★カワサキの創成期のファクトリーレース、当時最初に参入したレースはモトクロス、『赤タンクのカワサキ』と言われていた。
当時2サイクルを持たないホンダはモトクロスには不参加だったのである。
そしてカワサキが初めて公式にGPに参戦した日本グランプリはFISCOで開催されたが、その時のカワサキのGPレーサーも、250のA1マシンもタンクの色は赤だったのである。
ロードレースに初めて参戦したのはその前年のことで、鈴鹿でホンダのロードレーサーの赤タンクを見て、当時誰にも言わなかったが、『これはマズイナ』と秘かに思っていたのである。
翌年の日本GPには、ホンダはFISCOの第1コーナーが危険という理由で出場しなかったので、何となくホッとしたのを覚えている。
昭和41年(1966)は、私のレース担当最後の年だった。
その翌年からは、仙台に異動し東北6県の営業を担当することになり、赤タンクのことも何となく忘れてしまっていた。
何年か後、アメリカでレースマシンに『ライムグリーン』が使われて、カワサキのレースカラ―もいつしかグリーンに変わっていって、私は内心よかったと思ったのだが、
いろんなレース関係者などにライムグリーンに変わった経緯など聞いても、確りとそれに応えてくれる人には出会わず、昨年の9月までは誰に聞いてもよく解らなかったのである。
★昨年秋、Z140周年のアメリカでのイベントに誘われて出席することになったのだが、
その会合に来ていた斎藤定一さんにホントに久しぶりに会って、KMCで彼が40年も前に創ったというR&Dを見学したときに、
彼の口から『タンクをライムグリーン』に勝手に塗り替えたら、ひどく文句をくらったという話を聞いて、グリーンに変えたのは『斎藤だったのか』と初めて解ったのである。
(写真はその時の写真である。左はパーティで浜脇さんの奥様と、右はその前日KMCのR&Dでタンクの色のことを聞いたときの写真、Z1開発者の大槻幸雄さんとKMCの現役と、いずれも私が写した写真である。)
私は当時広告宣伝も担当していたので、ロゴとかコーポレートカラーなどには関心があったのだが、当時のカワサキはそんなことはお構いなく、どんどんやりたいものが勝手にどんどん決めるようなところがあって、元々の赤タンクも会社が決めたものではないし、ライムグリーンに変えたのも会社の決済などは全くなかったはずである。
斎藤さんが技術から企画に異動してアメリカに行く前、盛岡に営業の第1線を勉強に来た時に一緒に行動したことがあり、昨秋、それ以来2度目みたいなものだった。
彼は、R&Dも創ったし、日本の自動車工業会でアメリカに初めて工場を創ったのはカワサキだが、その直接担当だったのである。
アメリカから戻ってからはガスタービンなどに異動し、その後カワサキを退社してしまったので、あまりよく知らない。
どんどん初めてのことをやる積極的なばかりの人かなと思っていたが、昨年秋ご一緒して、そんなことはないのがよく解った。
私の斎藤さんの印象は、今は一変している。 やはり人はちゃんと会って話をしてみないと解らないものである。
★昨日、カワサキバイクマガジンの100号の記念号が私のところに送られてきた。
その中の特集記事に斎藤定一さんが出ているのである。
いろんな当時のアメリカ市場のことが書かれているが、
次のページには、『ライムグリ―ン』のことが語られている。
多分、カワサキの『ライムグリーン』がこんな形でちゃんと語られたのは、そして世の中に出たのはこれが初めてだと思う。
『赤からグリーンに』どのような経緯で変わったのか?
昨年秋、斎藤さんに再会して、ひょんなことでそれが解って、
そしてカワサキバイクマガジンの100号記念の記事で初めてそれを決めた人が語って活字になったのである。
やりたい人が勝手に決める『創成期のカワサキ独特の決め方』だけど、
その発想の端緒が、『ホンダが赤だから、赤はまずい』と最初に私が思った同じ判断の基準で『グリーン』が生まれたことがよかったと正直思っている。
そんなことで、当時のレースを担当したひとりとして、自分のブログでも、ちゃんと語っておきたくて、このブログを書いている。
★そんな意味で、カワサキバイクマガジンに感謝である。
カワサキバイクマガジン100号記念ということで、創刊の経緯なども書かれていた。
私は1996年の夏が二輪関係は最後だから、カワサキバイクマガジンの創刊は知らないのである。
グリーンということで言えば、赤いタンクが終わるころ、私と入れ替わってレースの世界に入った平井稔男さんは『切ったらグリーンの血が出る』 という。
今年は、そのTeam Green 設立30周年だと意気込んでいる。
『赤タンクのカワサキ』 ずっとずっと昔のことになってしまった。
山本隆や星野一義が初めて乗ったF21Mは、赤タンクだったのである。
彼らは明石の記念車館にも、カワサキワールドにも赤タンクのロードレーサーはあるのだが、
赤タンクのF21Mがないことを、いつも寂しがっているのである。
Ninja も生まれて30周年、 ひょうごのロングセラー115という本に載っているらしい。
カワサキの歴史も長くなったなと思う。
★NPO The Good Times のホ―ムページです。
★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。
既存の三木市内の病院や調剤薬局は今後、統合病院を競争相手に患者さんを奪い合わねばならなくなります。もともと、患者さんの数は限られているのだから「直通バスを出すのでどんな患者さんでも統合病院に行ってください。」というような政策は間違いです。
民業を圧迫し、三木市内の医療崩壊を招きかねません。
少なくとも、統合病院病院運営費拠出(年間十億円ぐらいですか?)に上乗せして、数十億という投資を行ってすることではないように感じています。
(初期投資バス購入、受付機導入、方向転換場、待ち合い場整備、運営費用全て合わせて例えば5年でそれだけ投資するのでしょうか。内訳も全て示して総額を示していただきたいものです。)
結局、三木市は病院だけのためにいったいいくら使うつもりか、ということをきっちり示していだだきたいですね。
この際、とにかく「内訳」をきっちり示していただきたい。
いつも三木市が出してくる訳の分からない概要版は、見るごとに数字が違うのでさっぱり分かりません。
これを書く前にも、「三木市の予算編成方針」や「三木市の予算の概要」を見てきました。しかし、「三木市の予算編成方針」では一般会計の歳出歳入総額は200億円なのに、「三木市の予算の概要」になると、一般会計の歳出歳入額は300億円となっていて、意味が分からなくなってしまいました。
お手上げです。三木市の出すものは色々と難解です。
この話はさておき、極端な患者(お客様)誘導政策は、市内に密着した医療機関を圧迫します。大型商店街ができたために、地元の商店街がすたれてしまうようなものです。国民総医療費抑制のため、平成14年度から何度も行われている診療報酬改定は、中小規模以下(ベッド数200以下)の病院の経営を更に苦しめるだろうと言われています。(もっとも、この2年、病院の倒産数自体は減少傾向にあります。しかし、以前と比べて「放漫経営」による倒産でなく「医業収益本体の赤字」「医師確保」「看護師確保」の問題による倒産、廃業が増加しています。)
さらに、大西議員ご指摘のとおり、現在、三木市内には様々なバスに対する助成費、神戸電鉄に対する補助金が支払われていますが、その全てがバラバラに展開されており、これらの公共交通を全体から調整し、振興させていこう、というような政策には決してなっていないように見えます。
私は、神戸電鉄は三木市にとって非常に大事な交通機関だと思っています。可能な限り守っていただきたいと願っています。ですから、バスと神戸電鉄を一体として、公共交通として発展させていくような施策が必要で、新図書館のような、三木市の新しい姿を作るような施設は、ぜひとも公共交通の要となる場所に据えることで、公共交通の発展と市民の利便性の向上を図っていくべきだと思うのです。
新図書館が文化会館前に建設されれば今度は「新図書館行き」の直通バスを走らせるであろうことが容易に予想できます。(市内のほとんどの地域からアクセスが難しい場所ですから。)
直通バスにかかるであろう経費もさることながら、現在のバス路線はぼろぼろです。神姫バスには全面撤退してもらって、三木市営バスでも作るつもりでしょうか。
それをしたところで、神戸電鉄には何のメリットもありません。
最近よく耳にするようになった言葉に、ライフサイクルコストという考え方があります。
初期建設費であるイニシャルコストと、ランニングコストを総合的にみて費用対効果を計っていきましょう、という考え方です。
神戸電鉄の乗客増のために必要な柱は「集客施設の建設」「通勤客・通学客の獲得」の2つではないかと思います。新図書館は、「集客施設になりうるもの」です。
「通勤客、通学客の獲得」に関する腹案は機会があれば述べることとして、今回、新図書館を大村地区に配置するとして、用地取得などで5億10億余分に建設費がかかったとしても、新たな直通バスを走らせる費用や、公共交通の補助のために出すお金を削減する効果を総合的に勘案すれば、「ライフサイクルコスト」は大幅に削減できるものと考えます。
このようなことを一体的に考えていくのが「まちづくり」であり、思いついたことを次々に行っていくのは、「放漫経営」と言うのではないですか?
少なくとも、三木市の抱える大きな課題「病院」「バス」「神戸電鉄」「新図書館」が総合的なまちづくり、という見地から検討されたようにはとてもみえません。全てが、縦割りで、細切れなんです。
こんな政策を容認していては、三木市は希望の道ではなく、衰退の道をゆっくりと進んでいくしかできません。
三木市のお金は「5年後10年後の私たちが、子どもや孫と安定した幸せな日々を過ごしていられるようにするために」使いましょう。
今日明日の「なんとなくあれば便利」のために、だらだらと使い続けるものではありません。