★『1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発、石油価格が上昇するなど、戦後初めてマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。トイレットペーパーや洗剤などほとんどの物資の買占め騒動、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生した。』
などの記述があるように、1973年は第1次オイルショックもあって、世の中は大変な時代だったのだが、当時のカワサキは実質この年からZ1・Z2の発売があり、『カワサキの二輪事業』としてはアメリカ・国内とも大きく伸長した飛躍の幕開けとも言ってもいい時代だったのである。
二輪車生産累計100万台を達成、5月には月産2万台を記録したり、ジェットスキーの生産を始めるなど、まさに「飛躍の年」だった。
特にアメリカ市場の伸長は著しく、この年から2年間ほどが絶頂期とも言える時期だったのである。
★国内市場においても、この春からZ2の発売が始まり、二輪事業始まって以来初めて「バックオーダー」という事態を経験するなど、兎に角忙しすぎて、世の中の『トイレットペーパー騒動』などにも目を向ける暇もなかったのかも知れない。
私自身もこの1年は激動期と言ってもいい変動の1年だったのである。
前年から東京・名古屋・大阪という大都市を担当することになったのだが、この年からは東京営業所長も兼務することになって、大阪営業所の兼務は無理になったので、大阪は平井・藤田くんに譲って直営部全体と東京営業所長を重点に動いていたのである。
3月から発売されたZ2は絶好調で、販売よりは特約店への配分がそれ以上に大変だったのだが、経営的にはカワ販も特約店もその恩恵を120%受けていた、そんな時代だったのである。
最盛期の終わる9月末には東名阪の大市場の特約店制も概ね軌道に乗ったこともあって、直営部を解体し東京・名古屋・大阪をそれぞれ営業部に分割し、日下・小竹・永田部長が担当されることになった。
私自身はカワ販本社管理部長として、7年振りに本社復帰となり、カワ販全体の企画・管理と共に全国的な『特約店制度導入』が最大のテーマで、神奈川・埼玉・千葉・広島・福岡などの地域への導入を現地の所長さんたちと共に展開していくことになるのである。
昭和42年(1967)に仙台事務所長に移動した時には一応3年と言われていたのだが、4年目の異動は明石ではなく大阪に途中下車だったし、この年で6年目に入っていたのである。三木に家の新築をはじめていたこともあって、3月からは直営部の本拠を明石本社内に移して頂いたのも、この本社異動もそれなりに会社が配慮して頂いたのだと思っている。
そんな目まぐるしい動きのあった昭和48年(1973)なのだが、個別的な動きや対策は、年初から大変だったのである。
★ まず特約店制度対策だが、この制度は当時としては世の中に存在しない『二輪販売専門店』制度なので、その実施対応はそんなに簡単には行かなくて、大阪・京都などの経験者が手伝わないと、とても現地スタッフだけでは難しかったのである。
まずこの年の2月、地元兵庫県の特約店制度の実施を目指したのだが、兵庫県は実用車の時代から平井稔男所長独特のリーダシップで自転車屋さんの販売網だが、カワサキの実績は抜群だったのである。ただ自転車屋さんばかりだから、そんな店との取引中止をとても平井さんには頼めなかったので、かって兵庫県を担当したことのある藤田くんを担当とし平井さんは私のあとの大阪母店長をお願いしたのである。
取引中止はともかく、本当に候補店が少なくてどうしようもないので、社内の従業員から特約店の希望者を募る『のれん分け制度』を創って時間を掛けて進めることとし、その第1号店が財満くんの『灘カワサキ』だったのである。
従来のお店とは殆ど取引を中止して、山本レーシングサービス、西宮カワサキ、明石カワサキ、姫路カワサキなど順次、川重やカワ販出身のOB店を中心に独特の販売網を創っていったのはそんな事情からなのだが、結果的には非常に強固なカワサキ販売網が実現することになるのである。
★当時は他メーカーでも社員の独立は行われていて、例えば『ヤマハオートセンター』の杉浦さんや、春日井スズキの斎藤さんは、今では店名も変わって業界を代表する立派な事業展開をされているのだが、当時は販売店を始めたばかりで岡崎と春日井にそれぞれ1店舗だけだったのである。
そんなスタートしたばかりのお店に伺ったのもこの年だったのである。
杉浦さんとは、お会いする度に猛烈な議論の展開が半日以上も続くのだが、お互い結構気は合って我が家には杉浦さんからの立派な絵など沢山の頂き物があるのである。
この絵もその中のひとつである。
斎藤さんも 春日井スズキとして独立開業された頃で特約店を希望されたのだが、その向かい側に大きなお店があって『あんな店を特約店にするのならうちは契約しない』などと言うので、半年ほど待ってもらって、この年からお付き合いが始まったのである。
今は店名も中部ミスターバイクから、いつのまにか『カワサキワールド名古屋』に変わっているようである。
鈴鹿ツインサーキットも経営されているし、特に懇意にして頂いていて、私が名古屋に行くと駅までの送迎をご自身でやって頂けるそんな仲なのである。
株)忍者の伊藤さんとも仲がいいし、吉村太一さんを含めて この3人とは何か特別のご縁があるように思うのだが、斎藤さんは当初の『春日井スズキ』時代の斎藤さんが強烈に私の印象に残っているのである。
この年、東京営業所長を兼務して、いろんな新しい方たちともお会いしているのだが、当時東京営業所のサービス長をしていた『北見紀生』くんと出会ったのもこの年のことで、4月20日の日記にこんなことを書いている。
なぜ、北見君が張りきったのかはよく解らぬが、彼は当時から抜群の技量は持っていたが、ちょっと変わっていて、所謂会社側からの評価はそんなに高くはなかったのかも知れない。
私はどうもそのような『規格通りの会社側の評価』はもう一つ納得できなくて『私独自の評価』をするものだから、上の方から注意を受けることが度々だった。
この直営部長時代にも、会社の評価が悪かった人を私なりに見直した人が何人もいるのだが、北見君もその一人かも知れない。ビックリされるかも知れぬが、AJ会長をされてカワサキで一番の出世頭と言っていい『吉田純一』さんなども、タイムカードを打たないものだから、当時の会社の評価はめちゃ悪かったりしたのである。
まあ、人間『会社の評価』などよりは『世の中の評価』のほうが数段大事で、お二人の現在の評価がそれを現しているのだろう。
特約店制を実施したことなどもあって、この年には本当に沢山の方たちと出会っているのである。
★1973年、この年に生まれ発売されたZだが、昨日はもう45年以上も経ってるZやカワサキのバイクが、東京・京都・豊岡から、遠く九州から、三木に集まってきたのである。
なかなかのいい雰囲気で、とにかく車はみんな新車より綺麗だと言っていい。とても45年経っているとは思えないのである。
そんな雰囲気を2分の動画に纏めている。
こんな雰囲気が、Kawasaki の良さだと思う。
ここは5年ほど前に、NPO The Good Times の事務局長登山道夫さんが開いてくれた拠点だが、世界から有名人がやってくる。私も家から5分の距離なので、いつもお誘いが掛かるのである。
来週にはそれこそZの開発責任者の大槻幸雄さんが来られることになっている。
ちょっといつもと違う雰囲気で『カワサキの二輪事業と私』を纏めているが、カワサキの二輪事業の良さは、いや二輪事業の良さは、こんな末端のファンたちと一緒に『いい時を楽しめる』よさでもある。同じ、量産品でもテレビや、冷蔵庫とは違うし、4輪とはまた違った雰囲気を持っている商品なのである。
『Customer Satisfaction』(取引業者)もいいのだが『Consumer Satisfaction』(消費者)末端のユーザーたちの満足や想いを一番に考えないとと思ったりする。
50年前 本田宗一郎さんはまさにそんな姿勢でこの業界を引っ張られたし、カワサキも、Kawasaki Let the good times roll ! とそれに続いたのである。
私なども現役を離れて15年以上にもなるのだが、こんなユーザーたちと接する機会は大事にしたいと思っているのである。
★1973年の話に戻って、当時は『カワサキジャンボリ―』というユーザーを集めた催しを西日本を中心に開催していたのだが、その規模は大体200名前後の規模だったのだが、この年の8月4日に近畿と中部の合同で、特約店を巻き込んで、2000名を集めた『大規模なジャンボリー』の開催を計画したのである。
場所は大阪からも名古屋からも来れる琵琶湖の北端マキノ町の知内浜をマキノ町からお借りしての開催だった。
当時では珍しかった本格的なジャズメンバーによる『ビッグサウンド・オンステージ』と銘打っての公演も企画、その出演料などに260万円も支払っているので、結構有名バンドグループだったのである。
2000名の食事をどのように調達するかも大問題で、特約店による屋台協力で予想以上の屋台が並んだのである。予備として自衛隊の缶詰なども用意したが、特約店の屋台の売り上げを優先したので、缶詰が余ってしまってその処分がまた大変だったのである。
このイベントの運営形式はアメリカで見学したしたデズニーランド形式の『前売りチケット方式』を採用し、すべて前売りとし、屋台などの販売も一切現金を使わない先進的な方式だったしので、結果的には非常にスムースでスマートな運営となったのである。
スタートしたばかりのジェットスキーを持ち込んで、初めて見るジェットスキーも大変な人気で大成功だった。乗ってくれたのは当時はカワ販でジェットスキーを担当していた現姫路カワサキの社長さん島津龍さんだったのである。
当時、未だ2000名を集める野外イベントなど日本では珍しい時代だったから、マキノ町もその成功にビックリされて、且つ大喜びで、3年間ほど毎年の恒例行事になったのである。
計画の途中で、この砂浜に2000人分のテントが張れるか?
などと言う面積問題も出て確かにむつかしそうだったのだが、この年の夏雨が少なくて琵琶湖の水位が下がり、当日は砂浜がちょうどこの倍ぐらいに広がったのである。ヨコの知内川も水が少なくなって、魚のつかみ取り大会をやったら大きな魚がいっぱい獲れたりしたのである。さらに夜はマキノ町の花火大会と重なって、まるでカワサキが花火を打ち上げたような状況にもなったのである。
いろいろと大変だったのだが、運もよかったのである。
いずれにしても想い出に残る大成功のイベントだった。
カワ販の従業員諸君も本当によくやったと思うし、それ以上に特約店各位の協力・協働がそのベースにあったのである。2000名の前売り券を販売するのは、この年ではバイクを売るよりもムツカシカッタと言えたかも知れないのだが、これなども特約店が大いに協力してくれたのである。
私自身が大会会長として陣頭指揮をとったが、それを援けてくれたのは、平井稔男・鍋島英雄・藤田孝明それに関初太郎・吉田純一さんなど当時の若手諸君と、大阪・兵庫・名古屋の特約店も殆どの店が協力してくれた大成功のイベントだったのである。
この年の大きな出来事を上げるなら『特約店制の実質スタート』と『Z2の発売』であり、そしてもう一つが『このマキノ町のジャンボリー』 だったかも知れない。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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