雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ二輪事業の昔話

2020-09-30 07:51:52 | カワサキ単車の昔話

★時間があって閑なものだから、ネット検索を毎日楽しんでいるのだが、
昨日は旧いカワサキの人たちが登場するこんな動画に出会ってびっくりした。
内容は旧いが創られたのは2019年なのである。

 記事はカワサキバイクイチバン編集部が纏められたようである。

 このように説明されていた。


     




『カワサキが「Heritage Video 2019」と題し、カワサキ創成期の歴史を3人の証言者とともに振り返った動画を公開している。
動画の冒頭では、英語のナレーションながら、1924年の目黒製作所設立から1964年の川崎航空機工業による吸収、650-W1デビューなどの歴史を、当時の写真やカタログを交えて紹介。
そして次のインタビューに登場するのは、川崎重工業の元社長であり名誉顧問の田崎雅元氏と、カワサキ4サイクルエンジンの元開発者である稲村暁一氏、そしてカワサキのテストライダーやレーシングライダーとして活躍した、ミスターカワサキこと清原明彦氏の3人で、当時のアメリカでのテストや開発当時の貴重なエピソードを語っている。』



★ 何でもスタートの物語は『オモシロく語られる』ものなのだが、
カワサキの二輪事業のスタートは、確かにエンジンのプロたちはいっぱいいたのだが、二論車に関しては全く素人の集まりだったので、
ホントのところ『何も解ってはいなかった』のである。

当時の川崎航空機に入社した人たちは『二輪車』など何の関係もなかったのだが、いざやってみると『二輪独特のオモシロさ』があって、
みんな『ハマってしまった』感がある。

この動画には田崎さん、稲村さんが登場するのだが、お二人は昭和33年入社で、田崎さんはジェットエンジン、稲村さんは4輪車のエンジン開発などやっていた。
私はその1年前の昭和32年の入社なのだが、川﨑航空機が二輪車の一貫生産を始めたのは昭和35年(1960)のことなのである。

私が単車に異動したのは昭和36年で当時、田崎さんは未だジェットにいたし、多分稲村さんも未だ単車には関係していなかったのではと思う。


最初に出した125B7がフレームの欠陥で返品の山となり、二輪事業を続けるかどうか日本能率協会が市場調査をするのだが、昭和37年の『青野ヶ原モトクロスでの快勝』もあって現場の意気は盛り上がっていたこともあって、
単車事業やるべし』との結論になるのである。

このモトクロスに関係した人たちは中村治道・髙橋鐵郎さんなど製造部の人たちだったのだが、それ以降カワサキの単車事業は本格的に動き始めるのである。




★ この動画に現れる画面から何枚かを抜き取って、ちょっと当時の状況など補足説明をしてみたい。 
こんな時代のことが語れる人ももう本当に少なくなってしまったのである。

販売関係は当時は旧メイハツ工業の人たちが中心の『カワサキ自動車販売』が担当していて、市場は日本国内だけだったのである。
私は初めてできた単車の営業部門で、この『カワサキ自販』への販売の窓口をやっていた。

川﨑航空機の人たちは昭和35年度(1960)に初めて二輪事業を展開するための人材が入社してこの年度の人たちは、最初から二輪事業を担当した人もいるのだろう。
二輪事業が解っている人たちと言えば、旧メイハツからの人たちと、メグロからカワサキにやってきた人たちだけだったと言っていい。

 ただ当時の川崎航空機は戦後の中断があってばらばらになっていたのだが、
それが集約されたのが昭和27年度(1952)からなので、会社も大企業というよりは、まさに『若い会社』で、私なども入社早々から自由に『やりたいことがやれる』そんな雰囲気を持っていたのである。 

 
 さて、最初の方に現れる場面だが、
 この画面にはメグロから来られた糠谷さん(一番右)が写っているので
 昭和39年以降のことだろう。

 


 

糠谷さんは実験研究などやっておられたのだが、
カワサキファクトリのレース監督大槻幸雄・安藤佶郎さんのあとおやりになったので私もよく知っているのである。 


動画では田崎さんがいろいろと話されているのだが
まずはこんな画面が現れる。

 
 


 
これは1966年のことだと思うが、アメリカ市場への進出で明石工場からは田崎さんが一番最初にアメリカに渡ったのである。
丁度その頃650W1がアメリカ市場に登場するのだが、当時アメリカにいた日本人でバイクに乗れるのは田崎さん1人だったものだから、
アメリカのハイウエイをW1に乗って初めて走った日本人は私』と、これは田崎さんの自慢なのだが、このお話が登場している。

 当時はまだシカゴに事務所があるころで、ちょうどその頃、あの250A1
の開発テストを百合草三佐雄さんがアメリカでやったのだが、それを田崎さんが手伝ったりしている。

  

 
 A1が開発中の時期には日本でも名神高速道路が出来たばかりの時期で、そのテストにはファクトリーライダーの歳森康師・金谷秀夫なども参加したりしていた。
金谷は『ミッション焼き付き』に出会ったがうまく処理して『何とか怪我もしなかった』というのが自慢だったが、今になってよく考えてみると、契約条件には開発テストなどなかったから、もし事故にでもなってたら大変だったのだが、昔はそんなことは頓着なくやってたのである。



 稲村暁一さんは、この動画では技術的なことを語っておられるが、
 稲村さんは『4サイクルエンジンの開発』で知られている。

 
  


 
カワサキの4サイクルは最初のクルマがあのZ1でそれは1972年の上市なので、『それまでの稲村さんは何をやってたの?』と私は稲村さんに聞いたことがあるのだが、昭和33年(1958)の入社以来、陽の目は見なかったがカワサキの4輪車のエンジン開発担当だったらしい。


 
その名車Z1は、大槻幸雄さんが開発責任者で基本コンセプトは大槻さんの発想で、そのエンジン開発を稲村暁一さんが担当されている。


 



大槻さんはカワサキの初代レース監督で助監督が田崎雅元さんだったのだが、
大槻さんも私も1967年のFISCOでの日本GPを最後にレースチームを離れて、大槻さんは技術部の市販車開発部門に戻られ、私は東北6県の営業担当として仙台に異動するのである。

 1968年の初めに東北の販売店会議が開催されて大槻さんはその技術説明者として東北に来られたのだが、
その時『世界一のバイクを創る』とその夢を語られたのである。
 それが『Z1』になったのだと思うが、ひょっとしたらそんな大槻さんの夢を私が最初に聞いたのでは、と思ったりしている。

 Z1が世に出るまでは、それから約5年の歳月が掛かっている。
 因みに、大槻さんが技術部の市販車開発に戻られて最初に世に出た車は
 あのH1なのである。

 

 この車の担当はあの松本博之さんだが、
 初めてこの車を見た時の印象は『痛烈だった』のを思い出すのである。



★カだワサキの二輪事業の創生期に事業全体をリードしたのはある意味『レースだった』と言ってもいいのだが、
当時はエンジン開発=技術部マシン制作=製造部レース運営=広告宣伝課という三者の協働で『レース運営委員会』でその基本方針が検討されていたのだが、そのメンバーは以下の通りだったのである。

 山田熙明・苧野豊秋・中村治道・髙橋鐵郎・大槻幸雄安藤佶郎
 田崎雅元・古谷錬太郎

 そして大槻・安藤さんの後の監督が糠谷・岩崎茂樹コンビ
 その後を引き継がれたのが百合草三佐雄さんなのである。
 その百合草さんの時代に『レース』は開発・運営が技術本部となるのだが、
 その時の技術本部長は国内販社出向から戻られた髙橋鐵郎さんなのである。


★カワサキの創生期の昔話をしてきたが、ここに名前が登場した方々の内、
 川﨑重工業の社長が1人、副社長が2人、常務が2人と5人にもなる。
 別に役職の上位が特にどうだということもないのかも知れぬが、
 それはそれで大したことであるとも言える。

 何はともあれ『カワサキの創生期』はレースチームのメンバーたちが、
 その事業を引っ張ったということは間違いない事実なのである。


 
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脱ハンコ  雑感

2020-09-29 06:51:15 | 発想$感想

★ 河野さんが『脱ハンコ』を発言したことから、
 それに賛成する意見も多いのだが、官公庁などでは兎も角、
 日本の『ハンコ文化』がそう簡単になくなるのかな?




  
 
 


 

と私自身は何となく思って、ネットの中をいろいろ調べてみた。
 
いま話題の『脱ハンコ』だからかこんなに沢山の論評が出ていて、
一応全部目を通してみた。

夫々なかなかオモシロかったのだが、

  

  





特に一番最初の
日本企業のハンコ文化をどれだけ叩いても「脱ハンコ」が進まない根本原因
という論評は説得力もあったしオモシロかった。

  
● 関心のおありの方は是非ご一読下さい。




 





 
 
★ハンコがなかなか無くならないのは日本の産業構造の問題』で、
日本企業の99.7%を占める中小企業の人たちにとっては
そんな話は『別世界のこと』で殆ど関心もないし、
やる必要を感じていない』と指摘している。



 




 
中小企業は体力的に、そこまで設備投資ができない。
国がテレワーク導入に補助金を出してくれるといってもたかが知れているので、これまで通り現状維持の方が「安上がり」で済むのだというのである。
 
それに加えて、最も大きな障壁は
小さな会社になればなるほど、そこまでIT化の必要に迫られていない」
という点である
 
中でもとりわけ多いのが「小規模企業」で、従業員5人から20人以下の規模の会社にとっては「脱ハンコ」「リモートワーク」というものが、そこまで切実に必要とされていないのが現実で、
小さな会社になればなるほど、そこまでIT化の必要に迫られていない
というのが、脱ハンコの最大の障壁なのだというのである。

 
★「脱ハンコ」の戦いは、かれこれ半世紀に及んでいて、
 こんな昔から朝日新聞紙上でも取り上げられているのだが、
 一向に進んでいないというのを日付順に紹介している。

●1952年11月5日 《都の機構改革きのう発足、ハンコ減らす》
●1953年10月23日 《ハンコを乱用しすぎる_経済気象台》
 これらは戦後間もないホントに50年も前の話だし、
●1960年9月19日 《「ハンコ行政」改善に「能率官」制度設ける
●1962年9月16日  《ハンコいりません 銀行に「サイン時代」》
●1968年7月3日 《補助金100万もらうのにハンコ509 山梨県の場合》

このように、定期的に「脱ハンコ」のムーブメントは定期的に盛り上がっては萎むというのである。
 
●1988年3月14日には、
読売新聞」も「日本が変わる高度情報の時代」という連載記事の中で、
電子決済でハンコも不要 お役所から伝票が消える」と報じたが、
 それから30年を経た令和の今も、そんなことにはなっていない。

つまり日本の戦後というのは『「脱ハンコ」の挫折の歴史』といっても過言ではないのだと書かれている。




★果たして今回の『脱ハンコ問題』はどんな結果を齎すのだろうか?
 一応は『脱ハンコ賛成者』が7:1の比率で圧倒しているのだが。


  


 今は世界で唯一印鑑が使われてるのは日本だけだが、
 昔々に メソポタミアからやってきたのだとか
 





 
 そして『日本のハンコ』は海外からの観光客に人気で、
 日本のハンコ文化が海外に輸出されるかも?
 などと言っている。






 

 私も現役時代は多くの書類に印を押す立場にもいたのだが、
 その時、ハンコを押しながら、
 『これが全部サインなら大変だな』と思っていた。

 要は『ハンコ』そのものよりも、
 1枚の書類に何人もの人がハンコを押す
 役所や大企業の管理システムが問題なのであって、
 
ハンコそのもの』は至ってかっこいいものなのかも知れない。


   


 

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正代優勝おめでとう

2020-09-28 06:22:23 | 発想$感想

★ この秋場所は両横綱が休場でどんな場所になるのかと思っていたが、
 非常にオモシロい場所だった。

 後半、誰が優勝するのか解らない大接戦で、大関陣も頑張ったし、
 新入幕の翔猿も大活躍だったが、
 千秋楽はその翔猿正代が破って初優勝を飾ったのである。

 
  



翔猿は健闘して土俵際まで追い詰めたが、





 最後は正代が粘っての初優勝だった。




熊本県出身力士の優勝は初めてだったし。
若し新入幕の翔猿が優勝したりすると、150年振りだとか
話題いっぱいだったのである。





★ 大相撲に関心を持ちだしたのはこの数年前からで、
 まだ幕内力士の名前と顔が一致しないようなレベルのファンなのだが、
 相撲も見だすとなかなかオモシロい。

 正規のスポーツとは言い難い面もあるのだが体重が半分ほどの小兵炎鵬が大きな関取を倒したりするのはが相撲のオモシロさなのかも知れない。

 大相撲がある間は、夕方の時間が潰れて1日が短く感じたりする。


 貴景勝のお父さんがカワサキのバイクを持ってるとかで
 貴景勝も応援してたのだが、もう一歩のところだった。
 
 


 何はともあれ、正代初優勝おめでとう。

 



    人気力士の宇良も『十両復帰が濃厚』のようで、
 秋場所は終わったところだが、
 次の場所が待ち遠しい心境である。




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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9月の薔薇

2020-09-27 06:34:33 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★9月26日になった。
 ちょうど8月25日にバラの秋剪定をしたので1ヶ月経ったことになる。

 その時にもブログにアップしているのだが、このように書いている。

 
 『剪定をちゃんとしないと、ちゃんとした花は咲かない。・・・
  暑くて、まだ『秋剪定』をする時期ではないとホントにそう思っていた。
 本を読み直してみると『8月25日から月末』とあったので、剪定をした。

 昔と違ってだんだんと不精になる
 『いい加減に』あまり芽も確かめずに少し短めに剪定した。
 もう少し経つと芽が動くのでその時もう一度切り直そうかと思っている。』

 

★ それから1ヶ月経った。
 
 1ヶ月の間に、新しい枝も伸び新しい葉をつけた。
 小さいがもう蕾も付いている。

 




  1ヶ月前は、このように裸の状態に短く剪定していたのだが、
 よく成長するものである。




 

★ 今の我が家の薔薇たちである。

 どれも今のところ順調に育っている。

  
 


 このように赤いシュートのような枝が出ると順調な証拠である。





 こちらは挿し木から育てた白い薔薇だが、
 もう 挿し木してから10年近くになるだろう。





 あと何日経てば『秋薔薇』の盛りになるのだろう。

 今年は『いい花』が見れるかも知れない。




 次回は『満開の秋薔薇』をご紹介したいものである。
 

 
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歯の健康 『9020』を目標に

2020-09-26 06:31:04 | 発想$感想

★ほんとに昨今の検索はなんでも答えてくれる。
 実は左上の奥歯がぐらぐらで抜けそうである。
 そんなことで歯医者に診て貰いに行ってきた。

 ひょっとすると、抜かなければならないかも知れないと思って、
 一体、80歳台になったら歯は何本残っているのだろうと思ったのである。
 『80歳台で歯は何本』と検索したら
 
 こんな図表と説明文が出てきた。

 成人の歯は28本あるのだが、年を取るごとに少なくなって、
 80歳代になると平均は『11本』だというのである。





 そして、こんな説明文があって、
 厚生省が『80歳台で20本の歯を残そう』という
 『8020運動』をやっているのだという。


成人の歯の平均本数は、前歯12本、小臼歯8本、大臼歯8本 すべての歯が揃うと28本あります。 しかしながら、調査の結果、歯周病やむし歯などで 40歳代から少しずつ失われはじめて 50歳代で約25本 60歳代で約22本 70歳代では10本もの歯を失って約17本 80歳代では半数以上の歯を失い、11本しか残っていないという結果です。

   厚生労働省が提唱している『8020運動』は、『80歳で健康な歯を20本残しましょう』というものですが、現実的には80歳で8020を達成できている方は、3人に1人しかいないという現状です。  


  自分で数えてみたら、20本はあるように思う。

歯医者に行って先生に何本残っていますか? と聞いてみたら
21本残っている』と言われていたが、
 
今回はこの歯を抜く』ことになるので20本になってしまう。


★ 特に歯磨きを毎食後にこまめにやったりはしていないのだが、
 もともとの歯が強かったのか、『20本は残っている』ので、
 何とか『3人に1人』の中には入っている。

 
 歯が丈夫でないと食事が大変なようだから、
 何とか『8020運動』の目標を
 私独自には『9020運動』にして、90歳になっても20本は残したい。
 
 それまであと3年『頑張ってみよう
 
 

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大阪都構想   雑感

2020-09-25 07:20:34 | 大阪維新の会、橋下徹氏

★ 松井一郎大阪市長は東京で記者会見をして、
   今回の大阪都構想の住民投票に『負けたら政治家終了』と引退を表明したらしい。

 

   

 

 

大阪に住んでいる訳ではないのだが、
大阪都構想』には特別の関心もあるし、これを当初から推進してきた『橋下徹さん』の熱烈なファンでもある。

このブログでも橋下さんの大阪府知事時代からずっと橋下徹さんを追っかけて
大阪維新の会 橋下徹氏』というカテゴリーを作って応援してきた。
 
 今回の投稿が99回目になるのだが、
 大阪都構想には最初から賛成していた『菅さん』が99代目の総理だとか。
 何となくご縁があるようにも思ったりする。

 過去の記録なども振り返りながらの私の『大阪都構想雑感』である。



★ トップにご紹介した記事には大要このように書かれている。
 『松井市長が政界引退』などにはならぬことを願うばかりだが、
 投票権のない私は、こんなブログでせめて応援しようと思っている。


大阪府の吉村洋文知事と大阪市の松井一郎市長が23日、東京・内幸町の日本記者クラブで会見し、「大阪都構想」について説明した。
2015年の住民投票では僅差で否決され、都構想の旗振り役だった維新創始者の橋下徹市長が政界を引退した。
今回、否決された場合の進退について問われた松井市長は「基本的に政治家ですから、任期はしっかりと務めます。」と前置きし「都構想の住民投票は勝つためにやっているが、負けたら、僕自身の政治家としては終了です」と政界引退の決意を語った。 



★これは『2015年の橋下徹さんの引退会見』の時のブログからである。
 10741票の僅差で敗れ、橋下さんは引退することになるのだが、その時
 いろいろと書いている。

   

  関心のおありの方は是非お読みください。
 






 大要は以下の通りである。

思い切り良すぎるな』と思ったりしたのだが、その時の『年代別の賛成・反対』分類なのである。
70歳以上の年代』以外はいずれも『大阪都構想賛成』だったのである。




 どう思われますか?
 制度の内容については『若い世代』は圧倒的に賛成なのに、
 投票に行く人が少ないので、結果は『反対』となってしまったのである。

 極端に言うと『年寄りの郷愁』みたいなものでこの制度は実現しなかった。
 今回はそれから5年経っているので、何とか成立して欲しいと思っている。
 

 
★あの頃は堺屋太一さんも推進役で健在だった。
 松井さんも、橋下さんも若々しい。

 



 この狭い日本に都道府県が多すぎるし、
 そこで政治に関わっている人たちは、『政治屋』になってしまっている。
 自らの主張が通らなかった場合は、自らの職を賭すという
 橋下さんも松井さんも潔いが、そんな貴重な政治家を失ってはならない。
 
これは2013年8月の私のブログからだが、
大阪都構想』を推進した堺屋太一さんを安倍総理や菅官房長官が登用した話を書いている。








★それから7年経って、その中心だった『菅さん』が総理大臣である。
 『大阪の自民党』は『都構想に反対』だが、
 『日本を改革しよう』という菅総理はむしろ、賛成だと思う。

 今回こそは、大阪府民・市民の皆さんも是非『賢明な判断』をして欲しい。
 兎に角『若い人が投票に行けば』間違いなく『大阪都構想は実現』する。

 
 お隣の兵庫県だが、熱心に応援している『87歳のおじんの雑感』である。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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我が家のみかん と その記録

2020-09-24 06:25:11 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ スーパでみかんを買ってきた。
 まだ、小さいし青いのだが、値段だけか結構高い。
 
 我が家にもみかんの木がある。

 これは一昨年の春の写真だが、
 いっぱい花が咲いていてこの年は沢山みかんはなったのだが、
 なぜか、去年は花も咲かなかったのである。
 花が咲かないと勿論実などなる訳がない。
 

 


 今年は春の写真はないのだが、春花が咲いて
 いまこんな状況である。

 
     






 まだ青いのだが、1個だけ採ってきて、買ってきたみかんと並べてみた。
 左が我が家のみかんで、買ってきたものより大きい。

  


 皮をむくとこんな感じで、食ってみたら
 すっぱかったが、買ってきたみかんより旨いような気もした。

 



★このみかんの木、買ってきたのは2011年の11月のことである。
 こんなブログが残っていた。



2011-11-12 05:58:52 | 日常生活、園芸、バラ
  
★一昨日、出石の新そばまつりに、行ってきた。
久しぶりに往復250キロのドライブで、新そばの味を楽しんできた。
帰り路の朝来の道の駅に『わせみかん』を売っていたので、記念に買ってきた。



 


 このように書いている。
 その時の写真だが、木は小さいのにみかんは大きい。
  
 専門家は育て方がいいのだろう。
 ものすごく甘くて美味しかったのを覚えている。


★植えっぱなしで、殆ど何もしないからダメなのだと思う。
 来年からはちゃんと『みかんの育て方』を読んで確りと育ててみたい。

 ただ、自慢できるのは Google で『みかん 雑感日記』と検索すると



 
こんな我が家のみかんの写真がトップにずらりと並ぶのである。

 
 

 この『雑感日記の評価』が高いのだと思う。
 何でもこのように、このブログ書いておけば、Google が整理してくれる。
 これは重宝で例えば『カワサキ 雑感日記』と検索したら
 こんなに沢山の写真がずらりと並ぶのである。

 


 
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女性が輝ける時代

2020-09-23 06:52:30 | 発想$感想

★ 突然、藤本喜子さんが私のFacebook に
 こんなタグ付けをされたので、びっくりした。

 『ここから始まった主婦の挑戦』とある。
 その『ここ』というのが、『三木緑が丘』をさしているようである。




  




さて、ここはどこでしょう。
 昨日の話ですが、この日は主人の学会表彰のお祝いで実家の両親と姉家族となぜか三木市で夕食をすることに。』

の後にはこんな文章が続いているのである。


...
 運転すると
おお、、懐かしい三木市。
 緑ヶ丘到着。
5年前はよく行っていたな〜と
 しみじみ。この頃は娘の授乳もしていたし、服装も授乳服だった。面白い人達と出会い、いっぱい広報とか色々教えていただいたな。
この時に4回(クローズアップ現代、朝イチ2回、よーいドン)テレビにも出演できた。広報って大事だと知った場所だった。
松本 茂樹先生
古谷錬太郎さん
殿界さん
有難うございます。
 元を忘れない、、ですね。


 

★ 5年前とあるのだが、もうそんなになるのかな?

藤本喜子さんとは、確か当時は関西国際大学におられた松本茂樹先生の勉強会で初めてお会いして、
 それ以降、殿界寿子さんなどと一緒に地域活性化の『燦々プロジェクト』でご一緒してたのはよく覚えているのだが、

 NHKのテレビ出演などされたのは、全く覚えていなかった。

 ところが、Facebook には、こんな私のブログが貼られている。


 

 




 確かに、こんなブログをアップしていて



 それがちょうど5年前の3月なのである。
 人の記憶は全く頼りないなと思った。


 

 

 

 そのNHKのテレビにはご主人も一緒に出演されていて、
 私はこんな風にコメントしている。
 
 
  



★要は『女性が輝くためには』ご主人の理解が一番だというのである。
 
 私などの年代は『家内』などと言って、女性は家の中のことを・・・
 などと考えるのだが、若い年代では妻に対しての理解が違う。
 というようなことだった。

 そんなご主人が今回『学会で表彰されて』そのお祝いのために
 わざわざ尼崎から三木まで来られて会食されたとか。



 5年前、『そんな時代もあったな』と思う。
 『それはここから始まった・・・』と
 『三木緑が丘』がスタートだったと言って頂くと嬉しい。

 
 余談だが、
 殿界寿子さんは、『とのさま日記なるもの』というこんなブログを
   

 藤本喜子さんは『しもじも日記』というブログを


 
 をずっと書かれているのだが、
 これは5年前、私がお勧めしたものなのである。
 以来、毎日欠かさずアップされ続けている。
 ブログはまさにあの時がスタートだったのである。

 
 
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『敬老の日に想う』 私の雑感

2020-09-22 06:30:21 | 私の生き方、考え方&意見

★9月21日が『敬老の日』だとは、自治会からお祝いを頂いて、
 そうか『今日は敬老の日』だと思ったりした。


 『敬老の日』と写真検索してみたら
 『最近の60歳は若い』というこんな写真が出てきたが、
  確かに最近の60歳は若いように思う。
  もう息子がそろそろ60歳に近づくそんな時代なのだが、

  

 

 私自身振り返ってみて、還暦を迎えた60歳台が人生で一番『歳をとったな』と思った時代だったような気もする。
還暦のお祝いなども頂いて『そうか年寄りの仲間入り』をしたと実感したし
実際に60歳台が一番体力の衰えを実感した年代だった。
まだ、現役時代ではあったのだが、殆ど運動などしなかったし、階段を上るのに息を切らしたりしてたのを思い出す。


★もう20年も前の話なのだが、
この年代にはしょっちゅう整形外科に行ったり『マッサージ』のお世話になったりしていたのだが、
私の人生は、『70歳代からもう一度元気になった』と言っていい。

 『原因は何かな?』と思うのだが、
 『一番の原因は有り余る自由な時間が出来た』と言うことだと思う。

逆に言うと、60歳台は未だ現役だったが、
全く自分の自由な時間がないほど『忙しかった』ということだろう。
当時やってたことも、当時思っていたほ大したことではなかったのに、
これは大きな仕事だ』と思っていたのは錯覚だったのかも知れない。

 自分の人生の中で、一番大事なことは『自分自身の時間』を持つことで、
自分自身の時間が持てている人生は豊か』だと思う。


★そういう意味で私の70歳以降の人生は『豊かで満足できる』ものである。

 有り余る『自分自身の時間』を何に使っているかというと
 ひとつは70歳台になって初めて出会った『ネットの世界
 そのベースは『パソコンが使えるように成った』ことがひとつ。

   

 若しパソコンと出会わなかったら、全然違った人生になったと思う。
 ネットのお陰で、毎日自分の感想なども世に発信出来てるし、
 検索ということから『得られる知識』は学生時代より多いかも知れない。

 もう一つは『運動』である。
 子どもの頃から『運動神経はよかった』ほうだし、
 体を動かして『遊ぶ』のは好きだったのだが、
 そんな『運動の世界』が戻ってきて、
 今もストレッチとスロージョッギングとダッシュを楽しんでいる。
 こんな基礎的な毎日の運動の方が『ゴルフ』などより楽しく思うから不思議である。

 それともう一つは、自分の好きなことを好きなようにやっている。
 それを趣味と言うのかも知れない。

  

 
 
子どもの頃から魚が好きで、定年後一時は錦鯉に凝ったりしたが、
 今は、金魚とメダカを1日何時間も眺めている。


    



 植木の剪定などに興味を持ちだしたり、薔薇を育てたり、
 実のなる木を植えてみたり、
 要は『成長する』ものに興味があるように思う。

    
    
  



★『成長する』という意味では
 毎朝やってるストレッチは、ホントに少しづつだが柔らかくなる。
 『柔軟性』は今が人生で最高なのである。
 スロー・ジョッギングなどに興味を持っているのも
 連続して走れる時間がどんどん伸びて2年ほど前は20分ぐらいだったのに、
 今は、1時間近く走れるようになっている。

筋肉は何歳になっても鍛えたら増える』と言った先生の言葉は正しかった。
 せめてあと3年今のような状況を保って、
私の老後は充実してる』と胸張って言えるように頑張りたい。

敬老の日に想う』私の雑感である。



 


 
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アメリカの話題 いろいろ

2020-09-21 05:34:57 | 発想$感想

★ 昨今は世の中の情報の入手先は殆どがネットからである。

 アメリカでの情報もいろんなところから簡単に手に入る。

 これはGoogleニュースからだが、
 このところずっとベンチで出場のなかった大谷翔平が
 7戦ぶりに復帰したら『6号&マルチで逆転勝ちの立役者』になったとか。
 

  

 

 スターになる人は、何となく普通の選手とは違うものを持っている。

 全英オープン以来、冴えなかった渋野日向子だが
 こんなニュースが。


 


  

★ そんな大物のニュースではないのだが、
 私にとってはオモシロいニュース、こちらはFacebook から。

 アメリカにいる娘家族だが、男ばかりの孫3人、
 長男は今は日本だから、アメリカでは次男と末弟の4人家族

 この家族『食うこと』に掛けては一般家庭とは桁違いである。
 2倍ではきかない、3倍ぐらいの量を食う。

 孫二人は、サッカー選手で食うのは食うが、体調管理がものすごくて
 米などは一切食ったりはしないのだが、
 日本に来たときは別だとか言って、
 次男が回転すし38皿食ったと言ったら、
 末弟40皿食ったりする、そんなレベルなのである。

 これは間違いなく、お父さん似で食う量にかけては、娘婿が一段上である。
 娘も、幾ら食っても肥えない体質なのか、普通の女性とはちょっと違う。

 

★ そんな『門野一家のニュース』でこんなのが流れた。

 まずは娘のFacebook .
    『3週間禁酒』したら、次男が『ビール専用の冷蔵庫』を買ってやるとか。
 見事冷蔵庫を仕留めて、嬉しそうな娘の笑顔である。

 アメリカは日本に比べたらビールは安いが、
 それにしても『これでもか』と言えそうなビールの種類と量である。




 
 
 娘婿も参加してたようだが、これは『ごはん一杯
 これは、冷蔵庫とは関係ないし、あまりビールなど飲まない。
 いつものことだが『娘主体』でこの家族は回っている。

 



 
 娘は、よほど嬉しかったのか、家内にLineで電話してきて、
 日本で車関連の仕事をしてる長男には『クルマを
 泰然自若としている大物の末弟には『家を
 買ってもらうとか言ってたとか。


  因みに次男はサッカー選手だが、
  
 
 
 
 ビール専用の冷蔵庫も『ピンキリ』で
 安いのはこれくらいからあるのだが、果たしてどのレベルなのか?

 
  



★ これは娘婿の友達のKenji Sakaiさんのツイッターから、
  毎日アメリカなど海外のニュースが流れる。


  


  なかなか日本では流れないニュースが多いので、
  ご関心のある方は、是非以下のURLをクリックなさってください。



  これは動画からの1シーンですが、
  こんな大きな波の中でサーフィンする人がいるというのが

  アメリカなのかも知れません。
  


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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菅内閣の政治はどうなるのだろうか?

2020-09-20 06:13:33 | 政治

★ 菅内閣の話題でニュースはいっぱいである。

 自民党には厳しい朝日の世論調査でも内閣支持率は非常に高くて
 出だしは好調と言っていいだろう。



   




 私自身、政治に関心を持ちだしたのは、正直安倍政権ぐらいからで、
 それまでは大した関心も持っていなかったのだが、
 安倍さんの政治には何となく好感を持っていた。

 『菅政権』には安倍さん以上のファンに成りそうな感じである。


       

 
   

   なぜ?と言われると
 素人のカンだが、単に安倍政治の継承だけでなく、
 むしろ『菅さん独自の改革政治』の展開が期待できそうだから。


 

 『役所の縦割り、既得権益、あしき前例主義を打破して規制改革を進める
 という改革路線は、従来の自民党にはなかったものだし、
 
 『国民のために働く内閣』と言うのも自民党としては新鮮な感じがする。

 本当にこのような政治になったら、これは凄いことだと思うが、
 この数日の動きを見ても、従来とは変わった政治になりそうである。

 



★ 任期は残り1年だが、
 1年だけの『短期政権』で終わることなく自民党の総裁任期3年を含めて、
 4年は『菅内閣』が続くだろうと思っている。

 今回の組閣人事のやり方や、その人事を見ても、従来とは違うし、
 『総理候補』と言われる『岸田・石破』さんを登用しなかったのも、
 『この次も私だ』という意志表示のような気がする。

 
    巷では評判のいい『河野太郎』も今回の内閣の目玉になるだろう。
 党内での評判はもう一つだと言うが
 今回の役割はやり過ぎても問題のない
行政改革・規制改革担当相』だから期待できる。



       



目玉だから、しっかりやれ!」と激励して、
俺はつくるほうだから、壊すのは河野にやってもらう」と打ち明けたとか。

 早速『行政改革目安箱・縦割り110番』を開設したが、
 18日未明までに4000件を超すメールが殺到し、
 わずか1日でいったん閉鎖することを決めたという。

 兎に角、即刻実行、動くのがいい。



★ 外交がどうかなと危惧されている面もあるのだが、
 今のところ世界の反応は概ね良好なようである。

 今夜には、初めての『トランプ・菅電話会談』が行われるという。

  トランプ大統領は菅首相の就任を祝福するメッセージをツイッターに投稿、

あなたが日本と世界のために、とてつもない仕事をすることを知っている」

「早く話をするのが楽しみだ」

「あなたには素晴らしい人生の物語がある!」
 などと述べている。

 
 素人の勝手な予想だが、
 菅政権は単なる『安倍政治の継承』だけではなく、
 従来の日本の政権とはちょっと差別化された
 『オモシロい独自の展開』をするように思う。
 
 そういう意味では『日本の新しい政治のスタート』だと言ってもいい。
 
   そんな『素人判断』が当たることを秘かに期待したい。




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ちょっとだけ新しいことも入れた1日

2020-09-19 06:46:51 | 私の生き方、考え方&意見

★ 毎日、毎日同じことをしているのももう一つなのだが、
 この3月コロナ対策が始まってからは、殆どが同じことの繰り返しである。

  
  
9月に入って、新しく『菅内閣もスタート』した。
安倍政治』を引き継ぎながらも、新しいことにも挑戦しているので、
 従来の生活を引き継ぎながら、少しだけ進歩の方向に舵を切ることにした。
    
 『菅さんに』あやかりたいと思ったまでである。

  

 私の毎朝は、こんな三木総合防災公園の綺麗な道を
 スロー・ジョッギングした後、
 ちょっと休んで、50メートルダッシュをしていたのだが、


    


9月からは、スロー・ジョッギングの合間に40歩のダッシュを取り入れ、
その後またスロー・ジョッギングを続けて、
息が収まったら、またダッシュする、
そんなやり方に変えたのである。

 
約50分ほど走ったら、大体『10本のダッシュ』が出来る。
従来よりは、ちょっときついが、大丈夫できるから不思議である。


これが今朝の実績で、50分、8000歩、約6キロ、1300cal
を記録した。

   




★そのあと、生協に墓参の花を買いに行った。
 お彼岸で花を買う方がいっぱいで整理券を出している。

  

 

 9時半のスタートだが、15分前に行ったのに、
 『124番目』だったのだが、
 待ってたら、親切な方がいて『67番』の整理券を頂いたのである。
 周囲に沢山の方がおられたのに『なぜ私に?』 それはよく解らない。


  
  


私の隣で待ってた方はもっと後の番号だったので、『124番』を差し上げてきた。



★ そして明石の長寿院まで、約40分、

  前回はお盆で『草抜き』をしてたら『熱中症』になってしまったので、
  今回は水も持っていったのだが、1ヶ月経つと暑さも全然違う。
  1ヶ月前に草を抜いたのに、また生えていた。

    


 
 今回は、『除草剤』の液体を持って行っていっぱい撒いてきた。
 次回は来年の正月だが、果たしてどうなっているのだろう?




★ 明石は『生まれ故郷』だし、今でも本籍は明石なのだが、
  最近は、特に駅前辺りは開発されて、さらにまた開発中である。
 『昔の城下町の風情』は全く無くなってしまった。

  何となく『寂しい』気もする。


  


 
 同じ『城下町』だが、まだ三木の方が少しマシかなと思う。

 そういう意味では、長寿院のお墓も、新しい墓が増えて、
 こんな感じになっている。

 だんだんと世の中は変わって行くのである。
 

  

 


★ 午後、夏から『挿し木』していた薔薇の根が出ているので、

 そのうちの2本を庭に植えたのだが、
 『菅内閣スタート』の記念植樹と言うことにしたい。

 立派に育って花咲くことを期待したい。
 来年の春には花が咲くはずなのである。
 『菅内閣』その頃、どんな感じになっているのだろうか?

  
    



   
 
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健康について   雑感

2020-09-18 06:55:54 | 発想$感想

★ この夏はほんとに暑かった。
  そんな夏も毎朝近くの公園を走っていたが、
  これは『健康維持』のためである。

  87歳になっているのだが、それでも幾らか進歩も見られるから
  人間の身体も不思議である。

  
  そんな公園の樹がこの夏の暑さで何本も枯れた。
  生命のあるものはいつかはその命も終わる。
  
  我が家は家内と私の文字通り高齢者家族だが、
  お蔭様で、何とか二人とも今のところ元気に生きている。
  人間80歳を過ぎると、何らかの問題は抱えてはいるのだが、
  今の世の中、その『健康維持について』昔では考えられないほど、
  その管理がよく出来ている。

 

★ 今週初めに、家内は血液検査をしたのだが
  その結果を聞きに、北播磨総合医療センターに行ってきた。
  前日に血液を採ると、翌日先生の診断がある。

  昨年あたりから、近くの掛かりつけの医者の血液検査で異常値があって、
  北播磨総合医療センターで半年に一度検査をして診て貰っている。

  今回の検査の結果も特に進展などはなくて、
  次回は来年3月に検査しましょうと言うことだった。




 病院の植え込みの木もところどころ暑さで枯れていたが、
 これは人間のようなこんな検査も手入れもしないからで、
 この夏も水さえやっていればこんなことにはなっていない。



   



 その点、人間の社会では『手入れ』が行き届いているように思う。
 病床に臥せている訳ではないのだが、病院はこんなに人でいっぱいである。
 そして、半年後の診察の予約ができるシステムで、
 殆どの人が『時間単位の予約』をするので昔のように時間も掛らない。



 我々夫婦は『87+83=171歳』となっている。
 一応は『健康』だと言っていい。
 まずは180歳台を目標にしたい。
 人間、独りで生きていてもオモシロくないし、
 生きてても『寝てる』のではもう一つだが、
 果たしてあと何年『健康高齢者』で過ごせるのだろうか?



★ この夏の暑さで公園の樹は枯れたが、
  お蔭様で我が家の庭木は何とか枯れずに持ちこたえた。
  何日かに一度、水をやったからだろう。

  8月25日に、『秋剪定』をして丸坊主になってた薔薇も

   


 あれから約20日を過ぎて、新しい葉をつけたし
 蕾を持ったり、花が咲いたものもある。
 これも『健康維持』について気を付けた結果だろう。

 いまこんな状態である。

  
  






 あと何日すれば、本格的な『秋バラの季節』になるのだろう。
 些細なことでも、『気を付ける』のと『そうでない』のとでは
 やはり『違いが出る』はずである。

 薔薇のためにも『手入れの予約』もしてやらないといけないな。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


  
  
  
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小野寺和夫さんのこと

2020-09-17 06:32:55 | カワサキワールド

★ 全国カワサキ会会長であった『小野寺和夫さん』のことをこのブログで
 書くのは初めてのことだと思う。

 昭和46年(1971)当時小野寺和夫さんは、
 カワサキの当時の代理店を纏めた全国カワサキ会の会長をされていた。
 当時はメーカー直系の営業所もあったが、
 従来からの自前の地方代理店も残っていて、
 その代理店を纏めた『全国カワサキ会』という組織があったのである。

 私自身も昭和45年末から『大阪母店長』となった関係で、
 全国カワサキ会副会長の職について、
 それ以来、小野寺和夫さんとはいろんなことでお世話になったし、
 一緒に国内の販売網関連の仕事をさせて頂いたのである。

 小野寺さんは横浜で、日本の二輪業界がスタートしたころは、
 確かライラックかどこかの代理店だったのだが、
 その後カワサキの代理店として活動されていたのである。 
 そんなことから、全国カワサキ会のでコンビを組むことになったのである。
 
 本田宗一郎さんが高松の宮様を迎えて,
   ヨーロッパのBPICMとのレセプションを開催された時には
   夫婦同伴での華やかな会に、小野寺さんご夫婦と一緒に
 出席させて頂いたことも『いい想いで』なのである。


 その後、カワサキも全国が直系の販売会社や営業所になって
 栄和自動車も横浜の一販売店としての位置づけにはなるのだが、
 小野寺さんはその後も国内二輪分野の業界の中枢におられて
 カワサキは勿論、二輪業界全体に貢献されて叙勲も受けられたのである

 私自身も国内の販売網の責任者となるのだが、
 小野寺さんには顧問として長く手伝って頂いたのである。

 そんな小野寺さんも、叙勲を受けられた1995年の12月にお亡くなりに
 なるのだが、もう余命が少ないと言われたその年の11月23日
 横浜の病院に小野寺さんを見舞っている。
 
 『これが最後になる』ということはお互い解っていて、
 小野寺さんはエレベーターのところまでわざわざ見送って頂いたのである。

 11月24日の日記にこのように書いている、(要約)

 『昨日小野寺さんに最後に会った。これが最後とお互い解った上で約30分話をした。すべて気になっていたことは話をした積りである。・・・
医者の言うことが正しければ段々と死期に近づいていることはご本人もお解りのようで、そんなとき私の一言一言をどのように小野寺さんは感じて頂いたのだろう。私自身は本当に援けて頂いたし、腹を割って話せる数少ない人の中の一人だった。今度横浜に行くときは小野寺さんの葬儀なのだろう・・・』


そして翌月12月17日のお通夜と18日の葬儀に
髙橋鐵郎本部長と一緒に参列しているのである。
1995年のことだから、もう25年も前の話なのである。



★なぜ突然『小野寺和夫さん』のことを書いているのかと言うと
 これもホントに突然なのだがつい2,3日前のことだが、
 Facebook に小野寺和夫さんの息子さんの小野寺進さんから
トモダチ申請』があって、メッセージでいろいろやり取りしたのだが、
 そんな中に、こんな一文があって、びっくりしたのである。
 
『父の葬儀の時に葬儀委員長をおつとめ頂いた菅義偉さんが総理大臣なられるのをきっとどこかで見て喜んでくれていると思います。』

あの時の葬儀に菅さんが葬儀委員長をされていたとは思いもよらなかった。


菅さんの履歴をみると 

神奈川県の横浜市議を2期務めた。・・・高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、「影の横浜市長」と呼ばれた。
1996年の第41回衆議院議員総選挙に神奈川2区から自民党公認で出馬し、初当選した。

とあるので葬儀委員長をされたのは、まだ横浜市議の時なのだが、
ホントに世の中いろいろと繋がっているものである。


  
  


   

 菅さんは秋田湯沢のご出身だが、
 小野寺和夫さんは、確か北海道から横浜に来られて、幅広い活動だった。
 菅さんとも親しかったとは知らなかったが、
 菅さんの人柄というか実行力はやはり相当なものだと思う。

 小野寺さんとは親交があったのでよく解るのだが、
 小野寺さんとお付き合いのある方は、世の中の『実力者』ばかりなので、
 菅さんについても、何となく解るのである。

 

 今はベタータイムスの他二輪業界でいろいろとご活躍の森田伊活さんを
 その立ち上がり時期に私に紹介されたのも小野寺和夫さんで、
 そのスタート時期にカワサキの販売店に購読をお願いしたことを想い出す。
 
 そんなこともあって、今でも森田さんは冊子を送って下さるのである。
 その10月号が届いたばかりなのである。

  
   
 


 息子さんの小野寺進さんとは、何回かお会いはしているのだが
 Facebook でトモダチ申請があった時、
 その友達に『吉田純一さん』がいたのですぐ承認したのだが、
 その時は『似てるな』とは思ったが小野寺和夫さんの息子さんだとは
 解らなかったのである。


   



 吉田純一・森田伊活さんなどと一緒に業界活動をなさっているのは、 
 『お父さん、小野寺和夫さん』譲りかなと思っている。


 

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小野寺和夫さんのこと

2020-09-16 15:38:44 | 発想$感想

★ 全国カワサキ会会長であった『小野寺和夫さん』のことをこのブログで
 書くのは初めてのことだと思う。

 昭和46年(1971)に私自身も全国カワサキ会副会長の職について、
 それ以来、小野寺和夫さんとはいろんなことでお世話になったし、
 一緒に国内の販売網関連の仕事をさせて頂いた。

 横浜の栄和自動車という販売店も大きく経営されていて、
 単なるバイク屋さんではなくて、日本の二輪業界がスタートしたころは、
 ライラックかどこかの代理店だったはずなのである。

 そんなことで未だ、カワサキにも地方に代理店が残っていた頃は、
 その代理店を纏めた『全国カワサキ会』という組織があったのである。
 私は昭和45年末に直営部門ではあったが『大阪母店長』となった関係で、
 全国カワサキ会の副会長にも就任してコンビを組むことになったのである。
 本田宗一郎さんが高松の宮様を迎えて、ヨーロッパのBCIMのレセプション
 を開催された時には夫婦同伴で華やかな会に、小野寺さんご夫婦と一緒に
 出席させて頂いたことも『いい想いで』なのである。

 国内の二輪販売の分野は今は全てメーカー直轄になったが、
 当時の自前のデーラーが存在していた時代が懐かしい。

 その後、カワサキも全国が直系の販売会社や営業所になって
 栄和自動車も横浜の一販売店としての位置づけにはなるのだが、
 小野寺さんはその後も国内二輪分野の業界の中枢におられて
 カワサキは勿論、二輪業界全体に貢献されて叙勲も受けられたのである。

 私自身も国内の販売網の責任者となるのだが、
 小野寺さんには顧問としていろんなことを手伝って頂いたのである。

 そんな小野寺さんも、叙勲を受けられた1995年の12月にお亡くなりに
 なるのだが、もう余命が少ないと言われたその年の11月23日に
 横浜の病院に小野寺さんを見舞っている。
 『これが最後になる』ということはお互い解っていて、
 小野寺さんはエレベーターのところまでわざわざ見送って頂いたのである。

 11月24日の日記にこのように書いている、(要約)

 『昨日小野寺さんに最後に会った。これが最後とお互い解った上で約30分話をした。すべて気になっていたことは話をした積りである。・・・
医者の言うことが正しければ段々と死期に近づいていることはご本人もお解りのようである。そんなとき私の一言一言をどのように小野寺さんは感じてくれるのだろう。私自身は本当に援けて頂いたし、腹を割って話せる数少ない人の中の一人だった。今度横浜に行くときは小野寺さんの葬儀なのだろう・・・』

そして翌月12月17日のお通夜と18日の葬儀に参列しているのである。
1995年のことだから、もう25年も前の話なのである。


★なぜ突然『小野寺和夫さん』のことを書いているのかと言うと
 これもホントに突然なのだが
 
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