★定年後の生活2年目、68歳である。
この2001年と言う年はどんな年だったのか?
小泉内閣がスターとし、9月11日にはあの『9.11事件同時多発テロ』があった年なのである。
上の表の最後に『ウィキぺディアが発足』とあるが、私はまだほとんどの方がウィキぺディアなどご存じない時期に知っていたのだが、それはこの年から数年後のことだっただろう。
この年の数年後に娘家族はアメリカに移住するのだが、孫たちはまだ小学生でアメリカの学校の宿題の答えが解らなくて、その時見ていたのがウィキぺディアだったということなので、それを聞いて私は知っていたのである。日本でもあったが『神戸市』と引いてみても殆ど記述がないそんな状況だったのである。
★それは兎も角、2001年、68歳のこの年は前年から膝や腰の痛みがあってストレッチをスタートはしていたが、1年ぐらいではその効果も表れず、日記には整形外科や膝や腰の痛みの記述が多いのである。ただ、ストレッチなどは熱心にやってたようで12月の日記には『足が痛いのはストレッチのやり過ぎか』などの記述があったりするのである。
人間の悩みの中で『痛い』ということは単純だが耐えがたい悩みなのだと思う。ただ治ってしまえばそれが『どのくらい痛かった』かも解らぬような単純なもので、何の痛みもない『現在では』当時の膝や腰はストレッチをやったら「すぐ治った」と思ったりしているのである。
ただ85歳になろうとしている現在の健康状況から考えると、歳をとってからでも筋力はどんどん付くものだから、そんな努力は期待を裏切らないものだと思っている。
時間のある方はぜひおやりになればいい。現役時代のそんな時間がない時代は無理だなと思うのである。
そういう意味でも『時間が有り余る』ほどある定年後の生活は『自分のやりたいことがやれる』のがいい。
★私の性格は、ハマってしまうと一時期は結構熱心にやる傾向があって、上記の『ストレッチのやり過ぎか』と言うのもその部類なのだが、前年から始めたバラ栽培も『最高にハマっていた』そんな時期なのである。
木バラだけではなくて『蔓バラ』も始めているし、どんどん買って、この年で50本ぐらいにはなっているのだろうと思う。狭い庭だから植える処がないのだが、その場所を創るために、柘植や平戸が並べて植えてあった場所は、それをすべて抜てしまってそこに木バラを植えているのである。
『蔓バラ』を始めたのはこれは私独特の発想で、植木の間に植えても蔓バラは枝が伸びて頭を出してくるから、植える場所は日陰でも陽は当たるようになるので、植木の間の根元に植えることが可能だし、蔓バラは蔓を止める棚のようなものが要るのだが、植木の間に植えておけば蔓を止める枝はいっぱいあるので大丈夫なのである。
さらに言えば、冬になると葉も落ちるし枝だけになってしまって『みすぼらしい』のだが、植木の間に植えておけば、それもあまり目立たなくて、一挙3得ぐらいの効果なのである。
これは『植えるところがない』ことから出ている発想である。
我が家の庭は、昔気質の庭師の方が結構ちゃんと造ってくれていて、その人曰く『花の咲く木は元来いい庭にはもう一つ』と言うのが口癖で、そういえば『和風の庭』は松や柘植や槙など花の咲かない植木が主流なのである。
そこに蔓バラが咲くとなかなか花の時期は『いい感じ』なのだが、庭師の方が見ると嘆かれるかも知れないのである。
★そんな薔薇の話題もあるが、この年最大の話題は『パソコンが我が家にやってきた』ことである。私の意志でパソコンを買ったのではなくて、当時はまだ日本にいた娘婿が、会社でまとめ買いしたパソコンが余ったから『買ってくれ』と言うのである。
OKしたらパソコンの登録など詳しい方と一緒にパソコンも我が家にやってきて、いろんな登録手続きをやってくれたのである。いまもその時登録した niftyのままだし、私のパスワードは結構ややこしいのだが、その時使ったものをそのまま使っているのである。
今から思うと、この『パソコンのお蔭で』私の定年後の生活は一変したと言っていい。
大体、器械ものには弱くて、パソコンは会社でも80年代から入ってきて、90年代には事務処理をする人たちはみんな使えるようになっていたのだが、現役当時は触ることは勿論、『見ること』さえ拒否して、私の机の前にはパソコンはなかったのである。
パソコンもなかったが、携帯電話も持つことを拒否して、こちらの方は未だに『持っていない』のである。
そんな状態だったのに、パソコンを買ったものだからその年後半は独学でExcell やWord なども勉強したし表なども作れるようにはなったのだが、別に『つくる必要』がないものだから、当時は一体何に使っていたのだろう?
実際にパソコンが役に立ちだしたのは、ずっと後の2006年度からで、このブログ雑感日記がスタートしたのは2006年9月だから、自分ではパソコンを始めたのは70代の途中からだと、ついこの間までそう思っていたのである。
然し、パソコンが我が家にやってきた記念すべき日は、2001年7月8日なのである。
★この年、川崎重工業は田崎社長体制になったのだが、その経営状況は難しくて『無配』が続いていたのである。田崎さんも現役時代いろいろ関係はあったのだが、私にも田崎さんにも密接に関係のあった岩崎茂樹くんがこの年4月に亡くなっている。
会社ではいろんな人とのお付き合いはあったが、川﨑重工業の中ではひょっとしたら『岩崎茂樹』くんと一番関係が深かったのかも知れない。彼は生野高校の野球部の出身で、当時の全生野と言う野球チームは兵庫県でもトップの実力チームだったのだが、そのメンバーの殆どが明石高校の野球部のOBたちで、岩崎はそんな人たちにコーチを受けていたので、明石高校野球部出身の私以上にそんなOBたちのことは詳しかったし、彼は当時の川﨑航空機の中では唯一と言ってもいいバイクの本格派だったので、本社から単車に異動してきて以来ずっと関係があったのである。
ちなみに私の後の『ファクトリー・チーム』を纏めてくれたのは岩崎だし、後年SPA直入を作ったのも私と岩崎の二人で作ったと言ってもいいのである。
そして、岩崎が亡くなって、私がブログを始めてすぐ『岩崎茂樹のこと』をブログにアップしたら、そこにコメントを頂いたご縁で繋がったのが『登山道夫』さんなのである。登山さんも生前岩崎にはいろいろお世話になったと仰るのである。
田崎さんも課長時代、岩崎とのコンビでアメリカを担当していたのである。
この写真は、田崎さんが去年私に送ってくれたもので、92年10月とあるが 場所はSPA 直入なのである。
早く亡くなってまったが、若し岩崎がいたら、私の定年後もまたもっと面白くなったかも知れないのである。
★この年ごろまではまだ、ゴルフもしょっちゅうやってたようで、4月に40:41 5月に41:42と現役時代のように30台は出ていないが、優勝もしているし80台前半では回っていたことを考えると、ゴルフのスコアだけは衰えてしまったなと思っているのである。
現在の体力は間違いなくその頃よりいいと思うし、ドライバーの距離などは落ちていないので、スコアが纏まらないのは、気持ちの問題と、寄せとパットを真剣にやらないからだと思っているので、今年はちょっと真面目にゴルフに取り組んでみるかなどと思っているのである。 今年は3月に85歳になるので、こんなスコアが出たらいずれも『エイジシュート』なのである。
少々脱線気味だが、この年の日記にいろいろ出てくるのは『水泳』をやり出して、娘の方の孫二人をよくプールに連れて行ってやっているのである。
よく近畿の近くだが小旅行にも行っているし、この年あたりは普通の方とあまり変わらない『普通の定年後の生活』をしているような1年だったのである。