★ 中曽根康弘元首相が亡くなったというニュースが流れた。
勿論、その総理時代も知ってはいるが、
改めて『中曽根康弘Wikipedia』 を読んでみた。
流石にその量は半端ではない。 読むだけでも大変だったし、以下に纏めるのに2時間ぐらい掛かった。
『2019年11月29日(101歳没)』とあって、その記述のの速さには驚いた。
そんな中から、あまり知られていない初めてのことも含めて、纏めてみたので興味・関心のある方はお読みになって下さい。
●群馬県高崎市に材木商・中曽根松五郎の二男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である。敷地は3ヘクタールもあって、そこに住居と工場があり、働いている職人が中曽根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いたという。
●首相就任後、戦争に関しては、皇国史観には賛成しない、東京裁判史観は正当ではない、対米英と対中対アジアで認識が異なる、国民の大多数は祖国防衛のために戦い、一部は反植民地主義、アジア解放のために戦ったと4点を挙げた。さらに中国、アジアに対しては侵略戦争だったが、アメリカ、イギリスとは普通の戦争だった、中国、アジアには侵略、韓国には併合という帝国主義的行為を行ったので反省し詫びるべきと答えた。
●政治家への転身
戦後、内務省に復帰しその後退官し、1947年衆議院議員選挙に当選。以後1955年の保守合同までの所属政党は、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党。この間、反吉田茂勢力として、自主憲法制定や再軍備を標榜し、長く野党議員として過ごしている。
●1956年には「憲法改正の歌」を発表するなど、改憲派として活発に行動し、マスコミからは「青年将校」と呼ばれた。
同年11月27日の日ソ共同宣言を批准した衆議院本会議において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行ったが、内容はソ連に対する厳しい批判だったり「涙を呑んで渋々賛成。」等と述べたため、社会党や共産党が抗議、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除される異例の出来事もあった。
●初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をしたことはよく知られているが、若い頃から総理大臣を目指すことを公言し、憲法改正や首相公選論の主張など大胆な発言やパフォーマンスを好んだことや、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。
●運輸大臣時代は成田空港問題にかかわり、1968年4月6日に友納武人千葉県知事とともに新東京国際空港公団と条件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書」取り交わしに立ち会っている。「札束を積めば農家なんてすぐ土地を売る」と反対派の訴えに耳を貸さない政治家が多い中、同年8月9日には自宅にアポなしで訪れた戸村一作ら反対同盟と面会している。また、これに先立って空港公団幹部によるアポなし訪問を受け、中曽根は買い取り単価を引き上げて畑1反あたり一律110万円にすることにその場で同意しており、そのことが上述の覚書締結に貢献したとされる。
●三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体などから強く批判された。
●要職を経験する中で、いわゆる「三角大福中」(三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫、そして中曽根)の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。
●1976年、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。後に“刑務所の塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ち勲章までもらったのが中曽根”と揶揄された。
●総理大臣就任
「日本一の中曽根嫌い」を公言していた金丸信との和解もあり田中派の支持を得た中曽根は、党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年11月に鈴木善幸の後を受けて第71代内閣総理大臣に就任する。
●従来の官僚頼みの調整型政治を打破し私的諮問機関を多数設け、首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。
●中曽根は自民党単独政権の回復に執念を見せ、「死んだふり解散」とも呼ばれながら衆参同日選挙を強行した1986年7月の衆院選と参院選で自民党を圧勝させた。
●1986年に発生した伊豆大島の三原山噴火では、首相権限で海上保安庁所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された国土庁の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の内閣安全保障室長であった佐々淳行らは、後年の阪神・淡路大震災発生時における村山内閣の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。
●性風俗店の摘発やお色気番組の規制にも力を入れ、風俗営業法を大幅に改正し風俗店の出店区域を大幅に制限し、日またぎ営業を禁止し、テレビコマーシャルを禁止するなどしたため、同時期に起こったエイズ騒動とともに、「日本における性風俗産業は壊滅した。」という風説が流れるほどになった。
●首相在任中2度あった総選挙(1983年と1986年)では、現職首相でありながらトップ当選できなかった。これは戦後の首相では中曽根だけである。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。
●1982年11月当時、日米関係は最悪と呼べる状態だった。
1983年訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言、「日本列島不沈空母化」および「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言」により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に“個人的に親密な”「ロン・ヤス」関係を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した。
●日中関係
以前より総理大臣の靖国神社参拝は恒例であったが、中曽根内閣の際に靖国神社参拝問題が持ち上がり、また日米同盟と防衛力の強化に努めた。この問題が対中関係として際立った印象を与えているのは、中曽根が首相として初めて8月15日に公式参拝をしたのは中曽根だけである。
●民営化推進
中曽根内閣は戦後の自民党で最も新保守主義・新自由主義色が濃い内閣であった。日本専売公社、日本国有鉄道および日本電信電話公社の三公社を民営化させた。これによって総評および総評を支持母体とする社会党を切り崩す意図があった。また、長年半官半民であったフラッグキャリアの日本航空の完全民営化を推進させた。
●同日選大勝後、中曽根にとって最悪の状態となった。藤尾正行文部大臣が中曽根の自虐史観転換を批判する発言を雑誌に行い罷免され、中曽根自身も「黒人は知的水準が低い」「日本は単一民族」「女の子が書いた文章だから」などの失言が問題化し、さらに選挙中に「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と宣言していた売上税を導入しようとしたことから「公約違反」と追及され、支持率が一時的に急落する。
●総理大臣引退後
●1989年、自身が関与していた戦後最大の汚職事件といわれるリクルート事件が直撃した。野党は予算審議と引き換えに中曽根の証人喚問を要求したが、中曽根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。
●1991年の湾岸戦争では中東特使に任じられ、当時のイラク大統領サッダーム・フセインと会談して日本人の人質全員解放を成功させた。
●1996年には小選挙区比例代表並立制導入の際、小選挙区での出馬を他の候補に譲る代わりに、比例北関東ブロックでの終身1位の保証を受ける。
●1997年2月に憲政史上4人目の議員在職50周年を迎え、同年4月に大勲位菊花大綬章を生前受章する。
●1996年12月30日号の「AERA」誌上で、「国鉄分割民営化の真の目的は国労を潰すことだった」と暴露した。
政界引退後
●2003年の自民党の比例区における73歳定年制導入により、2003年の総選挙では自民党の比例北関東ブロックからの立候補ができず、立候補を断念し衆議院議員から引退した。
●2005年10月28日、党新憲法起草委員会が新憲法草案を発表した。中曽根が前文小委員長として前文をまとめたが、発表された草案では内容が変更されていて、中曽根原文より大幅に簡略化された内容となる。
●2007年3月23日 日本外国特派員協会での記者会見で、慰安婦問題について質問され、「日本軍による慰安婦の強制動員事件について、個人的に知っていることは何もない。新聞で読んだことがすべてだ」と語った。
●2008年9月3日付の『読売新聞』朝刊に、9月1日に首相辞任の会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿して、「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べている。
●2013年12月4日夜、国会近くにある東京・紀尾井町のホテルニューオータニで、5月に95歳を迎えた中曽根の祝賀会が行われたが、企画者とされる山口敏夫元労相以外にも、山崎拓、伊吹文明、石破茂、石原伸晃、古屋圭司、島村宣伸元、二階俊博、亀井静香元、渡辺喜美らが出席した。旧中曽根派の同窓会のようだったと報道された。
●2015年5月には97歳の誕生日を迎えたが、同年8月7日の読売新聞に戦後七十年にあたっての長文の寄稿を行うなど健在ぶりを示している。
●2018年5月、日本の総理大臣経験者では史上2人目の100歳の誕生日を迎えた。関係者の話によれば、近年足腰が衰えたものの、都内の事務所を週2回程度訪れ、書類整理や来客との面会をこなしているという。
●2019年11月29日、101歳で死去。
●1983年1月16日、ブッシュ副大統領の晩餐会に招待された席上で、中曽根はこう述べた。 「今回の渡米に同行している次女の美恵子は、小学生だった11歳の時、インディアナ州ミシガンシティのモルト・ウィンスキー氏のお宅にホームスティしたのです。高校時代には互いに1年間、交換留学させました。ウィンスキー家とは20年近い交流が続いてます。今回の渡米に際しても、一家をあげてわざわざワシントンまで駆けつけてくれて、一同抱き合って再会を喜び合ったばかりです。かつて11歳の娘の美恵子をアメリカに送り出すとき、家内と『いつか総理大臣なって渡米する時が来たら、その時は美恵子が通訳をやってくれるといいなあ』と夢見たものですが、その後二十数年、政治家として家族とともに幾山河を越え風雪に耐えて、ここワシントンを訪れ、それが今、現実になって感無量です。国と国との関係も、ウィンスキー家と私の家とのように友情と信頼で築き上げたい」この話の途中で中曽根は感情がこみあげ、言葉を詰まらせてしまう。これを聞いていたブッシュ副大統領、並んでいた閣僚がハンカチを取り出して目頭を押さえる一幕があった。
翌朝シュルツから前夜の話を聞いたレーガン夫妻も目に涙を浮かべたという。
渾名
- 「政界の風見鶏」
- 「薮枯らし」
- 「緋縅の鎧を着けた若武者」
- 「青年将校」
- 「中曽根大勲位」
- 「大勲位閣下」
- 「ヤス」(ロン・ヤスとして、ロナルド・レーガンと並べて呼称される)
- 「ヤストラダムス」
- 「簾満月。」
- 「バーコード。」