★毎年のことだが、2月の中旬を過ぎる頃から、庭の千両・万両の実が鳥に食われてしまうのである。
別に食われてもいいのだが、11月頃からずっと実は付いているのに、1月までの実は食べないのだろう。
1月頃の千両である。
新春の庭の風情があっていい。
何と言う鳥なのだろうか、2月末ごろにかけて、沢山やってきて、実を食べてしまうのである。
千両や、万両の実がなくなると春がやってくる。
そんな感じである。
★毎年のことだが、2月の中旬を過ぎる頃から、庭の千両・万両の実が鳥に食われてしまうのである。
別に食われてもいいのだが、11月頃からずっと実は付いているのに、1月までの実は食べないのだろう。
1月頃の千両である。
新春の庭の風情があっていい。
何と言う鳥なのだろうか、2月末ごろにかけて、沢山やってきて、実を食べてしまうのである。
千両や、万両の実がなくなると春がやってくる。
そんな感じである。
★ 佐藤航陽著『お金 2.0 』 新しい経済のルールと生き方 と言う本に出会った。
私はあまり本は読まない。 たまに読んでみても『がっかり』することが多いからである。
佐藤航陽さん、1986年生まれの未だ30歳ちょっとの若い方だが、『久しぶりにこれは何度も読み返してみたい』と思ったし、間違いなくそうすると思うので、その時々の感想を、このブログに纏めておきたいと思って、このシリーズをスタートさせることにした。
数日前に、田崎雅元さんからこんなメールが届いたのである。
既に読まれたかもしれませんが、仮想通貨に関係する本で、私の頭の中で、スッキリしていなかった経済の話をIT, AI,SNS,などを解説しながら、今までの資本主義がもはや通用しなくなった事とともに、お金を全く違った観点で、分析、解説した本が出ています。
「お金2.0」佐藤航陽 貴方が何時もいっている[仕組み」、私のスローガン「質主量従」も、見事に解説されています。もしまだ読んでいなければ、是非一読をお勧めします。
そんな田崎さんにお礼のメールを打って、私の孫たちのこともちょっと紹介したら、こんな返事が戻ってきた。
古谷さん お孫さんたち、まさに「ミレニアル世代」ですね。ご紹介した本に述べられている通りの、新しい生き方です。我々も一世代早く生まれてしまいましたかね! 特に貴方は今からの生き方にピッタリです。
・人生の意義を持つことが「価値」になった世代
・「儲かること」から「情熱を傾けられること」へ
・「お金」のためではなく「価値」を上げるために働く
・枠組みの中での競争から「枠組み自体を作る競争」へ 全て、この本のタイトルです。
そして、本が届いて私はこのような内容のお礼のメールを打ったのである。
佐藤さんの言ってることは、『私の人生』そのモノだなと思ったのである。
現役当時から『お金や地位』などよりは『自分がやりたいこと』にその価値を見い出し、そのベースになるものは『システム・仕組み』だと思って、一途に『仕組み創り』がこの50年続いているのである。
90年初めの国内カワ販で『7万台に挑戦』した時も、7万台の目標台数達成よりも『カワサキの新しいイメージ創造』を目指したので、その当時の私の想いを私独特の『バランス・シート』にこのように表したのである。
田崎さん
本をご紹介頂いてありがとうございました。昨日から一気に読みました。すべてが理解できたわけではありませんが、久しぶりに何度も読み返してみたい本になりました。多分、何度も読み返すことになると思います。佐藤航陽さんのアタマの良さにはとてもついてはいけませんが、言われていることは至極尤もで、私が生きてきた『生き方』とよく似てるなと思いました。・・・・・・
これは私独自のバランスシートですが、上のお金の価値よりも、下のソフトノウハウやシステムの価値を増やすことが、人の成長に繋がると思っていたのですが、佐藤さんは同じようなことを言っておられるのだと思いました。
今の生活は、何もしなくても生活だけはできる環境で有難いと思っています。それにこれは定年になってからですが、パソコンをやり出してネットやSNSの世界に入れたので、私の70歳以降の人生は変わったと思います。
田崎さんからこんなご返事を頂いた。
古谷さん 喜んで頂いてなによりです。新聞広告で、衝動買いした本です。 一読後、これは是非貴方に紹介せねば、と思いました。貴方の生き方は、お孫さんを含めて、時代の先端を歩んでいるという事でしょう。バランスシート、 いいね! です。
自分の最後の21世紀型 「人生バランスシート」 どんな形になるのでしょうかね。・・・
★ こんな経緯から、いま手元にこんな本があるのだが、これはオモシロそうなので何回も熟読して、その時点での私の感想を述べてみたいと思っているのである。『感想を述べてみたい』と思う発想がいっぱいなのである。
そういう意味で、このシリーズの「カテゴリー」は『私の生き方、考え方&意見』として纏めてみようと思っている。
これも『今の私の生き方』そのモノで、そんなブログを書けること自体が『生き甲斐』に繋がるのである。
そう言う『いい刺激』を与えて頂いた『田崎雅元さんに感謝』なのである。
本の中身は、新しい Fintech 2.0 などと言う単語がいっぱい出てくるので、個別の理解は説明するのもムツカシのだが、こんな解りやすい解説文を見つけたので、その概略をご紹介しておこう。
http://izumin01.com/okanenitenzero#keni_toc_0
「お金2.0??? 年収を2倍にする方法でも書いてんのか?」 最初はそんな印象を抱いておりました。
「この本は絶対に読んだほうがいいですよ。」と非常に強くすすめられたので読んでみました。結論、この本は中学生以上の日本人は必ず読むべき良書です。
こちらは「Fintech 2.0」の2.0から来ています。「フィンテック(Fintech)」とは、金融を意味する「ファイナンス(Finance)」と、技術を意味する「テクノロジー(Technology)」を組み合わせた造語である。
超ざっくり言うと「ITを駆使して既存の金融社会を破壊的に変化させるもの」と思ってもらえればオッケーです。
そのFintechには、「既に存在している金融の概念はそのままに、ITを駆使して業務を最大限に効率化する『Fintech 1.0』」と
今までに作られた金融の枠組みは全く無視して、ゼロベースから再構築するタイプの『Fintech 2.0』」に別れます。
今流行の仮想通貨は『Fintech 2.0』の典型例ですね。
これは今までの金融社会の常識では到底信じられないものです。常識では考えられないからこそ既存の金融知識に詳しい人ほど奇抜にうつり理解に苦しみます。
本書を読んでいて一番印象に残った言葉が下記です。この先は「自分の価値を高めておけばなんとでもなる」世界が実現しつつある
「なんとでもなる」 自分の価値を高めていけばたとえ今の地位を失ったとしてもなんとでもなる、すぐに立て直しができる。
これから先の社会を生きていく上でもっとも高めなければならないのは「内面的な価値」になります。反対に有用性としての価値は下がりつつあります。
一言で言えば「それって役に立つの?」という問いにYESと答えられるものです。 掃除機とかの家電はその典型例ですよね。
内面的な価値
それに対して内面的な価値は有用性の真逆になります。「愛情・共感・興奮・好意・信頼などその人個人にポジティブな感情を抱かせるもの」これが内面的な価値です。ディズニーランドとかはその典型例ですよね。・楽しい!・嬉しい!・ワクワクする!って思う人がたくさんいるからです。
「ディズニーランドが内面的価値を与えていることはわかった。でも人に当てはめたらどうなるの?」その典型的な例が「youtuber」です。まさに内面的価値の提供そのものです。有用性な価値なんて全く無くても内面的価値を提供することでお金を稼いでいる。
それがyoutuberという人間であり雇われなくても生きていける人の特徴でもあります。
なぜ20年前まで存在しなかったyoutuberが急に社会に取り上げられるほどの存在感を示すようになったのか。
それはインターネットの力です。個人がインターネットにつながる端末をもっているからこそ個人が輝けるんです。だからそのインターネットを活用しましょうよという話です。
例えばfacebookとかありますよね。facebookで日常のことつぶやいたら「いいね」が貰えたりませんか?
コメントが来たりしませんか?それは見てくれた相手に何かしらの内面的価値が提供できているからです。
・これからの時代は有用性のとしての価値<<<内面的な価値である。
・この先は「自分の価値を高めておけばなんとでもなる」世界になっていく。
・インターネットを使えば内面的価値は簡単に上げることができる。ということです。
僕自身まだこの本は1回しか読んでいませんが、何度も読み返していって本質を理解しようと思います。
★ ひょんなことから、『ジムでのトレーニング』を始めたのは10月末のことだから、ちょうど4ヶ月が過ぎた。
プールに泳ぎに行っていたのだが、新しい体育館に『ジムのトレーニングルーム』が開設したので、申し込んでみたのである。
小さなジムだから、器械はそんなに沢山はないのだが、1時間ほど汗を流すには十分である。
目標は何か?
この10年間、ストレッチは続けてきて『柔軟性』は大丈夫なのだが、より筋力をつけて『いつまでも確りと綺麗に歩けるようにしたい』
従来からも筋力をつけるために50メートルダッシュなどはずっと続けてきたが、『ジムの器械』を使ったらもっと効率的だろうと思ったのである。
それに出来れば体重をもう少し落としたいなとは思っているのである。
70代前半頃は、体重74キロなどと日記に記録があるのだが、82キロぐらいまでに増えてしまっているのである。
そんなことでスタートした『ジムでのトレーニング』だが4ヶ月経った結果は、
● 足の太もも、ふくらはぎの筋肉や上半身の胸から肩にかけての筋肉は間違いなく付いた。
● 身体の芯と言うか、体幹は間違いなく確りした。
● 体重は、逆に今は1キロ増えて83キロになっている。
体脂肪は30%もあったのが27%ぐらいになったので、脂肪は減ったのだろうが筋肉が増えて筋肉の方が脂肪よりも重いので体重は増えたのだと思うのである。
やりかけると結構続けることはできるので、今の週3回ぐらいのペースでもう何ヶ月かは続けることになるのだろう。
2月からは、1時間のジムでのトレーニングを終わってから、周辺の道路でジョギングの真似事みたいなことをしていたのだが、これもやってると段々上手く走れるようになってきたので、周回コースを何回かの休憩は入れるのだが走ってみることにした。
こんな綺麗な周回路が野球場と競技場の周りを1周すると1.5キロぐらいになる。
今日は7回ほど立ち止まった休憩を入れて、一応1周を走ってみた。50メートルダッシュは、今までもできているので休憩さえ入れると、結構ちゃんと走れた。なだらかな登り下りがあるのもいい。
夏前には、果たしてどんなことになっているだろうか?
身体を動かすということは、気分的には非常にいいと思っている。
ジムは朝8時半から開いてるので、ジムに行って走っても10時半には家に戻れる、そんな時間で大丈夫なのである。
途中で『ギブ・アップ』しないように、ブログにアップしているのである。
あと数日で85歳、元気に85歳を過ごしたいと思っている。
★ 『LIFE CYCLES という雑誌』は、昨年スタートした『メーカーの広告のない』ユニークな雑誌なのである。890円と価格はちょっと高いが、メーカーなどの影響を受けずに自らの意志を貫こうという『コンセプト』には好感が持てるのである。
そんな LIFE CYCLES の4月号が 今日から発売である。
今月号は『カワサキ特集』のようである。
昨日のツイッターにこのように発信されている 。
『予算度外視の盛りだくさん感が不安です』との記述があるが、なかなかの濃い内容なのである。
『カワサキ特集』ということで、1月中旬に突然の取材申し込みがあったので、NPO The Good Times として受けることとし、三木の Good Times Plaza で 取材をお受けしたのである。
そんなことで表紙にも『80年代カワサキ単車秘話 NPO The Good Times 古谷錬太郎氏インタビュー』との記載もある。
現役時代から雑誌や新聞の取材は何度も経験があるのだが、2日間に亘って延べ10時間近い熱のこもった取材を受けたのは初めての経験なのである。
取材と言うよりも、登山道夫さんも、Hideya.Miki さんも、夜には山本隆さんも加わっての 東信享記者との『二輪談義の雑談』が延々と続いたと言っていい。
そんな LIFE CYCLES のツイッターを『リツイート』したら、早速、こんな反応があるのも ネット社会のオモシロさである。
★ 早速、雑誌が我が家に送られてきたので読んでみた。
前述したように、2日にも亘る長時間の取材ではあったが、一問一答ではなかった『まさに雑談そのモノ』だったのだが、そんな中味を1万字は越えてはいるが、きっちりと要点を纏められているのは東信享さんの『プロの業』だなと感心する次第なのである。
『マーケッテングのキーマンに聞く カワサキの販売戦略とは』 という見出しで、
4ページに亘った記事になっているのだが、二輪の専門誌で『マーケッテング戦略』などが語られること自体が珍しいので、 マシンやメカなどに興味のある読者もたまには、『その販売戦略の根底にあるモノは何なのか?』ということをご一読されることもいいのかな、と思う次第なのである。
東信享さんは、私は初対面だと思ったのだが、カワサキ関連では浜脇洋二さんも、大槻幸雄さんにも、既に取材をされていたし、西明石であった『カワサキZの源流と軌跡』の会合には出席されていて先方は私をご存じだったのである。
こんな風に書いていたのだが、朝起きてみたら Facebook に東信享さんのこんな記事がアップされていた。
古谷錬太郎さん(写真)は、'60〜'90年代、カワサキでバイクの販売やマーケティングに携わってきました。カワサキがバイクの完成車メーカーではなく、他社にエンジンだけを供給していた時代から、カワサキのバイク事業を見つめてきた人物です。
当方などは、バイクの開発エンジニアの方々には何度も会っているんですが、販売やマーケティングを行う人にはなかなか会う機会がありません。バイク雑誌は基本的に新車(それもハード面)を扱うものなので、どうしても開発エンジニアの話が中心になってしまうからです。新型車の販売やマーケティングの話は、生々しいというか夢を壊すというか、ちょっとばかり採り上げにくいんですよね。
今回は珍しく販売やマーケティングを行ってきた人に会い、いろいろお話をうかがうことができました。ボンクラな当方には非常に興味深い内容でした。
★本文をご紹介するわけにもいかないので、そこに載せられた写真の一部をご披露し、私なりの感想を述べてみたい。
● まずはこんなレース場での写真
これは昭和41年(1966)の写真なのでもう50年以上も前のことだが、当時私はカワサキのファクトリーチームのマネージメントを担当していたのである。
私の横は当時の国内レース監督安藤佶郎さん、ライダーは山本隆、その横は大西健治くん、カッパを着てるからこれは雨に降られた青森県弘前の岩木山であったMCFAJ全日本モトクロスで、F21Mのデビュー戦の時ではないかと思う。写真提供者は山本隆さんである。
当時の私の本職は広告宣伝課長なのだが、私の年収が45万円ぐらいであった時代に、1億2000万円もの広告宣伝費があったので、当時のライダー契約も、レース運営費もすべて広告宣伝費で賄っていた時代なのである。
なぜそんなことになっていたのか?
カワサキの二輪事業は当初はヨタヨタ歩きで大変だったのだが、青野ヶ原モトクロスの圧勝で息を吹き返えし、当時調査に入っていた日本能率協会の答申の『事業継続の条件』の中に『広告宣伝課を創ること』と言うのがあって、その予算は当時の川﨑航空機本社の開発費として3年間毎年、1億2000万円の予算が配布されていたのである。
私が『マーケッテング』に関心があるのも、そんな予算を目当てに、電通・大広・博報堂などが出先営業所ではなく本社企画スタッフの担当となって、そんなマーケッテングのプロたちとのお付き合いがあったからなのである。
● これは 『SPA直入のオープン当日の写真』 だが私は東記者には直接渡していないのである。
日本で初めて、『一般のユーザー車輌がサーキットを走った』記念すべき日なのである。
当日SPA直入には4000台を越す一般ユーザーの二輪車が集まったのである。
サーキットはバイクで埋まって、直入町長は『有史以来最大の人数がここ直入の地に集まった』とご挨拶されたのである。
当時はレーサーレプリカ最盛期だったのだが、ユーザーはそれを走らせる場所もなく峠のカーブに集まって『峠族』などと言われていた時代なのである。『そんなユーザーたちが走れるサーキット』という想いから、岩崎茂樹と私が中心でSPA直入を創り上げたのである。
それにしても、この写真は私は東記者にお渡ししてはいないのだが、どこから持ってこられたのか?
東記者は、今回の取材に関連して、私のネット関係を詳細にご覧になっているのである。この写真は私も持っていなかったのだが、とチェックしてみたら、昨年 田崎雅元さんが私に送って頂いたものなのである。
そのことを書いた 『私のブログからのもの』だったのである。
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/c320185ff98dbd956f97316e852df850
SPA直入は、私の現役時代の中でも『想い出に残るプロジェクト』であった。
『ユーザーに対する想い』みたいなものがその根底にある。
大自然の中にある素晴らしい環境のサーキットに仕上がっている
これはもっと後だが、田崎さんと岩崎さんとの3人の SPA 直入での貴重な写真である。これも田崎さんが送ってくれたのである。
●そして、もう一つこんな写真も載っている。
左から登山道夫さん そして川崎重工の二輪事業部にもおられたHideya.Miki さん、場所は三木のGood Times Plaza である。
私はマーケッテング関連は兎も角、マシンや技術に関しては全く弱いので、登山道夫さん・Hideya.Miki さんに援けて貰ったのである。このお二人はカワサキのマシンや技術だけでなく旧い資料などもお持ちで、『旧いカワサキ』を語るには最右翼の方たちなのである。
そして私と登山さんを繋いでくれたのは、『岩崎茂樹のこと』を書いたブログにコメントを頂いたのが「キッカケ」なので岩崎茂樹が私に紹介してくれたようなものでなのである。
★そんな裏話みたいなものを含めての今回の取材だったのだが、
『私・古谷錬太郎 とのインタビュー』とはなっているのだが、登山道夫・Hideya.Miki さん、山本隆さん、田崎雅元さん・岩崎茂樹さん にも、いろいろとお手伝いを頂いたことで成り立っているのである。
そして、若しご縁があれば、LIFE CYCLES さんとも、これを機会に今後密接に繋がればいいなと思っているのである。
ぜひ、カワサキファンも、ホンダ・スズキ・ヤマハのファンの方も、ぜひ一度お読みになってみてください。
その基本コンセプトは『顧客を満足させることが全てに優先する』と心底そう思っているのである。
★ 2005年はこんな年だったようだが、大きな出来事と言えば、JR福知山線の大事故があった年である。
このころは未だ、家内と神戸に映画など観に行く機会も多くて、この事故があった日には映画を観に行っていた。映画を見て出てきたら、事故の報道などやっていたので、その日のことはよく覚えているのである。
日記を読み返してみても、特に大したこともなく平穏に過ぎて行っている感じである。
● ストレッチや運動の成果が出て体調はよくなってたようである。60歳後半から70歳初期にかけての膝や腰の痛みも無くなって、体重74キロ体脂肪率24%とあるので、だいぶ身軽である。ちなみに昨今はジムでトレーニングしているからか、筋肉は間違いなくついて体脂肪率は30%あったのが27%と減ったのだが体重は逆に増えて83キロにもなってしまっている。
そんなことでゴルフも未だ快調で、Z1会で優勝してハンデイ7となったりしている。できれば今年はゴルフは頑張ってみたいなと思っている。
● 『パンダ碁』を熱心に打っていて、2月には二段になったとの記録がある。
よくできたシステムで、勝てばどんどん級が上がるし、負けが込むとどんどん下がるのである。
二段は出来過ぎだと思うが、『初段』ぐらいの実力かなと思っているのだが、いまは9211勝9218敗で2級で打っている。別に弱くなったとも思わないのだが、集中して考えるのが面倒になったのと、下の人と打つといろんなことを試すので負けが混んだりするのである。1級や初段の人と打つと逆に勝つ場合が多いから不思議である。
パンダ碁は月間2000円ほど払えば『打ち放題』だから世界の人と好きな時に碁が打てるし、時間つぶしと、アタマの体操には最適で最近でも日に5局以上は間違いなく打っているし、今後もずっと続けることになるだろう。
今7つほど負け越しているが、あと2つほど勝てば1級に戻るし、10ほど勝ち越せば初段になるのだと思っているのだが、それがなかなかムツカシイのである。2年程前までは常に20ほどの勝ち越しが普通だったのだが・・・・
● 今パソコンを置いている1階の部屋にエアコンをつけたとの記録がある。 多分それまではパソコンんも2階に置いていたのだが1階に移して今のようなスタイルにしたのだと思う。
この年は未だ、ブログもやっていないし、パンダ碁ぐらいなのだが、10月には『ひかり電話』にしている。
今も尚『ひかり電話』の機能が如何なるものか?
何がメリットなのかもよく解ってはいないのだが、兎に角『ひかり電話』になっているのである。
最近も、いろいろと『安くなる』とかの勧誘の電話が掛かってくるが、よく解らないのですべて断ることにしている。
今我が家の電話代は携帯電話料がないので大体月5000円ぐらいだから、これ以上安くなっても大したことにはならないと思っているのである。
それにしても『何のメリット』があって『ひかり電話』にしたのか、全く解っていないのである。
●この年の出来事では、夏にアメリカに行った娘と孫が1ヶ月半の夏休みで日本に戻ってきている。このころまでは未だ娘婿がノーリツに勤めていたので帰省費用も出ていたのである。
娘たちが戻ってきたので、逆に留守番をして貰って、家内と二人で東北旅行を楽しんでいる。東北6県は若い頃に4年もいて東北の人以上に詳しいのだが、昔に行ったところを懐かしむ旅で秋田からレンタカーを借りて青森・岩手・宮城と温泉を回ってきたのである
娘たちは9月半ばにアメリカに戻ったのだが、その時家内も一緒にアメリカに遊びに行って1ヶ月滞在しているのだが、これが家内のアメリカ行きの最初である。それ以降毎年続いていて、最近は1ヶ月が2ヶ月に延びているのだが、もう10年以上も続いていて、その間私は独身生活を楽しむパターンはもう経常化してしまっていて、さらにこの5年などは私もそのうちの1ヶ月を同行するパターンになっているのである。
● この年までは、定年後の静かな生活が続いていたのだが、翌2006年から、ひょんなことからいろいろなことが始まるのだが、そのベースになっているのは、ネット・SNSなのである。
パソコンから外に向かって発信しだしたのは2006年からなのである。
そういう意味では、『私の新しい人生は73歳から始まった』と言えるのかも知れない。
★ 手元に残っている写真で、一番私の想いがこもっているものと言えばコレだろう。
★1988年10月15日 今からちょうど30年前 私も未だ55歳の頃である。
この年の10月1日付で、私は国内の販売担当のカワサキオートバイ販売に専務取締役として出向することになったのである。
当時のCP事業本部長でカワサキオートバイ販売の社長を兼務しておられた髙橋鐵郎さんから『国内市場で7万台の販売達成』と言う高い目標を与えられての出向だった。
それまでの単車事業は80年代初頭に膨大な赤字を抱えてその事業再建が第一命題であったことから、世界の各販社も堅実経営が一番の目標であり、ロードレース関係も一時中断していたそんな時期が続いたのだが、ようやく事業再建もなって、髙橋本部長が自ら社長を兼務されていた国内販社での販売台数倍増の目標を掲げられたのである。
健全経営なら兎も角、販売倍増を狙うなら、二輪車はスポーツ・遊びの道具だから、一番必要なのは『遊び心』と『末端ユーザーへの働きかけ』そしてその結果としての『カワサキの新しいイメージ創造』なしに台数倍増など望んでもとても達成はできないと思ったのである。
そんなことで、10月1日に赴任して真っ先にやったのがこの『ファクトリーOB会』で、かって創成期のレースを担当されたOBの方々にその決意を披露し、現役チームのメンバーたちにも『積極的なレース展開』を宣言したのである。と同時に新たに ユーザークラブ KAZEをスタートさせたので、KAZEも今年が『30周年記念』を迎えるはずなのである。
結果的には90年代初頭に『7万台の販売目標』も達成できたし、この席に出席している『多田・宗和』と塚本の3人で世界耐久ルマンでの3位入賞も果たしたし、ラッセル・ㇲライトコンビでの鈴鹿8耐での優勝も達成して『国内市場の輝ける90年代実現』となったのである。
この会合は当時から巨人や中日の定宿であった芦屋の竹園旅館で一泊どまりで盛大に開催したのである。
この写真を撮って頂いたのは、二輪事業スタートの時期からカワサキを担当し、今も尚現役の記者である『二輪車新聞社の衛藤誠』さんで、当然二輪車新聞の記事にもなったし、『新しいカワサキの基本方針』発表の場として、それに『相応しいメンバー』を集めたのである。
★今回は、この写真に載っている方々について、私が今までこのブログなどであまり記述していない方々を中心に、ご紹介をしてみたい。
まずは最前列『胡坐をかいて座っている方々』がカワサキのレース創生期の中心メンバーで、カワサキの二輪事業の中枢におられた先輩方である。
前列右から
● 大槻幸雄 カワサキの初代ローレース監督を務めた。Z1開発責任者で川重常務を務められた。今でもZ1会などでお付き合いがある。
● 中村治道
カワサキのレースはこの方が生産部門で旗を振られて始まったのである。あの『青野ヶ原モトクロス』の総監督で、カワサキの当時のレース委員会の中心人物である。中村さんがいなかったら『青野ヶ原』もなかったし、あの勝利がなかったら、ひょっとしたらカワサキの二輪事業もなかったかも知れないのである。情熱の塊のような方だった。
● 苧野豊秋
私がカワサキの二輪事業に異動して以来、ずっと私の上司としてカワ販専務を務められ、山田さんとともにレース運営委員会をリードされた。ジェットスキー関連では、JJSBAを創設しその初代理事長として国内のジェットスキーレース分野で大いに貢献された。
髙橋鐵郎・中村治道・田崎雅元さんなどにとっても、ジェットエンジン部門時代の上司でもあった方である。
川重退職後も国内部品業務やJJSBA関連で大いに援けて頂いて、ソウルオリンピックでのジェットスキー・デモンストレーションにもご一緒して頂いたのである。
● 髙橋鐵郎 長く直接の上司として関係があった。川崎重工業副社長を務められた。
● 西海義治
真ん中に座っておられるのが兵庫メグロの西海社長である。カワサキのレース活動は西海さんの主導で進められたと言っていい。当時カワサキには二輪事業も解っている人は少なかったし、ましてやレースの世界など誰もよく解ってはいなかったのである。西海さんは元プロのオートレーサーでレースに詳しく、カワサキでレースをするために『子飼いの松尾勇』さんを当時のカワサキの生産部門に送り込んで、昭和37年11月鈴鹿サーキットで開催された日本で初めてのロードレースにバスを仕立ててその見学観戦を行ったのである。その観戦に行ったのが中村治道・髙橋鐵郎さんなど当時の製造部門の人たちで、そのレースを見て、カワサキのレース熱は一気に燃え上がり、翌年6月の『青野ヶ原モトクロス』に繋がり、その後のカワサキの二輪事業の方向が定まったのである。兵庫県のMFJ支部長なども務められた。
ちなみに、鈴鹿ロードレースでの250㏄優勝が三橋実(後カワサキコンバット主宰)350㏄が片山義美(神戸木の実クラブ)と言うカワサキのレースに密接に関係のあったお二人だったことも何かのご縁だと思っている。
● 山田熙明
かっての技術部長で、レースに関しても熱心で『レース運営委員会』の長を務められた。大槻幸雄さんなどの直接の上司である。神戸一中・一高・東大(航空機)の英才ではあったが、西海さんとも親交があったし、私は中学の後輩でもあったことから特別に目を掛けて頂いた。Z1開発にも最初のカワサキのGPレース出場も直接関係されて後、航空機事業本部長などを務められて、川崎重工業副社長となられたのだが、80年初頭の『カワサキ二輪事業の最大の危機』には本社での『単車事業対策委員会』の長を務められ、私を国内から、髙橋鐵郎さんをアメリカの会長から企画に呼び戻した人事をやられたのは山田さんなのである。私も未だ40代後半の頃で、その時KMCを私よりも若い田崎さんに任されたのだが、最初は『田崎で出来るか?』と言われたのは、有名な山田さんの言葉なのである。当時のムツカシイ状況を私や田崎さんなどの若手に思い切って任されたのは、『ファクトリーレース時代の信頼関係』みたいなのがあったのだと思う。
この写真当時は既に川重を引退されてはいたのだが、『国内市場倍増の目標に挑戦する決意』みたいなものを山田さんにはぜひ聞いて欲しかったのである。
● 松尾勇
前述の兵庫メグロからカワサキの製造部に来られた松尾勇さんである。カワサキの初期のレーサーは全てエンジン以外は『松尾勇さん作』と言っていい。当時は製造部の中にレース職場があってそこでレーサーを創り上げていた。その中心が松尾勇さんで、最初に鈴鹿を走った90㏄の『ロードレーサー』もF21Mもみんな松尾勇さんが仕上げたもので、技術部はエンジンのチューニングまでが担当だったのである。その極め付けはF21Mのパイプフレームのモトクロッサーで、ヘリコプター部門からクロモリのパイプを貰ってきて、ベニヤ板に釘を打ってフレームの形を創り、海岸で砂をとってきてパイプに詰めて曲げ、ダブルクレードルのフレームを創りあげたのである。
● 糠谷
昭和41年度で大槻幸雄・安藤佶郎・私の3人がレースから離れ、そのあとのレース監督を引き継がれたのは糠谷さんである。メグロから来られた方で、技術も勿論詳しかったのだろうと思うが、私がびっくりしたのは二輪車もサイドカーもホントに上手に乗りこなされるのである。やはり二輪が好きで会社に入られた方は違うなと思ったのである。創生期の二輪関係者は特に二輪が好きでそこにいたのではなくて、何らかのご縁で二輪事業に異動して来られた方が殆どだったのである。
★2列目からはライダーなどが並んでいるが、有名ライダーも多いし、そんな方たちの紹介は簡単にさせて頂くことにする。
● 大西健治
私の下でレース現場を纏めてくれていた大西健治さんである。当時の広告宣伝課はヘリコプターなども持っていて、レース場にヘリコプターなど帯同させていたのだが、そんなフライト計画などもやっていた。ちなみにヘリと言っても当時新品で1000万円ぐらいでこれは下取りのヘリだから200万円ぐらいだったのである。それを飛ばす時だけ、当時は明石にいた『ヘリコプター部門』のお世話になっていたのである。
● 清原明彦 ご存じ『カワサキの清さん』である。 ちなみにOBでは、清さんと、星野一義が末席を務めたのである。
● 山本隆 モトクロス3年連続日本チャンピオン。 ロードレースで最初に鈴鹿を走り3位入賞を果たしたのは山本隆である。
● 和田将宏 カワサキで正規にロードライダーとして契約したのは和田なのかも知れない。当時既に名を成していた。
● 安良岡健
ロードライダーとして知られているが、カワサキで初めて契約したのはモトクロスライダーとしての契約でGP125の開発時代は、専ら安良岡がモトクロスライダー契約で鈴鹿を走っていた。当時はカワサキコンバットというクラブチーム所属で、星野一義はその安良岡を慕ってカワサキコンバットに入ってきたのである。
● 私・古谷錬太郎
● 田崎雅元
後川崎重工業社長・会長を務めた田崎さんである。若い頃からのレース仲間で、前述の製造部レース職場を管理していて、山本隆が初めて鈴鹿を走った90㏄のロードレーサーの元は田崎さんが製造部から都合してくれたものである。最近はまた昔に戻って、若い時代のままのお付き合いが続いている。
● 平井稔男
自ら『カワサキの真打ち』と言って憚らない平井稔男さんである。そう言われても仕方がない経歴の持ち主で、未だカワサキが二輪事業をやっていない頃から、カワサキ明発で二輪車を売っている。レース関連では『神戸スーパ₋スポーツ』などで多数のライダーたちを育てているし、鈴鹿のロードレースの現場での平井さんも有名である。
今も私とは直接いろいろと繋がっている。
● 金谷秀夫
金谷が初めて乗ったメーカーのマシンはカワサキなのである。カワサキが公式に初めて出場したアマチュア耐久6時間レースに歳森康師のコンビライダーとして、契約もないまま出場したのが最初だが、流石ロードレースライダーでモトクロスライダーとはちょっと違う抜群のタイムだったのが印象に強く残っている。
金谷と言えば神戸木の実と師匠片山義美さんとの関係だが、私もかってのレース仲間として金谷が呼んでくれるのである。
有名ライダーばかりの中に独り異質な私がいるのである。(神戸木の実クラブ解散会)
● 岡部能夫
二列目一番左で正座しているのが岡部能夫、あまり名を知られてはいないが、早かったしいい奴だった。4年ほど前『二輪文化を伝える会』の『第1回、山本隆と私のトークショー』に岡部と星野と金子豊がわざわざやってきて。 岡部と金子これが最後になった。
★3列目からはOBの他に、88年当時の現役諸君も入ってくる。
● 岩崎茂樹
私の後のレースマネージメントを引き継いでくれたのが岩崎茂樹くんである。私と違って二輪にもレースにも詳しいし自分でも二輪に乗るマニアである。彼と一緒に創ったのが『SPA直入』その名付け親でもある。SPAは長湯温泉のSPAでもあるのだが、『スパ・フランコルシャン』と言うベルギーの有名サーキットともかけての『SPA』なのである。
● 歳森康師
神戸木の実のライダーで天才的とライダー仲間が言っていた。カワサキで一番最初に契約したのが歳森で、山本隆は片山義美さんと歳森がわざわざ加古川まで足を運んでの『神戸木の実』入りだったとか、2番目に契約したのが山本隆なのである。二輪から4輪に転向したのも早かったし、星野を4輪に誘ったのも歳森のようだが、目を悪くしてこの頃はすでに引退していた。
● 白瀬 技術部におられて昔からよく知っているが、この席におられるのは現役チームなのかも知れない。
● 武本晃
武本さんがレース関係あったのは知らなかった。 これは間違いなく現役チームからの出席である。後アメリカリンカーン工場の社長なども、務められた。
● 北村敏
北村さんは、私の後の広告宣伝課長でレース関係も管轄されていたのでレースOBとしての出席だと思うが、仕事の面では後田崎さんの後の部品業務や80年代には営業部門の担当もされた。
● 吉田義正 彼は多分現役チームとしての出席だと思うが、旧いカワサキファクトリー時代もメカニックとして所属していた。
● ???
技術部のレース担当長だと思う。 よく存じ上げているのだが、名前が出てこないのである。確か三木におられて、ゴルフのZ1会にも関係されていた。全然思い出さないのが不思議なほどである。
● 宗和孝宏 現役ライダーとしての出席である。この当時よりも最近の方が色濃いお付き合いがある。
● 安井隆史 ごく最近までレース関係を担当していた。当然現役チームとしての出席である。
★ 最後尾の一番右が 星野一義である。 OB会の中では星野と清原が一番若手なのである。
● 星野一義
この時期既に、彼は4輪ライダーとして、超有名人であったのだが、最後尾に並ぶようなところが、星野のよさだと思う。この時もエレベーターの中で中日の現役選手たちと一緒になったのだが、中日の選手曰く『星野さんだ!!』と言って 『うちの星野よりは上だな』などと言っていたのである。17歳でカワサキに入ってきてモトクロスでは山本隆を師と仰ぎ、20歳になったころにわざわざ私の家まで訪ねてきて『クルマ買ってもよろしいか?』と聞きにきたりする一面を持っているのである。
今会っても全く昔の儘の星野がいる、上の写真山本と私が上京した折は、運転手を務めてくれて高級焼き肉をご馳走してくれたのである。
● 梅津次郎 カワサキコンバットのトップライダーで全盛期は本当に速かった。
● 福本敏夫 現役ライダーとしての参加である
● 多田喜代一 現役ライダーとしての参加だが、現在でもいろいろと繋がっている。
● 野村純一 現役チームとしての参加だが、野村君とはこの後、チームグリーンの監督として長くお付き合いすることとなった。
● ???? 残念ながら一番左の方はお名前が解らない。
当日のライダー関係者だけでの写真である。
こちらはカワサキ現役時代の山本・歳森・岡部・星野
最後に、田崎さんから頂いた写真を。
カワサキの二輪事業を引っ張った山田さん、高橋さん、田崎さん。
みんな創生期のカワサキファクトリーチームのメンバーなのである
★ Traackr って、ご存じですか?
昨日、突然このブログに Traackr から700を超すアクセスがありました。
いつもはこんな感じで、Google やYahoo からの検索から訪れる方が多いのですが、その数は100件以下が普通なのです。
今朝は来ていません。いつもの通りになりました。
そのTraackr の URL http://www.traackr.com/ をクリックしてみるとこんなホームページが現れたのですが、英語とフランス語だけなので、もう一つよく解りません。
Influencer Marketting that matters などとあるのですが、
Google で『Traacke とは?』と検索してみると、いろいろ出てくるのだが、冒頭こんな紹介が出てきます。
そこには『インフルエンサーを探せ!』 と言う表題で、このように書かれています。
インフルエンサー・マーケティングという言葉があるが, ブログやSNSの普及によって誰もが情報発信出来る世の中, とくにインフルエンサーの存在はPRやマーケティング面において重要な役割を占めている。
インターネット上の情報発信源としての信頼度が高い彼らは, その名の通り人々の消費行動に多大な影響を与える存在である。極端な話, 消費者はどんなによくできた広告よりもインフルエンサーによる「これは便利!」などといった推奨情報を信頼する傾向にあるので, この力を活用しないわけにはいかない。
しかし実際, 商品やサービスがターゲットとするコミュニティにおいて活躍している, もしくは活躍してくれそうなインフルエンサーを見つけ出すのはそうそう容易な事ではない。
そんなインフルエンサーを探し出すのに役立つ便利なサービスを紹介しよう。
さらに続いてこのような記事が続いています。
TRAACKRは, 主にPRやマーケティング分野での応用を目的とした有料のインフルエンサー検索サービスで, ターゲットとなるコミュニティのインフルエンサーを選出, 更には動向をモニタリングするも可能である。それらのデータは以下の3つを軸とした, 独自の検索アルゴリズムに基づいている。
上位25名のインフルエンサーたちは, ブログやTwitterでのコメント等といったソーシャルメディア上のアクティビティデータに基づいたランキング形式で表示され, グラフや数値等でもその影響力が推し量れる様になっている。
そしてこんな表が表示されていましたので、何かの検索で私のブログが引っかかったのかも知れません。
ブログや多分ツイッターのフォロワーが60万人もいるので、『影響力あり』と判断してくれたのなら光栄の極みです。
何はともあれ、気分はいいので今後も気にしておこうと思っています。
登録をしようとしたのですが『できませんでした』今度孫でも来た時に、やって貰おうと思っています。
★ もうすぐ就職活動がが解禁になるようで、
『東大生1800人が選ぶ就職注目企業ランキング』というこんなニュースが流れていた。
東大生が選ぶのと、一般の学生が選ぶ企業は違うのだろうか?
東大の優秀な学生は、中央官庁を選ぶのかと思っていたが、こんなアンケートには『お国』は入っていないのかな?
カタカナの会社が多いということは外資系で、実力主義かなと思うが、そういう会社を選ぶようになったのかな? このような外資系企業はアメリカと同じように、実力主義で給与もいいのかも知れない。
世の中も豊かになってきたが、学生、東大生は何を基準に企業を選ぶのだろう?
伊藤忠・三菱地所・トヨタ・東京海上・三菱商事・電通など昔からの優良企業の名前があるのは当然か? このような企業を撰ぶ人は終身雇用の安定を望んでいるのかも知れない。安定感はあるのだろうが、オモシロさは多分そんなにないと思う。
この1800人の中に川崎重工業を選んだ人は? とりわけ、カワサキの二輪部門を希望した人は果たしているのだろうか?
などと思ったりしたのだが、
★今年は、娘の方の孫二人が 日本とアメリカで大学を卒業することにもなるので、何となく関心もあるのである。
多分長男は日本企業に、次男はアメリカで何とかするのだろうと思っているのだが、『サッカーのプロ希望』などとも言ってるが、若し失敗しても以下の紹介にあるように本人のいろんな経験によって就職ができるようなので、『日本語もラテン語も英語も喋れる・料理が作れる・サッカーもできる』などなども幾らかプラスになるのだろう。多分次男の方は就職はせずに『自分で何かやりたいことををやる』のだろう。もうすっかりアメリカ人的に育っている。
有名大学を卒業したと言うだけでは、なかなか就職はムツカシイようなのである。
日本は卒業すると一斉に同じ時期に就職だが、孫が通っている UC Berkeley では卒業時期が12月と5月にあって、『単位が取れたら12月には卒業する』などと言っていた。
そんなことなので日本で言う『就活』もないようだし、ちょっと気になったのでネットで探していたら、『日本からの質問に答えている』アメリカにいる日本人の方のこんな意見が載っていたので、その概略を紹介してみる。
● アメリカ在住のソフトウェアエンジニアです。
アメリカに来るのが夢なら、がんばって実現すべきです。私も最初は就労ビザでアメリカに来ましたが、今では永住権を取っています。日本に帰る気はサラサラありません。誰がどう考えても、日本よりアメリカの方が、給与、ワーク&ライフバランス、年齢による就職差別、住宅環境、生活費、生活の質、気候のどれをとっても上です。・・・・
日本でソフトウェアエンジニアとして転職ができるのは、せいぜい40歳まで。現実的には35歳を過ぎたらかなり厳しくなります。でもアメリカでは面接の際に年齢を聞くのは違法ですから、年齢差別はありません。でも逆に言うと、年をとっても常に勉強していないと、首を切られる可能性は常にあります。・・・あなたが優秀な人材であれば、就職のオファーなんて何社からも来ます。・・・
・・・・アメリカの大学の学費は高いですが、就職後の年収も高いので総合的に考えると得です。アメリカでは昨今は学費が高騰し、年間5万ドル(500万円)なんていうのも珍しくありません。・・・・
例えば日本の大卒初任給は月々20万円程度(年収300万円程度)ですが、アメリカでソフトウェアエンジニアの初任給は7万~10万ドルが相場です。経験を積めば、アマゾンやマイクロソフトのように20万ドル以上の年収を得ることも可能です。日本では部長以上になってもこれ以下の年収ですから、夢がなさすぎます。・・・・
卒業するまでに3000万円かかると書いている人もいますが、生活費もいれれば、4年間でそのくらいかかるとこともあります。コミュニティーカレッジなどに行けばかなり学費を抑えることはできます。
・・・・・・つまり能力があれば学歴は関係ないのです。実際、大手ほど学歴を気にしません。マイクロソフト、アマゾンなどは学歴不問です。ビルゲイツだって大学中退です。ではどうやって能力があることを証明するのか?転職の人は履歴書を見ればだいたい分かりますが、新卒の人は学歴で証明するしかないのです。
でもアメリカ企業は経験もあることを重視します。なので未経験の新卒は取りたがりません。そのためアメリカでは高校生や大学生が、夏休みになると企業でインターンとして働き始めます。そうやって実務経験を積んで就職に有利になるようにするのです。
インターン先の企業が気に入ってくれれば、卒業後にそのまま就職することも可能ですし、他の企業を探すこともできます。また途中で就職し、学費をその企業に払ってもらうという手もあります。アメリカの大手企業は、たいていが社員の学費を払ってくれます。
・・・・アメリカで就職したいのなら、アメリカの大学に行くのがお勧めです。ちなみにわたしは日本の大学に行きました。それと英語力です。アメリカでは英語ができないのは人間扱いされないと思った方がいいです。どんなに仕事ができても、英語がダメだったら、一緒に仕事がやりにくいので、オファーをもらえる可能性が下がります。
●もしも、日本の大学の文系専攻から退学、コミカレに進学して2.3年後に州立大学のコンピューターサイエンス専攻に編入と言う進路をへて、アメリカで就職ということを考えているのであれば、いくつかの具体的な問題があります。他の方も仰るように大卒の留学生がこちらで就職できるのは、比率も少いので、相当優れた業績、成績をレベルの高い大学でのこしていなければなりません。
たとえば、この州の州立大学のなかでは、UC BerkeleyのEE/CSの専攻がこの分野では一番市場価値があるのですが、こちらにコミカレから編入することは、至難の業です。というのは、この専攻は、新入から在学する優等生で入学枠がすでに埋まっていて、編入生に与えられる入学枠が他の専攻とはちがい希少だからです。・・・・・
残念ですが、4大卒の日本人留学生が現地就職できるのは10%以下で、大半が日本へ帰国していると思われます。
アメリカのIT系はインド人で埋め尽くされています。インドの人材派遣会社がH-1bに大量の人材の応募を行って、勤め先の米企業に来た4大卒のインド人技術者と話をする機会がありましたが、何回か抽選に外れたので、アジアの会社へ派遣され、経験を積みながら当選するのを待っていたらしいです。ようやくアメリカへ来れたと言っていました。
そもそもアメリカは新卒が最も就職しにくいんですよ。大半の求人広告には「〇〇の学位、1~2年の経験」という条件がついています。 また、編入して2年くらいの英語力では、ネイティブや公用語が英語のインド人に太刀打ちできません。
アメリカでは学歴などではなくて『何ができるのか=その経験』がウリで、履歴書にいろいろ書けたら大丈夫なようである。昨秋、娘婿に聞いた時も同じことを言っていた。『今は履歴書にいろいろ書ける経験があるから大丈夫だ』と。
上記の学生さんが書いてるように『英語が解る』が基本のようだが、日本語が喋れるのもウリの一つになるのだろう。日本の大学を卒業してアメリカで就職は、ムツカシイのだろう。アメリカの企業に就職するのならアメリカの大学に入学することだと思う。
日本とアメリカでは、基本的な発想が全然違っているようで、要は実力さえあれば、日本よりはアメリカの方が断然オモシロいように思います。
★ 今回の平昌オリンピックの幕開けは、北朝鮮の話題ばかりで『スポーツの祭典』と言うすがすがしさがなかったのだが、この500メートル女子の金銀の二人はホントによかったなと思っている。
そんな小平奈緒は、日本選手団の主将を務め、『主将は金は取れない』と言う変なジンクスもあったようだが、それを吹き飛ばす快挙であったと同時に、レース直後のこの行動は観る人たちに感動を与えたし、地元韓国の各紙も大きく好意的に報道したようである。
こども時代を韓国、今のソウルで育った私は、韓国には特別の感情を持っているのだが、日韓関係がもう一つの昨今、これは特筆すべき出来事だと思って、長くその写真が残るInstagram に下のようなコメントを付してアップしたのである。
rfuruya2 私は小学生時代を朝鮮、今のソウルで育った。韓国は半ば故郷のような感じを持っている。日韓関係がもう一つのいま、今回のオリンピックで一番印象に残っている写真である。
それに対して沢山の『いいね』と、私と同じように感じておられる沢山のコメントを頂いて、大いに気を良くしているのである。
★ところで、 Instagram は、昨年4月から始めたばかりなのだが、私は電話機能のあるスマホは持っていないし、Instagram は元来がスマホから投じられるのが一般的で、私のようにパソコンで観ていたり、デジカメやこの写真のように新聞からの写真をInstagram に投じるのはなかなかムツカシイと言うか、殆どの方は『できない』のではないかと思っているのである。
ネットで検索してみても、『通常ではPCから利用できません』と出てくるし、
スマホではなくて、デジカメからの写真を利用する方法も間違いなくあるのだが、そんな高度なことはとても私には無理なのである。
★私は、技術的なことは全く苦手で、ネット関連のことも自分では何もできないのだが、周囲にいる指南役の先生に教えて貰ってそれを反復して利用しているので、 『動画の編集』や『記事や写真の切り取り』などもできているだけなのである。
どんなものがあるかと言うと 私がネット関連で使っているのは『こんなアイコン』のものが主で それを反復利用 しているだけなのである。
Instagram に デジカメなどの写真を使うには、この中の 『iCloud フォト』をクリックしてスタートするのだが、これを作ってくれたのは娘の方の孫の長男・門野力也で、彼はびっくりするほどネット関連詳しいのである。
彼が全部造ってくれて、私はその通りにやっているだけなのである。忘れてはいけないので、そのやり方はこんな箇条書きで残して貰っているのである。
まずは『パソコン側の操作』だが、こんな順序にやれば、私の電話機能のない旧いスマホに写真が取り込めるのである。
パソコンの操作
1.デジカメで撮った写真をパソコンに保存する
2.デスクトップにあるiCloudフォトを開く
3.共有をクリック
4.もう一度共有をクリック
5.上のお気に入りバーみたいなところにある「写真またはビデオを追加」をクリック
6.「写真またはビデオを選択」をクリック
7.iPhoneに共有したい写真を選択
8.終了を押す
上記の3番目にはこんなサイトが現れるので、あとは順番にやれば、iPhone 側に写真が入っていくのである。
iPhone 側の操作は、旧い電話機能はナイ のだがその他の機能はちゃんと使えるし、幾ら使っても『無料』だからホントに便利である。Line もできるので、普通の通話はできないが、アメリカとのLine での通話は大丈夫なのである。
その順番は以下の通りなのである。
iPhoneの操作
1.「写真」を開く
2.下の3つの真ん中にある「共有」を推す
3.インスタグラムにあげたい写真を選択
4.下の一番下にあるボタンを押す
5.メッセージのところを横にスライドしてインスタを押す
6.シェアを押す
冒頭のInstagram 上に投稿した写真は、こんな箇条書き通りにやっただけの話で、こんな記録なければとても自分ではできないのである。
この箇条書きは私のパソコン内にはあるのだが、『消えてしまっては大変』なのでこんなブログに残しておけば、半永久的に『gooのブログ』がちゃんと保管してくれているのである。
昨今のこのようなサイトはホントに膨大なデーターをいとも簡単に保管してくれるのだが、
例えば、私がブログにアップした写真は、『雑感日記 画像一覧』として http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/images/?p=1
Gooのサイトの中に最初の1枚から順番に、このように保管してくれているのである。
1枚に18枚が収められているので、12000枚を超す写真全てが見ることができるのである。
ネットの世界はホントに素晴らしい。 『自分のやりたいこと』だけを覚えたらいいので、余分なことは不要だと思っている。
★オリンピックの金メダルは、解り切ったことだが『世界一』ということなのである。
どう考えても『世界一』はスゴイ。
そんな出来事が、続いて実現した。
昨年11月に怪我をした羽生結弦選手だが、金メダルの期待を裏切らず、当然のように『金メダル』を取り切った感じの演技だった。
素人が観てもなかなか点数の仕組みが解り難いフィギユアスケートの世界だが、『これは一番だ』と感じさせたような迫力の演技だったように思う。 世界一は素晴らしいし、2番目も日本人の宇野昌磨選手が続いたのがさらに素晴らしかった。
そんな興奮が冷めやらぬ中で、今回のオリンピックの選手団の主将を務めた小平奈緒選手がこれも期待通りの『金メダル』世界一となった。
インタビューで見せたその語り口にも小平奈緒の人柄が感じられたし、
レース終了後、真っ先に李相花に近づき、韓国語で「チャレッソ(頑張ったね)」と声をかけた と言う自然な仕草にも、世界一のスポーツ選手に相応しいものが感じられたのである。
試合中も、試合後も、1日おいたインタビューでも『世界一に相応しい 小平奈緒選手』を見ることが出来た。
★ そういう意味で感動の2日間が続いたのだが、こちらの藤井聡太五段が羽生竜王を破ったニュースもびっくりしたが、
翌日はこのトーナメントに史上最年少優勝を果たしてめでたく『六段昇格』を果たしたというニュースが飛び込んできた。
昨年来、将棋界の話題を独り占めしている藤井聡太さんだが、オリンピック流に言えば『金メダル』に匹敵する快挙である。
囲碁と違って、将棋の日本一は間違いなく『世界一』なのである。
未だ中学生の藤井聡太さんだが、こちらもオリンピックの『金メダル』に匹敵する快挙であることは間違いない。
そんな『スゴイ出来事が続いた』 3日間だった。
★最近は毎日の半分をパソコンの前で過ごしているのだが、中でもFacebook は繋がってるトモダチたちが、どんな風に暮らしてるかがよく解っていい。
別に、特にコメントをしなくても、「いいね」を押さなくても何が起っているのかは、見てているだけで解るのである。
私の周りで言えば、アメリカの娘一家のことが一番よく解って、すぐ隣に住んでいるような感じである。
確か、2月の中頃には孫の長男が久しぶりにアメリカに戻るとか言ってたので、もうそろそろかなと思っていたら、昨日のFacebook に娘がこんな 写真をアップしていた。
こんなコメント付きである。
『長男が1年ぶりに日本から戻ってきた。
ランチは日本では高くてあまり食べれないというピザ。
私の断食の成果がことごとく崩れ去っていく~~(笑)』
黙々と食ってる感じだが、いま慶応大学4回生の孫は、何かもう1年自分のやりたいことをやるとか言って、わざわざ1年休学して今年の春の卒業を1年延ばして、学生をもう1年やるらしい。
授業料以外の『日本での生活費』を全て自分で頑張ってるので、日ごろは粗食に耐えているらしい孫だが、年末・年始は三木に遊びに来てたその時は、おばあちゃんがまさに『孫可愛がり』で歓待していたが、1年振りのアメリカ帰国となると、娘も特別待遇での扱いになっているようなのである。
3人の孫の中で、娘は特に『俺には厳しくて、末弟には優しい』と長男は常にぶつぶつ言っていたのだが、この厚遇ぶりを見るとそうでもないので、これには感謝すべきだろう。
母親にとってみると『こどもはいつまで経ってもこども』なのである。
それは家内の息子に対する扱いを観ていても、息子が戻ってくるとなると、買い物の質が上がって特別になるのが、いつものことである。
幾ら長男には厳しいと言う娘でも、1年振りに戻るとなるとこうなるのだろう。
これは、今日の娘婿がアップしたFacebook の写真である。
『長男が帰ってきている。晩御飯の後、こんな手作りロールケーキが出てくる。
何か解せないけど、ご相伴にあずかれるので良しとしよう。』
と言うコメントが載っている。
それにしても結構な量である。今、娘家族は長男と末弟だけの4人家族にしては、多過ぎると思うのだが、彼は酒も飲まぬのだが、『甘いモノ』だけには目がないのである。 『晩飯の後』との断りがあるが、多分これも7割ぐらいは独りで食ったのではなかろうか?
ごく最近まで娘夫婦は『断食』をしていたらしいが、孫は兎も角『娘婿』はご相伴で『断食の効果』が薄れないようにと祈るものである。
★孫のアメリカ帰国も、多分10日ほどでまた日本に戻ってくるのだろう。
日本に戻ったら、また納豆ぐらいしか食えない食生活が待っている孫なのである。今春卒業しておけばそんな生活にもおさらば出てたはずなのに、自ら選んだ道だから、もう1年間粗食に耐えて頑張って欲しい。
今回の帰国では、末弟にいろいろと『家庭教師役』を娘に頼まれているらしいから、その駄賃代わりに、アメリカにいる間だけでも、いいモノをいっぱい食って帰るがいい。
あと何日の滞在なのかは定かには解っていないのだが、そのうちにまた Facebook でいろいろと情報が解るかも知れないから、楽しみである。
★連日大リーグの 大谷翔平のニュースが流れる。
何か別格である。
スターだけが持っている何かがある。
一言で言えば『絵になる大谷翔平』とでも言うべきか。
そんな大谷の写真がいっぱいあったので、その中の幾つかを並べてみる。
文字は要らない。 そんな感じである。
今年の秋、サンタアナ で 『本物の大谷翔平を見れたらいいな』 と思っている。
★2004年、71歳。
この年の出来事を見てもよく覚えていない。ある意味平穏な年だったのだろう。
★この年、私の周辺であった大きな変化は、神戸の西神と言う三木のすぐ近くに住んでいた娘一家が、アメリカに移住したことである。
娘婿がノーリツのアメリカ市場進出に伴いアメリカ勤務になったからである。男の子ばかり3人の孫たちが未だ小学生の頃で孫たちと遊んでやるのが、結構な私の仕事であった。
特に真ん中の真也は未だ小学2年生の頃で、川での魚取りや、森でのカブトムシ採りなどに引っ張りまわされていたのだが、8月からは一切それがなくなってしまったのである。
そんなことから、私の生活のパターンがちょっと変わっていったのだと思う。当時は既にパソコンも既にあったのだが、ネット関係もパンダ碁を打つぐらいだったのだと思うが、この年の年末に初めてデジカメを買っているのである。
私はそれまで、カメラなるものを持ったことがなかった。写真を撮るのに手間がかかり過ぎるのがどうしても自分で写真を撮ろうと思わなかった理由である。カメラを買う、写真を撮るのはいいのだが、そのためにはフィルムを買う・現像する・それを選んで写真にする・一緒に撮ってあげた人にあげる・アルバムに貼る・・こんな一連の作業が面倒で、どうしても自分で写真を撮る気にはならなかったのである。
現役時代には結構世界を回ったし、日本でもいいところいっぱい行っているのだが、『自分の目で確り見る』ほうがいいなどと変な理屈をこねて、現役時代は他人様から頂いた写真以外はないので、今から思うと勿体ないことをしたとは思うのだが・・・
デジカメを買おうと思ったのは、そんな手間が一切なくなったことと、多分もう一つは『孫の世話の手間』の時間が無くなったから、『何か新しいこと』をしようかと思ったのだと思う。
これがこの翌年、アメリカから遊びに戻ってきた孫を撮った写真なのである。
最近は毎日のように撮っている写真も、スタートしたのは2005年のことなのである。
それにしても孫たちのアメリカ生活も14年も経つのである。
英語がペラペラで、アメリカ人のような発想になるのも当然なのかも知れない。 そんな転機の年だったとも言えるのである。
★この年の初めごろのことだが、初めてアメリカに進出する『ノーリツ』だったので、その担当となった娘婿にKMCに『いろいろ教えてやって欲しい』とお願いしたのだが、娘婿から『KMCの太田さんと言う方にお世話になっている』とのメールが届いたと日記にあるのだが、ひょっとすると今カワサキの二輪事業のTOPの 太田さんではないかな? と思ったりしているのである。
私は面識はないのだが、確かKMCに出向されていた時期があるはずなのである。
ちなみに『ノーリツ』の創始者の太田敏郎 さんは、カワサキの副社長もされた髙橋鐵郎さんの海兵時代の同期で、その弟の太田武郎さんは私の大学の野球部の2年先輩でもあったので、元々カワサキとノーリツはいろいろ関係もあったのである。この件もすぐ髙橋鐵郎さんの耳に入って、直接電話など頂いたりしたのである。
そのほかこの年で特筆することを上げるなら、今も続いているゴルフコンペ『Z1会』にこの年9月に入会している。この入会を誘ってくれたのは、大槻さんや稲村さんと言うこの会のトップではなくて、カワサキの6時間耐久ロードレースを最初に走った当時のテストライダーの飯原武志くんが声を掛けてくれたのである。この会に入会したお蔭で、その後の私のゴルフライフが続いているのである。
定年後ずっと続いているストレッチの効果がやっと出始めたのか、日記に『足腰の調子がいい』などとの記述がある。ストレッチを始めて3年目にしてやっと効果が出てきたのかも知れない。最近は腰は重くなったりすることはあるのだが、基本的に全く問題はない状態が保てているし、柔軟性は毎年少しづつだがよくなっているのである。
私の70代のスタートは静かに始まったのだが、何となく『新しいことを始める』環境が整ったそんな年だったのかも知れない。
★平昌オリンピックを観ているが、競技の判定がタイムなどだけではなくて、審判の点数が加算される競技が多いので、サッカーや水泳の競泳などに比べるとどうも素人が見ているだけでは結果が解らないのはもう一つ迫力がない。
スケートのタイム競技なども確かにタイムで競うのだが、組み合わせやアウトとインなどホントにどうなのかがよく解らない。
そんな中で、日本選手は出場していなかったが、スノーボード・モトクロスはオモシロかった。
バイクのモトクロスのスノーボード版で、6人の同時スタートで行われていた。
ジャンプも、カーブも、転倒もあって迫力満点だが、何よりも誰が勝ったかが目で見ていて解るのがいい。
6人の同時スタートで、
同じコースを滑る。
豪快なジャンプも一緒に飛ぶので迫力満点である。
それにしても、観客は観戦が大変だなと思う。 寒いだろうし、ゴール以外は、映像では見れるのだろうが、レースの殆どは現地でも実際には見ることができない。
それなのにこんなに大勢の人が詰めかけるのは、やはり現場でだけ感じられる何かがあるのだろう。
そういう意味では、ゴルフ観戦も同じような意味がある。
やはり、現場でしか感じられない『何か』があるのだろう。
★スキーに比べて、確かに『スノーボード』のスポーツ性は高いが、オリンピックの種目になったのは2006年のトリノかららしい。
まだ新しいスポーツで、解説の方も言っていたが、日本では練習をする環境などが、まだまだ不足のようである。
確かに、平昌オリンピックの スキー会場の広大さはスゴイなと思う。
雪のスポーツは、シーズン性もあるので、普及するのはなかなか大変な面もあるのだろう。
★ご縁があって川崎航空機工業に入社し、3社合併があって川崎重工業で現役生活を終わったのだが、それから20年も経とうとしている今も、お付き合いが続いている人たちが何人かはおられる。
そんな中で、この1年一番多くお会いして一緒の時間を過ごしたのが、大槻幸雄さん、稲村暁一さん、田崎雅元さんの3人だろう。
みんな 川崎航空機工業入社で、大槻さんが昭和30年、私が昭和32年、稲村さんと田崎さんが昭和33年入社なのである。
カワサキワールドのZフェアで、KAWASAKI Z1 FANCLUB のこんな仲間たちと一緒にこの4人が顔を揃えたのである。
その後 カワサキワールドの一室で、こんな雰囲気での昔話に花が咲いたのである。
私は『想い出を共有する人たちを仲間』と称しているのだが、お互い『想い出を共有する・そんな昔話』が出来る仲間なのである。
★ 稲村暁一さん (昭和33年 1958 入社)
私は現役当時の稲村さんはよく知ってはいたが、一緒に仕事をしたことは殆どないと言っていい。
彼は名車カワサキZのエンジン開発担当者として有名で、カワサキの『4サイクルは稲村』と言われていたのだが、カワサキが初めて4サイクルエンジンを開発したのはZからなので、それまではどうしてたんだろう?と言うのが私の疑問だったのである。
稲村さんに『なぜ稲村さんは4サイクルのエンジニアと言われるのか?』と聞いたことがあるのだが、その答えは『入社当時川崎航空機が手掛けていた4輪車の開発でその4サイクルエンジン開発を担当していた』と言うのである。
この4輪車は陽の目を見なかったが、後、二輪のアメリカ市場を担当された浜脇洋二さんなども関わっておられたプロジェクトで、そんなことで稲村さんは入社以来4サイクルエンジンに関係していたと言うのである。
現役当時、仕事らしいことで稲村さんと話したのはそれくらいしかないのだが、最近は年4回開催されているZ1会のゴルフコンペでお会いしているし、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の会合にも顔を出してくれたりもするので、現役時代より密接なお付き合いなのである。
いまゴルフコンペのZ1会の副会長を務める稲村さんに『ゴルフを教えた』のは、実は私なのである。
なかなか信じがたいと思われるだろうが、1990年代後半の単車事業本部の理事室は、当時の3研と言われていた綜合事務所にあって、立派なゴルフネットが張られていて、いつでも打ち放しができる環境だったのである。こんな部屋を作ったのは当時企画にいた佐伯武彦さんで、アメリカのリンカーン工場帰りの彼でなければ作れなかった代物だったのである。
その理事室で稲村さんとは机を並べていたので、彼に『ゴルフをやること』を勧めて、コーチしたのは私なのである。あの時私がゴルフを勧めていなかったら、稲村さんのZ1会副会長もなかったのである。
現役時代は、稲村さんとは会議などではしょっちゅうご一緒しているのだが『共有している想い出』と言えばそれくらいのことで、引退してからの方が、間違いなく会話の機会も多いのである。
★大槻幸雄さん (昭和30年 1955 入社)
カワサキの技術屋さんの中で一番長くお付き合いし、一番長くお話をしているのは『大槻幸雄さん』であることは間違いない。
大槻さんは『結構こわい』イメージも強くて、『とっつきにくい』印象もあるのだが、私はそんな大槻さんに何でもざっくばらんにお話しできる仲なのである。
そんな大槻さんとの初めての出会いは、昭和40年6月(1965)『鈴鹿6時間アマチュア耐久レース』の時だった。私は当時レース運営やライダー契約など担当していたのだが、その時カワサキのレースチームに初めて正規の監督が出来て監督が大槻幸雄さん、助監督が田崎雅元さんだったのである。それまではカワサキコンバットの三橋実が監督を務めていたのである。
当時大槻さんはGP125のマシン開発なども担当されていたのだが、この年の7月に大槻さんは1年間の『ドイツ留学』が決まったのだが、翌年マン島で開催されたTTレースの公式練習中にカワサキのマシンに乗った藤井敏雄さんが転倒事故死される事故があって、そのご遺体をマン島から送り出して頂いたのが、たまたまマン島の現地に行かれていた大槻さんで、羽田で受け継いだのが私だったのである。
その直後大槻さんは日本に戻られて、FISICO で開催された日本GPの監督として、私はそのマネージャーとして再会するのだが、その時カワサキが契約したデグナーが練習中に転倒して生死の境を彷徨う入院などの出来事があったのだが、この時の病院での対応なども、当時ドイツ留学から戻られた直後で『ドイツ語が解る』大槻さんがいろいろと対応されたことなども印象に残っているのである。いずれにしてもこの年は、お互い大変だったのである。
大槻さんも私もこのレースを最後にレースチームを離れ、大槻さんは単車の市販車開発に戻られ、私は東北6県担当の営業に異動するのだが、その最初の東北6県のデーラー会議に技術説明者として来て頂いたのが大槻さんで一週間ほどご一緒したのである。その時言っておられたのが『世界一のバイクを創る』これが多分大槻さんのアタマにあったZだったのだと思うのである。
大槻さんとのお付き合いはそんな『レースが中心』だったのだが、その後私が開発途上国市場を担当した時に『GTO』という110ccのバイクの開発を当時技術部長をされていた大槻さんにお願いに上がったことがあるのだが、ただ一言『そんな開発はしない』と仰るのである。当時は大槻さんのアタマには『大型車エンジン』しかなかったのだろうと思うが、私が粘り強く喋ってたら『2サイクルの松本』と言われた松本博さんが『私がやりましょう』と助け船を出してくれて『GTO』が開発されたのである。
このGTOは、CKDの部品輸出なので台数記録がカワサキには残っていないのだが、東南アジア市場各地で『GTOで溢れた』と言われるカワサキのダントツのヒット商品となったのである。これが私が直接関与した唯一の商品企画で、それ以外は一切商品企画には直接的には関係していないのである。
そんな大槻さんは『世界の名車カワサキZ』の開発責任者として知られている。そのZ発売40周年の記念イベントが5年前アメリカで行われたのだが、Z1会のゴルフコンペの親睦会の席上で突然『古谷も来い』と仰るのである。私はZは売りはしたが開発にも、当時のアメリカにも全く関係がなかったので、固辞したのだが『どうしても』と仰るので、Zについて何かしないといけないと思って、登山道夫さんと相談して立ち上げたのが KAWASAKI Z1 FAN CLUB なのである。
そして その会員カードをアメリカで開催された『Z40周年記念イベント』に持ち込んで、その出席者たちに会員になって貰ったので、KAWASAKI Z1 FAN CLUB のカードの No.1は浜脇洋二さん、No.2がアラン・マセック No.3が大槻幸雄さん とまさに『カワサキZの真打ち』さんたちが最初の番号に続いている世界で唯一のFAN CLUB なのである。
そんな最初の経緯もあって、大槻さんには KAWASAKI Z1 FAN CLUB の正規会員としていろいろ手伝って頂いているのである。
大槻さんは、Zの開発責任者として有名だが、実際にご自身で開発に従事され、それを川崎重工の事業に育て上げられたのは、二輪よりもむしろ『ガスタービン』の分野なのかも知れない。こんな立派な本も出版されていて、今や川崎重工の大きな部門となっているのだが、若い頃ドイツ留学されたのもこのガスタービン関係だったのである。
こんな大槻さんの本が私の手元にあるのは、三木で開催されたKAWASAKI Z1 FAN CLUB のイベントで、大槻さんが提供されたものでその時私も購入したのである。読んでもとても理解はできないのだが、大槻さんの本だから持っているのである。
こんな旧い想い出を共有している『大槻幸雄』さんなのである。
★田崎雅元さん (昭和33年 1958 入社)
川崎航空機入社は私の一期あとだが、稲村暁一さんとは同期、川崎重工業社長・会長を歴任されているのだが、何時まで経っても私の田崎さんとの仲は、『創成期のレース仲間』のままの関係が延々と続いているのである。
田崎さんとのお付き合いはホントに長いのだが、ひょっとすると『二人だけの写真』は、これが初めてかも知れない。この週初めのKAWASAKI Z1 FAN CLUB のイベントに突如『行きたい』と電話が掛かってきて、ご一緒したのである。
現役時代、『一緒に一番長く、一番密接に仕事をした仲間』は、間違いなく田崎雅元さんである。
初めて会ったのは、未だジェットエンジン時代の労組の常任監事時代の田崎さんで私は発動機部門の常任幹事をしていたころだから、昭和35年(1960)以来もう60年近くになるのだが、関係がなかったのは、私が退職し田崎さんが川重社長の何年間だけで、会長時代はよく川重の会長室を訪ねたし、今はカワサキワールドで年中行事として定着している『ミニ・トレインイベント』も発案者は私、当時会長をしていた田崎さんが神戸市に一緒に行ってくれて、メリケンパークでの開催が実現したのである。
若い頃から一緒にやった仕事や、お互い連携したことを思い返して見るといっぱいあり過ぎて、なかなか書ききれないのだが、カワサキの単車事業展開の結構真ん中の部分にいて、特に70年後半のハーレー・ダンピング対策やそれに続くアメリカ市場でのHY戦争の影響で、カワサキの単車事業は『最大の危機の時代』を迎えるのだが、そのハーレ・ダンピングの対策担当者が田崎さんだったし、その対策としての国内市場の構造改革を担当したのが私だったのである。
そのあとすぐ髙橋・田崎さんはその渦中のアメリカ市場のKMCに出向されるのだが、その販売会社の構造対策の具体案がムツカシクて、急遽私は当時川重の山田専務や本社財務のメンバーで構成されていた『単車事業対策委員会』の要請により単車企画室に戻って、当時のKMC社長の田崎さんとのコンビでKMCの販社構造対策を主として行うことになるのである。
84年のKMCの新社屋プロジェクトなども、KMCと本社財務を結んだ企画室の合作の成果で、当時の川重の大西副社長などが直接、建築会社をご紹介頂いたりしたのである。
当時のカワサキ単車事業本部は大庭浩本部長・髙橋鐵郎副本部長・私が企画室長、田崎雅元KMC社長、佐伯武彦リンカーン社長と言う布陣で、考えてみると私を除いて、その後の川崎重工業の社長がお二人、副社長がお二人の錚々たるメンバーだったのである。
その中でKMC対策が中心課題で、当期の経営改善もさることながら、当時100億に近かったKMCの累損消去が企画室長としての『私の最大の目標』だったし、その目標は、田崎・百合草のKMC 社長時代に達成できる成果を残したのである。そしてその実現には、国内のカワサキオートバイ販売からKMCに逆出向していた『富永・日野両君』が果たした役割も大きかったなと思っているのである。
★田崎さんはまさしく技術屋さんなのだが、図面を書いたこともナイ技術屋さんで、技術屋さんらしからぬ範疇の仕事が多かったし、KMC時代は大変な営業外対策が必要な時期だったので、田崎さんにバランスシートを教えた先生は私なのである。
ただ誠に優秀な教え子で、田崎さんは その後資金対策などに格別の興味を持たれたし自ら勉強もして、私などよりはよほど詳しくなったし、川崎重工業社長時代も無配が続く非常に難しい時代を引き受けられたのだが、その期間に川崎重工業のバランスシートの内容は画期的に改善されたし、そのムツカシイ旗を自ら振られているのである。
そんなことで非常に親しくして頂いていて、昨年はメールのやり取りも頻繁だったし、何回もお会いしたし、今年も多分昔同様の仲間としてのお付き合いが続くだろうと思っている。
こんな昔の仲間たちは、ホントにいいなと思っている昨今なのである。