雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

アメリカから娘がやって来た

2023-06-30 06:43:49 | 発想$感想

★ アメリカから娘がやってきたので伊丹空港まで迎えに行った。

 昨日までは東京にいる息子の長男のところにいたのだが、
 その間、鎌倉にいる私の息子のところにも遊びに行ったらしい。
 息子ののほうの孫・古谷仁がこんな写真を送って来てくれた。

 
 昼間からどうやら酒でも飲んでいるようである。
 二人とも家内に似たのか結構お酒は強いと言っていい。





★ 久しぶりの伊丹空港でJALできたので、
 いつものANAの南と違って北なので、
 ちょっと駐車場に止めるのに迷ったりしたのだが、

  
 
 

 乗客の降り口は中央なので、ANAもJALも同じところだから、
 どこに車を止めても同じなのである。一つ賢くなった。

  
  

 
 


 12時半の着だったので、中央の食堂街で


 


 アメリカではちょっと食えない「きつねうどん」を食ってきた。
 



 



 来月の19日まで三木にいるそうだから、
 久しぶりに我が家も賑やかになりそうである。
 一日目の夕食から賑やかだった。


 
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「7勝、27・28号、」 解り切った話だが大谷はスゴイな

2023-06-29 07:16:15 | スポーツ

★昨日はエンゼルスーホワイトソックス戦を最初から最後まで観ていた。
 試合を全部観ることは少ないのだが、それだけオモシロかったのだと思う。

 大谷翔平は投げては7勝を挙げ、

  


 打っては、27・28号を記録した。

  




  今更解り切った話だが、「大谷はスゴイな」と思う。
  こんな選手こそ「不世出」と言うのだろう。
  この頃はアメリカのマスコミもベーブルースとの比較を言わなくなった。完全にベーブルースを抜き去ったのかも知れない。


 


  4-2で勝利しているのだが
  大谷はランナー二人を置いて降板してたのだが、
  Jウエブが打たれて1点を与えたので、自責点1がついている。
  


  


  4点の得点のうち2点は大谷の27・28号ホームランである。

  9回はリリーフ投手がまさかの4連打で1点を失い
  なお1死満塁で危なかったが、
  最後は内野ゴロでダブルプレーで何とか逃げ切った。 






★大谷に限らず、日本の野球のレベルもホントに世界のTOPレベルと言っていいだろう。

 WBCで優勝してるのだから、世界一と言ってもいいのだろう。
 本当に進歩したものだと思う。


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カワサキ単車の昔話  5   スタート時の二輪事業

2023-06-28 05:36:59 | カワサキ単車の昔話

★日本の二輪業界が何とか形になってきたのは朝鮮戦争以降の昭和28年(1953)頃からだと思うが、
当時はまだ川崎航空機工業は単車のエンジンをメイハツ工業に出荷していただけで、
二輪業界に後発メーカーとして参入するのが昭和35年(1960)からである。
その頃には 一時は200社近くあったと言われたメーカーも、
浜松のホンダ・スズキ・ヤマハの3社とトーハツやスクーターの富士重・三菱などの数社に減っていた。

当時の二輪車の販売方式は、地方の自前の代理店から自転車屋・サブ店に「委託販売」するのだが、
自転車屋が二輪の修理能力があったわけでもないのに、
各地の代理店は中心機種であった50㏄モペットを5万店以上もあった自転車屋さんに委託して回る「委託競争」という今では考えられないことが行われていた。
そんなことで当時は「サブ殿様のデーラー乞食」などと言われたりしたのである。

★そんな時代のことをご存じの方は今となっては私ぐらいで、
そう言う意味では、カワサキではホントに一番旧いと言ってもいいのかも知れない。
スタートからの10年間を振り返ってみると私はまだ20代で若かったが、
事業が若かった関係もあって、単車事業では一番旧かったので事業の中枢を歩くことが出来たのである。
50㏄の国内販売はなかなかムツカシク、当時の事業経営は赤字続きで大変だったのである。
浜松3社に対抗出来たのはレースチームだけで
モトクロスは山本隆・歳森康師・梅津次郎・岡部能夫・星野一義
ロードレースは三橋実・安良岡健・金谷秀夫と言う当時の日本の  
TOPライダーを揃えていて、その直接の契約担当だった。

国内はまだ実用車のカワサキの時代で、
広告宣伝課を担当した3年以降は、当時のカワサキの最大の市場であった東北6県の販売第一線を川崎航空機からの出向者としては初めて担当して、
販売第一線のノウハウも何となく身に付いたような気がする。
アメリカ市場がスタートし、赤字続きであった単車事業がようやく黒字が出だしたそんな時代だった。

★スタートからの10年にはこんな出来事があったのだが、
 そのすべてに何となく関わっていたのである。
  

 昭和35年(1960) 明石工場で一貫生産スタート
 昭和36年(1961) 発動機営業部に単車営業課がスタート
 昭和37年(1962) 鈴鹿サーキットスタート ロードレース観戦
 昭和38年(1963) 青野ヶ原モトクロス完勝
 昭和39年(1964) 広告宣伝課カワサキレースチームスタート
 昭和40年(1965) ロードレーススタート
 昭和41年(1966) FISCO日本GP出場
 昭和42年(1967) 仙台事務所開設・東北6県担当
 昭和43年(1968) アメリカKMC 設立
 昭和44年(1969) 川重・川車・川航3社合併



 車で言うと125B7から始まって、
 125B8

  

 
 
  125B1


   

 
 250A1の時代で、
 このカタログも私の広告宣伝課時代につくったもので懐かしい。


  


それにしてもこのスタートの10年、
 川崎航空機工業としては、全く未経験の単車と言う末端民需大量販売事業をよくやり切ったと思うのである。
 国内では販売関係をメグロ・メイハツの二輪経験者が担当して援けてくれたくれたお陰だし、
 スタートしたばかりのアメリカ市場の販売の中心になったのは、
 二輪車に詳しいアメリカ人たちだったのである。

 





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協同学苑 いこいの森

2023-06-27 06:01:11 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★このところ急に暑くなってきたので、朝の散歩を三木総合防災公園から、
 日影の多い協同学苑に移している。

 
 


 協同学苑はこのような大きな研修施設もあるco-opの研修施設なのだが、
 周囲にはスポーツ施設や公園のような広大な散歩道もある。






 中でも「いこいの森」は全くの山の中だと言ってもいい地区で
 こんな表示板があるのだが、
 坂の下にある池までは綺麗な道が整備されていて、
 いつもは池まで行って来た道を戻ってくるのだが、
 昨日はそのまま、険しい上り下りの山道を久しぶりに歩いてきた。


     



 その殆どが日蔭路なのだが池からの山道は、本当に険しくて、
 とても普通の高齢者が通れる道ではないのである。

 この1周の写真を撮ってきたので、ご覧になってみて下さい。
 これが表示板が立っている入り口である。

 


 
 こんな整備された道なのだが、 日影なので苔むしている。




 
 そこからはこんな下り道がずっと続いている。
 結構な勾配なのがお解り頂けると思う。




 さらに下ると、こんな綺麗な池に出る。
 いつもはここから来た道を引き返してくるのだが、
 上り坂はなかなか険しい。





 池の突き当りにこんな小さな橋があって
 この橋を渡ると『山道』に入る。
 その山道を歩いてきた。







 突然、こんな急勾配の階段である。






 登り切ると、こんな山の中の道になり、






 今度は逆に急な下り道になる。

 





 そこ下ると今度はまた急な上り坂である。





 登ったところにこんな休憩所もあるのだが、
 ここで一服するとまた上りの階段が続くのである。





 この階段もきつくて長い。





 登りきると、掲示板のあった近くまで来て、
 



 一般の方たちが散歩をされるこんな平坦な道に出る。





★協同学苑はこんな立地で山に隣接している。
 いつもは下の池まで行って引き返し、1周するコースなのだが、
 1周して約5000歩なので、
 そのあと7000歩になるまではあちこち歩きまわっているのである。
 




 夏場になるので、外であまり無理をせずに
 7月になったら、屋内のジムの利用を再開しようかなと思っている。
  

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庭 今昔    雑感

2023-06-26 06:44:03 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★最近はすることがないので庭いじりに精を出す日が多いのだが、
 我が家の庭は当初は私の趣味と言うより、
 戦前から本家に出入りしていた藤本さんと言う庭師の方が、コツコツと10年ほどかけて造ってくれたものである。
 金もなかったし、ある時払いの催促なしと言うか、
 ホントにぽつぽつと小さな庭だが藤本さんが自分の思うように作った庭で、
 不思議なことだが、植木や使った石を、私が自慢するのではなく、
 藤本さんがしきりに自慢していた庭である。

 ホントに戦前の昔気質の方で「俺は造園屋ではない」が口癖だった。
 植木は大きくしたらダメだと、結構形の良い樹を持ってきて植えてくれたのだが、
 50年も経つと半分は枯れてしまったのだが、残っている植木は
 背は大きくならぬようにずっと剪定しているので、
 幹だけは見事と言うほど太くなっている。

★私自身の趣味は、かっては庭木などよりは魚が好きで、
 子供のころ、ずっと池のある家に住んでいたこともあって、
 真っ先に造ったのが池で当時はこんな錦鯉を飼っていた。

 
   


 結構、本格的な池で、深かったし、
 飼ってる鯉もそこそこだったのだが、
 生き物は死ぬし、鯉の値段など大小ではなくて「形と模様」で決まるのだが、
 ポンプの電気代も掛ったし高くついた趣味だったことは間違いない。







 それが「鯉ヘルペス」に罹って全滅してしまったものだから、
 流石にもう一度最初からやる元気もなくて、池を埋めてしまったのである。

 その時の写真で池が土になってしまっている。
 
 
 


 それが今はこんなになっているのだが、
 私がコツコツと庭いじりで、ひとりで造ったので結構気に入っている。







★ 植木も自慢できるものとしては、
 こんな五葉の松が前庭に植えられてたのだが、
 これは藤本さんへの支払いをご祝儀を兼ねて、仰る値段より心持弾んで多く渡したら、
 そのお礼にと持ってきてくれた「盆栽風の五葉の松」だった。
 根っこが太くて、ひょっとしたら『樹齢100年』ぐらいだったかも知れない。

 
  



 それがだんだん元気がなくなって、
 とうとう枯れてしまったのである。
 

   


  どうしようかな?と思ったのだが、
  私も気に入っていた松なので
  根っこの部分をこのように置物にして今も家に飾ってある。


  



★ 今も小さな池はある。
 ホントは池ではなくて「我が家の車庫」なのだが、その下をT字型の池にしている。
 その発想は藤本さんではなくて私で、
 何としても、小さくても池が欲しかったのである。
 この車庫も藤本さんが結構、凝った石を使っていて、
 大きな石は「小豆島の石」だというし、
 その他の石も結構凝った作りになっていて、
 色々講釈していたが、藤本さん自慢の出来だったようである。
 
 小豆島の石が何故いいのか?と聞いたら
 小豆島は石の産地で、大阪城の石垣は小豆島の石が使われているそうである。

  
    
   
  今はこの池には、小さいが鯉もいるし、
  金魚やドジョウやメダカもいる。
  金魚はここ数年毎年コドモを産むし、
  エビも毎年数えきれないほど卵を産み、タニシもそうだが
  もう20年近くになって、
  私は毎日、池の魚たちを眺めて時間を潰している。


★今は、我が家の庭はバラなど花もいっぱい咲いているのだが、
 「花の咲く樹はもう一つだ」と言ってた藤本さんが見たら、嘆く庭になっているのかも知れない。
  
 
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カワサキ単車の昔話  4   新しく出来た広告宣伝課

2023-06-25 06:34:03 | カワサキ単車の昔話

★日本能率協会は単車事業を再建する条件の一つとして「広告宣伝課を創るこ」を条件にしたのだが、
その具体的な予算として「1億2000万円」が3年間も続いたのである。
 当時のサラリーマンの年収50万円の時代だったから1億2000万円は現在なら10億円を悠に超す膨大な予算であったことは間違いない。

 そんな広告宣伝課の担当が当然のようにまだ係長にもなっていない私に科せられたのである。
 それも掛長・課長もなしに直接の上司はその後もずっと単車事業でご縁のあった明石高校の先輩でもある苧野豊秋次長だったのである。

 私は入社以来、誰もやったことのない「新しいこと」ばかりをやって来たので「古谷に任せば何とかするだろう」と周囲の方は思ったに違いないのである。


★昭和39年(1964)1月から広告宣伝を担当するようになって、
私の会社での仕事の内容も『一変した』と言っていい。

それまではカワサキの広告宣伝はカワサキ自販で担当していたのだが、
当然広告宣伝業務をカワサキ自販から引き継ぐことになったのである。
当時のカワサキ自販では広告宣伝業務は、総務課長・兼広告宣伝課長の小野田滋郎さんが担当されていいた。

小野田滋郎さんと具体的な仕事を一緒にしたのはこの時が初めてだったが、
小野田さんの凄さ、その仕事ぶりにビックリしてしまったのである。
世の中にはこんなに優秀というか仕事ができる人がいるのである。
現役時代いろんな方に出会ったが「この人にはとても敵わない」と思ったのは小野田滋郎さんだけかも知れない。
小野田滋郎さんはあのフィリッピンから戻られた小野田寛郎さんの弟さんなのである。

 この写真の左側の方で、陸軍士官学校出身の秀才なのである。


 

 
★ 前回、カワサキのレースのスタートは、
カワサキ125B8での青野ヶ原のモトクロスと記述したのだが、
 実はカワサキ125B7時代に、カワサキ自販で小野田さんはライダー三吉一行でMCFAJの全日本にも出場させており、
 日本で初めての鈴鹿サーキットのロードレースでは250は三橋実、350は片山義美がいずれもヤマハで優勝しているのだが、
 その三橋実をヤマハから引っこ抜いて厚木にカワサキコンバットを創らせたも小野田滋郎さんなので、
 カワサキの最初のレースをやったのはカワサキ自販の小野田滋郎さんと言うのが正しいのかも知れない。

カワサキの初めての契約ライダー5人のうちカワサキコンバットの三橋実以下3人は、カワサキ自販から引き継いだのである。

 

 

★川崎航空機工業に広告宣伝課が出来て、
 当然カワサキ自販の広告宣伝課を引き継ぐことになったのだが、
 その当初、何も解らぬ私を援けて頂いたのは小野田滋郎さんで、

 カワサキに広告宣伝課が出来て1億を超す予算があると聞きつけて、
電通・博報堂・大広・毎日広告など多くの広告代理店が売り込みに来たのだが、
向うのペースのままではどうしようもないので、
代理店選定基準』として、各社に共通の質問として『15項目の質問』を創ったのである。

その殆どは小野田さん主導で創られたのだが、
当方の質問が厳しくて「とても素人とは思えないポイントを捉えた質問」と広告代理店に感心されたりもしたのである。
特に「貴社の創造能力を図示・説明してください」と言う設問には本職の広告代理店が、ちょっと困ったようで、
小野田さん曰く「口でいろいろ言えても、ホントに解っていないと図示できない」と仰るのである。
確かにその通りで、物事を簡単に図示することはなかなかムツカシイのだが、
小野田さんは陸士仕込みの「戦略・戦術・戦闘論」などホントに上手く『図示される』のにはびっくりしたのである。

そんな小野田滋郎さんだったが、広告宣伝が川崎航空機に移り、
カワサキ自販も川崎航空機に吸収ということになって、
この年の3月末で辞められたのだが、個人的には私はその後も長くお付き合いがあったのである。


★ こんなことで始まった「広告宣伝課」の新しい職務だったが、
 この1年目は折角頂いた予算1億2000万円の内、7000万円しか使うことが出来なかったのだが、
これは「広告宣伝」と言えば「テレビ・新聞」なのだが、
その「テレビ・新聞」が使えなかったからなのである。
その理由は、当時は「実用車のカワサキ」で東京・関西などの大都会では全く売れていなかったので、
「東京・大阪などの大都市は広告は要らない」と営業サイドは言うので、新聞もテレビも使えないのである。

この1年目の実績に本社の専務から「お前ら金を渡してもよう使わん」と怒られたものだから、
2年目は何とか予算は使い果たそうと

新聞は「朝日・毎日・読売は抜き」で
全国40社以上もある地方紙に「全頁広告」を打ったのだが、
これは広告業界では「前代未聞」で「カワサキはとんでもないことをする」と広告業界で評判になったのである。

これは中央紙に広告するよりは費用面では「めちゃ多く掛かる」のだが、こんなことをしたのは、この年のカワサキだけだろう。

更にテレビも関西地区だけだったが、
当時売り出したばかりの藤田まことを使って

 


「かあちゃん ても んせい めた かわさき」と喋らした
15秒のコマーシャルなど作ったので、

 2年目は広告宣伝予算はちゃんと使い切ったのである。
 因みに「藤田まこと」さん、もう亡くなってしまわれたが、
 私と同じ1933年生まれなのである。




    
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加齢と膝の違和感   雑感

2023-06-24 06:18:43 | 発想$感想

★もう2年も前になるのだが、突然右膝に強烈な痛みが出て、
 救急車で病院に運ばれたことがある。
 その時は松葉杖などついていたが、1か月ぐらいで元に戻ったので、
 それからも毎朝のスロージョッギングは続けている。

 今は特に「どうと言うことはない」のだが、あると言えば「違和感がある」ので、
 昨日は久しぶりに三木山陽病院の整形外科に行ってきた。



  



 レントゲンを撮って、診て貰ったが「大したことはない」と言われて、
 痛い時の飲み薬とシップを貰って来た。

 歳だから、ある程度は仕方がないのだと思う。
 病院に行って周囲の方たちを見てると、私は間違いなく元気な方である。
 「ひざに違和感」があって、病院に行っているのだが、少なくとも病院に来られている方々よりは確りと歩けている。
 先生の触診も受けたが「大したことはない」と仰るので一安心である。
 「運動はした方がいい」と言われるので、
 毎日のスロージョッギングは今後も続けたいと思っている。


★ ネットで調べてみると
「毎日の歩行や運動で、膝は長い年月をかけて、ゆっくりと摩耗していきます。関節のクッションである軟骨が徐々にすり減ることによって、炎症が起こり、やがて痛みを生じるのです。
はじめは腫れや違和感を感じる程度ですが、悪化すると歩行や階段の上り下りが困難になったり、安静時にも痛みが続く恐れがあります。完全に対策することは難しいため、早めのケアが必要です。」
 とあるので、「早めの対策」が出来たのだと思っている。


   



 こんな写真がネットに出ていたが、こんなに悪くはないと思う。
 「転ばぬ前の杖」などと言うが、ちょっと安心したところである。
 人間「確りと歩ける」のが一番だと思う。
 昨今、家内のほうはちょっとダメなのだが、
 そんな家内でも病院に行くとまだ「元気な方」なのでいつも安心するのだが、
 我が家は家内はクルマの免許も持っていないし、
 私がダメになったら「高齢者の二人家族」はどうにもならないので、
 結構「注意している」のである。



 
 



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カワサキ単車の昔話  3   125B7と物品税

2023-06-23 06:02:03 | カワサキ単車の昔話

★昭和36年(1961)12月15日に新しくできた「単車営業課」に出社した時、
 小野部長から一番最初に「物品税をよく検討してくれ」と言われたのである。
 突然で「何のことか?」と思ったのだが、
 それが単車営業課で最も重大な事項であることは直ぐ解ったのである。

 前年度の昭和35年度から製造部門では新しいカワサキの単車の一貫生産が始まったのだが、
 生産していた機種は「125ccのB7」と

  


50㏄のM5」で、

 

 
 これ以外にも井関の依頼を受けて「井関のタフ50」も生産していたのだが、

  

 
 この中で「125B7」がフレームに欠陥があり、毎日返却されてくる状況だったのである。
エンジンは川崎航空機の技術者の設計だが、車体はまだよく解らないので明発工業に依頼したのだが、その車体に問題があったのである。
 そんなことで返却が続き、翌月の1月度は返却が生産・出荷台数を上回って「マイナス17台の生産・出荷」になるほどの返却台数だったのである。

★ 当時はぜいたく品に掛けられる「物品税」と言うのがあって、
 50㏄には掛けられないのだが、125cc以上の機種には、工場出荷時に1台ごとに物品税が掛けられていたのである。
 その物品税の納入申告税だから、工場出荷時に台数分の物品税額を納入すればいいので、そんなにムツカシクはないのだが、
 それが返却された場合は「戻入手続」さえすれば収めた物品税額が戻ってくる仕組みなのである。
 ただ、その「戻入手続」は簡単ではなくて、1台ごとの税務署の立ち合い検があり、なおかつ「工場出荷時と同じ状態」と言う規定で、メータ―が回っていたら「戻入されない」ので若し少しでも乗っていたら、
 「メーターの巻き戻し」などをやらねば税金は戻ってこないのである。
 戻ってくる台数が半端ではないので、この「戻入手続き」は大変だったのである。
  
★12月から翌年春先にかけて「125B7の返却」は続き、
 その「戻入手続き」が当時の営業の主たる業務で、毎日明石税務署の署員さん立ち合いの「戻入検査の対応」が続いたのである。

 さらにいうと、これは「申告税で大阪国税局の直接の管轄」なので、
 戻入検査は明石税務署員がやるのだが、申告先は大阪国税局なのである。
 
 当時は単車事業スタートしたばかりだから、
 誰も「物品税」のことなど解っていなくて、
 申告だけはカワサキ自販に販売した台数分だけ納入していたのだが、
 納入台数は販売台数ではなくて「工場からの出荷台数」なので、
 当時工場内にいた「カワサキ自販の兵庫営業所への販売」は除外しないといけないのだが、それも間違っていたのである。

 大阪国税局の監査でそれを指摘されて「知りませんでした」と言ったら、
 「君は知らなくても、川崎航空機が知らなかったとは言えない
 「物品税は申告税だから体刑もありうる」などと脅かされたりして、
 その対応は本当に大変だったのである。
 この物品税は、平成元年(1989年)4月「消費税」が導入されるまで続いたが、
 その後はこんな大きな返却などはなかったので問題にはななかったのである。

 ★カワサキの最初に発売した車125B7はこんなに大変な車だったので、
 1962年の秋のモータショーには125B8が発表され、
 1963年度初めから市場投入がされたのだが、
 この車は結構評判が良かったし、6月の青野ヶ原のモトクロスも
 このB8のモトクロスレーサーだったのである。

  
 


 ただ、最初のクルマの125B7が大変なことだったので、
 スタートしたばかりのカワサキの単車事業は大赤字で、
 川崎航空機の本社は「この事業を続けるべきかどうか」を日本能率協会に調査を依頼したのである。
 その調査期間中に行われたレースで「1位から6位まで独占の完全優勝」だったことから、
 製造部をはじめ、職場の意気は盛んで、そんな末端の状況を見た日本能率協会は「この事業続けるべし」と言う判断をして、
 1964年1月に新単車事業部として再スタートすることになるのである。

 その再開の条件の中の一つに「広告宣伝課を創るべし」と言うのがあって、
 本社はその広告宣伝課に1億2000万円の予算を3年間、開発費として提供することになるのだが、
 私の年俸が40万円の時代だから1億2000万円は莫大な予算なのである。
 
 その新しく創られた「広告宣伝課」を私が担当することになるのだが、
 その話は次回に・・・



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実の成る植物   雑感

2023-06-22 07:15:58 | 発想$感想

★最近は庭仕事をする機会が多く、樹の手入れなどに時間を割くものだから、
 何となく植物に関心が出てきている。
 
 花の咲く樹、実の成る樹などいろいろだが、
 桜や薔薇の花などはまさに花だが、松でも槇でもみんな花は咲き種子を造るのだが、
 それが目立たないだけなのである。

 庭にもいろいろ植わっているが「実がなる」植物もいっぱいある。
 そんな中でも実が一番目立つのは千両・万両かも知れない。
 「万両は7月頃に、1cmほどしかない小さな花を枝の先に咲かせます」と言うのだが、
 紅い実はよく解っていたが、そんな花など咲いたのかなと調べてみたら花が咲くらしい。

 そんなことで庭の万両を見たら、確かにこんな花がいっぱいついている。 今までも咲いてたのだが、気が付かなかっただけなのだろう。





 千両もこんな状態だったから、
 今年の冬はいっぱい実を付けるだろう。

  

 
 万両は種が落ちて、千両は株分けで、いずれも庭にはいっぱいあるので、
 正月の墓参りには花を買わずに千両と万両の実の付いた房を切って、
 墓前を飾ることにしているのである。

  
★ ところで「食べれる実」の成るものとしては、
 みかんがあるが一昨年は沢山なったのに、昨年は全然ダメだった。
 今年は花もいっぱい咲いて、今こんな状態だから、
 今年の冬は我が家のみかんが食えるだろう。
  
  
 

 ブドウも「マスカット」を植えてもう5年以上になり、枝も伸びているのだが、
 こちらは花も咲かないし、実もならないのはなぜなのだろう?
 
 同じブドウの種類だが「ブラックベリー」は毎年いっぱい実をつける。
 今はすでにこんなに大きくなっていて、これが熟して真っ黒になる。

 
  

 
 マスカットのように美味しければいいのだが、
 味はもう一つのような気がする。
 こんなにいっぱい成っているのである。






★ こんなことで、今年は朝散歩に行く協同学苑の柿の花などをはじめて見て写真を撮ってきた。
 これは5月の半ばだったが、


  


 今はまだ小さいが「柿の実」がいっぱい成っている。
 
  


 こんなに詳細に「実の成る植物」を追っかけたりしたのは今年が初めてのことで、
 ほかにすることもないので、こんなことが気になる毎日なのである。
 其れもまた「年寄りらしくて」いいのかなと思っている。
 今年の秋は柿やみかん、さらには千両・万両が楽しみである。



 
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カワサキ単車の昔話  2    カワサキのレースのスタート

2023-06-21 05:58:12 | カワサキ単車の昔話

川崎航空機工業は戦前からあった会社で、
明石と岐阜に工場があり、戦時中は航空機の製造をしていたのだが、
明石工場は「エンジン」岐阜工場は「機体」を造っていた。
戦後再開後も明石はジェットエンジンのオーバーホールや発動機の各種エンジンなどの開発生産を行っており、
その中の一つに単車のエンジンがあって、それを明発工業に提供していたのである。

その後川崎航空機工業自体が単車事業に進出することになり、
川崎明発工業を傘下に収め、「カワサキ自動車販売」と言う社名の販売会社を創り、神田・岩本町にその本社があったのだが、
社長は川崎航空機の専務が兼務されたが、
従業員の殆どは「カワサキ明発」の社員であった方たちだった。







★ 川崎航空機工業の明石工場に単車営業課が出来たのは、前回既述したように昭和36年12月のことなのだが、
当時の明石工場の人達は、エンジンは専門家もいたが、
こと二輪車に関しては、殆ど全員が素人で何にも解っていなかったのである。
そんな中で、当時の兵庫メグロの西海義治社長だけが「二輪車」に詳しくて、当時の単車事業部の人達の多くが大いに西海さんの影響を受けたのである。
西海さんは前身はプロの「オートレーサ」で特にレースに関心をお持ちだったのである。

    

 

★青野ヶ原のモトクロスの完全優勝のこの写真をご覧になった方は多いと思うが、
この青野ヶ原モトクロスの「仕掛け人」が西海義治さんなのだが、
それにはさらに前段がある。





この青野ヶ原モトクロスは昭和38年(1963)6月なのだが、
その前年昭和37年(1962)11月に新装なった鈴鹿サーキットで開催されたMFJ第1回全日本ローレースに、
当時の製造関係の人達をバスを仕立てて観戦させたのも西海義治さんで、
初めてロードレースを見た製造部の人達は燃え上がってしまって、
カワサキもレースを」と言うことになったのである。
当時、レーサーを仕上げることなどカワサキの人達はまだ出来なかったので、 
西海さんは子飼いの「松尾勇」さんを製造部に送り込んで、
青野ヶ原に出場したレーサーを創り上げたのである。


★ カワサキの初めてのレースは1位から6位までの完全優勝と成るのだが、
このライダーたちは製造部の従業員で別にライダーでもなかったのに、なぜ1位から6位までの独占できたのか?

これは当日雨になり、レース場は水溜りばかりになって、
他社の早いマシンはみんな水の中で止まってしまったのだが、
カワサキの実用車のような125B8だけが止まらずにみんな走り切ったからなのである。
そんなことでこの勝利は神様がカワサキに援けて下さったのだと思う。 

余談だが、このレースには後カワサキのエースライダーとなった山本隆もヤマハのマシンで出場していたのだが、
彼のマシンも水の中で止まってしまったようである。

★このレース出場は、実は会社での正規の出場ではなくて、
 製造部の有志が勝手に出場したもので、予算もなかったし大変だったのである。
 なぜ、私がこのレースのことを結構詳しく知っているのかと言うと、
 当時の営業部の上司の小野助治さんもこのレースには関わっていて、
 私には「金の面倒を見るように」と言う指示があったし、
 私の下にいた川合寿一さんがチームのマネージャー役で援けたのである。


★ この写真の真ん中が神武事業部長だが
 ここに写っている方々は、その後のカワサキの単車事業を支えた方たちであると言っても過言ではない。
 この写真になぜ私が写っていないのか?と不思議に思うほど殆ど全員が密接に関係のあった方々なのである。
 後列の真ん中が小野助治さんで当時の直接の上司だし、
 個人的には私の仲人さんなのでもある。


 


 さらにこの辺りの方が直接このレースに関わった方々で、
 中村治道さんがこのプロジェクトの中心だが、
 中村さんは明石の出身で明石高校の先輩だったし、
 高橋鐵郎さんとはホントに40年間近く密接な関係だった。
 川崎芳夫さんは私の1年先輩だが、川崎重工業の創業者・川崎正蔵さんの曾孫さんである。
 その他マルで囲んだ方たちは私と仕事の上でも密接に関係があった方たちで、右が川合寿一さんなのである。

 
   


★このレース以降、
 カワサキもレースの世界に正規に進出することになり、
 私はその責任者となってレース関係を統轄することになるのである。

カワサキが最初に契約したライダーたち
 カワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木のクラブ歳森康師・山本隆 である。

  
  
 
 本格的なレースの話はまたの機会に。
 
 
  

 


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柔軟性とストレッチ  雑感

2023-06-20 06:30:51 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★殆ど毎朝40分以上「ストレッチ」をやるようになってもう15年以上にはなる。
今朝も5時半から約40分ストレッチをやって、新聞に目を通して、パソコンに向かったところである。

 そんなに大したことはやっていないが、
 これくらいのことは大体やっている。

 
  


 いずれにしても体は柔らかくなり、
 70歳ぐらいから始めたのだが、常に今が「一番柔らかい

 
 


★体が柔軟になって、どんな効果があるのか?
 自分では「腰を延ばしてちゃんと綺麗に歩ける」と言うのが一番だと思っている。

 今年は毎日「1万歩」を目指しているが
 雨の日以外は大体実行できている。

 夏にはちょっと歩数を落とそうと思っていたのだが、
 今年は暑さが早くやって来たので、6月からは日影の多い協同学苑を歩くのが多くなってきている。


★ところで「柔軟性の効果」と検索したらこんな文章が現れた。 

基礎代謝があがる、血行が良くなる
固くなった筋肉は、神経や血管を圧迫し血流阻害を起こします。ストレッチで筋肉が柔らかくなると、圧迫されていた血流が良くなり、酸素や栄養分が滞りなく行き届くので、代謝が上がります。

疲労回復効果
血行が良くなるとこの循環が早くなるので、疲労回復に効果があります。

肩痛み、腰の痛みが軽くなる
ストレッチにより、筋肉や腱が伸びることで関節への負担を減らし、肩こりや腰痛を緩和、軽くなることがあります。

けがの予防や心身のリラックスができる
ストレッチで、柔軟性を高めるとけがの予防、防止に繋がります。それに加え睡眠の質も変わってより普段から疲れにくいお身体が出来ていきます。

などとあって「いいことばかり」だから、
これからも「ストレッチ」だけは、ずっと続けてみたいと思っている。


  

  
 ひょっとして、100歳になってもやってるかも知れない。


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父の日の贈り物

2023-06-19 06:29:28 | 発想$感想

★ 宅急便が届いて、何かと思ったらアメリカにいる娘婿からの贈り物である。
  何でも頂くと嬉しい子供に戻ったような心境なのだが、
  「父の日」の贈り物に違いない。

  アメリカからだが、中身は東京の老舗の舟和からで、
 
  


  こんな中身だった。
  早速、家内と頂いたが、美味しかった。





★何でも便利な世の中になったものである。

 こんな「舟和のホームページ」があるから、
 アメリカからでもネットで注文できるのだろう。

  
 

 創業120周年だそうである。

 


 ホムページには、こんなご挨拶が載っていた。
 明治35年の創業だそうである。
 私の母は明治34年の生まれで103歳まで生きたのだが、
 今いたら121歳なのだと、ふとそんなことを想った。




  「カドチン」さん、ホントに有難うございました。


 


  
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カワサキ単車の昔話   1

2023-06-18 06:18:49 | カワサキ単車の昔話

★今年2023年はカワサキの単車事業スタートから70周年だそうである。
 先日、カワサキの国内販売会社・KMJのOB会の慶睦会に出席して初めて知った。
 KMJでは70周年を記念してこんな立派な記念のグラスを創っていて、
 お土産に頂いてきたのである。

  

 
 ところで70年前の1953年と言えば昭和28年と言うことになる。
 私自身は当時の川崎航空機工業に昭和32年4月に入社しているので、
 其れよりも5年も旧い話なのだが、
 当時から明石に住んでいたし、川崎航空機とは何となく繋がっていて、
 当時副社長ををされていた砂野仁さんは伯父の友人で、私は子どもの頃から知っていて、
 戦後、朝鮮から引き揚げてきたときは中学1年生だったのだが、
 砂野さんの勧めで神戸一中に入学したのである。
 そして川崎航空機に入社したのも砂野仁さんのコネだったのである。

 そんなこともあって、カワサキの単車の歴史についても、
 今となっては語ることが出来るホントに数少ない一人になってしまったので、
 この70周年を記念に「カワサキ単車の昔話」として
 戦前のことも含めて、戦後の事業再開などいろいろ纏めてみたいと思っている。

★ 川崎航空機工業と関係が出来たのは実は戦時中のことなのである。
 私はまだその頃は朝鮮京城(今のソウル)にいたのだが、
 夏冬の休みには故郷明石に帰郷していて
 当時、伯父は明石の中崎海岸に錦江ホテルと言うホテルも経営していた。
 伯父の本職は当時の南朝鮮の電力会社南鮮合同電気のオーナ副社長だったのだが、明石ではホテルなどもやっていたのである。

  

 
 この錦江ホテルが戦時中に川崎航空機に来ていた軍人の宿舎として接収されて、
 当時の川崎航空機の総務部長であった砂野仁さんとの関係ができたのである。

★前述したように私は昭和32年の入社なのだが、
 戦後川崎航空機工業は軍事産業であったことから、戦後の中断があって、
 高槻や播州などに疎開工場など持っていて、川崎機械産業としてやっていたのだが、
 朝鮮動乱が始まったのを機会に、昭和28年に明石と岐阜でそれぞれ川崎航空機工業は復活したのである。

 その後、発動機では単車エンジンの開発・生産を始め、
 カワサキ明発に販売していたので、
 私が入社した1957年当時は、発動機の営業の中に単車エンジンの販売担当者が一人だけいたという状況だったのである。

 
 

 その後、いろいろあったが、
 川崎航空機は単車事業をスタートさせる決断をして、
 明石工場の中に単車製造一貫工場を創って、
 単車事業をスタートしたのが昭和35年(1960)のことなのである。
 こんな当時の写真もあるが、




 当時、生産していたのはカワサキ125B7でこんなバイクだった。

 


 当時はこのほかにもモペットM5だとか、
 井関からの依頼を受けて「井関のモペット」の生産を開始したのである。
 この時点ではまだ発動機営業の中で担当者一人での営業だった。

昭和36年(1961)12月15日付で、発動機営業部の中に初めて「単車営業課」が出来て、私はその時点で、単車営業課に移動した。
 これがカワサキの単車事業のスタートだとしたら、
 私はカワサキの単車事業の最初から単車を担当し、
 その後約40年間、1999年に退社するまで、
 一貫して単車事業とともに歩いたということになったのである。
 今となっては1999年も20年以上も昔のことなので、
 そん40年間の「カワサキ単車の昔話」を纏めてみようかなと思ったのである。

 
★まずは、初めて出来たカワサキの単車営業課だが、
 私はまだ係長にもなっていない入社4年目の新人で、
 課長も部長もいるにはいたが、単車については私と同じ初めての経験で、
 ホントに何のノウハウもない白紙の中からのスタートだったのである。

 「単車営業課」と言う名前ではあるが、
 当時の技術開発部門・製造部門はそれなりの陣容もあったのだが、
 この「単車営業課」はほんの7人ほどの陣容で、
 今でいうなら、企画・広告・営業など事務屋のやることは一切担当だったし、
 サービスと称していたが、品証部門もその中にいて、
 私は新人ながら、掛長心得のような役割だったのである。

 当時のバイクの写真だが、
 当時の「カワサキ自動車販売の広告宣伝課」が撮ったものだと思う。

   


 当時は東京の神田岩本町に「カワサキ自動車販売の本社」があって、
 そこから全国の自前の代理店を通しての販売をしていて、
 単車営業課はこの「カワサキ自販」に二輪車を卸すのが主たる業務だったのである。

 この「カワサキ自販」は川崎航空機がカワサキ明発に出資して造った販社で、
 社長は川崎航空機の土崎専務が兼務されていて、川崎航空機の明石工場よりも「格上」だったので、
 今と違って工場サイドの開発・生産部門などは、
営業連絡会議」では怒られてばかりだったのである。

 そんな生い立ちの経緯から、国内の販社のKMJは、世界の販売会社とはちょっと違った扱いで、
 その社長はずっと事業本部長が兼務するという時代が続いたのである。

 そんな国内販社に私は3回も出向しているので、
 国内市場のことは結構詳しいし、
 明石の事業部が新事業など起こす時は、事業部に戻っていて、
 そんなことで40年間、カワサキの単車事業とともに歩いたということになるのである。

 では、またいろいろと・・・・
 
 
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高齢者の体重   雑感

2023-06-17 06:21:22 | 発想$感想

★毎日風呂上がりに体重を測っているが、
 大体82kgから83kgの間だと思っていい。
 普通の体重計だが、年齢が表示されて、75歳から78歳ぐらいの間だから、
 実年齢よりは20歳以上若い表示になる。
 年齢のほかに多分、BMIや基礎代謝などが出るのだと思うが、
 もう一つはっきりとは解っていない。

 不思議なことに年齢は体重が83kg以上になるほうが下がって、
 83kg以上になると「75歳」の表示が出たりする。

  
  


 基礎代謝量の計算では、
 90歳で身長168cmでは1495kcal と出るのだが、







 体重計で1700」以上の表示が出るのは何なんだろう?
 これが基礎代謝なのかな?
 BMIは25ぐらいなので、肥満度は多分「前肥満」だと思う。


  



★ 90歳にはなっているが、
 自分では結構元気だと思っているし、
 毎日スロー・ジョッギングをやってるので筋力も結構あると思っている。 
 身長も低くならないし、筋肉量もそんなに落ちていないし、
 野球のベース間ぐらいの距離ならいまでも、結構スムースにダッシュが出来るのである。
 
  それにしても、90歳だからそんなに長くはないとは思っているのだが、
やせ細ってしまう」よりはちょっと肥えている方が見場がいいのかなと思ったりもする。
 これから体重はどのように変化していくのだろうか?
 食い卑しくて、高齢者ながらよく食うので、これからも体重はあまり落ちないだろうと思っている。

 
 これは10日ほど前のごく最近の写真で、
 私が圧倒的に高齢者なのだが、
 周囲の方たちに比べて、陽にも焼けているし、
 「そんなに年寄りには見えない」と自分ではそう思っている。 
   ひょっとしたら体重計の表示のように
 「75歳から78歳ぐらい」で通るかも知れない。

 


  そういう意味では体重が多いのも、何となく元気に見えるので、
 今後もあまり体重は気にせずに暮らしていこうと思っている。







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あじさいフローラみき   雑感

2023-06-16 06:35:49 | 発想$感想

ホースランドパークの隣の「あじさいフローラみき」で「あじさい祭り」をやっていた。


  

 
 いまがちょうど開花の時期で、開園から10数年の時も過ぎて、
 あじさいも立派に育って年々素晴らしくなる。
 いっぱい写真を撮ってきたのでご覧ください。


  






あじさいも綺麗なのだが、
それが咲いている環境と立地が良くて、
こんな小川が流れている周囲は森林なのである。





 左側はホースランドパーク、右側は道を挟んで「道の駅みき」があり、
 広大な駐車場が横に二つもある。





★突然蛍の話だが、
 ずっと以前に三木の伽耶院の小川に蛍を放したら沢山の方たちが集まったのだが、
 ちょっと大勢過ぎて駐車場などに問題があって、1年だけで中止になってしまったのである。
 私のアタマにはそのことがずっと残っていて、
 この「あじさいフローラ三木」の環境は駐車場もあるし綺麗な小川もあって、最高にいいなと思い、伽耶院の小川に蛍を話した小野の業者の方に、
 ここを見せたことがあるのだが、『これは最高にいい』と仰るのである。
 そんなことで当時の管理担当の三木市役所の方に言ったのだが、
 お役人は全くダメで、実現しなかったのである。

 今回は管理者も市役所からグリーンシステムと言う会社の管理になっているようなので、ひょっとしたら実現するかな?
 と思って一応は責任者の方に話だけはしたのだが、どうなるだろう?
 当時から10数年も経っているので、小野のホタル業者の方が今でもおられるかどうかもよく解ってはいないのである。

 若し実現したら、あじさいと蛍はほぼ同じ時期だからいいのかなと思って
いるのだが・・・
 いつまで経っても「夢を追っかける性分は治らない」ものである。





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