4月に神戸一中に入学したのである。
 名門・神戸一中は難しかったのだが、なぜか試験も受けずに入学出来た。
 伯父がいろいろと手をまわしたのだと思う。

★そんなことで入学した神戸一中なのだが、『試験も受けずに入学出来たのだから、ちゃんと勉強するように』と父に言われて神戸一中時代は私の生涯で一番勉強した時期だと思う。
 アタマは悪くはなかったと思うのは、小学校でも卒業時には京城府伊賞(知事賞)を頂いたし、秀才ばかりだという神戸一中でもずっと10番以内にいたのである。
 ただ、私の学生時代に勉強したのはこの中学2年間だけだと言っていい。
 中学3年の時に男女共学になって県一女と一緒になったのである。
 それで特に英語と数学は1年前ぐらいのレベルになって、勉強する必要がなかったと言っていい。
 そして高校入学は学区制で明石高校に転入したのだが、ここでの英語・数学のレベルも既に習ったレベルで、特に勉強する必要がなかったのである。
 
 そんな中学時代だったから、私の学歴は『中学卒』と言ってよく、
 その後学生時代に勉強したという記憶がないのである。
 何をしてたのかと言うと『野球をしてた』と言っていい。
 野球はホントに一生懸命で甲子園にも出たし、大学時代は1年留学して野球部監督などもしているのである。

★ そんな神戸一中時代、2年生の時に天皇陛下の『神戸行幸』があった。
 ホントかと思われると思うが、戦後のことで神戸には陛下がお泊りになるホテルが無くて、
 神戸一中の教室を改造してお泊りになり、我々クラスは選ばれ『天覧授業の栄』に浴したのである。
 世の中で『天覧授業』などあったのはこのとき1回限りではなかろうか?
 授業参観とは後ろからご覧になるものとばかり思っていたら、
 天皇陛下は前から入ってこられて、教壇の横にお立ちになったのである。
 『天皇陛下』と言う言葉を言う時は『気をつけの姿勢』になるという時代に育ったので真正面に近いところで陛下を観て本当に緊張してしまった。

 そんな想い出のある私の中学時代である。
 いまは神戸高校になり色も白くなっているが、建物は昔のままである。


  

  
  神戸一中時代の私である。


  


 私の人生で得た学力と言えばこの神戸一中時代だけで、
 知識はむしろ就職してから、勉強して身に付いたものが殆どで、独学だと言っていい。
 別に勉強が嫌いであった訳ではないので、そんな運命だったのだと思っている。


  

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私の子どもの頃のこと

2024-07-12 06:32:37 | 自分史

★ 私は小学校の頃は、朝鮮京城、今のソウルにいた。
 当時は朝鮮は日本だったので日本人はいっぱいいたし、
 朝鮮の人達も日本語が話せる人が多かったので所謂韓国語は覚える必要もなかった、そんな時代である。

 当時は一言で言えば『ぼんぼんの時代』であったと言っていい。
 沢山あった子供の頃の写真も引き揚げの時に全部残してきてしまったので、
 ほんの少ししかないのだがこんな感じなのである。

 父も特に勤めなどはしていなくて
 旅行をしたり家で絵を描いたりしてた優雅な生活だった。
 どうなっていたのだろう?


 


 桜が丘小学校に入ったのだが、
 大東亜戦争が始まってからは、小学校が国民学校と呼ばれるようになった。
 戦争が始まってからも最初は勝ち戦だったので、
 夏・冬の休みには朝鮮から明石まで毎年帰省していた。
 汽車も関釜連絡船も1等車の旅だった。


 終戦の年が中学1年生なので、朝鮮時代が私の子ども時代だと言えるのだろう。

 


 朝鮮からの引き揚げは一等車から一変して貨物列車でひとり1000円だけを持っての引き揚げだったのである。
 それからは戦後の一変した生活が始まっているのだが、
 両親は大変だったのだろうが、子どもたちはまた新しい生活が始まったぐらいにしか思わなかったのだと思う。
 食い物が少なかったのが困ったぐらいで、結構楽しく過ごしたと思っている。


 子供の頃と、神戸一中に転校した中学1年生の頃の私である。

  


★ そんな私の子ども時代なので、
  私の故郷は『朝鮮京城』のような感じがする。
  
  ずっと後、ソウルオリンピックの時に、その開会式の当日漢江でジェットスキーを走らせてほしいと、
 韓国のオリンピック委員会に正式に頼まれて一度だけ韓国ソウルに行っている。
これがその時の写真だが、開会式当日漢江を走ったジェットスキーである。

 


 その時にかって住んでた家があるのかと訪ねてみたらちょっと門の辺りは変わっていたが、家はそのまま残っていたので、
 写真だけは撮ってきた。

 


    桜が丘小学校もそのまま残っていたので
  その時、写真を撮ってきた。
  当時、内地の小学校はみんな木造だったのだが、
  私の通った国民学校はこんな立派な鉄筋コンクリートで、
  冬の暖房はスチームと言う新しい方式の学校だった。
  京城には三越もあったし、いろんな建物や市電や住居など当時の内地よりはみんな進んでいたと思う。
  韓国は、そんな日本の残した立派な遺産の上でスタートしたのでよかったなと思う。





★ 子供時代のこといろいろあるのだが、
  トモダチたちもみんな日本のあちこちに分散してたが、
  一時小学校の同窓会などもあったりした。

  そんな子供時代もホントに遠い昔の想い出として残っている。


  

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90年生きたということ

2024-03-16 06:44:55 | 自分史

★ 3月に誕生日を迎えて91歳になったのだが、
  よく生きたもので90年間も生きたことになる。
  この90年間は、日本にとって有史以来最も『激動の時代』だったと言って間違いないだろう。

  そんな90年間のうち80年間はよく覚えている。
  昭和25年(1950)に大東亜戦争は終わって終戦を迎えるのだが、
  私はその時中学1年生今のソウル、朝鮮京城にいたのである。

  アメリカとの戦時中も内地と言うか日本は大変だったのだが、
  私が住んでいた外地は全く大変なことはなかったのである。 
  外地と言ってたが、そこは日本だったし朝鮮京城は日本だったから、
  日本語が語られていたし、当時の朝鮮の人たちはみんな『日本語』が話せたのである。

  
 こんな地図をご覧になった方は少ないだろうが、
 私が小学生時代、4年生の頃の「日本の地図」だと言っていい。
 太平洋戦争も当初は『勝ち戦』でこの地図の緑の部分は『日本』だった。
 これは緑で塗られているが、
 小学生の頃、白地図に赤く塗っていったのを想い出す。

 この分では「世界が日本になる」と思ったりした。


 
  

★ それは兎も角、朝鮮も台湾も日本だったし、
  満州国も事実上、日本の統治だったのである。
  そう言えば樺太も半分は日本だったのである。



  
  

  そんな時代が何年続いたのだろう?
  私の祖父は朝鮮に電力事業を起こしたので、
  そんなことから私は生まれてすぐ朝鮮に渡ったようである。
  小さなころは何となくだが、小学校に入る前あたりからはよく覚えている。

  そういう意味では『私の故郷』は京城(今のソウル)なのである。

 
★そんな戦前の時代を経験したのだが、
 昭和25年12月に日本に引き揚げてきてからの
 『戦後の日本の変貌』もこれも又大変なものである。
 こんなに凄まじく変わったというか発展した時代も初めてなのだろう。

 『もはや戦後ではない』と言われたのは、終戦から10年目の頃のことで、     
 GDPが戦前の水準を上回ったのでである。
  1954年ごろには朝鮮戦争を契機に「神武景気」といわれたりした。 


★ 新幹線が東京―新大阪をスタートしたのは1964年だが、


  



 それから60年経って、全国に『新幹線網』が張り巡らされ、
 今日は『敦賀新幹線』がスタートする。


  
  
 


  こんな新しい車両が走ることになるらしい。
  

 



★ 本当に目まぐるしい変化・発展の90年間だった。
 90歳の老人が毎日ネットでこんなブログを発信続けることなど、
 かっては考えられなかったことなのである。
 
 そんな『超高度成長期』を生きて目まぐるしい変化を体験した世代は、
 『昭和一桁世代』だと言っていいのだろう。
 そんな時代を今もなお元気に生きてる幸せを実感している今日この頃なのである。
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私の日記から 昭和58年(1983)~昭和60年(1985)

2024-01-28 05:49:09 | 自分史

★ この3年間は大庭浩本部長時代である。

 昭和58年年7月1日付で、
 再建屋と呼ばれていた大庭浩常務単車事業本部長として乗り込んでこられたのである。
 この3年間、私は大庭さんの番頭役としての職務を果たしたのである。

 大庭さんに対する周囲の評価は『めちゃめちゃ怖い』と言うのが一般的だったのだが、
 確かにそんな面もお持ちではあったが、大庭さんの3年間の単車本部長時代に私は一度も怒られたことはなく、絶大の信頼を得ていたのである。
 
★ 7月1日に来られるなり指示があったのは、
 「単車事業本部の意志決定と報告のシステムを図示説明せよ」というもので、
 それに対しての回答がこの1枚にこのように纏めて、
 
 


単車事業本部(概要説明)をこのような8項目に纏めて、ご説明したのである。




大庭さんとの初めてのこの3時間で『大庭さんの信頼』をまず得られたと思う。
 
★ 確かに事業業績は悪かったのだが、世界に独自の事業展開をしている海外事業を視察されたりしたのだが、
 恐い』と定評のある大庭さんに対しても、ズケズケ自分の意見を言う単車の風土を気に入られた節があって、
9月には『単車は意外に確りしている』との評価を頂いたりするのである。
 当時の単車事業本部はアメリカのKMCが毎年100億円を超える赤字で、そんな対策から川崎重工業本体も無配となる大変な時期だったのだが、
 前年10月からの半年間の対策で、先ず海外販社の赤字は止まり、事業本部の赤字も何とか目途が立つた、そんな時期に大庭本部長は来られたのである。
 そう言う意味では『いいツキ』を持っておられたなと思っている。

★私自身は当との時の山田副社長から『KMCの赤字は止まると思う』との質問に対して『直ぐ止まります』と答えたものだから、
それならお前が企画をや』と国内販社から川企画に連れ戻されたのだが、
それから半年の対策で海外販社の赤字は既に止まっていたのである。
 私は当時まだ新任部長だったのだが、山田副社長とはずっと以前の若いころのレースで関係があったし、もうお一人の大西副社長とは国内販社再建で密接な関係で、お二人の副社長に絶大な信頼があったのである。
 大庭本部長はそんなお二人の副社長推薦で単車に来られることになったのだが、大西副社長からは『大庭君をよろしく頼むな』とのお言葉も頂いたりしていたのである。

★当時の私の直接の上司は高橋鐵郎さんで、一番問題であったアメリカのKMCは田崎雅元さんが社長をしていたのだが、
大庭本部長の番頭役を私が担当し、高橋・古谷・田崎のトリオで大庭体制を支えたと言っていい。 

 当時の写真もいろいろあるのだが、
 これらはみんな田崎さんが私に送ってくれたものである。
 これは山田・高橋・田崎さんだし、


  

  こちらは大庭さんを囲んでの3人である。


   


★この大庭本部長時代の一番大きな出来事はアメリカのKMCの新社屋建設かも知れない。
 KMCはこの時期サンタアナに本社があったのだが、手狭だったので技術関連は別社屋などあちこちに分散していたのである。
 この本社の土地・建物を売却したら、隣町のアーヴァインに広大な土地が買えたので、そこに本社を移し、分散していた技術関連なども統合したのである。
 このプロジェクトはまだKMCに累損も残っていたので、時期尚早と反対論もあったのだが、これが実現したのは当時の大西副社長の推薦があったからで、
この写真が、大西副社長にその候補地をお見せした時の写真なのである。


  
 




★ 大庭浩本部長は3年間事業本部長を務められたのだが、
 再建なって川重専務で本社に戻られ、その後、川重社長を務められたのである。 
 単車での3年間で、単車事業の本質もご理解になり、
 単車事業のある意味真のファンになられたと言ってもいい。
 川崎重工業の中で単車事業がその中枢の事業として認められるようになったのは、
 大庭本部長が川重本社に戻られてからだと言ってもいい。
 
  

    

  
それ以降、当時単車事業本部の企画室長をされていた高橋鐵郎さんは、川重副社長になられたし、
KMC社長だった田崎さんは、川崎重工業社長になられるのである。
私自身のことでいえば、私の川重での最終職位は技監なのである。
技監とは役員待遇であるのだが、技術屋さんの博士号などをお持ちの方などの専門職位だったのだが、私が初めての事務屋の技監なのである。
大庭さん曰く『お前は専門のマーケッテング分野では技監に値する』と言って頂いたのである。
 そう言う意味で、私は大満足の技なのである。  


    

  
 カワサキの単車事業にとって、
 この大庭本部長時代の3年間は、非常に大きな意味を持つ3年間だったと言っていい。

 
  

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私の日記から 昭和57年(1982)

2024-01-21 06:03:35 | 自分史

★昭和57年(1982)は私は49歳、40歳代の最後の年である。
 会社では二輪の国内担当だったが、カワサキの二輪事業は危機的な時期だったと言っていい。
 前回にも述べたが、特にアメリカのKMCが大変で、毎期100億円もの赤字が続いていて、
 川崎重工業本社の財務事業本部もその対策に300億円単位の資金対策などやっていたのだが、
 なかなかその効果が上がらないのである。
 川崎重工業にとっての二輪事業は全く新しい分野でTOPの方たちを含め、その経営経験がないものだから、どうすればいいのか具体策が出てこない、そんな状況が続いていたのである。

 私自身は、二輪事業スタートの時期に東北の販売会社を横からだが観てきたし、
 その後近畿地区での第1線を経験して、当時の川重籍の中では唯一第一線の販社経験者でもあったのである。
 そして、当時担当していた国内販社カワサキオートバイ販売は、唯一黒字経営で、過去にあった10億近い累積赤字も消去して、本社筋からの信頼も厚かったそんな時期だった。

★ この年の7月1日に、単車再建委員長になられた山田副社長から呼び出しがあって、
 アメリカのKMCの赤字経営は止まると思うか?と仰るので、
 『それは直ぐ止まると思います』とお答えしたのだが、
 『それなら、お前が企画戻って旗を振れ』と仰って、
 私はこの年の10月1日付で単車事業部企画部長として、復帰することになるのである。
 その時私が山田副社長にお願いした条件はただ一つ、
 『アメリカに行かれている高橋鐵郎さんを企画室長で戻して欲しい』とお願いをしたのである。
 それは、アメリカをはじめ世界の販社の経営再建の具体策は創れるとは、思うのだが、それを全軍に指揮命令するのは、新米部長としては荷が重すぎて、
 高橋鐵郎さんの力が必要だと思ったのである。
 
 当時、高橋さんはアメリカKMCの会長として、田崎雅元社長の後ろ盾として出向されていたのだが、
 山田さんは『KMCを田崎だけでできるか?』と仰るので、
 「私は田崎さんよりは1年先輩だけですから、
 若し田崎さんがKMCの経営をできないのなら、
 単車事業全体旗振りなどとてもできません』と言って
 強引に高橋鐵郎さんに戻って頂いたのである。

 この人事は川崎重工業のその後の経営に大きく影響したと思うのである。
 これたら約2年の間にアメリカのKMCも立ち直ったし、世界の販社はすべて黒字になって、
 そんな功績から高橋鐵郎さんの取締役も実現して、副社長にもなられたし、
 田崎さんもその後いろいろあったが、川重社長にもなられたのである。


    


 そんなご縁から、高橋鐵郎さんとはそれ以降、
 退職するまでずっとコンビのような形が続いて、
 現役時代一番お世話になった上司なのである。


★この年は長男・古谷大治が関学に入学した年でもある。
 1回生の時からサッカー部のレギュラーで出場したので、
息子のサッカーに入れ込んだ何年間かが始まった1年目になった。
 会社も含めていい年の始まりだった1年だと言っていい。
 
 
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私の日記から 昭和54年(1979)

2024-01-09 07:30:20 | 自分史
★ 私の人生はホントにツイてたなと思うのだが、
  その典型的な年がこの昭和54年(1979)と言えるかも知れない。
  自分の人生など、自分の力だけではなく、周囲の人たちの力で動いていくものなのだが、
  加えて、めぐりあわせ的な運も大きな影響を持っていると思う。
  それを呼び込むのは、日ごろの努力なのかも知れない。
  
 単車事業の中核であったアメリカ事業が『ハーレーダンピング問題』もあって大変な時期だったのである。
 この『ハーレーダンピング問題』が独特で、
 アメリカに於ける二輪業界経費率以上は認めないというものなのである。
 当時、国内4社で地域販社のほかに、販社本社のあったのはカワサキだけで、その構造対策をしなければ、
 カワサキだけがダンピングに引っかかるというようなことになっていたのである。
 川崎航空機工業時代の取締役カワサキオートバイ販売の社長をされていたし、重役陣も大物部長級が揃っていて、
 そう言う意味でもその経費率が高かったのである。

★この対策案が当時の企画部門を中心に検討され、
 この販社本社をなくそうとするのだが、なかなか上手くいかなくて、
 前年の10月に事業本部長から直接営業部にいたその対策案を創れという指示が出たのである。

 その私案は、従来のカワサキオートバイ販売の本社は残すのだが、
 本社の陣容は10人ほどの小規模なものにして、
 実際は単車事業本部の営業部がカワサキオートバイ販売の本社機能を持つことにして、兎に角その『経費率の縮小』を図り、ハーレーダンピング対策としたのである。
 この案で川重本社も通ったのだが、その説明時に、
 『実際は誰が旗を振るのか?』という本社側の質問に対して、
 事業本部長は『それは古谷です』と即座に答えられたのだが、
 本社の大西常務が『それなら古谷をカワ販の常務にするように』と言われて、
カワサキオートバイ販売・常務取締役と言う途方もない肩書になったのである。

 まだ若干46歳だったし、川重での職位は課長だったのだが、
 国内販社グループ約400名の指揮を執るという、とんでもないことになったのである。

★カワサキの国内販売の総帥と言う地位なのだが、
 当然ながら年上の方はいっぱいおられたし、
 カワサキオートバイ販売の前社長ほか重役陣も直接経営にはタッチされなかったが、顧問軍団として残られたので、
 その対応だけでも大変だったのである。

 ただ、本当にツイていて、この年にあのFX400が発売されたのである。
 DOHC4気筒車で、この車がカワサキの初めての量販ヒット商品だと言っていい。

  
 


 それまでにもZ1/Z2などヒット商品はあったのだが、
 その販売台数ではこの車がカワサキにとって初めての国内市場量販ヒット商品となって、
 当時のカワサキオートバイ販売には、10億円に近い累損があったのだが、
 この車のお陰でそれもすべて2年ほどで消去出来てしまったのである。
  
★ この当時、このカワサキオートバイ販売については、
 その新しい形を川重本社が認可したということもあって、
 私は本社の大西常務に毎月報告に行っていたのだが、
 この年末辺りには、販社の損益もどんどん改善されて、累損も減っていくのである。
 従来はかっての川崎航空機の役員さんが社長をしても上手くいかなかった販社なのに、
 若手の私が担当してどんどん良くなるものだから、
 秋には川重専務になられていた大西さんから、
 『1年前からこうなると君は解っていたのか?』などと、
 言われたりするのだが、

 これは私の力などではなくて、すべて400FXのお陰なのである。
 そう言う意味でも、本当にツイてたなと思うのである。
 


 



 川重全体も、カワサキの二輪事業もみんな苦しい時代に、
 ひとり国内市場だけが好調だったので、本当に目だった存在だったのである。
 そんな時期に毎月の本社報告もあったりして、私の名前も本社の人達にも『売れた』そんな時期になったのである。
 これはツキ以外の何物でもないと思っている。

★ この年には息子古谷大治小野高校に進学しているのだが、
 小学生時代から始めたサッカーでいろいろと忙しかった時代で、
 私も仕事の傍ら息子のサッカーもよく観に行っている。
 小学生時代から三木選抜になったし、
 中学時代も兵庫選抜に選ばれたりしたのだが、
 高校生になると兵庫選抜は勿論、関西ユースのメンバーになったり、ベスト・イレブンに選ばれたりするものだから、
 私自身も息子のサッカーに熱が入ってた時代なのである。

 そんなことで、公私ともにホントにツイていた年だったと言えるのだろう。


  

 
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