雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話  23  日活映画 と 浜田光夫

2023-09-30 05:08:17 | カワサキ単車の昔話

★ 1965年(昭和40年)単車事業がスタートした頃の話だが、
 世の中はまだ映画が真っ盛りの時代で、
 カワサキの東京の広告宣伝課が日活といろいろと提携し、
 映画の中にカワサキを登場させていたので、
 日活映画の招待券なども沢山手に入っていたのである。

 そんな招待券で明石日活に『風と樹と空と』を観に行ったのは、
 この年の7月12日のことなのだが、
 7月14日にその明石日活に、この映画の主演俳優の浜田光夫舞台挨拶に来るという情報を課の女子社員が言うのである。

 全く突然の話で、何の約束もなかったのだが、
 私は『ダメ元で』と明石日活に出掛けて、
 浜田光夫のマネージャーに『カワサキの工場に見学に来ませんか』と言ったのだが、 
 何の問題もなく『伺います』というのである。


★『風と樹と空と』は、石坂洋次郎の小説で、
 1964年に映画化されたのである。

 その主演は、吉永小百合と浜田光夫の日活純愛路線で、
 多くのファンの支持を集め爆発的人気となっていたのである。


   



 そんな当代の大スターに突然「明石工場に来ませんか」と言ったら、
 びっくりするほど簡単に『伺います』ということになって
 浜田光夫と松原智恵子の二人がやって来たのである。
 そんな突然の話だったが、当時の塚本本部長に対応して頂いて、
 その録音を録ろうとしたのだが、録音器を持ち込むのがほんの少しだが遅れてしまって、既に始まっていたのだが、
 浜田光夫は、全く自然に『最初の挨拶』から『やり直して』くれたりしたのである。
 そんな対応が自然に出来るのは『流石だな』とその時そう思った。

 そんな話の後、『テストコースで単車に乗りませんか?』と言ったら、
乗ります』と言われて、テストコースにご案内したのだが、
浜田光夫が来るらしい』とは、いろんなところに伝わっていたらしく、
 テストコースはちょうど発動機工場の横だったのだが、
 発動機の女工さんたちがラインを離れて、群がって見に来たものだから、
 発動機のラインが止まってしまったのである。
 それくらいの人気スターだったのだが、
 当時の勤労部長に「突然、浜田光夫など連れてきて」と文句を言われたのだが、
 これは発動機の管理体制の問題で、私が文句を言われる筋合いはないと思ったりしたのである。


  
  

 然し、今思うと『よくやったな』と思うし
 浜田光夫も『よく単車に乗った』ものである。
 若し、怪我でもしていたら大変なことだったかも知れぬが、
 何の問題もなく上手くいって、
 浜田光夫もテストコースで単車に乘れて喜んでいたのである。

 どのように『お礼をしたらいいのか?』よく解らなかったが、
 3万円を謝礼に包んでいる。 
 当代のスターにこの金額が妥当だったかどうかはよく解らない。
 3万円か?と思われるかも知れぬが、
 その年の私のボーナスが6万円の時代なのである。

 そのあと、明石日活の劇場の壇上での本番では、
 浜田光夫は、カワサキのバイクの話を詳しく話してくれたし、
 広報担当の私としては大満足の出来事だったのである。


★ 私の行動は、このように突然、直感で動くことが多いのだが、
  その殆どの場合上手く行くのである。
  そんな中でも、この『浜田光夫の1件』は今思うとよくやったなと思う。 
  ただ突然のことだったし、何の約束事もない出来事だったので、
  この件の広報は一切やていない
  明石日活で浜田光夫が喋ってくれたのはよかったが、
  これをカワサキが広報に使うのはダメだなと判断したのである。

  外に広報したのは、このブログが初めてなのである。


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彼岸花 咲いた

2023-09-29 03:16:56 | 発想$感想

★ 少し涼しくならないと彼岸花は咲かないとか。
 そんなことで今年の暑さではお彼岸の日にはまだもう一つだったので、
 5日経っ今朝はどうかなと思って、
 防災公園の『どっこいさん』の方向に行ってみた。

 




 満開とは言えないかも知れぬが、
 こんな状況で綺麗に咲いていた。


  


 
 毎年咲く面積が広がっているようにも思う。





  ここは自生なのか、公園が植えたのかは不明だが、
  見事に咲いていた。


 
 


 我が家の庭にも2本ほどあるのだが、
 まだ蕾で開花していない。

 今年も彼岸花見れてよかった。
 広い公園だが、ここと昨年はもう一箇所、これは間違いなく自生していたのだが、
 今年はまだ見ることが出来ていない。
 芝生を刈ってしまうので、刈られてしまったのかも知れない。
 
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私の経歴書

2023-09-28 05:13:11 | 私の生き方、考え方&意見

★今回、三木の地域ラジオ放送のFMみっきいに出演することになっているのだが、
 その司会者の方から本題に入る前に、古谷さんの略歴を紹介したいのですが、
まとめられているものがあれば、お願いします。 
また、当日は、どういう肩書で紹介させていただいたらいいでしょうか? と

 『私の経歴書』を送って欲しいとのご依頼なのである。
 自分の経歴など公に発表したこともないが、
 私の生後、今までの90年間は、実は私は自分で整理して持っている。
 20歳の時からの日記もあるし、 結構、その記録は正確なのである。

 これが1歳から39歳まで
 振り返ってみると激変の人生である。
 然し、めちゃオモシロかった。
 カワサキ入社以来、他人の仕事を引き継いだことは一切ない。
 すべてが新しい創造的な仕事で、上司からの指示なども殆どなくて、
 自分の思い通りに進めることが出来たのは、
 すべてが新しい仕事で前例がなかったからだと思う。

  


  それは40歳以降も、67歳で現役引退するまで続いた。
  いい現役生活だったと言っていい。

  退職後は69歳にパソコンに出会ってから
  生活パターンが一変した。
  現役時代はパソコンも触ったことがなかったし、
  携帯も持っていなかった。
  いまもスマホは持ってるが、電話機能は一切使ったことがない。
  世の中には、そんなに急ぐ仕事や出来事はないと思っている。
  

  


 ブログ・ツイッター・Facebookとネットの世界に入って、
 新しい人達にいっぱい会えたし、全く新しい世界だった。
 





★ そんな中から概略を言えばいいのだろうが、
  ほんとに粗っぽく言えば、
  1933年 明石市で生れて、直ぐ朝鮮に渡り小学校時代は京城今のソウルで育った。 
  1945年 終戦で明石に引き揚げた時が中学1年生、
        神戸一中・明石高校・神戸商大を卒業
  1957年 川崎航空機工業に入社
  1961年 カワサキが二輪事業をスタートさせた当初から従事、
  1999年 現役引退するまでその殆どを二輪事業を担当した。
        広告宣伝・レース・東南アジアCKD事業など、
        カワサキの初めての事業を担当し、
        カワサキの二輪事業の経営中枢を担当
  2000年~ 退職後は2001年からパソコンを扱いだし
  2006年~ 毎日ブログ雑感日記をアップ
  2009年  NPO 法人 The Good Times を設立
  2010年  ツイッター
  2011年  Facebookに参入
 
  
   68歳からストレッチを始めて、柔軟性は20歳レベルを維持、
  90歳だが至って健康、最近も毎日6000歩は動いている。


★ ざっとこんなことだが、
  FMみっきいの司会をされる方には
  私の経歴で「纏められたものがあれば』ということなので、
  このままお送りしようと思っている。
  肩書など敢えて言うなら
 『NPO法人 The Good Times 相談役』である。 
  

 

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私と魚たち

2023-09-27 05:26:20 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ コドモの頃からだが、私はなぜか魚が好きである。
  ずっと家には池があったし、いっぱい魚たちはいた。
  一番立派な鯉がいたのは、明石公園の剛の池の魚たちを戦時中に食糧難から
  取って真鯉や鮒は食料にしたらしいが、
  錦鯉は助かってその錦鯉を伯父が貰ってきて池に入れていたことがあるのだが、
  大げさに言えば1m近くあったかも知れない。
 蝉をやったら食ったりしたほど大きかった。

 そんなことなので、
 私の周りにはずっと何か魚がいた。
 グッピーに凝ったこともあるし、
 一時は今の家にも本格的な池を造って、鯉を飼ってた時期がある。

 
 こんな鯉たちがいたのだが

 




 ある時、鯉の販売があって買ってきたら、
 どうも『鯉ヘルペス』に罹っていたらしく
 全滅してしまったので、

 



 池も埋めてしまったのである。





  いまは小さな池に小さな鯉と金魚やドジョウやメダカを飼っていて、
  毎日眺めて餌をやってるので、
  私が行くとこんなに集まってくるのである。




 昨年は金魚が子どもを産んだのだが、
 今年はなぜかダメだった。

 メダカは鉢でも飼っていてコドモをいっぱい産んだので
 こんな水槽を横に置いて眺めながらパソコンを打っている。

 


★ 朝散歩に行く協同学苑にはこんな池があって、
  鯉がいるのだが、


  
 

  この数年に生まれたコドモの鯉がいる。
  これが親だが、

 


  10cmぐらいの鯉がいっぱいいる。

 


  何十年も前から鯉はいたのだが、
 コドモを産んだりしたのは、ここ数年のことである。
 然し今年は産んでいないと思うので、何故かなと思っている。

 大したことではないのだが、魚好きはいろんなことを思うのである。
 我が家の金魚もそうだが、何故毎年産まないのだろう?
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私と車

2023-09-26 05:12:26 | 発想$感想

★ 車の免許を取ったのは30歳の頃だが、
 当時はまだ自家用車を持つ人は少なくて、
 専ら社用車の運転をしていたのだが、
 仙台から大阪に転勤をした昭和45年(1970)に初めて自分の車として
 カローラの中古車を買ったのが最初の1台である。

 それは社宅のあった高槻から大阪への通勤が殆どだった。
 車の運転そのものが好きで、仙台時代も東北6県の仙台-盛岡、仙台-秋田など200kmの距離の運転を楽しんでいた。

 今でも毎日、距離は短いが乗っているので、
 もう60年間殆ど毎日車の運転をしていることになる。
 交通違反は若いころは2度スピード違反で捕まったが、
 それ以外は無事故・無違反ゴールド免許になってからもう何年になるのだろう。
 
 ★ 自分の車は最初がカローラ、
  そのあと、これも中古だが、ホンダアコードに乘った時期がある。
  会社では『ホンダに乗っている』と言う人もいたが、
  私は同じ二輪業界の車をむしろ乗るべきだと思っていた。
  娘にかってやったバイクスズキだし、
  私のゴルフクラブヤマハだった。
  小さな二輪業界だからみんが良くなる方向がいいと思っていて、
  ホンダに乗ってることなど、気にもしていなかったが、
  鈴鹿サーキットに行くと特別待遇で、
  サーキットの中の駐車場に止めることが出来たりして重宝したのである。

  そのあと買ったのがBMWの5シリーズの新車で、
  これは結構高かったが、
  なぜBMを買ったのかと言うと、
  カワサキにいた浜脇洋二さんが日本BMWの社長になられて、
  『買ってくれ』と言われたからである。
  それ以降今まで、BMWを乗り継いでいるのだが、
  3台目以降は新車ではなく中古車である。
  もうずっとBMWに乗っているのでBM独特の乗り味に慣れてしまった。
  BMだけで今の車は5台目である。最初の車は2台目を買う時に、娘にやった。2台目も5シリーズの新車だったが、3台目からは中古にして車が大きくなったので3シリーズにして、現在も3シリーズである。でも最初の5シリーズと同じか大きいかも知れない。 

  現在の車は昨年、突然前の車の調子がおかしくなって、
  修理をすると結構かかるというので、
  思い切ってその日のうちに今のBMWを買ったのだが、
  勿論、中古車である。
  BMWは高級車ということになっているが、
  中古車の値段は国産車と変わらず、そんなに高くはない。

  然し、だんだんと年式が新しくなると車もどんどん良くなるものである。
  いまの車はデイーゼルなので燃料は軽油である。
  デイーゼルだと言ってもめちゃ静かだし、
  いまの乗り方は1100回転位までしか回さない、
  まさに安全運転の静かな乗り方だが、
  いい道では時速80Kmぐらいまでにはなる。
  そのお陰で燃料代1ヶ月5000円ほどで収まってしまう。
  そんなことで今まで乗った車で一番気に入っていて、
  殆ど三木市内だけなので、渋滞もないし毎日気分よく乗っている。



 
  

  ハンドル周りの感じもなかなかいいし、
 
  


 
  気分よく運転している。


 


  まだ4万キロぐらいなので、
  この車が私の最後の車になるかも知れない。
  ところで、運転免許は何歳になっても大丈夫なのだろうか?

  それが一番心配なのである。
  目も大丈夫だし、あと10年は大丈夫自分では思っているのだが、
  果たして最後はどんなことになるのだろう。


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カワサキ単車の昔話  22     ナイジェリアの旅 

2023-09-25 05:09:28 | カワサキ単車の昔話

★世界のいろんな国に行ったが、
 一番ユニークな印象を持っている国と言えばナイジェリアかなと思う。

 人口は2億1000万人もいて、アフリカ州最大の規模である。
 19世紀以来の英国による植民地支配が続いていて、
 1960年に正式に独立したが、公用語は英語なのである。

 アフリカのほぼ中央部に位置している。

  


 1977年8月のことだが、
 カワサキが発展途上国へのCKDビジネスをスタートさせた頃で、
 ナイジェリアの現地調査に行くことになったのだが、
 ナイジェリアに行くにはマラニアの予防注射が必須事項な、
 そんな時代のことである。

 これが私の初めてのヨーロッパへの旅でもあったのだが、
 タイのバンコックからフランクフルト経由ロンドンに入ったのだが、
 日本ーバンコックーロンドン経由がおかしいと思われたのか、
 私の荷物検査はほぼ1時間ほどトランクの隅々までチェックされたのである。
 そして、先ずはマンチャスターにあるPZ本社を訪れ打ち合わせをしたのち、
 ナイジェリアの当時の首都ラゴスへ飛んだのである。

 とかっこよく言ってるが、ロンドン二つも空港があるとは解らなくて、
 1日目は、ヒースロー空港 に行ったが、ラゴス行の飛行機の便がないのである。
 アフリカにはもう一つの ガトウィック空港 から出ていて予定が1日遅れることから始まった。

★ 当時のナイジェリアは石油ブームで、その首都ラゴスは無茶苦茶な混雑ぶりで、
 街には車が溢れていて、それも1日ごとに奇数・偶数のナンバーしか走れないように規制をしているのだが、
 それでも車がいっぱいでなかなか思うように走れないというような状態だった。
 そんな現地にはカワサキから森田君が単身赴任していて、
 彼と一緒に行動したのだが、彼も奇数と偶数の2台の車番の車を持っていた。

  当時の首都ラゴスはこんな海岸に面した島の上にあり、

 


 こんなに立派なビルが立ち並んでいて、




  島の上に立派な街が出来ていて、ここではそこそこ走れたが、





  一般原住民の町はこんな混雑ぶりで
  どこに行っても人で埋まっているほど人もクルマも多いのである。





  
 原住民はこんな海の上に住んでいたり





 そのスラム街はこんな状態だから、
 ラゴス島との格差が大変なのである。
 
 




 ナイジェリアの人達は色は黒いが、
 常にニコニコ誰もみんなフレンドリーで
 流暢な英語を話すので良かったのだが、
 どこに行っても『子供がいっぱい』なのである。

 「子どもが多いな」と言うと『あなたは何人か?』と聞くので
 「二人だ」と答えたら『なぜ?』と不思議がるのである。
  どうやら『避妊』などは全く関係がないのだと思った。






★そんなナイジェリアのラゴスだったが、
 ちょっと郊外の販売店なども訪ねたりした。
 一歩ラゴスを出ると、人は殆どいないと言っていいほど
 閑散としていて、ホントに一局集中なのである。

 その時代、ラゴスにもすでにホンダさんは来ていたし、
 川崎重工の出先事務所もあった。
 このプロジェクトは結局陽の目をみなかったので、
 カワサキの二輪部門でナイジェリアを知ってるのは森田君と私だけかも知れない。

 日曜日に森田君がテニスをしようと言うので付き合ったのだが、
 私はテニスをしたのはこの時だけである。
 ミスってばかりだったのだが、ボールを拾う子供たちがいて、
 ボールボーイ付きの贅沢なテニスを楽しんだのである。

 8月16日(火)から8月25日(木)までの10日間のナイジェリアだったが、
 世界にはいろんな国があるのだと実感させて貰ったナイジェリアのだった。

 もう50年近くも前の話だが、
 いまはどうなっているのだろう?


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防災公園の様々な道

2023-09-24 05:51:38 | 発想$感想

★毎朝大体6000歩にはなるようにスロー・ジョッギングしているのだが、
 三木総合防災公園は広大だから
 いろんなコースが取れて飽きがこない。

 今朝は公園の「いろんな道」を通ってみることにした。
 先ずはこんな大きな道からスタートである。
 7時前で開門していないから車は通らないので、
 こんな大きな道の真ん中を歩いている。

 


 そのすぐ横にはこんな地道が走っている。

 
 


 この道が終ると、こんな広い道になる。
 競技場の横の道で一応は歩道で車は通れない。
 

 


 そこを左に折れるとこんな周回路に出る。
 この周回路は広場とサッカー場などの周りにあって
 1周4kmほどである。




 
 そこからまたこんな道に出て





 少し周回路を歩くと「窟屋の金水」と言うこんな標識があって





 そこからは山道の急な下りになる。

 
 


  これは階段なのだが、草で覆われてしまっている。
 こんな状態になったのは初めてで、また草刈りをするのだろう。
 それにしても夏草は凄まじい。




 日影になるとこんな感じで




  階段が続いている。






  下りきったところが窟屋の金水だが、
  そこから登り路になる。

  



 こんな急な登り道が続いて
 





  登りきると陸橋でその先は公園の西側になる。




  橋の上からの眺め、
  ずっと向こうにも陸橋があって公園を東と西に分けている。
  




 橋を渡るとどっこいさんの広場に出て、
 



 先日は殆どなかった彼岸花がちょっと咲きだしていた。

 


  この花を見るために、こんなルートを選んだのだ。





 そこからは山道を登って





 これがもう一つの陸橋である。




 そしてこんな広い道を通って、






 車を止めてある陸上競技場の前の広場に出た。

 


  これでちょうど6000歩
  1時間ちょっとの行程である。





 こんなルートを通ってきた。
 公園の一部だということがお解り頂けると思う。
 毎朝、違ったルートを6000歩になるまで歩いている。
  
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野球今昔  スポーツ今昔

2023-09-23 05:50:35 | スポーツ

★ 今年のプロ野球も、阪神の18年ぶりの優勝
  オリックスの3連勝で終わろうとしている。

  両球団とも戦後の1リーグ時代からの名門チームで
  まだ西宮球場のあった時代だがよ観に行ったものである。


   


  当時の阪神のダイナマイト打線も懐かしい。



    


 然し、今のプロ野球のレベルは素晴らしい進歩で、
 昔の野球とは全く変わったものになっていると言っていい。
 
 まさに『野球今昔』同じ野球だが、そのレベルは全く別次元だと思う。


 野球の神様と言われた『川上哲治』だが、
 果たして今のピッチャーのボールを上手く打てるだろうか?


  

 
  昔のピッチャーの投げるボールは
  『直球・カーブ・シュート』の3種類ぐらいだったから、
  バッテングもそんなにムツカシクなかったのだと思う。

  私も学生時代野球をやっていて、高校時代は甲子園にも出たので、
  そこそこのレベルだったのだとは思うが、
  『三振をした記憶』がなかなか思い出せないのである。
  私に限らずピッチャーの投げるボールの種類が少ないので、
  ボールを前に打つことぐらいは出来たのだと思う。
  打力のない選手を『三振バッター』と呼んでいて、一般に三振は少なかったのではなかろうか。

  ところが現在のピッチャーは何種類ものボールを投げるし、
 フォークなどは突然落ちるのだと思う。
  昔はワンバンドするボールを空振りするなど考えられなかったことだし、私の経験でも皆無なのだが、

  いまはプロの好打者でも、結構『三振』は多いし、
  『三振バッター』などと言う表現などなくなってしまった。


★ 私の高校時代は巨人は春のキャンプを明石球場でやってたので、
 よく観に行ってたのだが、
  当時の球場にはラッキーゾーンがあって、そこへのホームランはよく見れたが、
 旧フェンス越えの今のホームランはフリーバッテングでもなかなか見られなかったのである。
 野球のレベルがその程度であったと言っていい。
 いまのプロ野球はトップ選手は大谷翔平など、世界の超一流と言っていい。


 野球に限らずスポーツ全般にそのレベルは上がっている。
 サッカーでもよく釜本のことが言われるが
 それはその当時のレベルでの話なのだと思う。

 非常に明確なのは水泳
 世界を席巻した『古橋・橋爪』の記録は、
 今では高校生が記録してしまうのだろう。

 そういう意味では、野球に限らず『スポーツ今昔
 素晴らしい進歩を遂げていると言っていい。


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季節の花・彼岸花

2023-09-22 05:25:46 | 発想$感想

★ 9月20日が『彼岸の入り』だと言う。
  お彼岸に咲くので「彼岸花
  かって旧い話しだが『赤い花なら曼殊沙華、オランダ屋敷に雨が降る』と唄われた、
  別名『曼殊沙華』とも言う。

  毎朝行っている三木総合防災公園の『六地蔵・どっこいさん』 の辺りに毎年綺麗な花を咲かせるので、
  先日見に行ったのだが、まだ早いのかな何も姿を見せていなかった。

 『彼岸の入り』になったので、どうなったのかなと思って見に行った。
 気になりだすと気になるのである。


★そこはこの公園でも北の方にあって、
 こんな細い道を下って行ったところにあるのだが、


  
  


  こんな風になっていた。
  黄色い小さな芽が地面にいっぱい出ていたが、

 
 
 
  1本だけ赤い花を咲かせていた。
  今年もその名の通り『お彼岸』には花が咲くのだろう。
  
   
 

 

  気になりだすと『気になる』のである。 
  そんなことであと何日か後、
  もう一度、見に来ることにした。
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訪日旅行者が月200万人      雑感

2023-09-21 05:17:04 | 発想$感想

★先月、日本を訪れた外国人旅行者は215万人余りと、
 3か月連続で200万人を超えたという。

韓国57万人と最も多く、
台湾40万人
中国36万人
▽香港が21万人
 とやはり近隣諸国が多いのだが、アジア圏だけでなく、
 アメリカカナダなどでも幅広く旅行者が増加しており、
 このことが回復につながっているという。

 最近は調べたら何でも解るので、
 いろいろと調べるのもヒマ人にはいい時間つぶしになる。

  



 いろんなことが詳しく出ていてオモシロイ。

 最も訪問者が多い都道府県はやはり東京で、次いで大阪だが、

 
 
  

 消費額が一番多いのは北海道だという。
 次いで東京だが3位には沖縄が入っている。
  

  



★ ところで世界ではどうなっているのかと言うと
 フランスが一番で次いでスペイン・アメリカの順位で
 日本12位なので、まだまだなのである。


  
  

  私自身は結構世界のあちこちに行っていて、
  この上位15カ国で行ったことがないのは、
  中国・トルコ・ギリシャ・ロシアの4カ国であとは行ったことがあるし、
  カナダ・ナイジェリア・イラン・スイス・オランダ・オーストリア・インドネシア・韓国・台湾・フィリッピンは行ったことがあるので、
  結構世界を知っているということになる。

 日本国内は全県行ったことがあるし、
 沖縄を除いては自分で車を運転してあちこちに行っている。
 これはカワサキの二輪事業をやったお陰て、
 各国・各地の販売店訪問は『仕事』だったので、
 観光旅行をしたわけではないのだが、
 いま思うと結構な仕事だったと思う。


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カワサキ単車の昔話  21  カワサキのデグナーのこと

2023-09-20 05:13:33 | カワサキ単車の昔話

 鈴鹿サーキットには幾つものカーブがあって
 それぞれいろんな名前が付けられているのだが、
 その8番目と9番目は『デグナーカーブ』と名付けられている。

 
 


 その命名の由来は、
 1962年11月に竣工したばかりの鈴鹿サーキットで行われた
 全日本選手権ロードレースで、
 トップを走っていたスズキの契約ライダー・エルンスト・デグナーが転倒したことから
 「デグナーカーブ」と名付けられたのである。

 1962年シーズンには、デグナーはこの年から始まった50ccクラスで、
 スズキにグランプリ初タイトルをもたらした名ライダーなのである。



  



カワサキが初めてGPレースに参入したのは1966年のことで、
 その年の日本GPには藤井敏雄・安良岡健・シモンズ等のライダーでの参加を目論んでいたのだが、
 マン島のプラクテイスで藤井敏雄が事故死したため、
 急遽、デグナーとの契約を行うことになったのである。

 契約交渉は当時の技術部長の山田熙明さんが行われたが、
 その契約書を私に作れという指示が出たのが9月の初めであった。

 日本人ライダーとの契約は何度も行ってきたのだが、
 外人契約は初めてで、具体的にどのような契約内容にするのかもう一つよく解らない。
 こんなレースライダーの契約などについて社内には聞く人もいないので、
 9月10日のことだが、ホンダのレース担当の前川さんに電話して『教えて欲しい』と頼んだのである。
 前川さんとはMFJのレース運営委員会でご一緒しているだけの関係だったのだが、
 電話をしたら快く引き受けて頂いたのである。
 
その日の2時に鈴鹿までお伺いして、具体的に教えてもらったのだが、 
契約書の最後の『疑義を生じた場合は甲乙円満に話し合い・・』という日本式はダメだよ、
疑義を生じた場合は甲の判断による』などと教えて貰ったのである。
 
契約書は当然英文なのだが、私が作ったのは日本文で、
その英訳は山田熙明さんに引き受けて頂いた。
山田熙明さんは神戸一中の私の先輩なのだが、
一中・一高・東大航空機の秀才は英訳などは至極簡単なようだった。
 

★そんなことで契約したエルンスト・デグナーだが、
 彼がサーキットでカワサキに乗って走る姿は見られなかったのである。
 
 9月29日のFISCOでの練習走行で転倒し頭部を打って、
 御殿場の中央病院に入院するのだが、すぐに意識は回復して、
 10月1日には明石市民病院に移して、完全回復することになったのだが、
 それが突然意識がおかしくなってしまうのである。

 それまでは英語を喋っていたのだが、そこからは突然ドイツ語になってしまって明石病院のお医者さんも困ってしまうのだが、
 その通訳をされたのが、ドイツ留学を終えたばかりの大槻幸雄さんで、
 明石病院のお医者さんもドイツ語を喋る大槻さんにビックリしてしまうのである。

 当時は『脳外科のお医者さん』は非常に少なくて明石病院でも専門医はいなかったので、
 急遽、神戸医大に移送したのが10月4日で、この1週間はデグナーのことで大変だったのだが、
 神戸医大に移ってからは順調に回復して10月21日に無事退院するのである。


★この年の日本GPは初めて10月14日FISUCOで開催され
 カワサキはまだグリーンではないこんな赤タンクの時代だが、
 GP125は安良岡健が7位に入るのである。
  

  
  


カワサキのデグナー』はこんなことで見ることは出来なかったのである。
 デグナーとは約2か月間いろいろとあったのだが、
 彼はサーキットで、赤タンクのGPマシンに乗ることはなかったのである。
 そんことでカワサキのデグナーは実現しなかったし、
 カワサキがデグナーと契約したことなど、
 殆どの方はご存じないのである。
 
 
★デグナーとの契約では、さらに後日談があって
契約金を日本円で渡したので、デグナーが海外に持ち出すことが出来ないというのである。
当時はまだそんな時代で、その後処理にも私は走り回ったのである。
 いずれにしてもこの2か月間は私にとっては忘れられない大変な2ヶ月だったのである。
 
 若し、カワサキのデグナーが実現していたら
 ひょとして、もう少しいい線まで行ってたかも知れない。
 
 そんなカワサキ単車の昔話である。



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大和ハウス    雑感

2023-09-19 04:49:12 | 発想$感想

★ 大和ハウスから定期的にこんな刊行物が送られてくる。
 これがその表紙なのだが、なかなかカッコいい。

 大和ハウスに皆さんはどんなイメージをお持ちだろうか?
 
 私自身がずっと持っていた『イメージ』は、
 奈良出身の固くて旧い感じの会社だったのだが、
 昨今はちょっと昔と変わってなかなかスマートなのである。


   



 私が住んでいるまち三木市緑が丘町
 こんな感じで自然やゴルフ場に囲まれているのだが、
 結構、広大であることはお解り頂けるであろう。
 この区域だけで2万人以上いると思うので、
 この一帯で三木の人口8万人の半分はいるのだろう。

 そして、この赤い線で囲んだところのおうちはその殆どが大和ハウなのである。


 


 大和ハウスがこの一帯の土地を開拓・造成して売り出したのは
 昭和43年(1968)あたりで、その当時は全国でマイハウスブームが起こっていたが、まだ土地も安かった。
 
 我が家の土地も70坪で、その価格は300万円をちょっと切るレベルだったが、
 私の給料も15万円ぐらいだったのである。
 でも毎年、物価も給料も20%も上がった時代で、
 4年もすれば物価も給料も倍増したそんな時代だった。

 土地だけ先に買って、家はあとから建てたのだが、
 家を立てる4年後には土地も給料も倍増していたのである。

★なぜ、三木辺りにこんな家を建てたのかと言うと、
 まだ仙台にいた時だったが、
 明石に出張してきたら、ちょうど大和ハウスに異動したばかりの
 かっての印刷屋のセールスがいて、
 『三木にいい土地があるから買ってくれ』と言うのである。
 値段は三木が田舎だったからだと思うが、めちゃ安いし、
 すぐには家は建てないという条件で、
 出張時に誰にも相談せずに買ってしまったのである。

 土地などをこんな買い方をする人は少ないだろうが、
 当時は、土地や建設ブームで周囲の人達も買っていた時代で、
 会社が300万円貸してくれるというので、即決したのである。

 結果論だが、めちゃいい買物だった。




★この一帯の建物はすべてダイワハウスで建てられていて
 所謂「プレハブ住宅」だが、「春日や飛鳥」と言う種類があって、
 こんな感じの建物だったのである。

  
 




 ただ私の生き方は『差別化』なので、 
 この家を建てる時にも、ダイワハウスの規定からは外れた特別仕様で、
 特に玄関・トイレ・台所・風呂場はすべて大きく造ってあるので、
 50年経った今どきの仕様に比べても、まだ大きいぐらいなので、
 建て替える必要などは全く感じない。

 特に当時の飛鳥は『堅牢』がウリで、
 50年経った今も全く問題はないのである。

  
 


★時代も変わったが、
大和ハウスのイメージも全然変わったように思う。

 いつ頃だったかこんなイメージロゴなどを創って、
 広報活動に積極的になってから、
 そのイメージは一変して、スマートな会社になったと思う。



 
 


 
 現在のダイワハウスの建物は、こんな感じでスマートなのだが、
 私の住んでいる緑ヶ丘は、我が家の建物がそうであるように、
 堅牢で持ちがいいので、
 50年前の旧い建物も相当残っているのだが、
 道は相当に広いので、旧い街のイメージは全くない。


 


  果たして、いつ頃になったら
  この一帯が様変わりするのだろう。
  私の存命時代はなかなか変わりそうにないのである。
  


 



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100歳まで生きる時代だが・・・

2023-09-18 04:39:52 | 発想$感想

★ 厚生労働省は、全国の100歳以上の高齢者がおよそ9万2000人となり、53年連続で過去最多を更新したと発表した。
今月1日時点で全国の100歳以上の高齢者は前の年から1613人増え、9万2139人になったという。
このうち女性は8万1589人で、全体のおよそ89%を占めているとか。

100歳以上の高齢者は1970年には310人だが、その後、右肩上がりで増えていき、53年連続で過去最多を更新したという。


 

 
 我が家は男性は祖父も伯父も父も50歳代で亡くなったが、
 祖母は102才、母は103才まで存命だったので、
 若しそのDNAを受け継いでいたら、私も100歳までは大丈夫かも知れない。

 別にどうしても長生きしたいと思っている訳ではないのだが、
 健康で今のような生活が出来るのなら
 生きていても生き甲斐があるような気がする。

 そんな生活の中で『ネットの世界』に結構な時間を費やしている。
 ブログもそうだが、Facebook では若い方と繋がっているし、
 ネット碁も何局も打つのでアタマの体操になる。

 運動も毎日結構動いていて、
 この1か月間の平均が8000歩を越えているし、
 毎日2時間ぐらいは動いているので、健康的な毎日だと言っていい。

 





 元気な高齢者は『睡眠満足度』が高いというが、
 よく動くからなのか、よく眠る。
 12時間以上などにはなっていないが、
 9時間ぐらいは眠っていると思う。
 
 
  



★今まだ90歳だが、
 80歳の頃と殆ど変わりはない。
 最近は体力年令を図る機会がないのだが、
 前回77歳の時には54歳と出たので、
 若しいま測ったら何歳と出るのだろう?

 我が家の秤では75歳と出るのだが、自分では体力年令はもっと若と思っている。
 毎朝、公園で散歩している高齢者の方と出会うのだが、
 多分、皆さん私より若いと思うのだが、
 歩く姿など見ていると、私の方が確りしてると
 勝手に思って、勝手に満足している。

 少なくとも母の90歳の頃よりは、
 間違いなく元気なので、この分だと100歳までは大丈夫かなと思っている。
 
 朝起きると
 ● 公園のスロージョッギング
 ● パソコンの前でのネットの世界
 ● パンダ碁を打つ、アタマの体操 
 ● 庭仕事
 ● 鯉や金魚やメダカの世話
 ● ブログや日記など文章を書く
 ● テレビはスポーツ番組とニュースだけ
 ● 殆ど読書はしない
 
 などの繰り返しの日常生活だが、結構満足して生きている。
 ホントにいつまで続くだろうか?


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阪神優勝にみる熱狂度   雑感

2023-09-17 04:57:15 | 発想$感想


★ 阪神が18年ぶりに優勝である。
 甲子園球場でのファンは勿論、

 



  巷でもこんな熱狂ぶりである。


 


  
 一体、世の中の人のどれくらいの方たちが
 こんなに熱狂するのだろうか?
 こんなに熱狂する人たちのほうの比率のほうが多いのだろうか?

 生まれてこの方、人生で一度も『熱狂』などした経験のない私などからみたら、
 不思議な光景なのである。
 私自身もスポーツは好きだし、どちらかと言うと阪神ファンだが、
 どうしても、こんなに熱狂する輪の中には入れない。

 そんな自分が変わっているのか?
 こんなに熱狂する人達のほうが変わっているのか?

 そんなことを想いながら、こんな光景を眺めている。
 
★ 何事にも冷静な人の特徴はこんなことだと記事にあった。

・目に見えて慌てることがなく、ポーカーフェイスを保っている
・急にコロコロと態度を変えることがなく、感情表現が一定である
・いつでも落ち着いた雰囲気をしており、物静かである
・物事に対して公平である
 つまりは、感情の浮き沈みが少ないだけでなく、周りの状況や環境の変化に影響されることなく、落ち着いて物静かであるということです。このような特徴がある人は、冷静な人だといえるでしょう。
常に冷静でいることには、以下のような4つのメリットがあるとか。
 1.客観的に物事を見られる
 2.落ち着いてトラブルに対応できる
 3.気分で反応を変えないため安心してもらえる
 4.周囲との比較で落ち込むことがないため、心に余裕ができる

 そんなにメリットとも思えないが、
 どう考えても、阪神優勝にあんなに興奮したりは出来ないのである、
 どうもおもしろくない人間のようにも見えるが、
 日本人全体で言えば、『阪神優勝に熱狂した人』は少数派であることは間違いない。
 だが仮に巨人が「優勝した時」は巨人ファンは同じように熱狂するのだろう。

 熱狂する人と、客観的に見る人
 どちらの方が比率が多いのだろう? と思ったりしている。
 どちらが『いい・悪い』の問題ではなくて、単に比率がどうなのかな?
 と思っているのである。


 
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施設いっぱいの広大な公園

2023-09-16 06:01:16 | みっきぃふるさとふれあい公園

★ 公園とはどこも広大でいろんな施設があるのだが、
 三木総合防災公園も広大であると同時に多彩な施設がいっぱいである。

 これは日本でもちょっと珍しい公園だと言っていい。
 その広さも半端ではなくて、よく甲子園球場が幾つと言うが、
 球場だと数が数えきれないので、
 私はいつも『ゴルフ場が3つほど』とその広さを表現している。

 もともとは山だったのだが開拓されて、
 住宅地に隣接しているので、朝など散歩に来る人で賑わっている。

 


 公園は4車線の一般道路で東と西に分かれていて、
 園内にもこんな立派な道が

  


  縦横に走っていて、マラソン大会なども行われるのだが、
  一般道と違って整理がし易くていいようだ





★ 先ず西のメイン施設は屋内テニスコートのある「ブルボン・ビーンズドー」で、多分世界一と言ってもいいのだろう。
 
こんな豆のような形から、名付けられていて、

  


  こんなメインコートのほか、6つほどのテニスコートがあり、

  

 
 
  災害時には支援物資などの貯蔵庫になるという。
 これは阪神大震災の時に全国から集まった支援物資の置き場所に困った経験からだとか。


 そのほかこんなに広い高齢者のためのグランドゴルフ場もある。
  
  
  


★ 東の方のメインは本格的な陸上競技場である。

 


  中央はサッカーコートになっている。
 
 


  そのすぐ横にもサブの陸上競技場があるし、
  ここもその中央はサッカー場である。

  



 サッカーコートはこのほかに3面本格的な広さのコートがあって、
 そのほかにもフットサル競技場がある。
 野球場も勿論あるのだが東の一番端にあって、その存在が目立たない。

 


★ 防災公園と名付けられている所以は
 兵庫県の広域防災センターがあって、
 こんな建物の耐震度などが図れる、
 
   
 

 
 日本一の施設、EーDefenceがあるし
 

 



 その隣には消防学校などがあって


 
 

 朝早くから隊員さんの訓練が行われたりしている。


  

 
★殆ど毎朝、散歩に来るのだが、
 広すぎて全部はとても回れないので
 その日によって、いろんなコースを楽しんでいる。
 多分、全国でもこんな多彩な公園は珍しいのだと思う。

 家からはクルマで10分は掛らな距離にあるので重宝している。
 



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