★ 『7万台への挑戦・新しいカワサキのイメージ戦略の時代』は、
二輪やジェットスキーは遊び道具なので、
『遊び半分ではいい遊びはできない』と遊びのソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』を中心に、
レースをはじめいろいろと本格的な遊びに取り組んで、
『新しいカワサキのイメージ創造』のために派手に遊んでいたのは事実である。
結構派手に遊んでいたのだが、その資金はクルマを売っての利益からではなく、
KSSのソフト会社が末端のユーザーや社会の方から頂いた金の中からだったのである。
少人数で『アタマを使う』会社だから、結構儲かったのである。
例えば『KAZE会員』は最高55000人の規模になるのだが、年会費3000円なのでこの会費だけでも1億5000万円ほどあったし、
いろんな形でKSSの売上高は7億円にもなったのである。
バイクを売ってもその利益率は大したことはないのだが、
ソフト会社の利益率は、『アタマで考えて産み出すソフト』からなので、
その利益率は100%に近く高いのである。
そんな利益の中から末端ユーザーに派手に還元していたのだが、
周囲はどうしても『バイクを売った利益』から使っていると見てしまうのである。
ソフト会社を持たない一般企業は、商品を売った利益からの支出なのだが、
独立した『遊び会社』は自らが稼いだ金からの出費なのである。
どんどん自由に使えるように『独立会社』にしていたのである。
『遊び会社』であってみても間違いなく独立経営体なので、
その経営が赤字ではその存立も保証されないのは勿論なのである。
★ちょっと固い話になるが、当時の国内販売はこのような形で運営展開されていた。
左側のメーカ川崎重工業から右端の末端ユーザーまで、
このような組織で、このような基本コンセプトの下に、
その発想が具体的に展開できるような
それぞれの専門会社を立ち上げての総合展開だったのである。
● 一番左が川重CP事業本部、CPとはConsumer Product(末端消費者向け製品)
を開発生産する事業本部で
本部長が髙橋鐵郎さんだった。
● 国内の総販売元がカワサキモータースジャパンで二輪とジェットスキーの販売を担当し
髙橋鐵郎さんが社長を兼務、私が専務で担当した。
● その具体的な販売活動は、
カワサキジェットスキー販売
ケイ・アーク・システム東日本(二輪)
ケイ・アーク・システム中日本(二輪)
ケイ・アーク・システム西日本(二輪)
ケイ・ロジステックス(物流)
ケイ・コンシューマー・サービス(用品開発など)
ケイ・スポーツ・システム(スポーツ&ソフト)
という機能会社7社でその社長は全て私が兼務し、具体的には各常務が担当
● さらにスポーツ活動を以下の組織で具体的に展開していた。
JJSBA(日本ジェットスキー協会)
チーム・グリーン
● 二輪・ジェットスキーの販売はARKと称した販売店を通じて
KSSは、ショールーム・サーキット遊び場所・ユーザークラブKAZEを担当
チーム・グリーの下部組織として地方のサテライト・チーム
といった総合的な組織というか『仕組み展開』だったのである。
★この組織が初めからあったのではなく
平成元年にスタート以来、4年間掛かって創り上げ
平成5年1月1日に、名称もカワサキオートバイ販売からカワサキ・モータース・ジャパンに称号変更したのである。
この時点までに平成3年5月に念願の販売目標7万台は達成できたし、
従来の地域販売会社なども3社に纏めて、
この時期の国内販売体制がまずは完成したと言っていいのである。
その間の色々な出来事は今後適宜ご紹介するとして、
この時期のカワサキ国内グループが
どのような企業経営体としての実績だったのか、
その責任者であった私は、『何を想いどのようにリードしたのか』
今回はその辺のことについてご紹介してみたい。
★事業経営をやる際に『売上高を伸ばして利益を上げる』
これは普通の人が普通にそのように考えるのだが、
確かに沢山売ると儲かるが、これはなかなか危険な発想なのである。
私が販売最先端の代理店経営に関係したのはずっと昔、
1965年ぐらいのことなのだが、
当時メーカーの方針に協力して『沢山売った代理店』から順番に経営破綻してメーカー系列に入っていったのである。
沢山売る方が間違いなく多く儲かる計算だが、
実際はなかなかそのようには成らずに、資金繰りが伴わずに破綻してしまうのである。
経営は売上高よりは『資金繰り』なのである。
いまコロナ問題で多くの店が破綻しているが、これは全て『資金のやりくり』が付かないためで、これは大きな企業も、小さな店も同じなのである。
そういう意味では『7万台・400億円』という途方もない大きな目標に挑戦するということは 『非常に大きな経営上のリスク』を孕んでいたのである。
こんな大きな目標を従来のような『販売促進策』などでやるとしたら、
大きな経費や値引きなども発生して、
とても資金が付いて行かないのは目に見えているのである。
そんなことだから方向を変えて『遊んでいても自然に売れる』そんな仕組みの創造で対応したのである。
この時期確かにZEPHYRなどと言う思わぬ商品に恵まれたことも好運ではあったが、これが売れたのは売れるように仕組んだのである。
さらにジェットスキーも空前の人気でめちゃくちゃ売れたのも幸運だったかも知れない。
★ZEPHYRは、レーサーレプリカ全盛時に、何の特徴もない性能的にも普通のバイクなのだが『何故かホントによく売れたのである』
誰もこんな車が売れるなどとは思っていなかったので、その生産台数はほんのわずかだったものだから、
発売してちょっと人気が出たらすぐ足りなくなってしまって『バックオーダー』となったのだが、
私はその増産など頼まなかったものだから、何ヶ月ものバックオーダーとなったのである。
『バックオーダー』になるということは『よく売れてる』という証明だし、値引きも発生しないし、自然に売れていくのである。
あまりにもバックオーダーが増えたので少しだけ増産はしたのだが、上手に調整して3年間もZEPHYRのバックオーダーは続いたのである。
それが多分間違いなくZEPHYRをヒット商品にしたのだと『私は思っていて』
これはハードというよりも『ソフト』でヒット商品にしたと言えるのかもしれない。
『バックオーダー』というのが曲者なのである。
ずっと以前のFX400はほんとにヒット商品だったし、よく売れて3ヶ月分のバックオーダーが続いたのだが、増産した途端に3ヶ月のバックオーダーは消えてしまったのである。
その時解ったのは、お客はあちこちの店に行くので独りの客が3台ぐらいになってしまっていて、モノが足りたらたちまちバックオーダーは解消されてしまうのである。
そんなFX400の経験から、ZEPHYRの時は3ヶ月のバックオーダーなど無視して少量生産を続けていたら『足りない=いい商品』ということで延々とバックオーダーが続いたのである。
当然、値引きもないし、ホントに特徴のない車だったのだが、空前のヒット商品となり、『7万台目標』に大いに貢献したのである。
若し、初期に増産していたら『バックオーダーは一瞬に消えてしまっただろう』と思っている。
★だが、こんな話は証明できないからムツカシイのである。
この1990年代は販売会社ではあったが、10年間いろいろの仕組みばかりを創り続けて『販売努力』など一切せずに末端ユーザーと遊んでいたと言っていい。
その結果は、結構よく売れたのだが、メーカーの人たちから見たら遊んで、金を使って販売努力をしない。
『もう少し販売努力をしたらもっと売れるはず』と思った人たちもいたようで、2000年になり私も現役引退したら、折角造り上げた『仕組み』を壊してしまって、一生懸命販売努力をされたようだが、以来国内のカワサキの販売台数は7万台など『夢のまた夢』のような状況になってしまったのだが、
なかなか「販売ソフト」と言うのはムツカシイのだと私は思っている。
★ ところで、この事業部の研修会では、私がこんな損益と私独自のバランスシーとで説明をしているのだが、こんな数字やバランスシートを、みなさんどれくらいご理解があるのかよく解らないのだが、
『私流の説明』をしているので、是非ご覧になってみて欲しい。
数字が並んでいて、『400億円売って利益は12億円か?』
と思われるかも知れぬが、
総資産が 100億円、
自己資本比率 31,5%
総資産回転が 4回転
総資本利益率 12%
というのは、日本の企業としてはびっくりするほどの超優良企業で、
売上高は400億円と相当な額なのだが、総資産は100億円で、4回転
この時期無借金経営で、借入金は0円なのである。
まずこんな企業は日本では当時は珍しかったのである。
要は幾らの額を売って幾ら儲かったのか? ということばかりに気を遣うのだが、
幾らの自己資本で幾ら儲かったのか?
というのがホントの意味での経営の評価なのだと私は思っていて、
7万台という目標も、そんなに無理せずに達成しているのである。
これは私独特の『バランスシート論』で、
こんな感じなのだが、これはまた次回に。