雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

CKD事業 昔話ー34

2007-02-28 11:09:22 | カワサキ単車の昔話
CKD事業&小池博信君のこと

昨年5月、小池博信君から「豪華川崎GTO青春物語」と題する自分史第1部が送られてきた。

この冊子に詳しく述べられているが、彼は1966年4月輸出部に転籍している。
国内だけの販売から海外へ本格的に動き出したのはこの頃なのだろう。

その動きは二つの流れがあって、
一つは浜脇さんが旗を振ったアメリカ市場でこれは、自ら現地に事業を展開する方向でスタートした。
そして、その後のカワサキの二輪事業を支えたのである。

もう一つが中南米やアジア、中東市場だったが、この地域はアメリカ市場のように順調に推移したとは言えなかった。1975年頃まで苦しい時代が続いている。
これは営業の問題よりもこの地域に合う商品がなかったことが、一番大きかったのだと思う。


アメリカ市場も陰りの見え始めた1976年5月に、
東南アジア調査団による市場調査が行われ、11月には高橋鉄郎さんを長とする市場開発室が新たに組織され、CKD事業への本格的な参入がスタートするのである。

このプロジェクトには、私も企画担当として参画し調査団にも加わり、いろんな経緯はあったようだが、結果は市場開発室にも参加することとなったのである。

市場開発室では、企画と具体的な市場担当としてタイプロジェクトを小池君たちと担当することとなった。
私にとっては、初めての海外であったし英語を喋らなければならぬのも、勿論はじめての経験であった。

この頃の話は、本当にいろいろあって面白いのだが、とても1回や2回では、書きれない。



大型車の、スポーツ車のカワサキばかりが世に紹介されて一般的であるが、
小池君の冊子のネーミングが 「豪華川崎GTO物語」 となっているように、本当にビックリするような展開になるのである。

そんな時代、何の知識もなかったのだが、ただ一心に小池君たちと、日商岩井さんの協力も得て、
はじめてカワサキがCKDの合弁会社をタイに立ち上げることが出来たのである。

そして、小池君の言う「豪華GTO」の時代が訪れるのである。

個々の話はまた別の機会に。
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2月も過ぎた

2007-02-28 06:06:37 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
今年の冬はこのあたりでは、殆ど寒さを感じないままに過ぎてしまいそうだ。

明日からはもう3月である。
歳を取るとともに、月日の流れる早さを感じるが、このところ余計にそう思う。

それとは別に、1年というのはある意味長い。1年あると相当のことが出来ると思う。


昨年の今頃はまだメールを打つこともなかったし、ましてブログなどという言葉も知らなかった。
地方行政など関心のかけらもなっかった。

最近の日常生活の中に、ブログは大きなウエイトを占めている。

結構はまってしまって面白いのである。
何か難しそうだが、メールを打つ事さえできて、考える力があれば何とかなる。
言葉さえ覚えていれば書けない漢字も問題なく出てくるから、賢くなったような錯覚にも陥る。

何かお手伝いでもと始めた市長メール、
ボケ防止にもと思ったブログだが。
(こんなときにもボケは使ってはいけないのかどうか。そんなことがよく解らない。)

最近どちらも、予想もしなかった方向に現実に動きだしたりして、
この先どうなるのか想定を思い巡らすことは、夢があっていいと思っている。

知らなかった方たちと、活字を通じてではあるが言葉が交わせたり、意見交換ができたりして住む世界が広がった気がする。


3月に入るとすぐ74歳になる。
73歳の1年は大きく変わったが、これからの1年どうなるのだろうか。

1年では長過ぎるので、半年ぐらいに区切って目標を立てるのがいいのかも知れない。

月日の流れは早い。
然し1年は大きく変わるのに、十分な時間である。

矛盾したような、こんな二つの想いを抱きながら、74年目の人生を迎えようとしている。
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総合計画と創造力

2007-02-26 06:17:10 | 発想$感想
昨日の武雄市長物語、総合計画はまたまた面白い。

総合計画の是非について、樋渡さんの意見に120%賛成である
行政に限らず、企業でも総合長期計画などと大層なネーミングをつけて、分厚い計画書をいろんな部門を巻き込んで大掛かりに作りたがるものである。

企画部門に大勢人が居るところほど作りたがる。
計画を作ること自体が目的であり、作る時間を自分たちの仕事の時間に当てているのだとしか思えない。

出来上がった計画書を参考にして、それを見ながら仕事を進める人など極端に言えば皆無である。


私自身も、企画部門にいた経験はある。長期計画も造った経験もある。
然し、それは私ともう一人ぐらいの極僅かの人で造り上げている。

進むべき指針として、その方向とコンセプトが主体であり、それ以降事業は間違いなくその方向を歩んでいる。
当然のことだが、造られた計画は公に組織のなかで認められねばならない。

それらの計画は、何十年経った今も私の手元に残っている。
コンセプト主体に造られているので若し仮に間違っていたら、今でもそれは厳しくチェックされるべきだと思う。そのためにも残しているのだが。

然し、一般には10年前の実績は管理されているが、その計画を見たいという人は少ないだろう。


樋渡さんの、48枚の絵、それをカレンダーにする発想、非常に面白い。
自分たちの想い描いた方向を、4年間みんなで見つめて、チェックしながら更に進める発想は、現実の行政にも機能すると思う。

樋渡さんの創造力がいい。

「世の中には、原因のある問題と原因のない問題の二つがある。
原因のある問題は原因の追求、把握、対策という思考ステップで課題を解決する。

原因のある問題点の解決に必要な能力は、創造力とは呼ばない。
創造力の源泉はアイデアであり、思考ステップの特徴は絞り込んで考え続けるということである。」
と服部吉伸先生は言われている。

次々に、いろんなアイデアが出てくる。そのためには「絞り込んで考え続ける」=創造力、が必要である。 

これは必ずしもトップに求められた資質ではないかも知れない。
然し、企画と名づけるからには、企画部門には創造力は必須の条件であると思う。
若しそれがない場合は管理と呼ぶべきではないか。管理はそれなりに難しい機能である。

樋渡さんの「企画力」、そのベースにある 「創造力」 に今後も期待して見つめていきたい。
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関初太郎君のこと 昔話ー33

2007-02-25 06:16:46 | カワサキ単車の昔話
関初太郎君のこと

以前、苧野豊秋さんのことを書いたとき、「Hさんに聞きました」というKshopさんのコメントを頂いたが、
どなたのことか解らなかった。

昨日、「反町ジャパンの反町くん」に高1、中1の息子さんたちがサッカーに熱中しているとのコメントを頂いた。

そのあとまたコメントがあって、Hさんとは平井さんのことだとか、
今回はKshopをクリックすると、モトボックスセキのホームページが現れた。


関君だったのか。読んでいてくれてたのだ。

関初太郎君、彼がまだ独身時代の若い頃、
京都の営業所が新幹線の高架下で狭くてみすぼらしい頃だったが、
藤田孝明君率いるこの営業所は、久後淳一郎、関初太郎、吉ケン(吉川君),藤田みーちゃん、田中さんなど、ユニークなのが揃っていた。

特約店制をトップを切って実施したのだが、こんなに徹底して実施したところは他にない。
私の知る限り、カワサキの歴史の中で最も充実した内容の営業所であったと思う。

売上高や台数がやかましく言われたあの時代に、総資本利益率10%の途方もなく充実した内容だったのだが、若しかしたら久後君や関君はこんな数値はご存知ないかも知れない。

そんなことを意識せずに、そんな実績を残したところがすごい。
その頃の、関君たちは口やかましかったが、猪突猛進にやることをやっていた。


その後、大阪や東京などの営業を担当し山口の所長から独立開業の道を進むのだが(間違っているかも知れぬが)、ずっと持ち続けた純で、新しいことにチャレンジする彼に共感を覚えたものである。
関君とは会社にいるころよりは、独立してからのほうがいろいろと関係もあったし、お世話にもなった。

また、新宿のショールームで新しい形のショップなど、一緒に仕事もした仲間でもある。
販売店というよりは、ずっと仲間という意識のほうが強かった。

私の最後の勤めの北海道の頃も、
南,五島,関、佐々木の懐かしいメンバーでわざわざ札幌まで遊びに来てくれた。

それ以来、お会いしていないが、五ちゃんも元気にしているのだろうか。
私にとって、会社生活でのいろんな「想い出を共有する仲間たち」は、むしろ社外に沢山いるのだが、

それは [私の人生の宝物] である。

そんな仲間たちの一人の関君が、毎日「雑感日記」を読んでくれているのが解って、また励みになる。
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今年の三木市

2007-02-24 06:34:21 | みっきぃふるさとふれあい公園
昨日の夕方、三木市のホームページを開いて驚いた。

突然、薮本さんの声が飛び込んできた。
簡単なメッセージではあるが、三木市の紹介と是非訪れてくださいという呼びかけである。

昨年4月17日に市長メールで
「ホームページは三木市の顔です。こんなホームページでは」と苦情を言って私のメールはスタートした。
まだ、1年も経っていないのだが、大きく変わったのはこれで三度目である。

年初にも「三木市のホームページの美しさは日本一です。」とご紹介している。

今回また新しくなった。どんどん進化するのがいい。
ホームページから音声が聞こえるのは、昨年コンクールで日本一に輝いた高槻市のホームページなどまだその例は少ない。

市長ブログも部長のブログも,みきのお庭番ブログも一挙に始まった。
これは、日本で初めてと言ってもいいだろう。末端とダイレクトに接しようという姿勢がいい。

1年に市民の50倍の400万人が訪れるそんな素晴らしい環境を意識して、
今年は、三木を訪れる市民以外の人たちにも目線を当てて、春のシーズンを迎えようという意気込みが感じられる。

西日本一の市内に20箇所以上もあるゴルフ場や、
グリーンピア、森林公園、ホースランドなどが知られているが、

日本一美しいと言っていい庭園つきのプール、昨年の国体会場となった16面もある立派なテニスコート、
防災公園の中の5面もある芝生のサッカー場、その他野球場などスポーツ施設の充実も日本離れしていると私は思っている。

それなのに、「三木は田舎まちです。」という市民は多い。

今年は、ブログも始まったし、いろんな新しい試みにチャレンジして、
是非とも 「三木は田舎まちです」 というイメージからの脱皮を図って欲しいと願うものである。
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小野田滋郎さんと加藤純三さん

2007-02-23 06:08:25 | カワサキ単車の昔話
最近また、小野田滋郎さんをよく思い出す。フィリッピンの小野田中尉の弟さんである。

ずっと年賀状のやり取りをしてきたのに、今年は来なかった。どうされたのか心配である。

何より考え方や発想が素晴らしく、無茶苦茶厳しかったが、それでいて文学青年みたいな一面もあって酒が入れば古文や和歌がどんどん飛び出す、人を惹きつけてやまぬ人間っぽいところが魅力だった。

私の前の広告宣伝課長で、これを最後にカワサキを辞められたのだが、
送別会のとき、「雑音に耳を貸すな」と言われたのが残っていて、ずっと守ってきた。
雑音に耳を貸さずに突っ走るのは簡単なようでそれなりの覚悟が要るものだ。

最近は、ホントに独りで行動をしているが、会社の中と違って雑音が一切聞こえないのは気持ちがいい。
仮に雑音があったとしても、何の関係もないのがいい。

小野田さんには、そのほかにもいろんなことを教えて頂いた。
曰く「戦場へ着くまでの行進は縦列,戦闘状態はヨコ展開」
  「ちゃんと理解しているのか。図示説明してみろ。図示できないのはちゃんと理解できていないのだ。」

確かにちゃんと理解できていないと、図に描いて示すのは難しいのである。


単車事業育成のために広告宣伝費1億2千万円を開発費として本社が計上してくれた。
私の年収が50万円にも満たない時代であったから、この金額は広告代理店にとって相当の魅力であったのだろう。
電通、博報堂、大広をはじめ各社の本社スタッフが連日訪れた。

小野田さんと二人でその選考に当たったのだが、当方の出した幾つかの設問の中に
「貴社の広報企画力を図示説明してください」というのがあった。

そのとき、加藤純三さんに出会ったのである。
大広チームは役員、部長など10数人のチームで来たのだが、このチームを実質的に引っ張っていたのは、ヒラの加藤さんであった。
私より少し若かったが、広告理論も、説得力も迫力も群を抜いて素晴らしかった。

実際に大広とお付き合いをして後も、彼から吸収したものは本当に大きかった。
私が広報やレースを離れ仙台に異動するとき、どうしても送別会をすると言って、はじめて彼と夜、飯を食い酒を飲んだ。
3年間、仕事一途、喧々諤々のお付き合いだった。

42年間の会社生活で「この人にはどうしても、太刀打ち出来ないと思った二人」
それは、小野田滋郎さんと加藤純三さんである。

私も30才前後の若さだったが、そんな時代に逢えて本当に良かったと思っている。

加藤さんは芦屋の辺りにおられるとか、加藤さんも小野田滋郎さんも、お元気なことを祈っている。
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反町ジャパンの反町くん

2007-02-22 08:10:12 | スポーツ
昨夜は反町監督率いる22才以下の日本代表とアメリカとの親善試合があった。
結果は0-0で引き分けたが、もう少しで勝てる惜しい試合であった。

反町監督は私の息子と同学年である。
息子が小学生の頃からサッカーをしていたので、5,6年生頃からのサッカー事情は何となく普通一般の年寄りよりは幾らかよく承知している。

毎年、子供たちのサッカー大会が神戸であって、
その頃のオール清水は圧倒的に強かった。全ての学年で優勝した年もあった。

息子と同学年の清水では、中盤の望月くん、後藤くんFWの佐野くんなどが有名でその頃からスターだった。反町くんもいたのかも知れぬが、私は知らなかった。

確か、中学生になって清水と兵庫選抜が東京で試合をしたとき、何故か望月、後藤くんは居なかった。
このときはじめて、反町くんの存在を知った。
清水の監督が試合中に何度も「そりまち、そりまち」と叫んだからである。特徴のある名前だったので耳に残った。

望月、後藤くんなどは高校時代も有名で高校サッカーで活躍し、望月くんはその後オランダのチームと契約するなど話題となった。


反町くんを意識するようになったのは、横浜フリューゲルスで息子とチームメイトになってからである。
Jリーグがスタートして、みんな全日空の社員に戻ったとき、一人チームに残り、更にプロ契約でベルマーレ平塚に移籍した。

そんなに飛びぬけたスター選手だったという印象もなかったので、全日空を振ってプロになるという、この判断にはビックリした。
息子の嫁のノンちゃんが「反町くんがどうのこうの」と言っていたのはその頃のことである。

全日本に選ばれたりもしたが、あっさり引退して、次に気がついたらNHKの解説者、それもスペインリーグに非常に詳しかった。
その後、新潟アルビレックスの監督になり1部昇格させてからは、ご存知の通りである。


このまま順調にいけば、日本で何人しかなれないA代表の監督ももう視野の中にある。

慶応大学も一浪して普通に入ったとか、反町くんのその時々の決断がどのようにしてなされたのか、息子と同年代だけに余計に興味深い。

人の人生は、いろいろと変わるものである。
その時々の判断も大事だと思うが、ベースにあるのは継続した努力の積み重ねのような気がする。

今は成功の道を歩んでいる。
チャレンジを続ける反町監督の、今後の更なる飛躍を期待したい。


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ある宣言

2007-02-21 06:21:10 | 樋渡啓祐さんのこと

いや、本当にすごいことになるかも知れない。

何度もこのブログで採り上げている武雄市の市長樋渡さんが、またまたすごいことを宣言された。

先日の三木市長薮本さんの武雄市訪問に触れられた後、三木市との「相互交流協定の準備」を担当部門に急ぐようにと、ブログ上で公に指示をされ、これに関連して二つの楽しみがあると言われている。

一つは三木市を訪ねて、薮本市長と再会すること、お二人を引き合わしたことになる私と会うことも楽しみと仰っている。

もう一つは5月に予定されている(日時は未定)慶応義塾大学でこのことを講演したいというのである。

樋渡流ですんなり優しく書いてあるが、
私には、もう逃げられませんよと言っておられるとも取れるし、
慶応大学でこのことを講演するということは、当然内容の整った「成功の相互協定」を5月のいつかまでに期限付きで実現させようという樋渡流の宣言であるとも読める。

三木市では薮本さんのほかどなたが担当されるのか。
相手は樋渡さんである。従来のお役所仕事とはスタンスもスピードも変える必要があるのではないか。
意識改革がMUST条件になるだろう。


私の心酔する服部吉伸先生(立命館大学教授もされていたが、今はまたコンサルタントに戻られたとか)の意識改革の一文にこう記述されている。

「意識改革が出来るのは、一部の極めて優秀な人に限られ指導者の能力の一つになるのである。
意識改革を行うと言うだけではマジョリテイに対する意識改革はできない。
意識改革、それは仕事のやり方を変化させることである。そして成功こそが意識改革のもとである。」

両市の相互協力協定が単なる人事交流などの次元を超えた、
今後の「地方行政の新しい流れや、時代を先取りする高次元の方向を示すもの」になることを期待したい。

退路を断って「宣言すること」。物事の実現への近道と信じている。

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仙台事務所 昔話ー32

2007-02-20 06:22:49 | カワサキ単車の昔話
仙台事務所のスタートの思い出

広報やレース担当の後、1967年1月から約4年間仙台で東北6県を担当した。

「仙台に事務所を作って東北6県を上手くやれ」そんな曖昧な指示だけだった。

引継ぎなど一切なかった。
自分にとってはじめての転勤であったが、どこを事務所にするのか、自分の住む家をどこにするか、など一切白紙の状況で全て自分で決めなければならなかった。

今思えば無茶な話だが、余り苦にもならなかった。
入社10年目であったが、それまでも会社ではじめてで、上の人が経験のない仕事ばかり担当してきたので慣れていて、そんなものかと思っていた。

自分の住む家をまず決めてスタートした。
もう少し慣れてからにと言ってくれたが家族ははじめから連れて行った。

川重の仙台事務所はどうかと言って頂いたが、どうも単車には馴染めそうにもないのでお断りし,
取り敢えず、宮城カワサキに机を一つ借りて一人でスタートした。

一人というのが一番困った。
女子を雇えというので、新聞に小さな広告を出したら応募があった。
一人目の面接をして即座に採用を決めた。
ぐずぐずしていて後が来るかどうか心配だったし、兎に角早く、一人から開放されたかった。

菊池さんというお嬢さんだったが、結果的にめっちゃ良かったと思っている。
神様がいい人を選んでくれたんだと思った。

宇田川、海老沢君、森谷君と田中さんがそのうち加わり、
石塚君が当初出張ベースで来ていて7人体制でスタートしたのだが、
私自身が未経験、宇田川君もサービスはベテランだが営業初めて、海老ちゃんも営業見習い程度、森谷君は単車の経験なし、石塚君は当時は堅いばっかりの経理やさんで、まともなのはサービスの田中さんだけだった。

こんな素人集団からの出発だったが、東北の4年間はこのメンバー全てにいい成果といい思い出を残してくれたと思っている。
「代理店の経営指導を含んだ営業」を素人集団がやるという常識を超えた責務であったがみんなが背伸びしながらの活動で、ホントにそれぞれ背が伸びたような気がする。

2月半ばからは連日の代理店会に出席のため東北6県を回ったりもしたが

6月までの半年間は、MFJの全日本をはじめ4回もモトクロスレースがあった。
ファクトリのメンバーを招聘したり、当時秋田にいた金子豊君(現星野インパル社長)と彼の空冷パブリカのスポーツカーで走り回ったりしていたが、そんなレースに関係する活動が直接営業に繋がるほど東北はレースが盛んであったのは助かった。

レースに関しては、代理店の社長さんよりも誰よりも詳しく、またレース界に顔が効いたので、一目も二目も置いて頂いた。前職のレースがこれほど役にたつとは思わなかった。

この間ずっと宮城カワサキにお世話になったが、5月には新事務所の土地候補地も決まり、だんだんと営業らしい活動に入っていくのである。

そんな思い出の仙台で、3月6日宮城カワサキにいた服部君が独立開業30周年の記念パーテイがある。
ご招待頂いているので喜んで出席したい。懐かしい限りである。
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堀川運平さんのこと 昔話ー31

2007-02-19 06:13:39 | カワサキ単車の昔話
堀川運平さんのこと

川重の本社から来られて、2年ほど単車事業部の企画室長を務められた。

丁度その頃、販社から企画に戻ってお世話になった。

高橋宏さんが部長で、課長クラスは私や田崎、田付、種子島、係長クラスに武本、岩崎、佐藤、森田,今城、繁治さんなど、後々単車や川重を支えた人たちがいた。

堀川さんは、後、企画室長のほかに営業も生産も見られるようになるのだが、「私は生産など解りませんから、人を決めてその人に乗るのですわ」と広言されていた。
「生産は安藤さん(故人)に乗るんです」と言われていた。


堀川さんはもともと財務、資金のご専門で、量産の単車事業などは初めての経験であったのだが、その発想は非常にユニークで、非常に先輩に失礼だが間違いなく、武雄市の樋渡市長のいう「奇人、変人」の範疇に入る素晴らしい方だと思う。

私自身、本当にお世話になった。
堀川さんが本社に戻られてからのことだが、「国内販社の今後の方針」の本社決済をお願いしたとき、その計画の内容は本社スタッフの案とは全然異なる反対の方向であったのだが、「君がそのように考えたのなら、それでいきましょう」と言って頂いた。

今、カワサキモータースジャパンがあるのは、その一言のお陰と思っている。


1983年、単車存亡の危機のとき、本社で会議の直ぐ後立ち話ではあったが、「事業部は50億まではいいですよ」とささやかれた。

「単車の赤字は50億ぐらいまでは、船やその他で何とかする。その代わり販社のほうは、ちゃんとやれ。」ということだと解釈した。

事業部の赤字は、他の事業部で埋められても、販社の決算は連結で直接本体に影響するのである。

「その販社のほうは、財務対策はできても本社に販社経営のノウハウはなく本社でコントロール出来ない、そこのところをちゃんと頼む。」と言われたと解釈して、事業部の企画担当で事業部損益管理責任はあったのだが、むしろ海外販社の損益改善中心にに全力を傾注した。

この堀川さんの二言は大きな影響があったし、その判断は非常に的確であったと思っている。

一度機会があれば、真意をお聞きしてみたいと思う。覚えておられるだろうか。
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嬉しい招待状

2007-02-18 05:59:53 | カワサキ単車の昔話
仙台の服部君から突然の電話、声を聞くのは10年振りである。

電話の声は、10年の空白からか最初は非常に硬く緊張したものだった。
こちらが、むかしの通りの対応をしたので、直ぐむかしのままの服部君に戻った。

「3月6日に開店30周年の記念パーテイをやるので、出席して頂けないか」というご招待である。
「喜んで出席します。」と即答した。

服部謙治君。東北を担当した仙台時代にいろんな思い出がある。
宮城カワサキの工場長で特に4サイクルのエンジンの技術があって、当時はまだメグロの白バイが主力の時代だったから、白バイのメンテナンスを一手に引き受けていた。
もう一つ、モトクロスが好きで、且つ早かったし職場に大沢,柄沢という同僚も居てチームとしてやっていた。

私がレース担当直後だったこともあり、ファクトリーにまだ顔も効いたし、レースそのものが好きだったのでいろいろと面倒をみてあげた。

彼が今の店を開くとき、故郷岩手の遠野に戻ってと言うのを「それは仙台でなければ」と無理やり仙台を薦めたのはよく覚えているのだが、それから30年というのがどうしても私の計算と合わないのである。


今朝、こちらからもう一度電話を掛けて確かめた。

開店は昭和52年3月6日、間違いなく30周年である。その時、私はメーカーの方に戻っていた。
服部君曰く、「出来たら東京、仙台は絶対、遠野は駄目」と確かに言ったという。
どこで、どんなときに言ったのだろうか。一度、日記を引っくり返して調べてみよう。

人間の記憶は、ホントに断片的で頼りないものだと思う。

言った内容は合っているのだが、時期については自分の思いと約7年も開きがある。不思議なものである。

あれから30年、立派な店になった。
年齢は抜き去ることが出来ないので、私などは偉そうに「服部君」などと呼んでいるが、営業の連中にしたら「ホントにエライ服部さん」の筈である。

私が東北にきてはじめて営業を経験した40年ほど前、代理店の社長さんはみな「エライ人」だった。


開店30周年記念にご招待を受けて、本当に感謝している。
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続、流石アメリカの発想

2007-02-17 06:20:17 | スポーツ
松坂、井川に思うこと

松坂60億円、井川30億円、日本中がその金額の大きさに驚嘆したころ、丁度昨年の12月の頃だった。

あれから2ヵ月半、大リーグキャンプイン直前である。
連日のように、松坂、井川の映像が日本のTVを賑わしている。

今、アンケートでも取ったら60億円、30億円では安すぎるという意見も出るかもしれない。
シーズンはまだ始まっていないのに、既にこんな状況である。


流石アメリカの発想」と題して「これは決して高くない。アメリカがそんな採算の見込めない発想をする訳がない」とブログで感想を述べたのは、昨年の12月1日のことである。

これは今後どのような進展を見せるのだろうか。
今後の結果は、松坂、井川のそれこそ野球選手としての実力というか、活躍に左右されるのであろう。

ここから先は、野球評論家の領域であろうが、素人が何となくそう思うというレベルで、敢えて言わして貰うならば、「何となく、いい方向に転がるのではないか」と思っている。
二人とも、何事にも大らかなアメリカの雰囲気が合うのではないか。
井川のあんなに明るい表情と話し振りは、日本では決して見られなかった。


それよりも、ヤンキースの上層部が阪神タイガースを表敬訪問したり、レッドソックスが開幕戦をに日本でやるなどのニュースを聞くと、
もともとアメリカの視点は、熱烈な阪神フアンであったり、TVなどを媒体とした「日本の市場そのもの」であるような気がする。

視点が常に本当の末端に向けられえているところに、
マーケッテングの本場「アメリカの発想の原点」を見たような気がする。

そして、現状の動きは「想定の範囲内」、順調と見ているのであろう。

今後どのような展開になるか、楽しみである。
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ブログがつなぐ縁

2007-02-16 08:48:45 | 樋渡啓祐さんのこと

樋渡啓祐氏。佐賀県武雄市長、今話題の時の人である。

その樋渡さんから直接電話がかかった。
一瞬ビックリしたが直ぐ普通に、長く知っている人とのような会話が続いた。

「今度は三木に行きますよ。その時は是非お会いしましょう。」と電話を切った。


14日に三木市長の薮本さんが、武雄市に樋渡市長を訪ねたのである。

何故、そんなことになったのか。
経緯はいろいろあるが、具体的にお二人を繋いだのはブログである。

私が始めて樋渡さんを知ったのは、高槻市「こちら部長室」の樋渡さんの60回に及ぶ記述である。
これはと思った。

三木市長メールにも、樋渡さんのことを度々紹介をした。

武雄市長になられる前から始められた樋渡さんのブログ、今は武雄市長物語に引き継がれているのだが、最初から殆ど全て目を通した。

その発想と行動力が素晴らしい。「めざす物事が実現する」スタンスとアプローチである。
世の中の発想とは一線を画しているし、完全に差別化が出来ている。

つい先日、役所の職制に「営業部」を造ってまたまた話題となった。
人口も税収の増加も期待できない今の地方行政では、新たな財源を求めるのは至極当然の話で自然な発想と思うが、普通の人には発想できない。

私のブログでも何度も触れたが、樋渡さんの奇人変人の面目躍如である。
そんなことで、三木市長の薮本さんは樋渡さんの「奇人変人振り」を視察に行かれたのだと思う。


その様子が武雄市長物語に紹介されて、今朝私のブログに異変が起こった。
アクセス数944、トータル726331のブログ中131位である。

今までもアクセス500、400位ぐらいはあったが、これは新記録である。
間違いなく、武雄市長物語の影響であるが、
それだけでなく今年の年初に三木市のことを書いた「ブログはじめ」に繋がる細かい配慮がなされている。

更に、丁重なコメントを「除雪」に頂いた。

こんな手数の掛かることを市長自らがおやりになる。
これは「市長にしか出来ない大きな仕事」という認識がおありなのだと思う。

今回の訪問で「武雄と三木は相互協力協定を結ぼう」という動きになりつつある。

たかがブログではあるが、そんな大きな機能を果たすかも。
若し実現したら、それは「ブログがつないだ縁」と言えるかも知れない。

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話のレベル  昔話ー30

2007-02-15 06:28:13 | カワサキ単車の昔話
話のレベル

私は技術や生産関連のことは、あまり詳しくない。技術屋さん同志の会話にはレベルが高すぎてついていけないことが多かった。

レースでも広報でも財務のはなしでも、仲間内では、基礎的なこと、常識になっていることなどは、当然解っているものとして、その上のレベルの会話になる。
そこに素人が入ると説明が必要になる。

何が言いたいのかと言うと、
川重の事業部内で販売の話をする時に「殆どが、説明のレベルでそれ以上のレベルで話をした記憶がない。」
ましてや、本社の人たちには、通常のレベルでの話は通用しないのである。

販売が解る人が、本当に少ないのである。
確かに、鶴谷君のように「ツーカー」で話が出来る人は居た。
然し、そのレベルの話は会議では通用しないのである。
解って貰うためには説明が必要で殆ど議論ではなく説明をしていたと思う。

逆に、技術や生産の話で白熱すると私などとてもついていけなかった。
これは、まさしくプロの領域であったことを認める。

事業部も、KMCも大変であった1983年当時、私は企画にいたのだが、
KMCに国内販社から富永君と日野君が逆出向で行ってくれて、本当に助かった。
主として販売に関する数値的な管理、事業計画が主で販売そのものではなかったのだが、あるレベル以上での会話が出来た。

富永君の人事は、先日も触れたが、当時KMCの会長だった高橋鉄郎さんの要望で実現したものである。
高橋さん独特の表現、「匂いが解る奴」が必要なのである。
匂いをかぎ分けることは、本を読んでも駄目である。

販売などは、学問ではないのでそんなに難しい分野ではないが、「匂いを嗅ぎ分ける」レベルになるのは,意外に難しいのである。
単に、販売を永く経験したから身に付くわけでもない。

説明のしようがない難しさが、販売やマーケッテングにはあると思う。
一言で言うと「それに向いている人」なら大丈夫と思う。
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除雪

2007-02-14 06:36:54 | 北海道&建機
2年ほど、北海道川重建機にお世話になった。

札幌の冬を二度経験した。
北海道の冬の除雪のエネルギーは、そこに住んでみないと解らないと思う。

日常生活で除雪なしには暮らせないのだが、その規模と頻度は関西の人などにとっては想像できないレベルである。

その除雪の道具として、建設機械を商売にしていたのだが、こんな機械のなかった昔、人々はどのように除雪に対応していたのであろうか。


札幌に赴任するとき、夏の爽快な北海道をイメージして、出来れば庭付きの一戸建てをと言ったら、言下に否定された。

冬を迎えて「なるほど」と思った。
若し一人暮らしなら、駐車場やその周囲の雪かきだけで生活のエネルギーを使い果たしてしまうだろうと思う。

単身赴任者専用で、駐車場の管理は専任の人がやってくれるマンションに住んだのだが、屋根の無い部分では、大雪の翌朝の車に積もった雪だけを落とすのも大変であった。
駐車場に屋根があるなしでは雲泥の差である。
然し、関西などのような屋根では雪の重みで間違いなく潰れてしまうだろう。

そんな雪国であったが、北海道のあの広いところで、車が走るところは全てと言っていいほど、完璧な除雪がなされている。

そんな機械を売る会社にいながら、この除雪のエネルギーの強大さに、ただただ驚嘆したふた冬であった。

そんな懐かしい札幌だが、TVなどに映る映像を見ても今年の雪は大したことはないように見える。
暖冬の方向に世界は向かっているのか。そうなると会社にとっては余りいい傾向ではない。

なかなか、難しいものである。それでもまだまだ、雪の季節である。
スノータイヤをはずしたのは、4月のいつ頃だったか。
それまでは、除雪のシーズンが続くのである。

札幌の雪祭りも終わって、今朝ニュースで作品を取り壊す映像が流れた。
今年は昨年より10万多い210万人の観光客が訪れたとか。

雪、直接仕事にも関係したし、幾つもある北海道の懐かしい思い出の一つである。



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