★ 私がカワサキの新しくできた単車営業部に異動したのは昭和36年12月(1961)なので、二輪事業との関わり合いはその年からなのだが、当時の川﨑航空機という会社がどんな感じだったのか?
私は1957年(昭和32年)に川崎航空機に入社し、1999年(平成11年)に退社するまで、42年間カワサキにお世話になったのだが、正確に二輪事業に携わっていた時期は、1961年12月から1996年8月までの35年間で、最初の5年間は財産課、最後の2年間は、北海道川重建機の経営に関わっていて札幌でサラリーマン生活を終わっている。
昭和32年は、『神武景気』と言われた時期である。その前年までは不景気で、大学を出てもなかなか就職がムツカシイ時代であったのに、一転『神武景気』となって各社とも大量の採用を行ったりしたのである。そんなこともあって、われわれ同期会の称号は『神武会』と名付けられているのである。
川﨑航空機は、岐阜と明石にそれぞれ工場があり、本社は神戸にあったのだが、その本社の一部が明石工場の事務所の中にあったりした。後、カワサキの二輪事業のアメリカ市場の責任者として活躍された浜脇洋二さんは、当時の本社企画部所属だったが、私が入社したころは明石の事務所におられたのである。
戦前、明石工場は飛行機のエンジンを、岐阜はその機体を作っていたのだが、戦後軍事産業だということで会社は閉鎖されていたが昭和27年(1952)に再開したのである。再開された川﨑航空機は、明石ではエンジンやそれに関連する歯車関係を岐阜ではバスボデイなどの生産が行われていたのである。
小型の農業発動機のエンジンが一般のエンジンでは主流だったが、当時も『メイハツ』には二輪エンジンの提供もしていたのだがその部門は小さくて、私たちと同期入社の足立くんが独りで担当していたそんな感じだったのである。
★明石工場でのエンジン関係で特筆されるのは、アメリカ空軍のジェットエンジンの東洋で唯一のオーバーホール工場があって、空軍の関係者がいたり、アメリカ流のカフテリアが事務所の中にあったり、何よりも当時、日本にはまだなかったIBMでいろんな処理がなされていて、IBM室があったりしたのである。当時はまだ『ヘリコプター』関係も明石にいて、明石工場の中でも『JETエンジン部門』だけが別部門だったのである。
ちょっと脱線して、昭和37年以降の話にはなるのだが、新しく二輪事業を本格的にスタートさせる時期に、事務屋は川﨑航空機の本社部門からも明石の勤労からも多くの人材が異動してきたし、技術屋さんは、JET部門から大量に異動してきたのである。
高橋鐵郎・桑畑禎文・田村一郎・田崎雅元さんなどその後二輪事業や川﨑重工業を支えたメンバーはみんなJET 部門からなのである。これらの人たちが主として生産・品質保証部門を担当したので、カワサキの生産管理システムは、JET部門の進んだアメリカ流の発想が自然に最初の時期から採用されていると私は思っているのである。
例えば、部品ナンバーの打ち方なども、カワサキの場合は、車種ごとではなく部品ごとに分類されていてたし、当時は部品課などはあまり重要視されていなかった時代に、初代の部品課長が桑畑禎文、2代目が田崎雅元さんで、日本でも初めてと言っていい『自動管理システムの部品倉庫』が早い時期に造られたりした。
また当時は『サービス課』と称してアフターサービスをやっていた部門を担当した田村一郎さんは、『サービス』から『品質保証』という発想に切り替えて、当時技術部に所属していた二輪のテストライダーたちも、『品質評価』という観点から『品質保証部』に移ってきて、技術部の開発するバイクを客観的な目で評価するシステムが、本当に早い時期から創られて、そのライダーたちが、カワサキの最初に鈴鹿を走った飯原武志や清原明彦・山本信行くんなのである。
私が事務屋なのに、こんなことに係ったり、関心が持てたのは『レース』を通じて技術・生産・品証部門と何となく繋がっていたからで、田村さんが創った膨大な新しい資料も、品証が予算を持っていなかった時代に、十分な予算を持っていた広告宣伝予算から『秘かに』私が支援したりしたのである。そういう意味では私も品証に『貢献』しているのである。
★当時は、川﨑航空機の中でも4輪車の開発が行われていた時期で、私の一期下の稲村暁一さんは、その4輪車のエンジン開発を入社以来やってたようである。
当時の二輪車のエンジンは本田は4サイクルだったのだが、スズキもヤマハもカワサキも2サイクルばかりで、カワサキが4サイクルもやり出したのは、ずっとのちのメグロを吸収してからのW1の時代からなのである。それなのに稲村さんはなぜ『4サイクル専門なのか?』とずっとのちになって稲村さんに聞いたら、『入社当時は4輪のエンジンをやってました』との答えで、それでそのことを知ったのである。
カワサキが本格的に二輪事業をやろうと思いだしたのは昭和34年からだと思う。その当時に『単車準備室』というのが作られて主として生産関係の体制を整えるために、『資材関係』を中心にメンバーが集められて検討に入ったのである。
そして翌年の昭和35年度入社の新入社員は技術屋さんを中心に大量の人員を採用することになるのである。二輪車関係でも百合草・種子島・武本・竹本・大前くんなど名前が書けないくらい大量の人たちが二輪事業に入ってくるのである。
昭和34年までに川﨑航空機に入った人たちもその後多くの人たちが二輪事業に異動してくるのだが、入社以来ずっと一貫して単車というメンバーは、この『昭和35年組』からでこの人たちは入社以来ずっと単車だったという人もいるのである。
★昭和36年までに作られたカワサキのエンジンを使ったバイクは、カワサキではなくて『明発』『川﨑メイハツ』なのである。
このころのことは私もよく解っていない。 当時は近畿メイハツにいた平井稔男さんがこんなブログで当時のことを書いている。
http://toshihirai.exblog.jp/12795146/
抜粋してご紹介する。
1950年後半モーターサイクル産業に進出したカワサキは当初エンジンのみの生産でメイハツ(明発工業㈱)によって自転車に取り付ける物として販売されており、カワサキのブランドのモーターサイクルを持つまでには至っていなかった。・・・・・・
各地に散在していた川崎航空機工業㈱の工場で、そのエンジンは作られていた即ち高槻工場では’50年にKE125、’52年にはKH2504サイクルOHVを?時期を同じく播州歯車工場では2サイクルKB60エンジンを生産していた、このエンジンは大日本機械工業㈱(光号という名の自転車メーカー)で発売されていた。
戦争中、疎開の為に散在していた各工場は’53年から再び明石工場に集結し、
*この写真よく見たら新しいものであるよ左下の国道2号線とJRの交差する正門前に安全運転コースがある
・・・・・・その後、’60年には明発工業㈱&目黒販売会社を吸収合併して「川崎自動車販売㈱」を設立、「KMJ」(カワサキモータージャパン)の祖先である。
こうして完成車の生産と販売が結び付き、改めてモーターサイクル産業に本腰を入れだしたのである、そうして’58年にはセル付きエンジンKB-5AS型を完成、ニューモデル125ccエース(フロントにボトムリンクを採用時代に即したバイクでシートが横開き・タンクはカマボコ型なにかしらマークがメイハツのMマークがスリッパであった)が生まれた。
・・・・・ ’60年8月メイハツとして最後のモデル実用性能抜群の「ニューエース」125cc、・・・
明石工場に総工費40億を投入月産4500台可能の工場が出来上がり東京金町・立石工場が閉鎖され明石工場を主力に生産が始まったのである。
・・・メイハツからカワサキへの転換であったのである・・・t-hirai
★ ここまでが 『メイハツ』でカワサキの一貫生産となって初めて作られた機種が この125B7 と 50ccM5 というモペットなのである。
この125ccB7は大変な機種で、私はこの機種の販売・出荷を担当したのだが、出荷というより、フレーム欠陥による『返却作業』のほうが大変だったのである。
それについては、私の『単車担当1年目』とも 言える次回の『昭和37年度』で詳しく纏めることにする。
★ 入社以来、単車営業部に異動するまでの5年間は、私は財産課で財産物件の管理やその減価償却などを担当していたのだが、最初にやった大きな仕事は『原価償却のIBM化』で完成まで2年ほど掛かったのだが、川崎航空機のなかでジェット部門以外では初めての『IBM化』だったのである。
それが完成して、財産課の償却計算をする人など要らなくなって、当時初めてできた『単車営業に異動』したのだが私にとっては非常に想い出多い5年間だったのである。
財産課の隣の給与にいた家内も見つけたし、肺結核だったがずっと野球をやってたが、それが医者に見つかって、単車営業に移る前の1年間は入院させられていたのである。
1年間の入院で『空洞』も消えたし、単車にも動けたし、運がよかったなと思っている。
次回からは昭和37年(1962)から1年ごとにどんな年であったのか、カワサキの二輪事業と自分史を綴ってみたいと思っている。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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