雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

開発途上国・市場開発プロジェクト その2    自分史

2021-01-31 07:10:07 | 自分史

★ 東南アジアを中心とする開発途上国営業については、
 カワサキも1969年頃から商社を通じての完成車輸出営業は開始していたのである。

 それはCKDに対してCBUと言われていて、
 CBUとはCompletely Built-Upの略で「完成車」を意味しているのだが、
 発展途上国にとっては、先進国からの完成車の輸入は、自国の自動車産業の発展に繋がらないので、完成車の輸入には高い関税を課していた。

先進メーカーは既に現地でのノックダウン工場を持っていたので、
カワサキも『市場開発プロジェクト室』を作って本格的な市場進出を目指すのだが、
私はその中心プロジェクトであった『イ・プロジェクト』を担当することになったのである。



★ そのタイ市場は従来から営業の『小池博信』さんが直接の担当だったのだが、
 後年彼はタイプロジェクトを中心にこんな『自分史の冊子』を纏めている。
タイ・プロジェクトでコンビを組んだ、小池博信君が後年こんな自分史を発行いている。
GTOとは無茶苦茶売れたその頃のヒット商品の名前なのである。
合弁会社の名前がGlory Kawasakiだったので『豪華川崎』と名付けているのである。
 

     

    

そこには私の名前も登場していて、
タイプロジェクト』は私と小池コンビで推進することになるのである。

   

 

★もともと、タイ市場については、華僑の馬(マ・ファミリー)との間で、
 日商岩井・カワサキの3者での合弁事業計画の検討はなされていたのだが、
 3者間の調整がムツカシクてなかなか前に進まなかったのである。

小池君たちが作っていた『事業計画』では経営はなかなかムツカシイのだが、
カワサキ側もこのプロジェクトを推進したいので、
初期には少々金を補填してでも軌道に乗せたいというのである。

馬ファミリーにはその息子さんが二人いて、その息子たちがCKD事業に熱心なのである。
 だが実際の二輪の商売は『チャンさん』という番頭さんが独りでやっているようなものだった。

私は現地に出張して、約1か月間いろんなことを観ていたのだが、
華僑商売』というのはなかなかオモシロいのである。
馬さん』は二輪だけではなくて『金屋』やその他いろんな商売をやっていて、
その商売ごとに『チャンさん』のような番頭さんがいるのである。
なぜ、そんなに沢山の商売が出来るのかなと、
その『やり方』をチャンさんに聞いてみたら、その仕組みは至って簡単なのである。

商売に『必要な金』は毎月『チャンさんが馬さん』から受け取り、
それを使って人を雇ったり、経費に当てたりするのだが、
すべてチャンさんの思うよう』に使えて、決裁などは全くないというのである。
ただ、バイクを売ってそれが『現金化』したら、その金は『馬さんに毎月渡』のだという。
そして毎月『馬さんに渡す金』の方が『馬さんに貰う金』より多いので
商売は儲かっている』と思うというのである。

こんな単純なシステムだから『いい番頭』さんさえいれば幾つもの商売が出来るのである。
 これには私もビックリだった。

 チャンさんに小池くんなどが創った『事業計画』のことを聞くと、
 『あれは私は一切関係していない
 いろいろな質問に答えただけだというのである。
 小池くんたちはこんな商売の仕組みなどはご存じなかったのである。

 
★ 私の仮説は、『儲からない事業』を華僑が工場まで投資してやろうというというはずがない。
 若し、不安があるとすれば『事業をスタート』した後の『カワサキの心変わ』だけだろうと思っていたのである。

 従って、出張中の1か月間、特に具体的には何もしなかったが、
 馬さんの長男のチャンチャイさんや、番頭さんのチャンさんとの信頼関係は築けたと思うし、
 小池君との仲も本当に身近になったのである。


 長い出張の最後の1日
 私は、馬ファーミリーとの会議 を持って
 英語もそんなに上手く話せなかったので、
 黒板に『正直・誠実・勤勉』『信頼・互譲・協力』という
 川崎航空機工業の『社是と執務態度を書いたのである。
 
 これを見て『馬さん』はこのプロジェクトのGOを決意したのだと思う。

   その時のことを小池君は自分史の中でこのように書いてる。
 小池君の書いている文字はちょっと違ってはいるのだが、


 

 
 そして年が明けて、1977年2月
 『馬・日商・川崎』の3者の合意に基づき、
 Glory Kawasaki Motors Co. Ltd  がスタートすることになるのである。

 1976年10月にスタートした『市場開発プロジェクト室』だが
 ちょうど半年で、一つの大きな課題の解決を見たのである。

 『ものごとは半年あれば実現する
 『半年でできないものが10年経ったら出来る保証はない

  これは私の信念なのである。
 この1年の間に、『カワサキの小型車事業は様変わり』したのである。
  

 
 
 


 

  
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高齢者の身体的な変化 について  雑感

2021-01-30 07:20:44 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★昨年の今日、『高齢者の身体的な変化』というブログをアップしている。
 その時書いていることを読み返してみたが、1年経っても同じような感想である。

 
 高齢者の身体的な変化はこのようなものだというが、


 
  

 
 私自身に当てはめてみると、昨年もその殆どが当たらないと書いているが
 1年経ってみて、やはり同じようなことである。


● 身体低下
 身長は168cmだったが、今も同じように168cmなのである。
● 体重減少 
 よく運動はしていて1日の消費カロリーは2000カロリーを越えるのだが、よく食うからか体重は82キロが続いている。
● 頭髪の抜け毛・白髪
頭髪は白髪だが、抜け毛はないように思う。今年から髪を伸ばそうと思って散髪屋にも行っていない。コロナ対策でもあるのだが・・・
● 歯が抜ける
 歯は22本ある。昨年から変わっていない。
● 皮膚のしわ、乾燥、弾力の低下、白斑など
多少はその傾向はあるのかな。
● 筋力の低下
これはないように思う。
● 筋肉量の減少
ジムに行ったからか、筋肉量は増加したようにも思う。
● 栄養障害
よく食うから、それはないと思う。
● 主観的疲労感
これも全くない
● 日常生活活動量の減少

 アクテイブ・タイムとは『歩く』レベルでは幾ら歩いてもゼロで、
 スロージョッギングをやった時間である。
 雨の日など『』の日もあるが、大体1時間を目標にしている。


  

 1時間歩くと約7000歩、6kmぐらいにはなる。


● 身体能力の減弱
身体能力は70歳代からはあまり変化はないだろう。
柔軟性などは20歳台を維持できているので、体力年齢は50歳台が器械の測定値である。


★ あと1ヶ月で88歳になる。
 
  『88歳の目標』をこのように設定した。


   

  
  目標の数字だが、歩数『10000歩』以外は
  大体『達成できる』だろう。

  『1万歩』は意外に達成できてる日が少ないのである。
  

★ざっとこんな感じだが、
 これから1年も多分同じような日課が続くだろうから、
 あまり『年寄りくさく』ならないのではと思っている。

 努力もあるが、強い体に産んでくれた母と、
 『長生きのDNA』をくれた祖母と母に感謝である。

 祖母は102歳まで、母は103歳まで生きたのだが、
 88歳ごろは未だ『しゃんとしてた』と覚えている。

 運がよければ『あと10年』は今のようなレベルが続いたらいいなと思っている。


 
 
 
 
























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開発途上国・市場開発プロジェクト その1    自分史

2021-01-29 06:29:13 | 自分史

★ 1975年10月に10年間の国内市場出向を終わって、
 私は発動機事業本部企画室企画部課長として復帰したのである。

 その当時のカワサキの二輪事業ががどんな状況だったのか?
 あれだけ好調に推移してきたアメリカ市場にも陰りが見え、
 ホンダがロードパルなどを出すなど業界は『小型車ブーム』の時代であった。

 大型車のカワサキなのに、なぜかこの時期だけは、
 『CMCプロジェクト』というプロジェクトがあって、
 『CMC』とはCompact Motor Cycles という文字通りの小型車プロジェクトなのだが、
 5年後の1980年に55万台を生産・販売しようというもので、
 生産部門を中心に検討が進められていて、
 川重の吉田専務が大乗り気で推進が図られていたのである。
 
 76年1月には『発本戦略』の立案を指示されるのだが、
 その中の中心課題が『小型車問題』だったのである。


★その発本戦略は私のグループの担当で、基本的に思っていたのはこんなことだった。

● 既に立案されている『CMCプロジェクト』などダメだと思った。
● 仮にそんな車が造れてもカワサキにはそれを売る販売網などどこにもない。
● ただ、もう進行中のプロジェクトで吉田専務も気に入っておられる計画だから露骨にダメだなどとは言えないのである。
● 『小型車』はそのまま生かして、開発途上国のCKD市場の小型車でスタートしようとしたのである。
● この小型車は同じ小型車でも、100㏄前後のオートバイタイプでCKDだから基本的に明石での生産投資は不要である。
● 中大型車と違って、結構数も読めるはずである。
 
そんな仮説からのスタートだった。


★既に纏められていたCMCプロジェクトの内容は、
 最新鋭の生産設備で、大量に低コストで生産するというもので、
 安くいいものができるから『どんどん売れる』という発想で、
 全く市場のことは抜け落ちた『とんでもない』ものだったのである。


企画室に戻って半年目の3月には、私自身の意見も言えるような環境になったので、
同じ小型車だが開発途上国へのCKDプロジェクトをスタートさせようと、
企画室企画課からの『小型車に対する考察』という一文を起案したのである。

当時はみんな自筆の計画書なのである。
誰の援けも借りずに私独りの発想だが、25ページにも亘る結構な大論文だったのである。

 
冒頭にはこのような記述から始まっている。

 要は
 1.事業本部内に於ける『小型車の基本認識』の統一
 2.今後の小型車検討の『方向づけ

 を明確にすべく、その中に開発途上国へのCKDプロジェクト
 明確に含めることを目論んだのである。


  
 



 これは『搦め手(からめて)』からだが、
 5年後と言わずすぐにでもスタートできるので、まずは『市場調査』をと思ったのである。

 この論文は当時の塚本本部長・青野副本部長・堀川企画室長の評価も高く
 このような市場調査メンバーが決まったのである。


 団長には髙橋鐵郎さん
 副には安藤佶朗さん、このお二人はかってのレース仲間だし、
 山辺さんは私と同期、国内販売からは松田さんに商品企画の川崎さんという
 非常にいい『メンバー構成』となったのである。


  

 
  その調査団は、4月末から約1ヶ月
 台湾-タイーインドネシヤ―イランーマレーシヤーフィリッピン
 の各市場の末端まで視察したのである。


  


★ この年1976年、43歳の時である。
 それまで海外はアメリカ市場の見学に一度だけ出たことはあるのだが、
 『自らの仕事』で海外出張をしたのは、初めての経験であった。

  同じ小型車のバイクを取り扱ってはいるのだが、
 タイ・インドネシア・イランなどそれぞれの国で全く『商売のやり方』が
 異なるのである。

 タイは農村で客が逃げることは考えられないので、バイクは質草みたいなもので長期月賦でその金利収入が目当ての売り方に対して、
 インドネシアは同じ華僑なのだが、ここは全て『現金商売』だし、
 当時は未だ王政時代のイランでは。
 まさにペルシャの商人で、価格というよりは『どんな払い方』なのか、
 その決済条件によって売値が違うのである。

 こんないろいろな世界も見れたし、大いに勉強になったのだが、
 『CKD事業』は間違いなくカワサキにとっ『成算あり』と結論し、
 そのような出張レポートを纏めたのである。


★ 単車業界はその競争は熾烈なのだが、
 当時のCKD市場は各国で生産機種数や、現地出向者の数が制限されていて、
 後発のカワサキにとってみれば、『競争条件』を各国が緩めてくれているようなものなので、
 自国生産の部品もあるので、日本から輸出する部品を決めればいいのである。

 このプロジェクトが3月に起案、5月現地調査、
 そして10月には『市場開発プロジェクト室』がスタートし、
 高橋さんが室長を兼務され、私は企画からその主務として異動することになるのである。

 『古谷は企画といういいポジションに移れたのに、自ら飛び出した
 などと言う人もいたが、
 確かにその通りではあったが、『新しい仕事』はなかなかオモシロいのである。

 
いろんな話があるので、何回かの連載でこのプロジェクトをアップしてみたい。
 
  
 
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SHIN’S JOURNEY / Shinya Kadono

2021-01-28 07:12:26 | 発想$感想

★ 孫の門野真也は不思議な性格である。

  何でも継続すところは『私に似てる』とも言えるのだが、
  そのレベルが突出している。

  昨年の2月からだから、もう1年になろうとしているが、
  弟の『哲也』を題材にした『毎日てっちゃん』は今も毎日続いている。

 
       



  毎日、毎日 よくまあ 題材を思いつくなと感心である。




★ そんな門野真也だが ごく最近動画You Tube に凝っている。

  1ヶ月の間にこんなに沢山の動画を撮っている。
  喋ってるのは英語なので言ってることは全く解らないが、
  動画だから、『見ると解る』ようになっている。

 『SHIN’S JOURNEY / Shinya Kadono』と検索すると
 こんな動画がずらーっと並ぶ。

  サッカーのテクニックの動画ばかりなので、
  サッカーをやってる方は、ご覧になればいい。

 
 これがスタートの『1ヶ月前』なのだが、




 
 

これは極く最近『1日前』とある。
 
 





 

  ひとつだけ『元旦のアメリカの日の出』の動画があるので、
  ご紹介してみよう。




  


  
 こんな3分ほどの初日の出の動画なので、ご覧になってみてください。



★ ここに『この動画をアップしたのは
 『動画の貼り付け方』を孫の門野真也に教えて貰ったので
 その復習なのである。

 まず一番にやることは


 1.こんな動画の中の印をつけた『共有』の左のマークをクリックする。

  




2. そうするとこんな画面が現れる。

  

 

 3.そのコピーをクリックするとそれでコピー出来ている。

 


 
  ただ、それだけのことだが、こんなのは教えて貰わないと
  自分では、絶対に出来ない。
  覚えても直ぐ忘れるので、ブログにアップしているのである。

  果たしてちゃんと身に付くだろうか?


 


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藤浪ワインドアップ 投法復活!

2021-01-27 06:18:46 | スポーツ

★ 昨日こんなスポーツニュースが流れた。

 阪神の藤浪晋太郎がワインドアップで投げるというニュースである。


     
 




 私が野球をやってた当時は1950年ごろだから
 もう70年も前のことなのだが、
 当時のピッチャーは振りかぶって投げるのが普通だった。
 ランナーもいないのにセットポジションから投げるピッチャーなどいなかった。
 
 だから、というわけでもないのだが、
 ピッチャーはワインドアップするほうがかっこいい。 
 金田正一のワインドアップなどは特にサマになっていた。


  
  

   
★  いつ頃からなのか、投手がワインドアップしなくなってしまった。

 微妙なコントロールを売りにするピッチャーは兎も角、

 藤浪のような剛球投手は何はともあれ、ワインドアップ投法に戻って欲しい。

 記事を拾い読みするとこのように書いてある。

阪神の藤浪晋太郎投手がブルペン入りし、ワインドアップの新フォームを披露した。捕手を座らせて72球を投じると、周囲の評価は上々。
春夏連覇を成し遂げた大阪桐蔭時代、そして19年にも試みていた“振りかぶり”を解禁した。先発としてフル回転を期す今季。
逆襲へ向けた決意表明でもあった。「振りかぶって投げれるなら、今年振りかぶって投げようかなと思ってます」
振りかぶる動作は藤浪晋太郎にとっての「原点」と言える。
実戦登板でも継続するかはキャンプ期間中に判断する。


 藤浪は好きな投手である。
 『なぜ?』と言われたら『ピッチャーらしい』からである。

 そんな『ピッチャーらしい藤浪』の投球フォームは、
 『ワインドアップ』であって欲しい。
 そこから160キロ以上の剛速球が繰り出されるのが『プロの世界』だと思う。

 実戦登板でも継続するかは『キャンプ期間中に判断』というが
 是非とも実行に移して欲しい。

 それが『藤浪らしい』と思うし、『ピッチャーらしい』と思うからである。


★今年入団した新人捕手『栄枝捕手』のこんな記事も載っていた。
 藤浪の72球を受けたらしい。

 


 『圧倒された。スピード、球威、キレ、軌道。何もかも、これまで知る世界とは違った。厳しい現実を思い知らされたと言っても、過言ではない。 』

 と記事は続いていた。

 藤浪のワインドアップ投法、実現を楽しみにしたい。


 
 
 
 
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人生で一番頑張った時代、46歳からの10年間 その4 自分史

2021-01-26 06:18:13 | 自分史

★ 前回の最後に『運勢来年2月まで』1987年に記載があるのだが、
    これはなかなか当たっているようにも思うが
 長く生きてきたが、私の人生は概ね『好運に恵まれた』と言っていいだろう。

    運にも恵まれたし、いろんないい方にも出会った。
 前回書いた『大庭浩さん』もその一人だが、
 この時期も含めてずっと関係のあった人と言えば
 『岩崎茂樹くん』かも知れない。

  早く亡くなってしまって残念なのだが、
 私だけではなくて『カワサキの二輪事業』でみんなお世話になったと思う。

 めちゃ博学で、勉強家でバイクについても
 カワサキが二輪車など関係なかった時代に、
 大阪の船場モータースとハーレーで繋がったりしているのである。

 生野高校の野球部の出身でもある。
 当時『オール生野』には明石のOBがいっぱいいて強かったのだが、
 そんなメンバーの指導を受けて、明石のOBである私より明石の野球部のことに詳しかったりした。

 田崎さんと私と岩崎だが、彼と一緒に造った『SPA直入』での写真である。

  

 
 私のレース担当の後を引き受けてくれたのが岩崎である。

 髙橋鐵郎さんが生産部門から国内販社に来られた時の営業の先生役が岩崎である。

 そして田崎雅元さんとのコンビでアメリカ市場を担当したのも岩崎だし、
 私と髙橋さんで市場開発プロジェクトを担当した時、イランの現地で活躍してくれたのも岩崎なのである。


★ いろんな彼とのプロジェクトがあるのだが、
 1987年から直入町に造った『SPA直入プロジェクト』がその最たるものである。
 当時は各メーカーはレーサーレプリカ全盛期で、
 そんなバイクを開発するのだが、それを走らせるところがなくて、
 ユーザーたちは峠に集まって走らせるものだから『峠族』などと呼ばれていたのである。

 そんな時期『一般のユーザーが走れるサーキット』を作ろうと思い立って、
 岩崎茂樹と二人でこのプロジェクトをやりかけたのである。

 大分県直入町にはテストコースを造るべく広大な土地を購入はしていたのだが、膨大な費用の掛かるテストコースはその後の事業本部の経営状況もあってそのままになっていたのである。

 『サーキットの建設』など全くの素人だったが、岩崎は勉強家で直ぐいろんなことが解ったのである。
 テストコースは何故膨大な費用が掛かるのか?
 それは土地を平たくするための土を動かす費用が膨大なのである。
 コースの舗装費用などはそんなに大したことはないのである。

 一般のライダーたちが走る短いコースを地形なりに造られた
 『SPA直入』の開発費用は2億円も掛らなかったのである。

  


 こんなコースに仕上がった。
 周囲の環境が良くて、
 日本で一番美しいサーキットだと思っている。

 

 
 『SPA 直入』の名付け親も岩崎茂樹なのだが、
 『SPA』は勿論直入温泉の『SPA』の意味もあるのだが、
 ベルギーにある世界的に有名なサーキット
  『スパ・フランコルシャン』の『スパ』ともかけているのである。


  そのスケールは異なるが、何となくその環境は似ているのである。
  
 

  88年に『大分SPA直入計画』の記述があるが、
 当時営業本部担当だったが、その業務は課長以下に任して、
 私は殆ど『SPA直入プロジェクト』に掛かりきりだったのである。

 川崎重工業としても、本社財産課も、建設を担当してくれた建設会社も『サーキット』などはじめての経験だったし、
 その設計の『基本コンセプ』は殆どが『岩崎茂樹の発想』なのである。
 
 


  それから30年も経っているのだが
 『SPA直入』は当初のコンセプト通りに
 多くの二輪愛好者たちに可愛がられているようで何よりである。

 『YOUR RACING COURSE』と表現されている。

  


 私が人生で一番頑張った時代、
 その仕上げは『SPA直入』だったのである。



 
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大栄翔 優勝おめでとう !

2021-01-25 07:38:00 | 発想$感想

★ 大相撲初場所は 大栄翔の優勝で幕を閉じた。

 大栄翔 優勝おめでとう!

 大の大相撲ファン、というわけではないのだが、
 コロナですることも少ないし、夕方からの大相撲テレビは重宝している。

 初場所は貴景勝が思わぬ不調で休場してしまったが、
 大栄翔は三大関を連破して、文句なしの優勝だった。


   



 毎日見ていても関取の名前と顔がなかなか覚えられない。
 やはり歳かなと思う。

 そんな中で、毎日同じ席に正座して相撲を見ている『お嬢さん』は
 私も解っていたのだが、今日はそれをネットの中のニュースで見つけた。


  
 

 確かに、背筋をちゃんと伸ばして『正座している』
 私など、5分も正座できないから、見事というほかはない。


 その記事によると、先場所以来皆勤だとか。
 一般のお嬢さんのようである。
 記事では、インタビューなどもやっていた。

   


  こんなに注目されると、大変だなと思う。

  大栄翔のインタビューの時も写っていたこの女性だと思う。

  



  そんな話題もあった初場所だが、 次の場所が待ち遠しい。

        春場所も東京国技館なのかな?
  東京なら、あのお嬢さんにもまた会えるかも?

  横綱は復帰するのだろうか?

  貴景勝は? 大丈夫だろうか?


  いろいろあったが、大栄翔 初優勝おめでとう!


 
 

  
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人生で一番頑張った時代、46歳からの10年間 その3 自分史

2021-01-24 07:18:16 | 自分史

★『人生で一番頑張った時代』の『その3』は大庭浩本部長の3年間である。
 それは1983年7月から始まった。

   
                     


    私の現役生活で『私の意見』を一番聞いて頂いた上司は大庭さんである。
 とそんなことを言うと『ホントか?』と信じられない方がおられるかも知れない。

 単車に来られる前にも幾つもの事業部の経営再建を手掛けられていて,

 『再建屋』で通っていたし、『無茶苦茶怖い』と専らの噂だったのである。
 当時の単車事業部の経営再建にも単身乗り込んでこられたのである。
 私は当時の企画部門担当で、『大庭さんの番頭役』を3年間務めたのだが、
 この時期の単車事業部再建は、明石の事業本部に問題があったのではなくて、
アメリカのKMCをはじめ海外販社の赤字経営が問題だったのである。

大庭さんがそれまで経験された事業部再建はみんな日本の事業本部の再建で、単純に言えばその事業本部の『期間損益の黒字化によって再建』が出来るのだが、
販売会社の場合は『期間損益』は勿論、その有している『累損消去』までできないと真の再建とは言えないのである。

 当時のKMCには100億円近い累損があって、この消去は大変な難題ではあったのだが、大庭さんも『そんなことは聞いていない』と仰るのだが、
れを目標にやりましょう』と大庭さんとのお付き合いは始まったのである。
 
大庭さんは、確かに『怖い』のだが、物ともせずに意見を言うと『任して頂ける』ところがあって、
みんなそこまでは『言うことが出来ない』のだと思うが、
当時の単車は独特な雰囲気で、アメリカの田崎さんも、日本の私も結構自説は曲げずに、敢えて『反対意見』も申し上げたのである。


★ 今はカワサキの代名詞になっているような『Ninja』だが、
 『GPZ900』が世に出た当時、アメリカ市場が提案した『Ninja』というネーミングは、明石の技術本部は反対で、所謂『忍者』から来る黒装束のイメージは暗いというのである。

 そんな技術本部の意見を背負って、
Ninja』を主張するアメリカ側への説得を大庭さんが試みられたのだが、
 田崎さんは、頑強に抵抗して『YES』と言わないのである。

 事業部サイドの『Ninja=忍者』のイメージは暗いとの主張に対して、
 田崎さんは、アメリカでは『ゼロゼロセブンのイメー』だと言って頑張り通して、
 とうとうアメリカだけが『Ninja』のネーミングでスタートすることになったのである。


 この写真のように当初はヨーロッパなどは『GPZ900』という表示で
 のスタートだったが、


    
  


  アメリカだけが『Ninja』というネーミングでスタートすることになったのだが、
 この1件は『アメリカ側の主張』が正解だったようで、
 今では『Ninja』はカワサキの代名詞のようにになってしまったのである。





大庭さんは『本音でズケズケものを言う』単車の雰囲気を気に入られたようで、7月に来られて3ヶ月の9月には
 『単車は意外に確りしている』と仰るようになるのである。



★いろんなことがあったが、この当時を一言で言うと
 『運がよかった・ツイていた』と言えるのだろう。

  確かにNInja などいい商品も出たのだが、
  何よりも財務本部が数百億円の資金援助をしてくれたり、
  全社挙げての応援で、その旗を振られたのは
  山田・大西両副社長なのである。

  当時、リンカーン工場の操業度が不足してその対策のために、
  年間8000台程度であったじJet Ski を2万台も造りだめしたら、
  突然、それが完売するということになったりしたのである。

  『赤字会社が新社屋など?』と反対もあったのだが、
  当時の大西副社長が熱心に賛成して頂いて実現することになるのである。


  1986年、大庭本部長の3年目に完成して

  長谷川・大庭・田崎さんの3人での『鏡割り』なのだが、
  この時、田崎さんは未だ川重部長の頃である。

   

  
 大庭さんですら、川重社長は未だ決まっていない時期なのである。

 これはずっと後に、私がアメリカに行った時に撮ってきた
 KMC社屋の写真だが、
 ホントに懐かしい、いろんな想い出いっぱいの社屋なのである。





★ あれだけ大変だった『カワサキの二輪事業の再建』は
 
  大庭浩本部長が見事達成されて、
  川重本社に副社長で戻られ、あとを
  髙橋鐵郎常務が本部長を引き継がれることになったのである。

  私自身もそのど真ん中にいて、いろんなことのあった期間だが、
  今思っても『よく頑張ったな』と思うのである。


★ この時期、私は50歳になったばかりの頃である。
 
  息子は大学を卒業してサッカーで全日空に入社したし、
  娘も関大に入学出来て、何とか一息ついた時期である。

  アメリカのダンピング問題からのスタートだが、
  よくまあ、いろいろと続いたものである。
   
 

 1983年に『GP レース撤退』とあるが
 この決定は『私と田崎さん』との相談で『GPレース中止』を決断しているのである。
 この時は、そうせざるを得ないほど事業本部の経営は追い詰められていたと言っていい。
 当時のカワサキのGPレースは、非常に強かった時代だから残念だったのだが、すべてを止めると再開が大変なので、
 平井稔男さんに数千万円の予算を渡して、
 この時『Team Green』が日本でもスタートすることになるのである。

 『運勢来年2月まで』と書いているが、そんな運勢だったのである。
 ホントに運がいい期間だったと思う。 


 
  
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習慣 と 積み重ね

2021-01-23 06:13:46 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 昨日はこの辺りは終日雨だった。

  


  午後からは、『降るでもなく、降らぬでもなく
  霧は掛かっていたのだが、こんな感じだったのである。
  
  朝は諦めていたランニングだが、
  毎日やってることをやらないのは『何となく気になる』ものである。

  どうしようか迷ったのだが、結局行くことになった。

  三木総合防災公園、流石に止まっているクルマも少ない。
  でも、傘をさして歩いている人もいたし、
  私のように傘もささずに走っている人もいた。



 約8000歩、1時間、6キロを走ってきた。
 
 何か、やることをやった感じですっきりしている。

   



   孫に貰ったFitbit を腕に巻いて、1年1ヶ月なのだが、

   昨年の9月10日に 積算1593キロ を記録した。

   ニュージーランドの長さだそうだが、
   神戸から北海道までの距離である。


    

  

  こんなのあまり気にはしてなかったのだが、
  マラソンの42キロに始まって、
  いま7段階目の『ニュージーランド』なのである。

  

   
  

  
  こんな調子であと10年頑張れば。
  太平洋の横断も夢ではないかも?

        東京からの距離一覧だが、既に北朝鮮までは行ってるし、
  北京や台湾も年内には間違いない、

   
   


 昨今の道具はなかなかよくできている、

 Fitbit など、腕に巻いてるだけだが、勝手にこんな記録で
 励ましてくれている。
 『毎日の習慣』休まずによかった。


 
 
 
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昼寝 と 年齢     雑感

2021-01-22 07:14:14 | 発想$感想

★最近は、昼寝をすることも多い。
 昨日は夜中に、バイデン大統領の就任式のテレビを観てたので
 1時間ほど昼寝をした。

 『睡眠時間』と検索したら、こんな表が現れた。

 


 『6~7時間』が目安だと書かれている。

 最近は10時に就寝するので、朝5時に起きると7時間だが、
 夜中にトイレに起きたりするので、その間の時間はどうなるのあろう?

 Fitbit を付けてるので、『睡眠時間』も統計がある。

 3ヶ月平均するとこんな感じで、『7時間の睡眠時間』は取れていると言っていい。

 


★ 私はいま87歳だが、至って元気だとと言っていい。
 午前中は2時間ほど毎日動き回っている。
 消費カロリーは、毎日2000キロカロリーを越えている。

  昨日は『バイデンさんの就任式』を観ていたのだが、
 バイデンさんは、今78歳である。
 10年前、78歳の頃を思い出すのだが、殆ど今と同じくらいで、
 無茶苦茶元気だった ということでもない。

 ただ、『昼寝』は多分していなかった。



★ 昨日は終日『バイデンさんのニュース』でいっぱいだったが、
 普通の職務ではない『アメリカ大統領』なのである。

 
 


  今から4年間、その時は82歳である。
  『昼寝』などはとても出来ない『激務』だろうから、
  健康に留意されて、無事役目を務められることを祈るものである。

  トランプさんも、いろいろな話題を提供しているが、
  4年後に『再挑戦』するとか。
  その時は『78歳』なのである。


  ちょっと無理すると『昼寝する』自分と比べて、
  『元気だな』と感心しているのである。


 因みに日本の政治家、
 安倍さんは66歳、 菅さんは72歳、 二階さんは81歳である。
 安倍さん、意外に若いのにびっくりした。


 
 



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人生で一番頑張った時代、46歳からの10年間 その2 自分史

2021-01-21 09:01:55 | 自分史

カワサキの二輪事業は昭和35年(1960)に明石工場で一貫生産が始まり、当初は国内市場だけだったのだが、
1965年ごろからアメリカ市場の開拓が始まって、
カワサキの二輪事業は当時のアメリカ市場が引っ張ったと言ってもいい。

その間、国内の最前線の代理店にとっては非常に厳しい時代で、
メーカーに協力し、実力以上に沢山売ろうとした代理店から順番に、その経営は破綻していったのである。

一方、非常に好調に推移していたアメリカ市場だが、
オイルショック・HY戦争のアメリカ市場への飛び火・スノーモービル事業の不振・更にはハーレーのダンピング訴訟と続いて、
1980年頃から、大幅な赤字経営に陥ってしまうのである。

 

 
その赤字が巨大で川崎重工本体も無配に陥ってしまうのである。
事業本部は髙橋鐵郎・田崎雅元コンビをKMCに送り、
本社財務本部はは何百億円の資金手当てをするのだが、KMCの赤字は止まらないのである。
 
この問題の対策委員長を専務の山田熙明さんがやられていたのだが、
1982年7月1日に山田さんから私に、突然呼び出しがあって、
KMCの赤字は止まると思うか』と仰るので、『それは止まるでしょう』と
お応えしたら、
お前が企画に戻ってやれ』ということになり、82年10月から企画部長に戻ることになるのである。


 これはその後、山田専務から頂いた手紙である。
 当時の世界の販売会社がアメリカも欧州も赤字経営が続く中、
 国内担当の『カワサキオートバイ販売』だけが健全経営が続いていて、
 本社財務の信頼もあったし、山田専務も期待をされていたのである。

 『川販式経営を単車全般に適用するしか方法はないと思います
 と書かれている。






さらにはこの人事にはおまけがついて、
高橋鐵郎さんがKMCの会長から企画室長に戻られることになったのである。
私が企画室長に髙橋鐵郎さんをお願いしたのは、
具体的な実行案は作れるが、それを全軍に指揮するのは『新参部長』では荷が重くて
髙橋鐵郎さんの旗振りが必要だったのである。

そんなことで『髙橋・田崎コンビ』から『髙橋・古谷コンビ』で事業部全体の旗を振ることになったのである。



★『カワサキの二輪事業の再建対策』が82年10月からスタートするのだが、これは明石の事業本部内の対策ではなく、
アメリカKMCを中心とする全世界の販売会社経営健全化対策だったのである。
 
その総合的な対策システムを構築するために、
一番最初にやったことは事業本部内に販売会社を統括する『関連事業部』を創ることからスタートした。
従来各地域の販社がそれぞれ作っていた事業計画を『関連事業部との協働作』としたのである。
 
単純に言えば『個別最適値の集積』=『全体最適値』にはならないのである。
当時大問題となったアメリカKMCは、いろんな問題もあったが『頑張り過ぎた反動』の結果なのである。
それは『営業内』の問題ではなくて、間違いなく資金繰りなどから来る『業外対策』が出来ていなかったために起こっているのである。

これは若い頃私が東北で経験した『頑張り過ぎた代理店』が順次『経営破綻』したのと、全く同じことが起こっているので、
極端に言うと『自分の実力範囲』に戻せば大丈夫なのである。

 当時のアメリカの金利は18%と20%にも近かったのである。
銀行が幾らでも資金を貸すものだから、KMCの借入金は300億円もあり、
資金があるから在庫も持てるのだが、その借入金の金利だけでも60億円となり、
在庫過多から来る値引きなどの発生で、100億円単位の赤字となってしまうのである。

 
★ただ、これは簡単なようで『なかなかムツカシク』受注生産ではない二輪事業のような量産事業では
コントロールが効かなくなることが多いのである。
 技術屋さんが多いし、自らが開発したものは『沢山売れば沢山儲かる』のは当然だから、どうしても実力以上に売りたがるし、
川重のような『受注事業体』の会社のTOPは『頑張れ』と言いたがるし、
それを聞いて真面目に『頑張り過ぎると』直ぐ赤字に跳ね返るのである。
 
各時代のTOP は、二輪事業の赤字が自らの『頑張れ』という一言から来ている、と認識されている方が少ないのである。

そういうことだから『全体最適値』から世界の販社の販売量を『関連事業部』が決めて、事業本部の実力を確認した上での対策をやれば、そんなにムツカシイことではないのである。

この時期『非常に上手くいった』のは本社財務部が何百億円単位の金をKMCに放り込んでの『増減資対策』もあったし、
販社経営ソフト』を持った国内販社のカワ販から富永・日野という若手をKMCに逆出向させて、たまたま富永君はKMC田崎社長の大学後輩でもあったことから、
対策はスムースに行われ、半年経った翌年の春ごろには、世界の全販社の『健全経』の目途が立ったのである。
 

★私自身は、何事も『半年あれば目途が立つ』と思って対策することにしている。
半年経っても出来ないものが、10年経てば出来る』などと言う保証はない。
 いろんな経験をしたし、いろんなことをやってきたが、
 その殆どは『半年で目途が立っている
その基本的なコンセプトは部下などには任せず、常に自らが発想することにしている。

このカワサキの二輪事業最大の危機も、翌83年7月に大庭浩本部長が再建屋として事業本部に来られた頃には、その目途はほぼたっていたのである。
この対策は『まさに事務屋の専門分野』の資金繰りなどを中心とする『営業外対策』で、本来の事業経営の中枢問題だったのである。

たまたまこの時期『私とコンビを組んだ』KMC社長の田崎雅元さんは、
若い頃からレースなど一緒にやったし、この直前の『ハーレダンピング対策』では田崎さんの直接担当だったのだが、
その具体的対策の『カワ販問題』は私が対応などしたこともあって、信頼関係は出来ていたし、
技術屋さんなのにこの時期『営業外対策』についてはよく勉強されて、
その辺の事務屋よりはずっと詳しいレベルになっていたのである。


 田崎さんから送って貰った写真だが、
 当時の大庭本部長・髙橋鐵郎副本部長・田崎KMC社長である。





 こちらは94年だからずっと後だが、
 山田さんはもう引退されていた時期だが、
 私を企画に呼び戻されたのは、山田熙明さん なのである。
 


★大庭さんが単車本部長に来られてからも、いろいろあるのだが、
 その詳細は次回に。
 
 兎に角、私自身も『期待に応えるべく』頑張っていた時代なのである。


 
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試験と受験勉強  雑感

2021-01-20 07:56:10 | 私の生き方、考え方&意見


★ 世の中にはいろんな『試験』という制度がある。

学校の入学試験に始まって『運転免許試験』や
企業の中でも『昇格試験』などと言うものもある。
これに対してやる勉強を『受験勉強』という。


今は『大学入学共通テスト』の時期である。


   


大学全入時代』と言われているらしい。
少子化にともない、高校現役生の人口が著しく減少していて、
えり好みしなければ全員が大学に入学できる「大学全入時代」と呼ばれているそうだ。
3割以上の私立大学において、定員割れの現象が起こっているとか。
大学全入時代の流れを受けて、
多くの大学では学生を幅広く受け入れる人物重視の入学試験になってきているようだが、
やはり試験はあるようだ。


★  私自身は運がよかったのか、人生で受けた試験で落ちたことがナイのだが、
受験勉強』を一生懸命やった経験もまた『ない』のである。

戦前に朝鮮で受けた中学校は入試があったのかなかったのか、よく覚えていない。
小学校の成績は結構よくて、当時の京城府伊賞など頂いたが、
戦時中だったからか、家から遠い『京城一中』は受けずに『城東中学』に入学したので、
試験はあったのかも知れぬが、受験勉強などはしなかった。

戦後、日本に戻った時は中学1年で、翌年名門『神戸一中』に入学したのだが、
親父が手をまわしたのか、何故か『無試験』で入学できたので、
試験も受けなかったし勿論受験勉強などしなかった。

ただ父に『お前は無試験で入れて貰ったのだから、ちゃんと勉強するよう』と言われて、
中学2年生までは滅茶勉強したし、成績もよかった。
人生でこの2年間が一番『勉強した』期間かも知れない。

それ以降は大学を卒業するまで『勉強をした』覚えがなくて、
学校には行っていたが『野球ばかり』やっていた。

その理由は『勉強しなくても、付いて行けたのであ
逆に言うと神戸一中の2年生の学力は新制高校の2年生レベルのことをやっていたのである。
中学3年生の時に男女共学になって県一女と一緒になって、
数学・英語など1年程前に戻り、
高校は学区制で明石高校に転校したら、ここでもまた元に戻ったのである。

大学は神戸商大を受験したのだが、
父が1月2日亡くなるまでは、受験する積りはなかったのである。
1月に突然父が亡くなってそれから少しだけは勉強はしたが、
何故か運よく入学できたのである。

大学でも勉強しなかったのは、
就職に優位になるように兎に角『』の数を増やそうとする学生ばかりだったから、
それに反発したのか『』ばっかりだが単位は、授業など受けなくても簡単に取れたのである。

当時の神戸商大は歴史的にも一番難しかった時代で、16.5倍の競争率だったが、
どうして通ったのかも解らなかったが、伯父が県会議長に頼んでいたことが後から解ったのである。
そんな『コネ』も効く時代だったのである。
川崎航空機にも『社長のコネ』での入社だった。


★ 別に勉強が嫌いなわけではない。
 『受験勉強』のように『試験に通るための勉強』は、
 『何かになる』ための勉強なので嫌いなのである。
 
会社でも、課長になる、部長になる、重役になるためにいろいろ努力するのは嫌いで、
なる』ことは狙わなかったが『やる』ことには非常に興味があって、
 そのための勉強は、現役時代も結構やった。
 そういう意味では『独学』なのである。
 定年後のネットの世界なども、すべて『独学』でやりたいことだけをやっている。
 
 ただ、結果的には30歳以降は、現実に上司がいないような状態で、
 『頼まれた仕事』をこなしただけだが結果的には
こんな順番で、こんな職位、職名を経験した。
係長』は経験がなくて、平社員から突然『広告宣伝課長』になったのである。カワ販で統括部長を経験した後、川重の課長に戻ったが、またすぐ常務となっている。

課長・事務所長・所長・母店長・副会長・統括部長・課長・常務・部長・室長・理事・営業本部長・専務・会長・技監・社長・理事長
何故か、若い頃からいろんなことを経験したのである。

一度もその『昇格試験』などを受けなかったのはラッキーだった。


★これからの世の中は、日本もどんどん変わって行くのだろう。
 大学も入れば、簡単に卒業出来て、
 大学卒の資格さえあれば
何もせずに、欠点が付かなければ偉くなる』という日本のシステムも、
 これからの時代には『新しい仕組み』に変わって行くのだろう。

 写真の横幕に
コロナ禍 初の大学入試共通テスト始まる
 と書かれているが、内容が変わっているのだろうか?

 
 
 

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Googleマップ と 私

2021-01-19 07:42:04 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 私はなぜか『地理』が好きである。
 地図を見るのも好きだったし、非常に興味がある。
 16.5倍というとんでもない競争率であった当時の神戸商大に、
 何とか入学できたのは、その時受験した地理の問題が

 世界地図を画いて、北緯35度赤道ジブラルタル海峡などの指示された項目を
 その地図に書き入れる問題が出たのだが、
 それが殆ど上手く画くことが出来たのがよかったと、今でも思っている。

   


 東経135度は子午線で生まれ故郷の明石だったので直ぐ解ったのだが、
 南がどのあたりかもう一つ頼りなかったのだが、
 勘でオーストラリアを通したら、それが当たっていたのである。

 私は細部の細かいことは兎も角、世界地図などの大きなものを何となく
 把握するのは得意分野なのである。

 それも『地図を眺める』ことが趣味みたいなところがあって、
 自然に身に付くのだと思っている。


★ そういう意味では 『Google マップ』は1日に1度は開くほどよく見ている。
 ごく最近も、家の近くの『協同学苑』の周りを朝、スロージョッギングしているのだが、

 その地図を何回も見ているのである。
 その1周コースはこんな感じの約7キロなのだが、
 三木に50年も住んでいるのだが、1周したのは今回が初めてなのである。

   
  

 単にこのコースだけではなくて、
 今まで走っていた『三木総合防災公園』や『三木山森林公園』との位置関係などが気になるし、
 三木にはこんなに沢山の『ゴルフコース』があるのだが、
 いま走っているコースの外周は、『ゴルフコースの外周』とほぼ同じだと確認したりしているのである。






★ Googleマップのいいところは、どんどん拡大するとこんな光景も出てくるのがオモシロい。

 これらはみんな、Google マップから切り取った、
 今朝通った地点の写真なのである。

  






 三木のこんな田舎道まで、包含しているのはビックリなのである。
 これがこんな世界地図と同じGoogle マップだとは信じがたいのだが
 このように同じGoogle マップの中からの写真なのである。

       

  

★ 世の中は進歩するものである。
  それにしても Googleはスゴイと思う。

       私が行ったことのあるアフリカのナイジェリアは
 このような立派な都会も


 


町の風景も写るのだが、




 

 流石に中国はダメである。

 こんな角度からの風景は出るが、地上からの風景は出てこない。




★ アメリカもおひざ元だからどこでも大丈夫かと思ったら、そうでもない。
 広大なアメリカなので仕方がないのかも知れぬが、
 田舎の真っ直ぐな道などは写らない。

 アメリカのネブラスカにあるリンカーン工場は、一度だけ行ったことはあるのだが、
 忘れてしまっていたが、Googleマップで検索すると
 こんな画面が現れて、


 


 こんな写真が現れるのだが、全く覚えていないのである。





★こんな具合に毎日のように、世界を眺めているのだが、
 どうも、日本辺りが一番詳しく載せられているいるようにも思う。
 三木市など、まさに地方都市なのだが、

 殆ど車など通らないこんな道の神社の前も


 

 
  このように見ることが出来るのには驚いた。

   


 どんな神社があるのか、動画を撮ってきたのでご覧ください。
 25秒の動画です。



     





  
 
 
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人生で一番頑張った時代 46歳からの10年間  その1   自分史

2021-01-18 07:58:59 | 自分史

★ 長い人生、自分なりによく頑張って生きてきたと思っているが、
 『一番頑張った時期は?』と言われると、
 それは『46歳からの10年間』かも知れない。

 ずっとこんな記録を付けているのだが、
 46歳からの10年間は、こんなことがあった時代なのである。

  

 
 時代は1978年から89年まで、
 会社の職位は課長から部長になり、89年には理事に昇格している。

 ずっとカワサキの二輪事業を担当しているのだが、
 その前半はカワサキの単車事業が大変な時期だったが、
 その再建対策のど真ん中にいたのである。

 家庭では息子・娘が高校から大学そして就職・結婚と一番経済的には大変な時期だった。
 我が家は全くの専業主婦で収入は私の給料だけだったので、ホントに大変だったのである。

 89年に理事に昇格して退職金を頂いて一息ついたのは、この時期以降のことなのである。
 この時期になると家の土地・建物の借金もなくなって、
 『金が要らなくなったら、金が入ってきた』のである。 

 家のこと、こどものことは全て家内に任せきりで、私自身は会社の仕事に掛かりきりの時代だった。


★つい先日、『私と田崎さんの人事を決めた方たち』というブログをアップしているが、
私と田崎さんコンビ』を中心に『カワサキの単車事業が回っていた』時代でもあったと言っていい。
 先日のブログでこのようにその、経緯を書いている。


話のスタートは1978年にアメリカでハーレーが起こした『ダンピング訴訟』で、これは日本の4メーカーに対するものだったのだが、
この『ダンピング対』を担当したのが課長時代の田崎さんなのである。

別にアメリカ市場で安売りなどはしていないのだが、アメリカ市場での『経費率以上のものは認めない』という規定があって、国内市場で『カワサキオートバイ販売』というカワサキだけがひとつ多い流通段階を持っていたために、
このままでは『カワサキだけ』がダンピングになってしまうという状況で、
カワサキオートバイ販売』をどうするかという具体的対策が必要だったのだが、この具体的対策が川重本社も絡んで対策案を起案したのだが、なかなか上手くいかないのである。

本社も事業部も困り果ててしまって、突然、当時の塚本本部長に呼ばれて『私に対策案を作れ』という指示があったのである。
私自身はそれ以前にカワサキオートバイ販売に10年間出向していて、その実態はよく解っていたのだが、当時の『カワ販のトップ人』にも関わる問題なので、『古谷にやらすのは気の毒だ』と気を遣って頂いていたのだが、どうしようもなくなって、事業本部長からの直接の指示となったのである。

そんなことから、約1ヶ月掛って小さくした『新カワ販案』を創り、本社の財務本部の了解もとれたのである。当時の本社財務本部長は堀川運平さんで、私が単車企画に復職した時の企画室長でもあったことから、『古谷君が1ヶ月も掛かって創った案ならそれに乗りましょう』とOKして頂いたのである。

この案は『カワ販本社』を10名くらいの小さなものとして、形では残したのだが、この最終案を当時の髙橋鐵郎部長が当時の財務担当役員の大西常務に説明に行ったのだが、大西さんから『このカワ販は実際は誰がやるのか?』という質問があって、高橋さんが『古谷が川重の営業から旗を振ります』と答えたら、『それを常務にせよ』という指示があって、私は突如、当時の大カワ販グループの常務となったのである。


 さらっとこのように書いているが、このダンピング問題は、事業本部にとっても大問題で、アメリカのKMCが中心で事業が回っていた時期なので、この問題の対応そのものが、単車事業の緊急課題であり、その解決対策は国内の販売会社『カワサキオートバイ販売の構造改革』という大問題の対策だったのである。
 
カワ販』という会社はかっては川崎航空機の専務や常務の方が社長を兼務されていた本社機構も大きいい重たい会社だったのである。
 そんな会社の社長以下重役陣をすべてなくすという思い切った策を講じない限り、『ダンピング対応』に効果的な経費率削減は不可能で、
私が立案した『新カワ販案』はそんなドラスチックなものだったのである。

 かっての川崎航空機の役員、当時の理事・部長といった先輩方をみんな除いて、当時まだ『課長であった私』が常務として旗を振るというものだったのである。
ただ、社長は塚本本部長・副社長には髙橋鐵郎部長と会社の形だけは外から見てもおかしくないようになっていたのである。


★グループ全体は400名以上もいたので、結構な世帯なのだが、
 グループ全体で10億円近い累損もあり大変な会社だったのだが、
 私自身は『運がよかった』と思っている。
 『カワ販』を担当したその年に『Z400FX』が世に出たのである。
 

 


 これが空前のヒット作となり、何の対策もしなくてもバックオーダーが2年も続いて、勿論経営は黒字だし、かっての累損も消去出来てしまうのである。

 この時期は私は殆ど何もやっていない。
 やっていたのは私を常務に指名して頂いた、当時の川重財務担当の大西常務毎月経営状況の報告を行うのが主たる業務だったのである。

 ところがどんどん経営内容がよくなるものだから、
 大西さんは2年目に『こうなることなることははじめから解っていたのか?』と仰るのだが、
そんなことが解っていたなど全くなくて、私が改革案を作った時には、
Z400FX』が世に出ることすら知らなかったのである。


★上の年表に、『兵庫選抜』などとあるが、この時期息子は未だ高校生だが、
 サッカーの兵庫選抜に選ばれたりしているのである。
 小学4年生ぐらいから始めたサッカーだが、中学時代も三木選抜で兵庫県で優勝したりして、サッカーに熱中していたので、私もずっと応援に行ったりしていたのである。
 
 『禁煙』などとも書いているが、これは髙橋鐵郎さんが禁煙を始められて、
 『今どき煙草を吸う奴は・・・』などと仰るものだから、
 ある日決心して『禁煙』することにしたのである。
 その日以来、1本の煙草も吸っていない。
  そういう意味では、髙橋さんに感謝である。

 81年には『ゴルフ・ハンデイ 18~13』 と書かれているが、
 ゴルフを熱心にやってた時期だと思う。
 ホームコースが『播磨カントリー』でコースレートが難しいので、
 ハンデイ20からスタートしたのだが、18の時に5アンダーが出たのだと思う、そのままハンデイが『上がる』のである。
 ここに記録はないが、その後『3アンダー』が出て『ハンディ10』になるのだが、それで月例に出るのは止めてしまったのである。

 『なぜシングルを狙わないのか?』と仰るのだが、
 8ぐらいまではなるかも知れぬが、『片手シングル』はムツカシイだろうから『これで充分』と思ったのである。

ゴルフに限らず、私の性格は『専門家』のレベルは狙わないことにしている。
それは苦しいだけで、『専門家の中の一流レベル』にはなれないだろうから、
『何事もそこそこでいい』と思ってしまうのである。

 そういう意味では『ハンデイ10の人生』だと思っている。


★ 80年に『髙橋・田崎KMCへ
  81年に『発本赤字100億』と書いているが、
  これ以降は、次回にアップすることにする。

 

 
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次の総理は? その他コロナ問題、いろいろ  雑感

2021-01-17 11:22:30 | 私の生き方、考え方&意見

★こんなニュースが載っていた。
 このところ菅総理の支持率が急落のようである。

 その理由の第一は『コロナ対策』が疑問視されているようだ。

 






 その支持率はホントに急落なのである。



 
   


 次の首相に相応しいのはと、こんな結果も出ていた。
 河野太郎が1位で、なるほどとも思うが、
 1年以内には間違いなく総選挙もあり、次の総理も決まるのだが、
 果たして、どうなるのかな。


次の衆院選後の首相にふさわしいのは
①河野太郎行政改革担当相 85人(12%)2
②石破茂自民党元幹事長  73人(10%)3
③菅義偉首相       59人(8%)1
④安倍晋三前首相     25人(4%)5
④小泉進次郎環境相    25人(4%)6
⑥枝野幸男立憲民主党代表 18人(3%)4
⑦小池百合子東京都知事  16人(2%)15
⑦橋下徹元大阪府知事   16人(2%)8
⑨岸田文雄自民党前政調会長12人(2%)10
⑩吉村洋文大阪府知事   11人(2%)12


★それはそうと、コロナで日本の医療崩壊がいわれているが、
 いろんな記事のネット検索の結果である。
 病院数もベッド数も世界一だが、日本の基本的な仕組み、制度に問題があるらしい。単なる記事の羅列だが、その中から読み取って欲しい。

 
●日本は人口あたりの病床数は世界一多い国、感染者数はアメリカの100分の1くらいなのに、医療が逼迫して、緊急事態を迎えているという状況について、
政治が制度を変えれば、対応出来るのではないか。

●現在の医療法では病床の転換は病院にお願いするしかないが、医療法を改正することは政府のアジェンダに入っていないのではないか。

●日本の病院数は約8000とG7諸国のなかで最も多く、日本の1病床当たり医師数は、米国の5分の1であり、独仏の3分の1である。看護師も同じ傾向にある。日本では大病院の勤務医が恒常的に不足しているという問題がある。

●手立てはある。コロナ感染を恐れて患者が来なくなり、余裕が生じている中小病院や診療所のスタッフを感染症指定病院に行って応援してもらう仕組みをつくることである。そうなれば人手不足がネックとなって増大できない病床数を大幅に拡大できることになる。

●病床数が世界一であるにもかかわらず、日本では空き病床が少ないのは、現在の病院経営は「病床が埋まってナンボ」であり、いかに空き病床を少なく管理するかが医業収益の決め手となっているからである。

●コロナ患者受け入れ、民間病院は2割
民間で受け入れが進まない理由について、「コロナの患者さんを診るのは通常の何倍も手が掛かる上、他の手術や診療もできなくなり赤字になる。院内感染のリスクも抱える」

受け入れた病院は「数十億円の赤字」
しかし、コロナ患者を受け入れ、経営が厳しくなるのは公的病院も同じ。「特定の病院に負荷が掛からないよう、どこがどのぐらい受け入れているか見える化することも一案だ」

●「行政がしっかり方針を示す必要がある。今の仕組みだと(コロナ対応を)強制できないけど、中長期的にはそうした議論も必要になる」と主張する。



★以上はいろんな記事の羅列だが、何となく解ったような気がした。
 この仕組み、制度の問題の改革が必要だと思うが、
 菅総理は、その点を聞かれて、このように答えたようである。
 何となく、物足りない。

◆制度の問題を問われ、首相「国によって考え方違う」
日本が世界有数の病床数を確保しながら、新型コロナ感染拡大に対応できていない現状について、菅義偉首相は13日の記者会見で、日本の制度や体制に問題があると考えるかを問われ「感染拡大が続く中、まずは必要な医療の提供を受けられるよう病床を確保していくことが極めて重要だ」と話すにとどめた。
 



★上にあった総理候補のなかで、こんな質問に明確に答える人は、
 河野太郎・橋下徹・吉村洋文 ぐらいではなかろうか?
 そんな総理が出てくることを期待したい。
 

 
 

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