雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

Z1会 第21回年次総会兼忘年会  カワサキワールド

2024-12-05 06:45:26 | カワサキワールド

★ Z1会とは当初は技術部内のコンペだったはずだが、
 大槻幸雄さんに誘われて私は2004年9月1日に初めて参加している。
 その時の日記の一文である。
 当時は80台で廻れていたようである。

  

 
 この会が何年にスタートしたのかは定かではないのだが、
 私が初めて参加した2004年はスタート間もないことだったのは間違いない。
 その第21回年次総会兼忘年会が昨日明石で開催された。
 毎年年4回のコンペが開催されているのだが、
 今年から私はコンペには不参加でこの総会と忘年会だけ参加してきたのである。

 カワサキのホントにいいメンバーが集まっているコンペなのだが、
 今年もこの総会兼忘年会にはカワサキバイクマガジンの取材もあった。

 


 

★ そんな年次総会で、私はなぜか表彰して頂いて
  こんな記念品と花束を頂いたのである。

  今のメンバーでは多分間違いなく『一番の古手』と言うことなのだろう。


  


  確かに今のメンバーでは80歳辺りが一番に年配者で、
  私の91歳は突出しているのである。
  でも、なかなかいいメンバーで、

  これは私の周りにおられた方たちである。
  丹波会長と事務局の松田嬢、それに吉田純一・柏原久さん、
  『純ちゃんかっしゃん』は
  現役時代はともにカワサキを売った仲間でもあり、
  いまはFacebook のトモダチでもある。

  



 東京からわざわざやって来た、西郷善治さん。




 このコンペをスタートされた大槻幸雄さんは
 あのカワサキZの開発総責任者で、確か今年は95歳で、
 お元気なのだが、こんな会合にも出席されなくなってしまった。

 それを引き継いでいるメンバーは、丹波会長以下ホントにいいメンバーで、
 この『Z1会コンペ』は今後も年4回いつまでも続いていくのだろう。
 来年は4月2日が第1回コンペで、『後半ハーフだけでも』とお誘いを受けているのだが・・・
 果たしてどんなことになるのだろうか?

 もう、忘年会に参加するだけで精一杯の91歳になってしまった。


 
  

 
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蕪会に出席してきた

2024-11-10 06:14:23 | カワサキワールド

★ 昨日は蕪会だった。
  私は昭和32年(1957)、当時の川崎航空機工業に入社したのだが、
  その頃から蕪会は有ったのだと思う。
  これは明石工場の『課長や部長らの会』だったのだが、
  その後、明石工場がどんどん大きくなって川崎重工業の沢山の部門が入って
  この『蕪会』の人数も膨大になってしまったので、
  再編成して単車と発動機出身のメンバーに絞ったのが2014年のことである。

  私はそ再開された2014年の蕪会に初めて出席したのだが、
  今回が確か3回目の出席なのである。

 私は91歳なので最長老かと思ったら95歳の岸田正昭さんが出席されていた。
 左が岸田さん、右は今この蕪会会長の三原修二さんである。

  
  

  その三原さんの幕開けのご挨拶から始まって、




  来賓祝辞は現役のカワサキモータースの友森常務がなさって、
  カワサキ二輪事業の現状などの説明もあったのだが、
  カワサキの二輪事業も今は川崎重工業を支える存在になっている。

  時代は変わって今は二輪事業は川重から分離独立して
  『カワサキモータース』として存在するのだが
  その基本コンセプトに採用されているのが

  Kawasaki. Let the Good Times roll! なのである。
 
  今回、私はこの蕪会の幕開けの『乾杯の音頭』を頼まれたのだが、
  Kawasaki. Let the Good Times roll! が今生きている経緯をお話して
  ご挨拶に代えたのである。


  
  
  
  このコンセプトは1970年代アメリカのKMCで採用されたコンセプトなのだが、
  なぜか4年ほどで消え失せてしまったのである。
  これを復活したのはずっと後の1992年に当時国内市場を担当していた私が国内で復活したのである。
 その後単車出身の田崎雅元さんが川重社長当時は川崎重工業の基本コンセプトになったこともあるのだが、
 それもまた、いつか消え失せていたのを、
 カワサキモータース株が出来た時に伊藤社長が復活されたのである。

  

   Kawasaki. Let the Good Times roll!
   カワサキに出会う人たちがみんなハッピーになるように
   カワサキはそんなコンセプトを転がし続けます
   と言うコンセプトは発表当時アメリカでも人気で
   歌になっていたりしたのである。

   そんな私にとっては非常に想いのあるコンセプト
   今は確りとカワサキモータースが受け継いでくれているので、
   非常に嬉しく思っているので、
   そんなかっての経緯をお話してご挨拶に代えたのである。

   Kawasaki. Let the Good Times roll!


★ そんなコンセプト通りの『いい時間』が過ごせたのだが、

  


  この『蕪会』にもあと何回出席することが出来るだろうか?


  
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カワサキワールド

2024-10-29 05:46:43 | カワサキワールド

★ 突然だが、カワサキワールドの吉田高明さんから
 「是非とも見ていただきたい番組があります。
  説明文の最下段にTVerのアドレスをクリックしてみてください。」 
 とFacebook のメッセージが届いた。
 そのアドレスとは次のようなモノだった。



  クリックしてみるとこんな画面が現れた。
 「広島ー神戸を巡る1泊2日旅」とある64分の動画だが、
  
  


  その50分からは神戸編でカワサキワールドが現われる。


  


  いろいろあって面白いから、
  カワサキファンや、バイクにご関心のある方は
  是非、クリックしてご覧になってみて下さい。

  


 
  
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今日はZ1会のゴルフコンペだったが

2024-04-03 05:24:21 | カワサキワールド

★ 朝5時既に雨が降っている。
  今日はZ1会の今年はじめてのコンペだったのだが、
  雨は終日降りそうな天気予報である。

  これが10時半の天気予報だが、三木辺りもひどい雨のようである。
  これではちょっと無理なので、
  今日のゴルフは一応現場までは行くつもりだが不参加にしようと思っている。

   



★ Z1会のゴルフコンペは毎年4回三木セブンハンドレッド倶楽部で開催されているのだが、
  今回が第87回と言うもう20年以上続いているコンペなのである。

  このコンペの初代会長はℤ1の開発総責任者だった大槻幸雄さんだったのだが、

  


  今年は会長も3代目で、新しく塚本昭一さんと若返りするのだが、
  その今年の第1回のコンペが雨とは残念なことである。
  参加資格は「Z1が好き」ならどなたでも参加できるので、
  最近はどんどん若返りが図られている楽しいコンペなのである。
  大槻幸雄さんをはじめカワサキのレースに関わった方も多いので、
  清原明彦さんをはじめ有名ライダーたちも名を連ねている。


  


 私も殆ど出席してるので、
 Z1会と写真検索するとこんなに沢山の写真が現れる。
 



 ★今回のコンペも、このようなメンバーで6組のコンペなのだが、
  私は今では最高齢である。
  若い元気な方も多いので、降雨でも決行と言うことになるかも知れぬが、
  残念ながら、91歳は雨のゴルフは無理も出来ないので、
  不参加にしようと思っている。




  ゴルフ場は家から15分と近いので
  一応現場までは行こうと思っているが、どんなことになるのだろう。


  
  
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SPA 直入のこと  いろいろ

2024-02-13 05:13:59 | カワサキワールド

★つい先日のことだが、直入町にお住いの森田一平さんから、
 Facebook でこんなメッセージを頂いた。

「突然の申請失礼いたします。ブログ拝見致しました。直入町に生まれ37年。趣味は旧車を眺めること。
直入の歴史を調べていたら古谷さんに行き着きました。父は芹川にてジェットスキーに乗っていました。宜しくお願いします(;>_<;)」

直入の歴史』を調べていたら私に行きついたと書かれている。
 こんな現在のSPA直入の写真と





 これは1990年4月15日SPA直入のオープン当日の写真なのだろうが、
 出来れば1枚1枚が見てみたい懐かしい写真なのである。
 その中の1枚には私の姿も写っている。





SPA直入が自らのバイクでサーキットを走ろうと集まった、ユーザーたちで埋まって、
 開会式に列席された当時の直入町長(お名前を失念したが)は、『有史以来最高の人数が直入町に集まった』とそのご挨拶の中で述べられたのである。

当時日本では一般ユーザーはサーキットを走れなかったので、
一般ライダーが走れるサーキット』を創ろうと、
1988年3月に想い経って、2年の歳月を経て、オープンに漕ぎつけたのである。
そんなことで、『サーキットを自分のバイクで走ってみたい一般のライダーたち』が数千人もの規模で集まったのである。

そのオープンの走行には、歳森・清原・宗和などのカワサキライダーのほかに、
当時はヤマハのライダーだった金谷秀夫も声を掛けたら来てくれて、錚々たるライダーたちによる開幕初走だったのである。
当日のことは私は今でもよく覚えている。

★私は現役時代カワサキの二輪を担当して、いろいろな新しいことを手掛けたが、
今残っているのはユーザークラブKAZEとこのSPA直入ぐらいなのである。
とりわけ『SPA直入』は一番思い入れのあったプロジェクトだったと言ってもいい。

これがどんな経緯で実現したのかと言うと、
1970年当時に、カワサキは中大型のスポーツバイクの開発のためのテストサーキットを創ろうと大分県直入町広大な土地を購入したのだが、
その後の二輪事業が赤字続きで、とてもテストサーキットの建設などは出来ない時代が続いて、直入の広大な土地はそのまま放置され続けていたのである。

1962年に鈴鹿サーキットがオープンし、その後日本各地にサーキットはオープンしたのだが、それらはすべてレースマシン以外は走れなかったのである。
世の中はスポーツ・バイク時代全盛期で、一般ライダーは走れる場所を求めて、各地の峠に集まり『峠族』などと呼ばれたりしていたのである。
私は、広いコース一方通行信号もないサーキットは、一般ライダーにとっても、そんなに危ない環境ではないという想いで、
一般のライダーが市販車で走れるサーキッ』を創ろうと思いたったのである。

★そんなことで、1988年3月にこのプロジェクトは、
私の後のファクトリーチームのマネージャーだった岩崎茂樹とたった二人でこのサーキット計画に挑戦したのである。
資金的にも余裕のなかった時代だったので、そんなに大規模なものは造れないのだが、
一般ユーザーが走れるサーキット』と言うコンセプトで、長さは1.4kmと短いのだが、
コース幅は鈴鹿サーキットと同じにしてセーフテイーゾーンも広く取り、安全第一に仕上げたのである。
建設会社もサーキット建設など経験がなかったので、
カーブのR設定などその基本コンセプト岩崎茂樹と私の発想によるものなのである。


  

 

これはずっと後、田崎雅元さんが送ってくれた写真だが、SPA直入での3人なのである。
この3人、考えてみるとまだ若い時代から密接に繋がっていて、
岩崎茂樹と田崎さんコンビの時代もあたし、
私と田崎さんコンビも、私と岩崎コンビ時代もあったのである。

岩崎茂樹は兎に角、物知りで勉強家でSPA直入も彼の産物と言ってもいい。
コース設計の大要はすべて岩崎のアイデイアなのである。
SPA直入』の名付け親も岩崎で、勿論直入温泉のSPAでもあるのだが、
ベルギーが誇る世界屈指のサーキット、スパ・フランコルシャンとも懸けている命名なのである。

 
★SPA直入建設当時に同じく建設中だったオートポリスもご縁があって、今ではカワサキのサーキットになっているのだが、
関東に是非カワサキのサーキットをといろいろ奔走したのだが、
それが実現しなかったのは、私の定年が来てしまったからだと言っていい。
いまでも是非『実現したかったな』と思っているのは
群馬県の松井田町の軽井沢からの峠の横に造ろうとしていた
松井田サーキット』で、これは若しもう2年の歳月があれば実現出来たであろうプロジェクトだった。
これは政治家の山本一太さんの父・参議院議員の山本富雄さんの紹介のプロジェクトだったので、時間さえあれば実現したと思っている。

そんなきっかけになったのが『SPA直入』なのである。
これは
  
 
 
大自然の真ん中にあって、日本で一番美しいサーキットだと自認している。

  
 


 
 あの岩城滉一SPA直入がお気に入りで、
 直入町の宿坊翡翠の荘にもよくお世話になったりしていたのである。


 

  
いまでもこんなにいろいろなイベントが開催されていて、
当初の基本コンセプトが生きている。





 森田一平さん、いろいろSPA直入のことを想いださせて頂いて有難うございました。
 大分県直入町、私の第2の故郷だと想っています。
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カワサキワールド訪問

2024-02-11 07:00:44 | カワサキワールド

★昨日は久しぶりにZ1 FAN CLUB のメンバーたちと神戸のカワサキワールドに行ってきた。

 
   


 カワサキワールドは神戸市の神戸海洋博物館の中にあるのだが、
 今ではカワサキワールドに来るお客さんのほうが多いのではなかろうか。
 昨日もなかなかの盛況だった。

 海洋博物館だから、入り口を入ったところにはこんな大きな船の展示などがある。





そしてカワサキワールドの入り口が改めてあるということになっている。







★この神戸市の海洋博物館カワサキワールドが入ったのは2006年のことなのだが、
その経緯は、当時の川重会長だった田崎雅元さんが「神戸市は神戸海洋博物館の活性化に苦慮しているようだ」と聞いて動いたのがきっかけなのである。
これは神戸市にとってもカワサキにとっても非常にいい大成功のプロジェクトだったと思う。

そんなカワサキワールドを盛り上げるべく、
ミニ鉄道フェスタ(ミニSL)などもカワサキの鉄道好きなOBたちと協力して、カワサキワールドの前の広場で開催したりした。
このプロジェクトは定例化して今でも続いているとか。
これはその時の写真で、一番前に乗ってるのは田崎さん、その後ろがなのである。 






★今回はZ1 FAN CLUBのメンバーたちと 
 カワサキの二輪事業70周年記念と言うことで
 久しぶりにカワサキワールドを訪れたのである。

 
   



 
 この集合写真のシャッターを推してくれたのは
 カワサキワールドの吉田高広くんである。

  


これはその吉田高広さんと今回の主宰者登山道夫さんの2ショットなのだが、
吉田さんに「初めて会ったのはいつだったのかな?」と聞いたら、
ミニSLの』と仰るので、当時神戸市に広場を借りるのを手伝って頂いた田崎雅元さんのことも思い出したのである。

  


★今回は二輪やジェットスキーの写真なども撮ってきた。

 これは最初の立ち乗りのジェットスキーである。



 

 バイクはいっぱいの展示だったが、
 これはカワサキの初のレース『青野ヶ原モトクロス』の125B8
 赤タンクのカワサキ時代である。

 



 これはカワサキが初めて鈴鹿8時間耐久で優勝した
 メインスポンサーイトーハムのマシンだが、
 私はこのイトーハムのスポンサー契約の当事者だった。
 そんな懐かしいマシンなのである。




 カワサキメグロ650W1・マッハ500・Z1
 懐かしい名車が並んでいた。





 ちょっと珍しい展示物としては
 ヴィッセル神戸のイニエスタのユニフォームの展示もあった。





 なかなか楽しいカワサキワールド訪問だったが、
 お昼は舞子のもっこすで、ラーメンで昼食。

 
  
  
 

 なかなかいい半日だったのである。
 今度行くのは、いつになるのかな。
 


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カワサキの工場におられた近藤さん

2024-01-11 05:59:21 | カワサキワールド

★昨日の午後、突然カワサキバイクマガジンを片手に、
 かってカワサキの明石工場の最終組み立てラインにおられたという
 近藤正己さんが我が家を訪ねてこられた。


  


  カワサキのバイクに乗って、カワサキのジャンパーをお召しの、
  マスクまでカワサキのまさにカワサキマンである。

  カワサキバイクマガジンには近藤正己さんのバイク組み立てラインの取材記事が大きく載っていた。
  先方は私ブログなどもお読みになって、私をよくご存じなのだが、
  私は全く記憶もなくて、多分間違いなく初対面だったのだが、井稔男さんなどもご存じのようだった。

  頂いた名刺には、全日本交通安全協会認定・二輪車安全特別指導とあったので、
  私はカワサキ安全運転本部長を務めたこともあり、
  平井さんも安全運転指導課長の時もあったから、
  その頃、お会いしているのかも知れない。

  兎に角、最近は本当に何もかも忘れてしまっているのである。


   
  

 

★ 私のブログはお読みになっているようで、
  先方はよくご存じなのだが、残念ながら、私は近藤さんを想い出すことが出来なかったのである。

  釣りがお好きなようで、大きなヒラメを釣ったとかで、
  その写真も見せて頂いたのだが、お土産にヒラメの切れ身地卵などを頂いたりした。
  早速、ヒラメの刺身を夕食に頂いたが、
  ヒラメの刺身をこんなに沢山いただいたのは初めてのことで、美味しかった。

  それにしても、明石にお住いのようだが、バイクで我が家を探して、
  わざわざ来て頂いたのは有難いことである。
  ほんの15分程度の立ち話の雑談に終わったのだが、
  写真が撮れたのがよかった。
  わざわざお見えになったのに、何のお構いも出来ずに失礼した。

  ひょっとして、このブログもお読みになるかも。
  せめてもの私の御礼状である。
  近藤さん、わざわざ有難うございました。
  ヒラメ、美味しくいただきました。


  
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バイク旧車ブーム と カワサキ

2023-12-27 06:22:57 | カワサキワールド

★ 世の中どうやら旧型バイクブームらしい。

  こんな特集記事があって、
  その中の大きな部分にカワサキの車が占めていた。

 
  


 各メーカーの車も当然あるのだが、
 何故か、カワサキが人気なのである。

 先ずその筆頭はカワサキが1972年に発売して世界的な大ヒットを記録した、
 903cc・4気筒エンジンを搭載するスポーツモデル「900スーパー4」で、
 その型式名からファンの間で通称「Z1」と呼ばれるこの機種は、
 フルレストアされ状態がいい車体なら1000万円を優に超える値段がつく。
 また、なかには「プライスレス」と価格がつかない貴重な車体さえあるという。

 と言う記事で始まっている。

  
  


  この当時は、国内市場には750ccまでしか販売できなくて、
  国内市場用に750Z2 が開発・販売されたのである。

  確か、中古車ではZ1よりは、市販された台数の少ない750Z2のほうが
  一般的には値が高かったような気がする。

  


  私はたまたま国内市場には3回出向しているのだが、
  販売機種には恵まれて、この750Z21回目の出向の最後の頃なのである。
  この車が出たお陰で、当時推進中だった特約店制度がスムースに進行したと言っていい。


★ 次に出てたのが、400FXの限定仕様車
 この400FX1979年から発売されたのだが、
 当時のカワサキオートバイ販売はスタート以来の累積赤字が9億円もあったのだが、
 この400FXの大ヒットのお陰で、
 発売初年度の1979年1年で累損赤字を消去することが出来たのである。

 この年が私の2回目のカワ販出向の年で、
 川重ではまだ課長職だったのだが、
 カワサキオートバイ販売の常務取締役として、全軍の旗を振る立場にあったのである。
  
 記事に出てたのは、1982年度に出た限定仕様車だから、
 台数も少ないので、こんな高値がつくのだろう。
 348万円とはビックリである。

  
  


★ 3機種目に出てたのが「ゼファー400」なのだが、
 この車は国内市場では台数的には一番売れた車で、
 1990年代のことだが、私は3回目の国内出向で、
 カワ販の専務取締役として『7万台の販売に挑戦』していた時期なのである。
 この車は発売当時は全く期待されてなくて、
 生産台数が極小だったものだから、
 直ぐバックオーダーが発生したのだが、生産を増やすことなく増産せずに放置して置いたら、
 3年間もバックオーダーが続いて
7万台の販売目標達成』に大いに貢献したのである。
  




 なぜ、そんなことをしたのかと言うと、
 2回目の『カワ販』の出向時の「FX400の時」にも、
 3か月以上のバックオーダーが発生したのだが、
 生産増強した途端に『バックオーダーは消滅』してしまった経験があったからである。
 推測するに、車が足りなくなると、ユーザーは何軒もの店を訪れるので、
 注文台数が実際よりは多く出るのだと思う。
 そんな経験があったものだから、
 ゼファーの時はバックオーダーを放置して置いたことが、結果的には大成功だったのである。

 そんなことでこのゼファーは世の中にある台数が多いので、
 中古車価格もそんなに上がらないのだと思うが、
 この特集に出ていたカワサキの3機種は、
 私の3回の国内出向と一致しているのである。

★それからもう何十年も経っているのに、
 未だに当時の車のことが雑誌の記事になるのは、
 当時を思い出すことが出来て気分がいいのだが、
 一言でいうと『私はツイていた』と言えるのである。

 
 
  
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Z1会の忘年会だった

2023-12-14 07:03:24 | カワサキワールド

★昨日はZ1会の忘年会だった。
 Z1会とはゴルフコンペの名前なのだが、
 その名のとおり当初は川崎重工の技術部のメンバーを中心にスタートしたのだが、
 初代会長の大槻幸雄さんんが技術部や川重のメンバーだけでなく、
 『Z1をはじめバイクを愛する人』なら『どなたでもOK』と言うことにされたことから、
 今では川重のOBだけでなくライダーたち一般のバイクを愛するユーザーたち、さらには女性たちも加わった多彩なメンバーになっていて、
 総勢60名を超えるメンバーになっている。

 毎年4回のコンペが開催されているのだが、既に86回を数えているので、
 20年以上にもなるのである。
 初代会長の大槻幸雄さんは御年94歳にもおなりなので、
 いまは引退されて、名誉会長になられている。

 大槻幸雄さん、あの名車Z1の開発総責任者でもあり、
 カワサキのファクトリーチームの初代レース監督でもあり、
 私はそれ以来のお付き合いなのである。


 
 

 

★昨日の忘年会は明石で開催されたのだが、
 丹波会長以下有志が参加して、楽しく愉快な時間が過ごせたのである。

 スナップだが写真を撮て来たのでご紹介する。
 
 今年度のMVPには、最後のコンペの優勝者・多田喜代一さんに贈られて、
 丹波会長から記念の盾が送られた。

 


  写真がちょっとピンボケだが満面の笑顔である。

  実は、今年まで永年事務局長を務められた仲さんや事務局のメンバーが
  来年から新しくなるとの発表もあって
  新事務局長には塚本昭一さん、事務局に多田喜代一という有名ライダーコンビと、 
  それを支えるメンバーに女性の松田真弥の3人になるとか。
  これはまたまた来年からのZ1会が楽しみで、
  新しいメンバーも増えるかも知れない。
 
 
 

  2024年度のコンペもすでに決まっていて
  4月3日、6月5日、9月4日、11月6日の4回で、
  11月4日は記念すべき第90回コンペとなるようである。


  このZ1会のいいところの一つに、
  コンペの時もそうだが、出席者全員が何か喋ることで、
  昨日も全員が一言ずつ喋ったのだが、

  会員の一人、メーちゃんこと、山本信行さんはいつものことだが、
  「ひとこと」では終わらないのだが、
  そのトークはめちゃオモシロくて会の雰囲気を盛り上げるのである。


  


  

  メーちゃんはあの清原明彦さんの1年後輩で
  ゴルフも上手いがバイクに乗せても、相当なもので、
  現役当時はアメリカをテストで走り回ったようである。

 
  



  これは青木隆さん、豊岡からバイクでの参加である。
  マスクの御仁が今までの世話役・事務局長仲和俊さんである。

 




  青木さんから早速、何枚かの写真を送って下さった。
  キヨさんとの2ショット。





 塚本昭一さんとも




 幕開けの丹波会長のご挨拶






 ご自身の写真も上手く撮れれてる。






 
 丹波会長と多田喜代一さん、MVP授賞





  無事日暮れまでに、豊岡に帰られたようである。

 




 最後になったが、
 遠藤治一さん、元伊藤忠商事だが、現役時代はカワサキフランス社長だったし、
 あの世界を席巻した耐久レースチーム「カワサキフランス」オーナーなのである。
 




★ こんな楽しい会だった。
 私も最後の閉会の辞三本締めの音頭を取らせて頂いた。

 来年は私も91歳になるのだが、
 来年は頑張って、4回とも参加できたらいいなと思ている。
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「KX50周年を祝う有志の会」

2023-12-03 06:14:18 | カワサキワールド

★『KX50周年を祝う有志の会』に行ってきました。

 写真いっぱい撮ってきたのでご紹介します。
 その雰囲気で、どんな会だったのか、ご想像下さい。

 
 往年の名ライダー塚本昭一・多田喜代一・高橋芳延さん。


 



 KXの産みの親、百合草三佐雄さん
 まだまだ、お元気で何よりです。
 乾杯の音頭を!





  吉村太一ちゃんも来てくれました。

 



 お二人とは同じテーブでした。




 種子島径さんも、旧いカワサキの仲間の井上一美さんも同じテーブルでした。





  東京からはるばる来られた西郷善治さんと松島裕さん





 この会の主宰者かな?
 私を誘って頂いた、大津信さん





 これはTeam Green のメンバーだったかな、
 




 御大の平井稔男さんは写真で登場。



 

 壇上に上がった、ライダーたち。




 伊吹清孝さんも 
 



 森田優治さんも





 司会の腰山峰子さん・川崎由美子さん・松田真弥さんもおられたのに
 写真を撮るのを忘れてしまった。
 残念!

 ほんとに楽しかった『KX50周年を祝う有志の会」でした。
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第7回蕪会に出席してきた

2023-11-12 05:34:11 | カワサキワールド

★ 昨日は西明石のホテキャッスルプラザでの蕪会があって出席してきた。


 

 
蕪会」とは川重の明石工場に勤めていた単車と発動機のメンバーのうち
 課長と部長の集まりで『かぶら会』と名付けられた会である。



  
 

 
 蕪会が出来たのはそんなに旧くはなくて、今回の会合が第7回なのである。
 現在の蕪会会長は3代目で三原修二さんなのだが、
 三原さんとは現役時代いろんな関係で私と繋がっていたのである。
 今日の会長挨拶の中でもちょっと触れられたが、
 カワサキモータースという現在の名前が産まれたの1993年のことで
 その名付け親は私で、それを承認してくれたのは当時事業部の企画課長だった三原修二さんなのである。

1993年当時は私は国内のカワサキオートバイ販売の専務だった。
国内で7万台も売れていた最盛期だったのだが、
その内訳は二輪が6万台ジェットスキーが1万台にもなったので、
カワサキオートバイ販売という名前は変えねばならないということになったのである。
幾つかの案の中から『カワサキ・モータース・ジャパン』に決定し、
 1993年からKMJはスタートしたのである。

 そんな「カワサキ・モータース」という名前が今回の事業本部の新会社の名前となって、
 いま世界のカワサキの販は「カワサキ・モータース」の傘下に入っているのである。

★そんな懐かしい昔話を楽しく語り合いながらのいい会合だった。
 50名ほどのメンバーが集まったのだが、
 集まったメンバーには90歳以上の方が4名おられたのだが、
 私は4番目で、最高齢は94歳だと言われていた。
 そんな高齢でもこのような会に出席される方はみんなお元気で、
 旧い昔の想い出を懐かしんだいい時間が過ごせたのである。


★今年はカワサキの単車事業スタートから70周年なのだが、
 12月にはKX50周年の記念祭もあるし、Z1会の忘年会もある。

 そんな会合に出席できるということは、元気で生きているということで、
 本当に嬉しいことなのである。
 そんな会に出てこられる方はみんな本当にお元気で素晴らしいことだと思っている。
 
 今月中旬には大学の野球部のOB会もある。
 この会合にも出席するし、できれば昼のソフトボール試合にも出場したいなと思っている。
 兎に角、健康で元気だということはこの歳になると一番の宝物である。
 これから1ヶ月半、大いに楽しんで生きたいと思っている。
 そんな幕開けの蕪会だった。

 
 

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北見紀生くんも逝ってしまった

2023-11-08 05:34:10 | カワサキワールド

★こればかりは仕方がないのだが、人間歳をとるといつかは亡くなってしまう。
 何となくいろんな繋がりがあった北見紀生くんも逝ってしまわれた。

 
  
 
 メグロからカワサキにやって来て、
 ちょうど私が東京営業所長を兼務した時、当時東京営業所のサービス長をしていた『北見紀生』くんと出会ったのである。
 彼は当時から抜群の技量は持っていたが、ちょっと変わっていて、
 所謂会社側からの評価はそんなに高くはなかったのかも知れない。
 
 私はどうもそのような『規格通りの会社側の評価』はもう一つ納得できなくて『私独自の評価』をするものだから、
 上の方から注意を受けることが度々だった。
 この直営部長時代にも、会社の評価が悪かった人を私なりに見直した人が何人もいるのだが、北見君もその一人かも知れない。

 まあ、人間『会社の評価』などよりは『世の中の評価』のほうが数段大事で、
  彼はカワサキにいた頃よりは、カワサキを去ってからのほうが、
 その実力を認められて有名になり、多くのカワサキファンが彼のところに集まったりしたのである。
 そんな中の一人、Kumiki Shimizuさんから北見さんの訃報の連絡を頂いたのである。
 Shimizuさん曰く、
『生前はメグロからカワサキの話になると、古谷さんには世話になった!と良く言っていました。
 満面の笑みを浮かべて話す北見さんでした。もうお会い出来ないのは残念です。』と連絡を頂いたのである。

ほんとに多くのカワサキファンが彼の元に集まっていたのである。
そう言う意味では、『カワサキのブランドイメージ』を陰ながら高めてくれた、お一人だったし、そんな北見さんにそのように言って頂けるのは嬉しいことである。

★彼が会社を去ってからは、お会いしたのはこの時の1回だけかも知れない。
 平井稔男さんと東京に行ったとき、
 時間があったので午前中に北見さんを訪ねたのだが、


  
 
 
  北見さんの所なら、私もという方が多くて
  こんなに沢山のメンバーで北見さんを訪ねたのである。

        これは私がシャッターを切ったので入っていないが、

  

  
 
 この時が最後になってしまった。






  北見さん、安らかにお眠りください。
  Kumiki Shimizuさん、ご連絡有難うございました。



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カワサキの工場見学と青木隆さん  

2023-10-27 07:06:06 | カワサキワールド

★10月25日に行われたカワサキの工場見学だが、
 遠く豊岡からカワサキのバイクで参加された青木隆さんが、
 当日のいい写真を送っていただいた。

 青木隆さんいつものことだが、
 私などと違って写真に小さな気配りがあっていい。
 私も一ぱい写っていて、いつの間に撮ったのだろうと思うのである。

 これは工場見学後、カワサキの昔を私が話した時の写真である。
 カワサキの二輪事業のスタート時を語れる方も少なくなってしまった。

 


 この工場見学に事務局が準備された資料だが、
 つい先日亡くなったばかりの山本隆のことが語られている。
 実は、青木隆さんと繋がることになったのは、山本隆さんのご紹介なのである。




 


 これは青木隆さんのブログからだが、このように語っておられる。
 ついこの間だったような気もするが2014年のことだったから、
 もう10年近いお付き合いなのである。

  

 
★そんな青木隆さんだが、
 今回の工場見学でも私の写真をいっぱい撮って送って下さった。 

 これは昼の会食後だが、
 明石大橋が望める江井ヶ島の海岸に立ち寄った時の私の後ろ姿である。
 右に写っているのは淡路島である。
 私は明石の生まれ、明石の育ちだから、明石海峡にはいろんな想い出がある。
 明石海峡大橋を眺めながら、そんな昔を想っていた。


  


 これは昼食後、江井ヶ島の海岸に出発する直前、
 こんなカワサキのZ1100で参加されていた。

  
  


 
そんな青木隆さんとカワサキの展示場でのツーショット




 
 川崎神社は今回帰りがけに、私がご案内したのだが、
 そんな川崎神社での何枚かの写真を送って下さった。

 いつの間に撮られたのだろう? 私は全く気付かなかった。

 


  この川崎神社は1990年代に大きく改装されたのだが、



 

 それをおやりになったのは、
 大庭社長ではなくて当時の高橋鐵郎事業本部長なのだが、
 こんな風に大庭さんのお名前が残っているのは
 高橋さんのお気遣いなのだろう。




 大庭浩さんは社長におなりになる前1986年ごろは二輪事業本部長をおやりになっていた。
 その時の副本部長高橋鐵郎さんで、企画室長が私だったのだが、
 この川崎神社はもっと後、1990年代高橋鐵郎さんが事業本部長時代に大改装されたのである。

  そんな川崎神社の参拝を最後に、
  今回のカワサキ工場見学は終わったのである。

  

  
  
  私の最後のカワサキ工場訪問になるかも知れません。
  青木隆さん、写真いろいろ有難うございました。
  この工場見学に参加された皆さん、有難うございました。


★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。


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山本隆さんへの弔辞

2023-10-26 18:04:27 | カワサキワールド

★ 山本隆さんが突然亡くなってしまった。
  公式には昨年11月のZ50周年記念にこんなに元気に
  出席していたのだがそれが最後になってしまった。

  

 
  彼が21歳の頃(1963)からのお付き合いなのだが、
  私が一生に出会った人の中で
  ひょっとしたら、彼が一番長く密接にお付き合いがあった人かも知れない。
  現役時代は勿論退職後もずっと密接に繋がっていたのである。

  若い時はレースで繋がっていて、
  私がレースの世界に入ったのも、
  その原因を創ってくれたのは、山本・歳森のBSとの仮契約問題だったのである。
  この事件は神戸木の実クラブの片山義美さんの一喝で、無事元のさやに納まるのだが、
  そのことから私はレースの世界に足を踏み入れたのである。


★ それ以来の継続したお付き合いだから、
  山本隆の写真も手元にいっぱいある。
  旧いと思われる順番に並べてご紹介してみたい。


  先ずは現役時代、カワサキがはじめてライダー契約をした当時で
  左から岡部・歳森・山本・三橋・梅津だが、
  岡部・歳森はすでに逝ってしまって、山本も続いてしまった。
  三橋・梅津は音信不通である。



  


 これが伊豆丸の山高原で行われた、MCFAJ全日本モトクロスで、
 山本隆は当時の久保・荒井の両雄を下しての優勝だった。
 この優勝でカワサキのモトクロスが一人前だとレース界認められた優勝なのである。
 東京オリンピックの開催式当日のことである。


 


 1955年5月には、カワサキのライダーではじめて鈴鹿サーキットに出場し
 ホンダに次いで3位入賞、
 『ヤマ3、シオ8、セイコウ、カワ』の電報が川合さんから送られてきた。
 そんなことからカワサキはロードの世界にも進出し、
 金谷秀夫との契約もスタートしたのである。
 そう言う意味でカワサキのロードレースの祖でもある。
 
  


  現役時代は文字通りカワサキのエースライダーとして活躍し、
 3年連続・全日本チャンピオンの栄にも輝いたのである。

  
 




 これは僚友、歳森康師とモトクロスのお弟子さん星野一義とのスリーショットだが、加古川の河原での練習風景である。

  
  

  これがF21Mが出た時の青森での全日本の時の写真で、
  1966年の年である。

 


 モトクロスライダーとしては、1973年ごろまで現役ライダーで活躍し、
 華麗なライデイングを披露した。

 
  
   


その後、トライアルにも出場したりしたしたが、

 
  


 

 自ら『60おじさん』と称してモトクロスにも長く出場した。

 
   



 これは荒井市次70歳・山本隆63歳の時だが、
 三木アネックスパークで、二人は昔同様の見事な走りを見せたのである。




   
  
 当時も現役時代と同じような見事なライデングで、

 


 若いアマチュア諸氏などは寄せ付けない、
 見事なライデングだったのである。






 そんな山本隆だが
 晩年は、私の後のNPO法人The Good Times の理事長も引き受けてくれていたし、

 

  
 これは私と一緒に東京に行った時の写真だが、
 星野一義がかってのお師匠さんにご馳走してくれた時の写真で
 シャッターを切ったのが私である。

 岡部能夫金子豊もこの時が最後になってしまった。

  
 

  これはマウンテンライダースの50周年記念パーテー
  京都に金谷・清原とも一緒に出掛けた時の写真だが、
  安良岡も金谷もこの日が最後になってしまった。





 同じ日に北川とも太一ちゃんとも一緒に、
 私の80歳の誕生日だったので、いまから10年も前である。
 ところで、山本隆は私よりちょうど10歳若いのでこの時は
 70歳だったはずである。





 これは神戸木の実クラブの記念祭だが、
 片山義美もまだ健在だった。
 彼とはいろいろ繋がっていて、私がライダーと一番初めに言葉を交わしたのは片山義美なのである。
 何故か何となく気が合って、その後もいろんな形で繋がっていたのである。




 これはその片山義美を偲ぶ会での山本隆である。





 そしてこれが昨年の11月だが、
 これが最後になってしまった。
 全く元気そうな山本隆である。

 



★彼は若しライダーにならなかったら、植物の世界に入っていただろう。
 植物が好きで、これは昨年彼が我が家に届けてくれたイチジクである。
 今年はここまで大きくなった。

  


 山本隆の想い出として大事に育てたいと思う。







  山本隆の写真はいっぱいあるのだが
  これが一番山本らしさが出ているなと思っている。


  



  それとこれは彼がただ一度だけ
  鈴鹿を走った時の3位入賞のトロフィーである。


  


 カワサキのロードレースの道を最初に拓いたのは
 モトクロスライダーの山本隆だったのである。

 いろいろと長いお付き合いだったがほんとに有難うございました。
 安らかにお眠りください。
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川重明石工場会

2023-10-25 18:39:32 | カワサキワールド

★ 川重明石工場の見学会神戸ベンチャー研究会主催で行われた。
 私は昭和32年(1957)に当時の川崎航空機工業の明石工場に入社して、
 1999年の退職時には3社合併があって川崎重工業になっていたが、
 現役時代の約40年の舞台となった懐かしい工場なのである。

 当時に比べると数段綺麗に立派に伸長した川崎重工業だが、
 いま二輪事業は分社されて『カワサキモータース』として存在しているのである。
 従って正規に言うと『カワサキモータース』明石工場見学会だったのかも知れない。


  総勢14名での工場見学会だったのである。
  ちょっと少なくて寂しいかなとも思ったのだが、
  実際に工場見学してみるとちょうどいい人数だったなと思っている。

 
  




 こんな立派な会議室で、
 会社側からの丁寧な説明も聞いたし、

 



 私自身から、現役諸君もご存じない二輪事業スタートの頃の昔話もご披露したりしたのである。

 工場内は写真撮影はダメなので、
 こんなロビーの写真や、

  



  これは現在お勤めの方も、ご存じない方が多いのではと思うのだが、
 正門の横の奥にある川崎神社にお参りして戻ってきた。


  
  


 これは今吉田純一さんが、全国に「オートバイ神社」のネットワークを創られつつあるのだが、
 出来ればこのカワサキ神社もその輪の中に入らないかなと思ったりしている。

 この神社は高橋鐵郎本部長時代にこんなに立派に造られたものなのである。
 立地が国道2号線の直ぐ横だから、ちょっと工夫すると工場に入らなくても
 誰でもお参りできる神社になる立地なのである。
コメント (2)
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