雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

金井紫朗さん      雑感

2020-05-31 05:20:38 | カワサキワールド

★ 昨日の朝5時21分に、登山道夫さんからFacebook にこんなメッセージが・・・
 
おはようございます。突然で申し訳ございません。群馬の金井さんから連絡があり、今日の早朝6時頃に事務局へ来られるとの事です。また金井さんから連絡がございましたら、メッセージを入れさせていただきます。』

 このように突然どこにでも現れるのである。

金井紫朗さんは、定年後出会ったのだが、
金井紫朗さん、こんなかっこいいバイクファンで、カワサキのこともビモータのことも、めちゃめちゃ詳しいし、いっぱいバイクもお持ちだし、ジェットスキーのこともめちゃお詳しいのである。
    

   




★ 群馬県の高崎にお住まいなのに、ホントに全国どこにでも現れる不思議な方で、これはカワサキの東京でのOB会の2次会なのだが、
カワサキの昔の懐かしい仲間たちがいっぱいである。


その時も突然奥様とご一緒に現れたりしてビックリした。


   



二輪業界ではいろんな方とお付き合いがあって、
あの大久保力さんなどとも、親しくされているようなのである。



★何度もお会いしている金井さんなのだが、一体、いつ金井紫朗さんに初めてお会いしたのかよく覚えていないので、改めて聞いてみると、

あの東日本大震災があった年の2011年3月4日に、平井稔男さんが主催した
カワサキの想い出、そして未来』のイベントの時が、最初のようだから、
もう10年にもなろうとしているのである。

 昼の工場見学の時もこんなに沢山の方が参加されたのだが、
この中におられたのだろうか?

 



 夜はホテルの会場に場所を移して
 川重の関係者もこんな錚々たるメンバーが出席されたのである。




 顔は写っていないが、右から
 元川崎重工業社長田崎さん、元副社長髙橋さん、壇上は高田事業本部長、
 稲村さん、百合草さん、大槻さん そして私なのである。
 左手カメラを持ってるのは、二輪車新聞衛藤誠さん、
 文字通り、カワサキの二輪事業を支えた人たちなのである。


 この会合では懐かしい方ともお会いできたし、沢山の初対面の方もおられて、
 その後、親しくお付き合いさせて頂いてるのだが、
 金井紫朗さんもそのお一人なのである。


★これは昨年、金井紫朗さんが主宰されたイベントに逆に私たちが高崎まで
お伺いしたのだが、シャッターを切ったのは私なのである。


  



 
そんな金井紫朗さん、昨日はホントに朝早く5時半には三木に到着されたのだが、

今回はビモータにカワサキZのエンジンを積むとかで、
そのエンジン引き取りのために、トモダチ二人と軽4に乗って、
延々600キロを夜中に走ってやってきたのである。
 
登山さんのGood Times Plaza  で記念撮影してきた。

  



これは、前回昨年にいらしたときの金井紫朗さんである。

  



★ 昨日はこんなお土産を頂いた。
  上州銘菓 とあるが

   


 この金誠堂のオーナーが金井紫さんなのである。
 
  



    だけど、単なる『せんべい屋』さんではなくて、
 こんなバイクでも、三木に現れたりする熱烈なカワサキファンなのである。

 

        

                 

   
 
      


★ こんな『金井紫朗』さんに、出会えてホントによかったなと思っている。
 
単なるファンだけではなくて、
Facebookには『その歴史』として、
カワサキに関する歴史が纏められているのだが、
これは金井紫朗さんの労作なのである。

ご存知の方は少ないと思うので、ご紹介しておきたい。



こんな『私のカワサキの昔話』が纏められていて、

  


  



その歴史Ⅱ には、貴重な昔のカワサキの記録がいっぱいなのである。



 これは今は有名人の北見紀生くんの話だし、

   



 これは若き日の 百合草三佐雄さんの
 アメリカでのA1時代の開発物語である。
   


 二輪ファンのかた、カワサキファンの方は、
 是非、ご覧になってみてください。


 
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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 8

2020-05-30 05:44:41 | 私の生き方、考え方&意見

★今回は昨日の続き、私独特のバランスシート論である。

 私は神戸商大の卒業なのだが実は大学では簿記の単位を取っていない。
 簿記で単位を取るには教室に入らないと試験を受けるだけではダメなのである。
 野球ばかりしていた大学生活だったから簿記はとっていないのである。

 そういう意味では、会社に入ってからの独学なのである。
 
カワサキの二輪事業の販売第1線にいたので、
代理店や営業所や販売会社の『経営』を30代の頃からずっとやらざるを得なかったのである。
そんな私独特の体験の中から生まれた『私独特』のものなのである。

一般によく言われる売上高・総利益・経費・営業利益・営業外・経常利益よりは、
どちらかというと『バランスシートや資金繰り』の方が大事だなと思ったし、
営業外を中心に、バランス・シートの検討などを独自で勉強したのである。

 
 



★これが私のバランスシートだが、
このバランスシートを川崎重工業の部長研修会の時に発表したら、
当時の財務担当副社長に『非常にオモシロい』とお褒め頂いたのである。
 

バランスシートの話など聞かれることは少ないと思うが、

この『私のバランスシート論』は、
私の直接の上司であった技術屋さんの髙橋鐵郎さんに、
お前の説明はよく解った』と言って頂いたので、
そんなにムツカシクはないので、ちょっとお付き合い下さい。


ざっと私の『バランスシート論』をご紹介すると、こんなことなのである。

● バランスシートとは
左側に『流動資産と固定資産』 右側に借入金などの『負債や資本や剰余金
その二つがバランスしてるので『バランスシート』と言われている。
 
● 『流動資産』とは1年以内に現金化される売掛金在庫など、
 現金から、現金化されやすい順番に並んでいる。

● 土地・建物など1年以内には現金化されないものが『固定資産』

● 右側の負債の中でも1年以内に支払わねばならない買掛金とか短期借入金などを『流動負債』。 

● 1年以内に支払わねばならぬ額より、1年以内に現金化される額が多い
こんな形 『流動資産』>『流動負債』でないと資金繰りが成り立たないのだが、
欧米などでは 2:1ぐらいの比率でないと健全財政とは言えないなどと言われているのだが、日本はそんな企業は非常に少ないのである。



★『私独特のバランスシート』はそれ以下に、
その企業の持つ『企業イメージ』ほか 『ソフトの数々』など、
その資産こそが『その企業の成長力』だと思っていて、
それらの『ソフト資産』はその企業の『高質人材』によってもたらされるのである。
それは間違いなく『人の質・能力・経験』などだと思っていた。
 

 当時の総合営業活動はこのような展開だったのである。
 これらの詳細はまたの機会に。

 



★ 『7万台への挑戦』 『カワサキの新しいイメージ創造の時代
 これは髙橋社長・古谷専務のコンビで実現したのだが、
 
 

 
この髙橋社長の言葉の隅々に、技術屋さんとはとても思えない、
マーケッテングマインド』と そのソフト思考が満ち溢れていて、
自由に私に任して頂いた』ので、私自身も成長したし、

傘下7社の社長を兼務した私も、
その実務一切を、『その社の常務に100%任していた』ので、
どんどん前向きな展開となったのである。



 


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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 7

2020-05-29 05:43:56 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦・新しいカワサキのイメージ戦略の時代』は、
二輪やジェットスキーは遊び道具なので、 
遊び半分ではいい遊びはできない』と遊びのソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』を中心に、
レースをはじめいろいろと本格的な遊びに取り組んで、
新しいカワサキのイメージ創造』のために派手に遊んでいたのは事実である。

結構派手に遊んでいたのだが、その資金はクルマを売っての利益からではなく、
KSSのソフト会社が末端のユーザーや社会の方から頂いた金の中からだったのである。 
少人数で『アタマを使う』会社だから、結構儲かったのである。
 
例えば『KAZE会員』は最高55000人の規模になるのだが、年会費3000円なのでこの会費だけでも1億5000万円ほどあったし、
いろんな形でKSSの売上高は7億円にもなったのである。
バイクを売ってもその利益率は大したことはないのだが、
ソフト会社の利益率は、『アタマで考えて産み出すソフト』からなので、
その利益率は100%に近く高いのである。

そんな利益の中から末端ユーザーに派手に還元していたのだが、
周囲はどうしても『バイクを売った利益』から使っていると見てしまうのである。
ソフト会社を持たない一般企業は、商品を売った利益からの支出なのだが、
独立した『遊び会社』は自らが稼いだ金からの出費なのである。
どんどん自由に使えるように『独立会社』にしていたのである。

遊び会社』であってみても間違いなく独立経営体なので、
その経営が赤字ではその存立も保証されないのは勿論なのである。


★ちょっと固い話になるが、当時の国内販売はこのような形で運営展開されていた。

左側のメーカ川崎重工業から右端の末端ユーザーまで、
このような組織で、このような基本コンセプトの下に、
その発想が具体的に展開できるような
それぞれの専門会社を立ち上げての総合展開だったのである。


 


● 一番左が川重CP事業本部、CPとはConsumer Product(末端消費者向け製品)
を開発生産する事業本部で
本部長が髙橋鐵郎さんだった。


● 国内の総販売元がカワサキモータースジャパンで二輪とジェットスキーの販売を担当し
髙橋鐵郎さんが社長を兼務、私が専務で担当した。


● その具体的な販売活動は、
  カワサキジェットスキー販売
  ケイ・アーク・システム東日本(二輪)
  ケイ・アーク・システム中日本(二輪)
  ケイ・アーク・システム西日本(二輪)
  ケイ・ロジステックス(物流)
  ケイ・コンシューマー・サービス(用品開発など)
  ケイ・スポーツ・システム(スポーツ&ソフト)
 という機能会社7社でその社長は全て私が兼務し、具体的には各常務が担当 

● さらにスポーツ活動を以下の組織で具体的に展開していた。
  JJSBA(日本ジェットスキー協会)
  チーム・グリーン

● 二輪・ジェットスキーの販売はARKと称した販売店を通じて
 KSSは、ショールーム・サーキット遊び場所・ユーザークラブKAZEを担当
 チーム・グリーの下部組織として地方のサテライト・チーム

といった総合的な組織というか『仕組み展開』だったのである。



★この組織が初めからあったのではなく
平成元年にスタート以来、4年間掛かって創り上げ
平成5年1月1日に、名称もカワサキオートバイ販売からカワサキ・モータース・ジャパンに称号変更したのである。

この時点までに平成3年5月に念願の販売目標7万台は達成できたし、
従来の地域販売会社なども3社に纏めて、
この時期の国内販売体制がまずは完成したと言っていいのである。

その間の色々な出来事は今後適宜ご紹介するとして、
この時期のカワサキ国内グループが
どのような企業経営体としての実績だったのか、
その責任者であった私は、『何を想いどのようにリードしたのか
今回はその辺のことについてご紹介してみたい。



★事業経営をやる際に『売上高を伸ばして利益を上げる
これは普通の人が普通にそのように考えるのだが、
確かに沢山売ると儲かるが、これはなかなか危険な発想なのである。

 私が販売最先端の代理店経営に関係したのはずっと昔、
1965年ぐらいのことなのだが、
当時メーカーの方針に協力して『沢山売った代理店』から順番に経営破綻してメーカー系列に入っていったのである。
 
沢山売る方が間違いなく多く儲かる計算だが、
実際はなかなかそのようには成らずに、資金繰りが伴わずに破綻してしまうのである。

経営は売上高よりは『資金繰り』なのである。
いまコロナ問題で多くの店が破綻しているが、これは全て『資金のやりくり』が付かないためで、これは大きな企業も、小さな店も同じなのである。

そういう意味では『7万台・400億円』という途方もない大きな目標に挑戦するということは 『非常に大きな経営上のリスク』を孕んでいたのである。
 
こんな大きな目標を従来のような『販売促進策』などでやるとしたら、
大きな経費や値引きなども発生して、
とても資金が付いて行かないのは目に見えているのである。

そんなことだから方向を変えて『遊んでいても自然に売れる』そんな仕組みの創造で対応したのである。

この時期確かにZEPHYRなどと言う思わぬ商品に恵まれたことも好運ではあったが、これが売れたのは売れるように仕組んだのである。 
さらにジェットスキーも空前の人気でめちゃくちゃ売れたのも幸運だったかも知れない。

     


ZEPHYRは、レーサーレプリカ全盛時に、何の特徴もない性能的にも普通のバイクなのだが『何故かホントによく売れたのである
誰もこんな車が売れるなどとは思っていなかったので、その生産台数はほんのわずかだったものだから、
発売してちょっと人気が出たらすぐ足りなくなってしまって『バックオーダー』となったのだが、
私はその増産など頼まなかったものだから、何ヶ月ものバックオーダーとなったのである。

 『バックオーダー』になるということは『よく売れてる』という証明だし、値引きも発生しないし、自然に売れていくのである。 
あまりにもバックオーダーが増えたので少しだけ増産はしたのだが、上手に調整して3年間もZEPHYRのバックオーダーは続いたのである。 
それが多分間違いなくZEPHYRをヒット商品にしたのだと『私は思っていて
これはハードというよりも『ソフト』でヒット商品にしたと言えるのかもしれない。

バックオーダー』というのが曲者なのである。
ずっと以前のFX400はほんとにヒット商品だったし、よく売れて3ヶ月分のバックオーダーが続いたのだが、増産した途端に3ヶ月のバックオーダーは消えてしまったのである。
その時解ったのは、お客はあちこちの店に行くので独りの客が3台ぐらいになってしまっていて、モノが足りたらたちまちバックオーダーは解消されてしまうのである。
 
そんなFX400の経験から、ZEPHYRの時は3ヶ月のバックオーダーなど無視して少量生産を続けていたら『足りない=いい商品』ということで延々とバックオーダーが続いたのである。 
当然、値引きもないし、ホントに特徴のない車だったのだが、空前のヒット商品となり、『7万台目標』に大いに貢献したのである。
若し、初期に増産していたら『バックオーダーは一瞬に消えてしまっただろう』と思っている。


★だが、こんな話は証明できないからムツカシイのである。

 この1990年代は販売会社ではあったが、10年間いろいろの仕組みばかりを創り続けて『販売努力』など一切せずに末端ユーザーと遊んでいたと言っていい。
その結果は、結構よく売れたのだが、メーカーの人たちから見たら遊んで、金を使って販売努力をしない。

もう少し販売努力をしたらもっと売れるはず』と思った人たちもいたようで、2000年になり私も現役引退したら、折角造り上げた『仕組み』を壊してしまって、一生懸命販売努力をされたようだが、以来国内のカワサキの販売台数は7万台など『夢のまた』のような状況になってしまったのだが、
なかなか「販売ソフト」と言うのはムツカシイのだと私は思っている。

★ ところで、この事業部の研修会では、私がこんな損益と私独自のバランスシーとで説明をしているのだが、こんな数字やバランスシートを、みなさんどれくらいご理解があるのかよく解らないのだが、

私流の説明』をしているので、是非ご覧になってみて欲しい。



 数字が並んでいて、『400億円売って利益は12億円か?』
 と思われるかも知れぬが、

 総資産が 100億円、
 自己資本比率 31,5%
 総資産回転が 4回転
 総資本利益率 12%
 
 というのは、日本の企業としてはびっくりするほどの優良企業で、
 売上高は400億円と相当な額なのだが、総資産は100億円で、4回転
 この時期無借金経営で、借入金は0円なのである。
 まずこんな企業は日本では当時は珍しかったのである。

 
 要は幾らの額を売って幾ら儲かったのか? ということばかりに気を遣うのだが、
 幾らの自己資本で幾ら儲かったのか? 
 というのがホントの意味での経営の評価なのだと私は思っていて、
 7万台という目標も、そんなに無理せずに達成しているのである。

 これは私独特の『バランスシート論』で、
 こんな感じなのだが、これはまた次回に。


     

 
 
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黒川検事長問題   雑感

2020-05-28 06:04:36 | 発想$感想

★世の中『黒川検事長の麻雀問題』がいろいろと言われている。


  
  
  
 
今回はその処分問題などで、政治問題になってしまっているので、野党などは政府を問い詰めるのは当然だし、いろんな先例との比較なども言われている。

世の中の一般人なら兎も角、『検事長』がやったことが明らかになったので、
辞任は当然だが、
なぜ免職にならないのか?』或は『罪にならないのか?』と言われたら、その辺がなかなか微妙でよく解らないのである。

よく解らないのでネットで検索してたら、いろんな記事が見つかった。


  



その中味を読んでみると、いろいろあって
雀荘やその客は違法!? なのか
どうして平然と雀荘が営業を続けているのか? などの疑問についての答えは

それはズバリ警察が見逃しているからです  と書かれていた。

そして実際に賭博の罪が科される水準は?
法律家の間では、少なくとも、1000点200円以上のレートで麻雀をする店は摘発されると言われているとか。



★それにしても、ややこしい世の中になったものである。
私自身も、現役時代『麻雀』はよくやってたし、それは間違いなく『賭けマージャン』だったが、レートはそんなには高くなくて間違いなく『遊び』の範囲だった。

会社の中でも『部長主催の麻雀大会』などが大ぴらに開催されたりしていたのだが、『取り締まる立場?』の警察の方の中にも麻雀が好きな方もいて、警察の方と麻雀をしたこともあったから、
当時は検察庁の中でも麻雀など普通に行われていたのだろう。
少なくとも会社の中では『社長以下』が大ぴらにやっていたのは間違いない。
 
いつの頃からか世間がいろいろと言うようになってしまったのである。


★ 世界中にいろんな形で『賭け事』はなされていて、それで成り立っている『ラスベガス』みたいな町もある。
パチンコなども日本だけだが、これなども景品が金に変わらなければ、やる人などいないのかも知れない。

それが成り立っているのは、それこそ『警察が見逃している』からだろう。


今回の『黒川検事長の一件』がいいということを言っている訳ではないのだが、
このようなことばかりを『政治問題』にするのは、
ホントに日本の国民のためになっているのかどうか?


正義感のある人たち?』が 刑事告発などするらしいが、

  

 
こんな方たちよりは、好き嫌いで言えば、私は『黒川検事長』の方が好きである。

こんなややこしいことを言い過ぎるので
余計に住みにくい・オモシロくない国』になっていくのだろう。

あまり「細かいこと」を取り上げない方がいい』と言ったら、
それはな』とクレームが付くかも知れないが、

別に私は『賭け事・麻雀などが好き』で弁護している訳ではなくて、むしろ『賭け事』は嫌いなほうである。
少なくともこの30年間、麻雀もパチンコも競馬もやったことはないし、宝くじも買ったこともないのだが、本音でそう思っているだけである


本音でなかなかものが言いにくい世の中』はあまり好きではない。

日本はいい国だと思っているのだが、段々とムツカシクなっていくのは、
仕方がない』のだろうか?



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5月26日 雨の午後

2020-05-27 06:52:54 | 発想$感想

★ 昼から雨になったが、明日には回復するとか。

 北の方では、大雨のようだが、三木はいつものように大した雨にはならない。
周囲に高い山がないので雲が発生しないのだと思う。


  
 
 

コロナウイルス問題も全国的に緊急事態宣言も解除されて、テレビの各番組でも、新聞でも、『日本のコロナ対策』について、
今頃になって『日本の対策は成功したようだという論評もある』など、
寝ぼけたことを言っている。



         



欧米の論調がどうであろうと、先進7か国では、日本の実績は飛び抜けている。

勿論、『現段階では』だが、
この問題だけはなかなか『先の見通しを読む』ことはムツカシイ。

正確に解っている人などいないのだから、
専門家先生もいろいろ言わずに、『よく解りません』とは言えないのだろうか?
などと思ってテレビを消して庭など眺めていた。


 



 雨に石が濡れると綺麗に見える。
 ずっと石が見えるのは、いっぱい生えていた草を抜いたからである。
5月・6月の新緑の時期は、放っておくと樹も草もいっぱいになってしまう。
そんなことを思ったりするのは、閑なのである。

 こんな午後もある。
 ネットの囲碁も、3連勝もしたらちょっと飽きてしまって、ネットを見ていたら、
 こんなスタジアムパンツのTwitter に出会ったので、『リツイート』させて頂いた。

  


 覚えておられる方もおられるかも知れぬが、
これは4月12日にアップしたブログである。
 このスタジアムパンツの高嶋正治さんとは1度だけ神戸でお会いしたことがあるのだが、ホントに不思議なご縁で再び繋がって、この1ヶ月は一番いろいろと関係があった方である・


   


 勿論、ネット上だけなのだが、目標額を大きく上回っての達成額でよかったなと思っている。
 今後はどんな展開になるのだろう?

スタジアムパンツも、新商品なので、コロナと同じくその将来はよく解らないのだが、
折角のご縁だったので、今後も見守っていきたいなと思っている。


★ 『緊急事態宣言』が解除された日に、Makuake が終わって新しく次の段階に『スタート』できることは、ホントに『ツイてるな』と思うべきである。

 世の中のいろんんが業種が、この『コロナ問題』で大変だった時期に、
81人もの新しいファンが出来たのだから、今後このスタートの81人の中から、
さらに親派でも見つけ出せたら、
さらにまた違った仕組みができるかななどとも思ったりしている。

これからはネットの時代、そして新しい仕組み・システムの時代なのだろう。

雨の午後、何となくそんなことなど思いながら、過ごしている。





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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 6

2020-05-26 06:55:26 | 私の生き方、考え方&意見

★6回目になった。 
話題を何にすべきか迷うほどいっぱいあるのだが、
今回はこの7万台への挑戦の時期は勿論だが、
カワサキの二輪事業のスタートの時期からの『平井稔男』さんについて纏めてみたい。

 平井さんと言えば、Team Green のこんな派手で、


  

 
 
 定年後も、2011年3月に『カワサキの想い出、そして未来
 というこんな大掛かりなイベントを主催したりもしたので、
 このような勇ましい『平井稔男さん』のイメージが強いのだと思うが、
 全然違った、地味なことでもちゃんとこなす実力をお持ちなのである。


 

 
 平井さんは、昭和36年カワサキが二輪事業をスタートした時は勿論、
 もっと以前の『川崎明発』の時代からカワサキの販売に携わっておられて、
 自ら『カワサキの真打ち』と言って憚らない。

 確かに、間違いなく国内のカワサキの歴史と共に歩まれていて、
神戸営業所時代に平井さんの下で育った『平井門下生』が
カワサキの国内の二輪販売網を支えたと言っても過言ではないのである。

前回、ご紹介した『藤田孝昭さん』も、あの『吉田純一さん』も平井門下生で、
吉田純一・旭日小綬章記念祝賀会』にもこんなメンバーが集まった。
藤田孝昭・渡部達也・柏原久に加えて二輪車新聞の衛藤誠さんもいる。
シャッターを切ったのは私である。

   


★ 私とは同い年で、昭和36年カワサキの単車営業のスタートの年からいろいろと関係があったのだが、
直接繋がったのは昭和46年(1971)私が大阪母店長時代の神戸営業所長時代で、
私の後の『大阪母店長』を平井さんがやってくれたりもしたのだが、
前回『世の中の全く新しこと』がやれる人は少なくて、
平井稔男さんもその一人だと言っているのだが、まさにその通りで、
100人近くの部下がいた『大阪母店長』の次に平井さんが引き受けてくれたのは
殆ど部下などはいない新しく出来た『カワサキの安全運転コース管理』と、『カワサキの全国の安全運転活動』だった。

 当時は全国の暴走族対策が課題で、
暴走族=カワサキ』と言っていいほどカワサキの大型バイクを乗る人たちが多く、業界の方たちからも『暴走族対策はカワサキさんですね』などと言われるような状況だったのである。

そんな新しい仕事を見事に纏めてくれて、
その後兵庫県のセントラルサーキットの建設なども担当されたのだが、
この『7万台への挑戦・新しいカワサキのイメージ創造』の時期に、
平井さんに私がお願いをしたのは、
レースではなく、新しく創った『お客様相談室』だったのである。


★『カワサキの新しいイメージ創造』を目指して、末端のユーザーたちを視野にいろんなことに挑戦したのだが、その一つが『お客様相談室』だったのである。
 
新設するに当たって各社のお客様相談室に電話をしてみたのだが、
お嬢さんが担当で、スマートにお答えにはなるのだが、ちょっと複雑なことにはなかなかスムースに答えられないのである。
 
そんなことで、他社との差別化を図るべく、
カワサキのことならすべて明確に答えられる『平井稔男さん』を選んだのである。
平井さんの話しぶりは、ご存知の方は納得だと思うが、
まさに明快で、溌剌としていて』誰が聞いても『好印象』なのである。

 4社の中で最後にスタートした『お客様相談室』だったのだが、
その評価は最高で、 これが当時のお客様相談室のユーザーの評価だが、
非常に良い』が45%もあるのを見ても、その満足度は相当のモノなのである。

 

     




 これはその後の調査なのだが、
購入ユーザー』でも『不満がある人』の方が、
その対応次第で『ファンに成る確率』が高いのはお解り頂けると思う。

  



 そんなことで『平井さんのお客様相談室』には苦情を言って来たユーザーから
 『お中元やお歳暮』が届いたりもしたのである。


★この当時、一番力を入れていたのが『CS推進部』でこんな構成になっていた。

  

 この『CS』のCは、日本で一般に使われるCustomerではなくて、
 明確に Consumer(消費者) なのである。

 Customer も勿論顧客という意味もあるのだが、それは『取引先』という意味の方が強く、日本の顧客満足の実態は末端消費者よりも業界の人たちの満足を優先することが多いのだが、
当時のカワサキの場合は、販売店ではなくて常に末端ユーザーの満足を求めていたのである。


 非常に地味な仕事だが、当時の『お客様相談室』が7万台への挑戦で大きな役割というか『カワサキイメージの向上』に大きな役割を果たしてくれたのである。

そんな元気だった平井さんも86歳、ちょっと最近元気がなくて心配である。
Facebook では『いいね』を頂いたりするのだが、
このブロブお読みになったら是非『いいね』をよろしく。

 平井さん、本当に『7万台への挑戦の時代』有難うございました。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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この半年世の中変わったし、私も変わった

2020-05-25 05:30:58 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ もう少しで5月も終わる。
 新型コロナウイルスの緊急事態宣言も東京・北海道も解除されるようである。

 長かったようだが、中國の武漢で始まったのが昨年12月のことだったし、
日本でもこの問題が現実に言われだしたのは3月初めのことだった。

この12月と3月は、私自身の生活態度も従来と変わってしまったので、
非常にはっきりと覚えているのである。

   

この6か月を振り返ってみると、
孫の門野真也がアメリカから遊びに来たのが昨年の12月8日のことなのである。
彼の腕にはFitbit が付けられていて、『毎日の体調管理ができる』というものだから、早速私も購入し、そこから記録がスタートすることになるのである。


こんな腕時計のようなもので、時計の機能もあるのだが、
終日寝ている間の睡眠状態まで記録してくれるのである。


 


 

★それまでもジムに行って、
筋トレやらランニングなどはこれまでも続けてきたが、
12月9日からこのように記録が勝手に記録されるようになったので、
自ずと関心も湧き、頑張ろうと努力するようになったのである。



  





 そしてそれから約半年たって5月の最後の週に入ったのだが、
 今の状態はこのようになっている。



  


アクテイブ・タイムとはスロージョギング以上のちょっと厳しい運動をした時間で、
歩いただけでは幾ら歩いても『歩数』は記録されるが
アクテイブ・タイム』にはカウントされないのである。

そんなアクテイブ・タイムの目標を、一応は『30分以上』としていたのだが、
最近はその倍の1時間を目標にしていてそれが出来るようになっているのである。


歩数はあまり目標にはしていないのだが、結果は記録されていて、
この10日間ほどは、通常目標とされる『1万歩』がほぼ実現しているのである。
 


  




★実は私の誕生日は3月2日なので、
3月から87歳になったのだが、
日本国内で『新型コロナウイルス』がいろいろ言われだしたのが、
3月からなのである。

それまでずっと3年間も続けていた『ジムが休止』になってしまって、
外出禁止令なども出たのだが、三木の公園などは殆ど人もすくないので、
3月からは三木総合防災公園でのトレーニングに切り替えたのである。


その中味は『スロー・ジョッギング』『ストレッチ』そして『50メートルダッシュ』の3つを約2時間近くこなすことにしているのだが、
今までのジムに通っていた時よりはハードで、
それをやり出してちょうど3ヶ月になろうとしているのだが、
体重がそれこそ5年振りか10年ぶりに『79.8k』と久しぶりに70k台を記録したし、体脂肪率は24以下になろうとしているのである。


これは、私にとってはコロナもいい方向に変わるきっかけにはなった。
結果的には87歳になってから『より元気になった』と言えるので、
6月以降仮にジムが再開しても、天気の日の舞台は公園にして、
雨の日だけジムに行こうかなと思っている。


87歳の目標』を以下のように設定したのだが、目標は最低このままにして
現実には『アクテイブ・タイム50分』、『消費カロリー2000cal』を目指そうかなと思っている。



  
  

★ 87歳になって3ヶ月が過ぎようとしている。
  
 この3ヶ月、一つの目標だった『今年の薔薇』は結構綺麗に咲いた。
 庭の手入れというか草抜きや剪定もちゃんと出来たし、
 『メダカ』も仔を産み出した。

 6月からの3ヶ月をどのように過ごそうかと今考えている。
 暑い夏の盛りがやってくる。
 今でも汗びっしょりになるので、真夏のシーズンは気を付けたいと思っている。

 コロナは新しい時期に入るが、私自身はこの3か月と同じように過ごしたい。
 アメリカの孫のサッカーリーグが再開しないかなというのがWantである。

 人間、何歳になっても、『前向きに生きる目標』があることことは、いいことである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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アメリカにいる孫・門野真也

2020-05-24 06:16:58 | 発想$感想

★ アメリカにいる孫の門野真也、ホントはプロのサッカー選手なのに、
 コロナウイルスのお陰でリーグは休み、家でトレーニングはしているようだが、
 閑に任せて、末弟の絵を画いてInstagram に毎日アップしているらしい。

 なぜか私のInstagram では見れないと言ったら、毎日Facebook のメッセージで送ってくれるのである。

 娘のFacebook にはこんな風に載っていた。

 『毎日てっちゃん』とあるが、末弟の名が 門野哲也なのである。


   




  どうやら3月から始まっているらしい。
 その時は、哲也のアタマの毛は長かったのかな?

    
 


 最近になって毎日のように送ってくる。


 



 だんだん絵も上手くなってきたようにも思う。



 



 




 
 3男哲也は、1メートル90もある大男なのに、
 小さい頃から虫は全くダメで、怖いという。
 これが、昨日送られてきた。


  


 次男・真也は不思議な才能を持っていて、
 こんな絵も描くし、 料理はプロ並みなのである。
 サッカー止めても、多分職には困らない、

 めちゃ、めちゃ真面目で、努力家で、ホントに下手くそだったのに、
 プロのサッカー選手になるとはビックリである。


 家ではこんなトレーニングをずっとやってるらしい。
 そのやり方は、半端ではない。

 どこのプロのサッカーチームに入っても、
 体力測定では断トツでトップだと威張っていた。

 この体幹の強さは、娘婿譲かな?
 威張っているけど 『腕相撲』では、とてもお父さんには敵わないようである。


 
    


    


 つい最近は、こんなインタビューが流れたらしい。
 送ってきてもらって観ようかと思ったが、
 あたり前の話だが、英語だと聞いたので諦めた。

  


 早くリーグが始まらないのかなと思っている。
 哲也の絵もいいが、
 やはりサッカーの実況テレビの方がオモシロい。

 アメリカカリフォルニア、いつ再開になるのだろう。



 


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緊急事態宣言解除 コロナ対策   雑感

2020-05-23 05:44:35 | 私の生き方、考え方&意見

★ 大阪・京都・兵庫の3県に発令されていた『緊急事態宣言』は解除された。

 だけど、今後どのようなことになっていくのだろうか?


 


4月初めの緊急事態宣言の翌日から、
私は自分でノートに『感染者実数』を記録し続けている。
今後も、少なくとも9月までの3ヶ月は続けたい。


感染者累計』から『死者と退院者累計』を差し引いた数値である。
現実にその時点で、感染の危険のある人の人数のベースで、これ以外に世の中にはまだ解っていない『感染者』がいるのだが、確かにその通りだが、日本での死者の数は世界に比べて、桁違いに低いからそんなに沢山いるはずはない。
感染者実数』さえ押さえたら『全体が解る筈』という『私の勝手な仮説』なのである。

今のところ『私の仮説』通りの推移で、右端の数値が『感染者実数』だが、
5月の初めには1万人を超えていたが、退院者がどんどん増えて、今は3100人まで減少した。少なくとも今後数週間はこの傾向が続くから、1000人ほどになるだろう。



  


 

専門家先生などは、油断すると直ぐ増えると仰るが、
実感染者が1000人以下』なら『0人にする』などと言わずに、上手にコロナと付き合っていけば『大丈夫だろう』と思っている。



★ 世間も、マスコミも、世界もいろいろ言うが、
日本は今までのところ世界で群を抜いて『上手く対応した』と評価すべきで、
国も地方も国民もよく頑張った』自画自賛してもいいと思っている。

政府の緊急事態宣言の発表が『遅かった』などの批判もあるが、そんな宣言が出る出ないに関係なく、『国民は自ら上手く対応した』というべきだろう。
コロナ対策など、政治家やお金ではなく基本的には『国民の態度』だと思う。

そんな常識的な、辛抱のできる国民性が良かったのだと思う。
私自身も『よく知っている岩手県』は同じ日本の中で未だに0人で通している。
これは『岩手の県民性』がそうさせたのだと思う。
 
 
総じて、欧米諸国よりも、台湾を筆頭にアジア諸国の方が、結果がいいのは、基本的に欧米人よりは辛抱が出来る性格なのかも知れない。

  




★3月以来、私自身の生活は変わった。

朝は近くの公園にランニングに行って時間もいっぱいあるので2時間近く、結構ハードに動いているので、お陰様で体は自分でも解るほど確りした。

家内の買い物に週2回ほど付き合う以外は外出もしないし、人と話もしていない。
時間があるので庭の手入れもやれたし、今年のばらは綺麗に咲いた。
このブログも、結構確り書く時間が出来た。

      


兵庫県は『緊急事態宣言は解除』されたが、こんなお願いが出されているので、
この3か月続いている生活スタイルが、そのまま続くことになるのだろう。


  


 
 こんな施設が休業要請を継続するようにとのことだが、
 『スポーツジム』以外には、私には全く関係がない施設ばかりである。
 

   
  


 世の中はどのように変わっていくのだろうか?
 この『コロナ騒動』を機に、世の中になくてもいいものは、
 なくなってしまってもいいのではと思ったりする。

 ちょっと慣れてしまえば、プロ野球やサッカーなど放映などもないが、
 あまり気にならなくなった。
 この際、地方がもう一度見直されてもいいのかも知れない。

 

★ 『新型コロナウイルス』はワクチンさえ開発されたら、何とかなるのだろう。

 ただ、世界の動きなど『元の状態にいつ戻るのか?』
 日本への観光など100%消えてしまったと言っていいのだが、復活するだろうか。

 経済対策が今後はKEY になるのだろう。
 多分間違いなく『新しいスタイル』のモノがいろいろと現れることになるのだろう。
 いろんな企業で『新しいソフト』が機能するのだろう。

 昨日、こんなことがあった。

    
 5月10日にAmazon に樋渡啓祐著『反省しない』という本をオファーしたのだが、
 いつもは翌日には届く本が10日経っても届かないのである。


    
 Amazon に電話したら、『お客様相談室』の電話はお休みなのである。
 メールを打ってみたら、漸く返事が来た。
 『6月1日』に届くというのである。

 世の中、便利になって注文したら翌日届くのが普通だと思っていたが、
 それが20日後になっても、届くことが解っていたら特にどうということはない。
 『そんな世の中に変わる』と思えばそれでいい。 
 


★ 一度、コローっとAmazon のように変わるのもいい。
夏の甲子園大会』も戦後初の中止のようだが、全国の高校の大会だと言うが、全国の殆ど高校には関係のない『野球学校の大会』になってしまっているので、
この際、その基本コンセプトを考え直すいいチャンスでもある。

いままであったものが最善ではないはずだ。
これからの3ヶ月で、世界はどう変わるのだろう。
9月1日にどんな世の中になっているのだろう。
昨年の9月1日に戻ることが『最善ではない』ことは明らかである。

万全に見えた安倍内閣は9月1日はどのようになっているのだろう。
大阪の吉村人気はどうなるのか?
世界のコロナはどうなるのか?

この3か月で、私自身は身体も確りしたし、『生きる』ことにより自信が付いた
昨年の『9月1日』よりは明確に進歩した自分であるように、この3か月を過ごしたい。



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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 5

2020-05-22 05:12:28 | 私の生き方、考え方&意見

★ SPA直入のことや、これに関係した人たちのことをもう少し書いてみたい。

 私の40年間の現役生活ではいろんなことがあったが、
一番心に残っていること一つ上げよ』と言われたら『SPA 直入』と答えるかも知れない。

 最初に岩崎茂樹と二人で、草ぼうぼうの現地を歩いたのが最初だが、
 日本の中で一番多く訪れた町は『直入町』だし、思い出いっぱいなのである。
 直入町長以下、町の方たちとも仲良くなったし、
 SPA直入は町の活性化にもお役に立てたこともよかったなと思っている。


 この当時、1988年から1990年代の初めの頃、 
 7万台の目標達成のために、一番力を入れてたのは、
 『遊びのソフト会社ケイ・スポーツ・システム(KSS)で、
 そのスタート時期には、私自身もこの会社のことに掛かりきりだった。

 そのKSSの常務として実際に動いてくれたのが南昌吾くんである。

 
ずっと昔、カワサキが特約店制度を立ち上げたのは1973年だが、
当時の二輪業界では初めての本格的な二輪車専門店制度だった。
ホンダ・スズキ・ヤマハさんはいずれも50ccモペット全盛期で、自転車屋さん主力の販売網だったのである。

最初にこの制度を展開したのは大阪南営業所、京都営業所そして岡崎営業所の3地区だったのだが、この制度を全国に展開するためにも、最初は絶対に失敗は許されなかったのである。


大阪は私の直轄だったが、藤田孝昭くんと南昌吾くんが担当していた京都岡崎を選んだのは、この二人なら上手くやるだろうと期待したのである。
当時の京都には、今もお付き合いのある柏原久・関初太郎、レース界で『ヨシケン』で通っている吉川健一くんなどがいたユニーク極まる営業所だったし、
岡崎営業所では、あの杉浦さんが『ヤマハオートセンター』を立ち上げたばかりで南くんは、そんなムツカシイお店の対応をしていたのである。 
今はレッドバロンとしての全国展開だが、そのスタートからカワサキとはお付き合いがあって、私も懇意にして頂いているのである。

カワサキのこの特約店制度は見事に成功するのだが、この3営業所を嚆矢としてほぼ3年で全国展開が図れたのである。
 

★それから20数年近くも経って、『7万台の販売目標』というムツカシイ課題に立ち向かったのだが、この時も、新事業のジェットスキーを藤田孝昭、新しいソフト会社KSSを南昌吾くんの二人が担当してくれたのである。 

この辺りの『私のやり方』はずっと一貫していて、社内にはいろんな優秀な人材はいるのだが、『前例のないはじめての仕事』をやれる人というのは、これは『ちょっと変わった独特のもの』を持っていないとムツカシイと思っていて、そんな人材はなかなか社内でも少なくて、この二人の他には平井稔男さんぐらいで、平井さんにも、いろいろと『全く新しい仕事』をお願いしたのである。

新プロジェクトであった『ソフト会社・ケイ・スポーツ・システム(KSS)』では、
南昌吾常務の下に、今もお付き合いのある渡部達也・吉田俊くんなどのホンの数人でのスタートだったのである。



★オモシロイ会社には、自然にオモシロイ人たちが集まるもので、
当時のKSSには外部のいろんな人たちが集まってきたのだが、
レースにも、ジェットスキーにも関係があり、SPA直入とも最も関係が深かった人と言えば、あの『岩城滉一』なのである。


彼は単身で突然、東京事務所に私を訪ねて来たのだが、当時は4輪のレースをやっていて、新しく『二輪のレースをカワサキでやりたい』というのである。 

そんなことから『岩城滉一』とのお付き合いは7年間ほど続くのだが、そんな大物と直接付き合ってくれたのが南昌吾くんで、なかなか密接な関係で、ざっとこんな感じのお付き合いだったのである。

  
  


★そんな岩城滉一が当時一番気に入ってたのが『SPA直入』で、直入町での滞在日数は相当なもので、直入町の人たちとも密接に繋がったりしたのである。


これが直入町のSPA直入の立地だが、ご覧の通り『芹川ダム』がすぐ近くにあって、
当時は『芹川ダム』をジェットスキーゲレンデにしようという計画が進んでいて、
岩城滉一はジェットスキーにも惚れ込んで、直入滞在時には、SPA直入では二輪を、芹川ダムではジェットスキーを存分に楽しんでいたのである。



 


★そんな岩城滉一とのお付き合いなのだが、
東日本大震災のあった年2011年の3月半ばに、突然『岩城滉一』から電話が入ったのである。
何事かと思ったら、青森県のどこかで計画していた『旅サラダのロケ』が地震のために出来なくなってしまったので、
SPA直入』をお借りするように頼んでいただけないか? というのである。

私もカワサキを退職して10年以上経ってるし、頼むにしても『どのような頼み方』がいいのか考えて、上からのルートではなく『ずっと下の私がよく知ってる人』に頼んだのだが、上手く社内を動いてくれて、半月余りの間に現地でのロケも終わって、4月2日のオンエアとなったのである。
 こんな頼まれ仕事は『前向きにやってくれる人』でないと、『余分な仕事だ』と思うような人では上手く回らないものである。


★ 4月2日の『旅サラダ』を見ての感想を、こんな風にブログにアップしている。


   


こんな風に『旅サラダ』に 『SPA 直入』が岩城滉一と共に登場したのである。
 
   

  




 二論でサーキットを走る画面も写ったし、


   
   
   


当時泊ってた旅館『翡翠』の首藤文彦さんとも再会して、SPA 直入のメンバーたちとも旧交を温めた様子もテレビに放映されたのである。


   


★こんなことがあるから、
 『人とのお付き合い』はちゃんとしておかないとと思うのである。

 岩城滉一という有名人との7年間のお付き合いも、『二輪やジェットスキーのファン』としてのお付き合いで、そこには契約金のようなビジネスライクなものはなかったのである。

 『旅サラダ』も東日本大震災という思わぬ出来事から、大慌てだったと思うが無事間に合って、ホントによかったなと思っているし、カワサキも、直入町にとってもよかったなと思っている。



★『旅サラダ』には『SPA直入』だけでなく『オートポリス』での走行シーンも入っていたのだが、SPA直入建設当時に、同時に建設が行われていたのが『オートポリス』で、当時の金でその建設費用は300億とも500億円とも言われていた。
SPA直入』は土地代は不要だったので、その100分の1ぐらいの費用で出来上がっているのである。

不思議なご縁で、『オートポリス』は今はカワサキの所有になっていて、そのオートポリスの経営を担当し確固たる運営方式に仕上げたのは、かってのKSSで南昌吾常務を支えた渡部達也くんなのである。


 いろいろと想い出の多い『SPA直入』なのだが、そのスタートは30年前だし、
『旅サラダ』ももう10年前の話なのである。

いま、シリーズで纏めようとしている
7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』での『私の生き方、考え方&意見』は今現在もそのまま続いていて、ネットの世界でも、現実にもホントに昔と同じように多くの方たちとお付き合いがあることは嬉しいことである。

そんな方たちの名前がいっぱい飛び出すことになるだろう。



 
 



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丹生山    雑感

2020-05-21 04:59:40 | みっきぃふるさとふれあい公園

★ 長く生きてはきたが、登山もしないし山とは直接の関係などもなかったのだが、

 コロナウイルス問題が起こって、それまで毎日行ってたジムから、
 トレーニングの場所を三木総合防災公園に変えたこともあって、
 3月以降は、『丹生山』と毎日対面していたのである。


 ちょうど車を止める駐車場の前の芝生の広場から、
 このように真正面に『丹生山』は見える位置にある。

 眺めているのは三木からだが、丹生山は神戸なのである。
 方角で言えば右の山すその向うに六甲山脈があり、その右手が神戸の街である。

  




 何となく格好のいい山で、三木のあちこちから眺めることが出来る。
 
 こんな風にも見えるし、
 

  



 これはもう10年も前、 孫・古谷仁 と一緒に拝んだ

 丹生山に登る 『初日の出』なのである。

  



 こんな写真があるということは、何となく『丹生山』は心の中にある山なのだろう。



★ 実は、昨日の朝は、濃い霧に覆われていて、

 いつもの広場から見える『丹生山』が全く見えないのである。

 いつもある山がないと、何となく気になって、
 霧の晴れるのを、辛抱強く待とうとしたのだが、

 
  
 

 30分ぐらい待って、これくらいまでにはなったのだが、
 また、霧がかかってしまって、諦めて戻ってきたのである。

 


 
 今朝の『丹生山』である。
 
 あるところに『』があって、何となくホッとした。






 今までも、何となく意識してた山なのだが、こんなに意識したの初めてである。

 改めて、こんな写真を撮ってきた。

 なかなか、『いい山』だと思われませんか?


  


 


 見えないけど、このすそ野を高速道路が走っていて、
 明石海峡大橋を渡る 『淡路島から四国徳島への道』 なのである。


 今まで住んだことのある町、明石にも山はなかったし、
 三木にも高い山などはないのだが、

 神戸は六甲山丹生山など、いい山があるから魅力的なのかも知れない。
 
 そういう意味では、三木からも『見える山=丹生山』を改めて意識させてくれた、
 一昨日の『霧』だった。

 こんなこと思うようになると、やはり歳なのかなとも思ったりする。
 『丹生山 雑感』 である。



 

  
 
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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代   4

2020-05-20 05:53:45 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』も4回目になった。

 100回ぐらい続くだろうかとは思っているのだが、
 幾らでも話題はありそうなのだが、
 まずは10回ぐらいまでは少しピッチを上げてアップしておきたいと思っている。

 
 このテーマの数値目標は『7万台・売上高400億円』なのだが、
 これは当たり前だが『1年間』での数値なのである。

 そういう意味では結構大きくて、だから簡単ではない目標なのである。
    
 当時の資料が残っているが、こんな数値目標で、
 二輪車で6万台、ジェットスキーで1万台 計7万台  なのだが、

 当時の実力は、二輪車が44000台ジェットスキーは3000台だから、
 これは普通ではない『大変な目標』であることがお解り頂けると思う。
 

  
 


 今思っても、こんな目標をやると、よく約束したものだと思うのである。

 88年以降の1年間の移動値のグラフ見ると、出だしは横ばいだが、
 89年の半ばから、目標の線を上回って、
 3年目にはほぼ目標を達成できる目途が付いているのである。


 


 二輪も、ジェットスキーも、ともに目標推移を上回った傾向を示しているのである。
 
   なぜ、こんなことになったのか?
 確かに、思いもよらぬ ZEPHYR の好調や、
 当時は新製品であったジェットスキーの好調もあったのだが、


   




 基本的には、従来の販売促進策などには頼らない、
カワサキの新しいイメージ創』というソフト重視の基本戦略が功を奏したと言っていいだろう。

二輪車もジェットスキーも、『遊びの道具』なのである。
そんな遊びも、『遊び半分ではいい遊びは出来ない』と、
遊びの専門会社・ケイスポーツシステム』を立ち上げて、他社とは全く差別化したいろんな仕組みシステムを立ち上げたり、実践したりしたのである。

いまも尚続いているユーザークラブKAZEは、ケイ・スポーツ・システムが一番最初に取り上げて、89年1月にスタートしているのである。
 スタート時点は1000人ほどだったのだが、それ以降どんどん伸びて最盛期は55000人を擁して、実質ホンダHARTの5倍の陣容になったのも、専門会社が本格的に取り組んだからである。 いつか『KAZEのコンセプト』についても取り上げてみたいと思っている。

そんな『新しいカワサキのイメージ創造』の核となるソフト会社KSSの設立は、
当時新しく創った末端のユーザーが走れるサーキット『SPA直入』の管理運営会社という理由で申請したので、川重本社の承認も簡単に取れたのだが、この会社の運営対象は、本音はそんなハードの管理ではなく、
それを利用する『末端ユーザーへの働きかけのソフト』が第一目標だったのである。
 


★ホントに、なぜこんな目標が達成できたのか?
端的に言うと『私は兎に角ツイている=いい運を持っている』から出来たのかも知れないと思ったりしているのである。
私の人生は不思議なほどツイていて、いろんな新しいことを手掛けるのだが、目論んだことはほぼ実現しているのである。
その時々に『いい商品』に巡り合えたり、『いい仲間と組む』ことができるのである。

SPA直入の建設計画は私が計画して始まったものなのだが、当時は別に国内担当でもないので、その運営に関係するなどとは夢にも思っていないのである。
それが結果としては、『自らが運営できる』そんなラッキーなことに繋がっていくので、『ツイている』としか思えないのである。


★この際昔を振りかって、『SPA 直入が出来た経緯』を纏めるとこんなことである。

ずっと遡って1970年代後半、Z1などの大型バイクの開発にテストコースが必要だと当時の技術本部(技術本部長髙橋鐵郎さん)が言い出して、大分県直入町にテストコース建設用の広大な土地を購入し所有していたのだが、その後の事業部の事情などから、大規模なテストコースの建設はムツカシク、ずっと放置されたままになっていたのである。

その購入条件の中に、直入町の人たちの雇用なども入っていて、直入町からは事業本部に対してそんな約束履行を厳しく要求され続けていたのである。

1988年に、その対策としてモトクロスコースを作って対応するなどの案が出たのだが、私がそれを聞いて『モトクロスコースより小規模なサーキットの方がいい』と当時の髙橋本部長・柏木企画室長に言って即刻OKを取り、レースなどにも詳しい岩崎茂とのコンビで『SPA 直入』計画はスタートしたのである。

もしそんな話を私が聞かなかったら、サーキットなどは出来ていないのである。

 
なぜ、私がそんなことを言い出したのかというと、
この時代『レーサーレプリカ全盛時』で、ユーザーたちはそんな高性能車を走らせる場所がなくて峠に集まり『峠族』などと言われていた時代なのである。

当時は鈴鹿も菅生もほかのサーキットも、『素人に走らせたら危ない』などと言って、一般ユーザーには走らせなかったので、メーカーとしてはちょっと無責任だなと思っていたのである。

私はいつも、いろんな新しいことを考えるのだが、それは『業界の常識』によるものではなく、普通に自然に、常識的に考えることにしている。

二輪業界に限らず『業界の常識』などは業界に都合のいいように考えられていて、末端のユーザーなどは無視されていることが多いのである。

素人は危ない』などと言うが、一方通行で、交差もないし、対向車もいない
そんなサーキットでの走行が危ない』などと言うのは、メーカーはそんな危険な商品を売ってるのか? 『二輪車はそんなに危険な商品ではない』とホントにそう思っていた矢先に、こんな話だったので即刻飛びついたのである。

小さなサーキットだがSPA直入の建設に着手したのは1988年春のことである。
ただサーキット建設など、川崎重工の本社財産課も造った経験など皆無だし、頼んだ建設会社も経験などないものだから、その基本設計のコンセプトは岩崎茂樹が一人で考えたようなものである。
私も岩崎も創成期のカワサキレースに関係していたので、コースレイアウトなども何とかなったのである。

この計画は、規模は小さいが本来の計画であった『二輪のコース』が出来るというので、直入町も大賛成で、大分県などへの申請などはムツカシイ面もあったのだが、町長自ら県への申請に同伴してくれて、当時の県知事に直接頼んでくれたこともあって、半年足らずで開発許可も下りたのである。

そんな1988年の10月に、突然私は『国内市場担当』となり、自ら計画したサーキットの運営もやることになったのである。



★ SPA直入は小さいが、こんなに綺麗なサーキットなのである。
 
 ユーザーの安全も考えて、グリーンベルトも広く、
 コース幅は鈴鹿サーキットと同じにしている。


 

     

そして、このサーキットの管理運営をする会社という名目で、
ケイ・スポーツシステム』を立ち上げたのである。

 
 


ちょっと余談だが『SPA直入』のネーミングの名付け親は岩崎茂樹なのだが、
SPA直入』のSPA は、確かに直入町の長湯温泉の意味もあるのだが、
ベルギーの世界的に有名なサーキットの『スパ・フランコルシヤン』とも賭けているのである。

 
★このSPA直入は89年4月に着工し、90年4月に完成、盛大なオープンセレモニーを行うのだが、日本で初めて一般ユーザーが走れるサーッキットだと大人気で、約4000人の二輪ユーザーが集まったので、小さなサーキットは人で溢れたような状況だったのである。

そこで挨拶に立たれた直入町長は
有史以来初めてこんなに大勢の人たちが直入町に集まった』とご挨拶されたのである。 
確かに有史以来の出来事で、多分その後も直入町に4000人を超す人たちが集まったことなないのではと思うのである。


ユーザー走行は1周だけで、直線コースは当日は走らなかったのだが、流石にコースは満杯で、今思うとよく事故が起こらなかったなと思ったりする。

 当日は清原などカワサキのライダーの他に、当時はヤマハにいた金谷秀夫なども参加してくれて、模範走行や、ユーザーたちの走行の先導を務めてくれたのである。

当日の写真は手元には持っていないのだが、小林茂さんなど、お持ちではないのだろうか?

あれから30年経った今も、SPA直入は、当初のコンセプトの通り、多くライダーたちに可愛がって貰っているようなので、起案者としては大満足なのである。
 

SPA直入については、オープン後もいろんな話題がいっぱいなので、
次回、もう一回 『SPA直入』についての話題をアップしてみたいと思っている。


 
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この時期の草花たち

2020-05-19 06:02:36 | 発想$感想

★ 5月中旬過ぎ、 一番快適な時期かも知れない。

 それは草花にとっても同じなのだろう。
 
 毎朝、三木総合防災公園で、2時間ほど時間を費やしているのだが、
 広大な公園なので、すべてを走ったり歩いたりは出来ない。

 公園の西の奥にある林間広場、
 ここにあるレーニング用の器具が、コロナのお陰で使えないので、
 ちょっとここには来ていなかったのだが、
 この4・5日の間にこんなに様変わりでビックリした。



 『クローバーとたんぽぽ」
 これはそんなに変わってはいないのだが、

  



 この草の名前は?
 いつの間にかこんなに背丈が伸びて、一面を覆っている。





 一応は芝生なのだが、
 たんぽぽやクローバーや、その他いろんな雑草で覆われてる


 ひらどが終わって、
 これは新しい花が咲きだしてる。






 こんな樹にも、いつの間にか花が咲いていた。

 



 こんな広場の中を通っている、こんな小道で、

 スロージョッギングや、ダッシュを楽しんでいる。






 ご覧の通り、殆ど借り切り状態で、
 マスクなど、全く必要のないいい環境なのである。

 この広場も、5月の初めには、機械で芝生を刈っていたのだが、
 半月経つと、もうこんな状況なのである。

 ゴルフ場、3つぐらいが入る広さだから、手入れや管理をされる方も大変で、
 毎日どこかで大掛かりに草を刈っている。


 今度、ここの芝生を刈るのは、いつ頃になるのだろう。



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だいぶ変わっている 私 Only One の評価   雑感

2020-05-18 06:20:37 | 私の生き方、考え方&意見

★ 最近私自身のことを、
普通に言えば『ちょっと変わっている』少しカッコよく言えば『差別化できた生き方』だったのだろう。  

と書いたりしたのだが、
それに対してFacebook でこんなコメントを頂いたのである。

 
古谷さんは、『ちょっと変わっている』ではなく、『だいぶん変わっている』と思います。

『差別化できた生き方』というより"Only One"だと思います。!!!素晴らしい人生を歩んでおられます!!


このコメントを書かれた方は、兵庫県立大学の松本茂樹先生で、
いろんな形でお付き合いがあったので、結構ちゃんと私のことは解っておられるのだが、おちょくっておられるようにも思えるが、
やはり『誉め言葉かな』と思って、結構喜んでいるのである。

人間幾つになっても『褒められる』のは気分がいいのだが、
褒めて頂いたのが『学校の先生』だというのが最高なのである。



★先日のブログでもちょっと触れたが、世の中の職位の高い人、例えば『大会社の社長さん』などを決してエライ人などとは思ったりはしないのだが、

学校の先生』や『お巡りさん』は 『社会の中で、エライ人、尊敬すべき人』と、
小学校時代に教えられて、ずっとそんな考えがそのまま続いているのである。

私にとってはいつの時代でも、変わらず
学校の先生や、お巡りさん』は、社会の中で尊敬すべきエライ人なのである。

現役時代会社の中で、一目置いていたのは、
お巡りさんと同じような役割の『保安の方たち』だったりしたのである。


こんなことを思うと『学校の教育』で覚えた『知識』などよりは、
その時に身に付いた『小学校の先生の教え』の方が大事で、
勉強した学科の知識ではないように思う。

別に『修身』の授業で教えてもらったわけではなくて、
何となく担任の先生から学んだことが今でも身に付いているので、
逆に『学校の先生』を尊敬するのである。


  



★ いま『コロナウイルス問題』から、学校が休みになったりして、授業内容が遅れるなどと問題にしているようだが、そんなことは大したことではないと思ったりしている。

私自身は戦後の混乱時に中学1年を棒に振って、もう一度日本に戻って中学1年からやり直したのだが、小学生時代はそんなに勉強もしなかったが、成績優秀で朝鮮京城府から表彰されたりもした。

学校で勉強したのは神戸一中の2年生までなのである。
3年生になった時男女共学になり県一女と一緒になったら、特に英語・数学などのレベルは1年間逆戻りしてしまったし、
高校は学区制で明石高校に転校したら、また学業のレベルが元に戻って、数学で言うなら『対数』のところまでを3回教えて貰っているのである。

 
そんなことで、中学2年生以降は学校で勉強したような記憶が一切なくて、
一応大学卒ではあるのだが、強いて言えば『大学野球部卒業』で、
学歴で言えば『中学卒』だと自分ではずっと思ってきたのである。

会社の入社試験の面接でも『君は成績悪いね』から始まったのだが、
単位は取れてはいたが『』ばかりだったのである。
大学の教室に入ったことが殆どなかったから、それは当然なのである。


★ 然し、勉強する分野というのは、学校を卒業してからもいろいろあるし、その期間の方が断然ながいので、一生続いているのだろう。
私自身は会社に入社してからも、広報分マーケッテングなどは、興味があったので『結構、勉強した』と思っているし、
定年後、ふとしたきっかけで入った『ネットの世界』でも独学だが、ブログ・ツイッター・Facebook など、いずれもそこそこのレベルで続けられていると思っている。

パソコンを触ったのは70歳からで、もう15年以上続いているのである。


  
  


★ 『人間の素質』などは生まれた時から決まっていて、年と共に進歩することはないのではないかなどとも思っている。

どんなにアタマのいい人でも、プロのスポーツ選手になることなど難しいし、
理数の嫌いな人は技術屋さんにはなれないし、
法律を学んで弁護士になるなどは、そんな素養がないとダメだと思う。

然し、世の中にはいろんなことで生きていけるから、
画家や音楽家』などもいるし、
田中角栄のような政治家もいるのだと思っていて、
それらはみんなその人が生まれつき持っていた素質ではないかなと思っている。

 
★ 今回の『コロナ騒動』で、多分今後の世の中は変わっていくことが予想される。
 『新しい世の中に対応できる能力』は、学歴なんかじゃないことは間違いない。

 そういう意味では、みんなに平等に与えられたチャンスなのである。
 私は、どんな世の中になっても、『87歳の高齢者だが対応できる』と思っている。
 そんなことを平然と思うので『だいぶ変わっている』と思われるのだと思う。

 これは2年前、85歳の春の写真だが、 70歳以降は殆ど衰えていない。
 体力的にも、70歳以降どんどん向上していると実感していて、
 そのあたりは『だいぶ変わっている』か、『Only One』 と言えるかも知れない。


   



 然し、どうも私がお付き合いのある方は、
 殆どが『変わっている方たち』ばかりである。
 よく言えば『個性がある』というべきか?

 まともで、真面目一筋の方の人生など、そんなに面白くはないのではと思
 
 私などと『気の合う松本茂樹先生なども、
 大学教授としては『ちょっと変わっている』と言えるのではなかろうか?



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雨の土曜日の1日

2020-05-17 06:23:22 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★朝方はひどく降ってた雨も、9時過ぎには何故か一時止んだので、
三木総合防災公園に走りに行った。
 
何となく毎日やってることをやらないと気持ちが悪い。
流石に人影はまばら、何故かこんな大きな樹が気になった。


    




この一帯、かっては森だったので、今は広大な公園になってるのだが、
大きな木も沢山切られてしまったのかな、とそんなことを思ったりした。

 残っている木で、これは大きいほうである。
 果たして樹齢は何年ぐらいなのだろう?
 間違いなく87年以上だなと思った。 私より長く生きるのは間違いない。



   




★ こんな目標を立ててるけど、殆ど毎日クリアできている。

 
  
 
 

 これは、昼のデーターだが、こんな感じで、
 夜までには消費カロリーも、歩数ももっと上がるだろう。



   
  



★ 5月も中旬を過ぎた。 我が家のばらたちももうすぐ満開となる。


  


 
 
 

 睡蓮も、かきつばたも咲き出した。
 今年は『新型コロナウイルス』のお陰でいっぱい時間があったので、




 
薔薇は結構、立派に咲いた。

上の方に枝を伸ばしている巨峰 4年目だが、果たして実をつけるだろうか。






★アメリカにいる孫の次男、閑に任せて、末弟の絵を毎日描いて、
 Instagram にアップしてるようだが、何故か私のInstagram では見られない。

 ファンが出来て、フォロワーが50人になったとか。


    


 
 私には、Facebook のメッセージで、毎日別途送ってきてくれる。

 これが今日の分だが、

  
     



 こんな調子で、毎日送られてくる。

 因みに、末弟は幼稚園の時にアメリカに渡っているので、
 話は十分できるのだが、『ムツカシイ日本語は不得手』なのである。



    



 
 雨の週末、時間つぶしにこんなブログをアップして過ごしている。


 ところで、これはニュース。
 『昨日、今年初めてメダカの仔が孵っているのを見つけた
 多分、今年は1000匹は生まれるだろうが、第1号である。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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