★カワサキの二輪事業の国内市場を担当して、オモシロいことばかりだったのだが、
10年間の国内市場の出向から事業本部の企画室に戻ったのである。
サラリーマンの動くルートとしては最高の部門で、企画でじっと大人しくしていたら、昇格・出世は間違いないいい部門なのだが、
性格的にどうも「じっとはしておれない」のである。
当時は川重の吉田専務が先頭で旗を振られていて、
ちょっと陰りの出たアメリカ市場の大型車に代わって、
効率的な生産設備による安価な小型車を大量に生産・販売するという
「小型車プロジェクト」が真っ盛りで、1980年に50万台を売るという構想で進められていたのである。
10年間販売分野を担当してきて、開発・生産とはちょっと異なる販売分野のムツカシさは解っていて、こんな構想はとても実現するわけはないと思ったのだが、
専務が先頭で走っているプロジェクトなので真正面から反対は出来ないのである。
企画部門という基本計画の推進部門担当なので、具体的な反対は諦めて、
「東南アジアの小型車のCKDプロジェクト」を提言し、
先ずはその市場調査を行う計画を上程したのである。
ちょうど企画に戻って5か月目の1976年春のことである。
CKDプロジェクトなら明石に膨大な設備投資は必要ないし、
東南アジアの小型車は日本の50ccと違って100㏄なのである。
技術本部長の高橋鐵郎さんを団長に生産の安藤、技術部の川崎、営業の山辺さんに加えて国内販売から松田さんと、
私が纏めの事務局という調査団を創り、
5月17日から6月18日までの1か月間、
台湾・インドネシア・タイ・イラン・マレーシア・フィリッピンの各国の市場調査を行ったのである。
その結果は秋には「市場開発プロジェクト室」という新職制ができて、
私もその一員として折角の企画部門を1年で自ら飛び出した結果となったのである。
★二輪事業の調査は各地のデーラー訪問が中心になるので、
各国の末端の状況も解るし、車での移動が中心なので、
非常に面白いのだが、世界の各国のこんな末端を1か月かけて観た人などはそう多くはないと思う。
先ずはインドネシアではジャカルタ・スラバヤなど当時ネシアは、
二輪車の市場としては最大で、どの町も二輪車であふれていたのである。
そのあとのタイでは、北の都・チェンマイにも行ったし、
バンコク周辺では観光地バタヤにも行けて
ある意味観光旅行のようだった。
一番大変だったのがイランで、まだ王政が敷かれていた時代なのだが、
サベイにすでに大きな工場を持ったデイーラ―と契約が交わされていて、
テヘランから約100kmの現地まで車で往復したし、
この地図を見てもお解りのように、緑地は全くないと言っていい。
延々と広大な砂漠が広がっていて、
突然現れるシーラーズなどは人が創った美しい街なのである。
南のシラーズとアスファハーンのデイーラ―訪問もしたのだが、
アスファハーンでは突然飛行機が欠航になって、
空港の係の方に聞いても、「いつ飛ぶのか解らない」のである。
この辺りが「イランらしさ」で、神様だけが知っていると仰るし、
当時のデーラーに「事業計画」がないのである。
そんな先の話は、「神様の世界」だとホントにまじめに仰るのである。
仕方がないのでテヘランまで400kmの距離だったが、
タクシー2台でテヘランまで戻ってきたのである。
どこまで行っても真っすぐな砂漠の中の道だった。
今はイランなどなかなか行けないので、貴重な経験だったと思っている。
★この1か月の調査団の出張で、私がつくづく思ったのは
「世界は広いな」と言うことと
「世界にはいろんな考え方」があって、特に日本人は自分の方から他人を観ることが多いのだが、
世界の人口では日本人よりはアラブの宗教を信じる人たちが圧倒的なので、それが「おかしい」などとは言えないのである。
先方から見ると「日本人のほうがおかしい」のかも知れないのである。
そんなことが、よく解った1か月で
この調査団の現地報告から、カワサキの小型車のCKD事業はイラン・タイ・インドネシアの3国を中心に新たにスタートしたのである。
この調査団の報告を契機にカワサキのCKD事業は本格化して、
今では事業の中心になっているし、日本への逆輸入なども行われているようである。