雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

灘の酔心館で

2017-03-31 07:15:46 | カワサキワールド

★昨日は 『灘の酔心館』 http://www.shushinkan.co.jp/  で昼から気心の合う仲間が集まっての会合でした。

 

 最近は、自分より年上の方との会合などめったにないのですが、

 このメンバーは、桑畑さん・柏木さん・川崎さんと3人もの先輩がいるのです。

 今回は、田崎さんの全快祝いで 田崎雅元さんを誘って、北村・野田・井川さんなど8人での会合でした。

 

   12時に六甲道駅に集まって、それから『酔心館』に、その様子を2分に纏めています。

 まあ、You Tube ぜひご覧ください。

 田崎さん、去年まで4年間も臥せていた人とは、絶対に思えない回復ぶりです。

   柏木さん、独特の話しぶりも、昔のままです。

 

     https://www.youtube.com/watch?v=qth74Z3tbeg

   

 

 

 動画の中は、田崎さんと『柏っしゃん』お二人の独特の会話なのですが、

 その前には、私も結構喋らせて、頂きました。 気の合った仲間たちの昔話は、また格別です。

 昔の、単車と発動機の話、その他いろいろ、あっという間の2時間でした。

 

 

      

 

      単車の創世期をそれぞれ支えたメンバーです。

 

      酔心館の枝垂れ桜が見事でした。

 

      

 

 

      

 

 

      桑畑さん・柏木さん・田崎さん みなさんお元気で何よりです。

 

      

 

 

     

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AJ東京の通常総会 と モーターサイクルショー

2017-03-30 16:59:27 | 発想$感想

★ 『二輪車新聞が送られてきました。

  野間さん頑張って下さい。

     Facebookのトモダチも、昔の仲間もいっぱいです。』

     とFacebook にアップしたら、     https://www.facebook.com/rfuruya1

      吉田純一さんや、AJの方たちから、こんな写真とコメントを頂きました。

 

   

 

 

    

 

      これは多分、AJ東京の通常総会の写真だと思います。

     野間さん、頑張って下さい。

     ナベさんも。

 

     

 

        こちらはモーターサイクルショーの会場からですが・・・

 

      

 

       吉田純ちゃんが送ってくれました。

       なかなかのツーショットです。

 

      

 

       みなさん、小池百合子知事さんとも、ずっと以前からのお付き合いのようで・・・

 

      

 

 

  ★ 二輪業界というか、我々の時代には、こんなに政治家のみなさんとは昵懇ではなかったのですが、

 昨今の、二輪販売店協会の皆さんは素晴らしい繋がりだと思います。

 前吉田純一会長のお人柄と、長年の努力の積み上げの賜物だと思います。

 

 スタートの頃のこと、いろいろ思いだします。

 積み上げていく、継続の力は素晴らしいと思います。

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孫 古谷仁がやってきた

2017-03-30 06:41:02 | 発想$感想

 

★ 慶応大学を5年掛かって卒業した 孫 古谷仁 が突然三木にやってきた。

 

   

 

  真ん中におられるのが、石川初先生で、そのゼミの纏めを2年間掛かってやっていたようで、この1年は『世界中を飛び回っていた』ようである。

 

 

   

 

  わざわざ、私にも送ってくれたのだが、「なかなかよく纏めている」と思ったのだが、『優秀賞』を頂いたとか。

 それはそれでよかったのだが、卒業をしたのに就職もしないので『どうするのかな』と聞いてみたくて『一度、三木に来い』と言ったら、昨日突然やってきて、今朝またすぐ京都に行くとかで、帰ってしまったのだが、

聞いてみると 研究室に残って『石川初先生が手掛けておられるプロジェクト』のお手伝いみたいなことをやるそうである。

その合間に『ストリート・ダンス』を極めるのか、ダンスの合間に『石川先生を手伝うのか』その辺ははっきりしないのだが、いずれにしても、『大会社への就職』などは、まるっきり頭にないようなのである。

 

                 

 

                検索するとこんな画面が現れる。

 

      

 

 昨日の4時前にやってきて、伊丹空港まで迎えに行ったのだが、今朝三宮から京都に行くと、8時前のバスで行ってしまったのである。

京都では『石川初先生とそのゼミの人たち』と一緒に、京都の庭園を観に行くのだとか・・・ 

大阪から座れました。また、ゆっくり三木に来ます』 と京都への車中から、メッセージが届いたりした。

 

   その1日を1分の動画に纏めている。

https://www.youtube.com/watch?v=F9-4MS9h7yU

  

 

★ 昨夜は、サッカーのWBCの対タイの試合などもあったのだが、孫には Instagram への写真の取り込み方や、それをパソコンで見る方法 https://www.instagram.com/?hl=ja などを教えて貰ったりしたのである。

なんだ、そんなことも解らぬのか?』と思われるかも知れぬが、私のパソコンの技術的知識はそのレベルで、いろいろやっているのは、『同じことの繰り返しだからできる』だけなのである。

リンクの仕方も、写真の取り組み方も、教えてくれたのは「古谷仁」だし、動画への編集などは「門野力也」などいずれも孫たちが先生なのである。

電話は通じない『スマホの残骸』みたいなのを持っていて、これを使えるようにしてくれたのは「門野力也」なのだが、Instagram は中にあるのだが、『写真の取り込み方』が解らなかったのである。

 

 それは、『何とか出来る』ようになって、『また一歩前進』 なのである。

 

    

 

   これは二つとも、昨日取り込めた、写真なのだが、忘れぬうちに新しく自分でやってみる必要があるのと思っている。

 

   

 

 

★そんなレベルなのだが、孫曰く『私のFacebook の記事などは、孫の友達の間で、結構高い評価で、しょっちゅう話題に上がる』そうなのである。

 そういえば、何人かの方たちから『トモダチ申請』も頂いたりしているのである。

 昨日、孫が言っていた『石川初先生のプロジェクト』は、結構面白そうなので、その『情報発信』などなら、お手伝いも、出来るのかな?

 と思ったりしている。

 https://www.facebook.com/jin.furuya.9?fref=ts

 

  果たして、来年の今頃は、どんなことになっているのだろうか?

 

 

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カワサキの二輪事業と私 その46 昭和50年(1975)

2017-03-29 08:13:40 | 自分史

 ★ 昭和50年(1975)と言えば新幹線が博多まで開通通したり、布施明の『シクラメンのかおり』が流行ったりした年なのだが、カワサキの二輪事業にとっても、私自身も『転換期』と言っていいそんな年だったのである。

 

オイルショックの影響などもあって、それまで事業を引っ張ってきたアメリカ市場に陰りが見え始め、明石工場では「生産調整」などが行われたりしたのである。

この年の6月には、発動機主体の谷岡―今井体制から二輪主体の塚本本部長ー青野副本部長体制となり、当時の吉田俊夫専務が直接二輪事業を担当されて長期計画の策定を試みられるなど、川重本社も二輪事業に大きな関心を持って二輪事業を総合的に見直そうという機運が生まれていたそんな時期だった。

 川重本社財務本部から堀川運平さんが単車の企画室長に赴任され、それまでの浜脇洋二さんのアメリカのKMC主体の二輪事業運営から、ヨーロッパ市場や東南アジア市場への進出など世界展開の動きが始まっていたのである。

 

        

 

 

アメリカではリンカーン工場が稼働して二輪車と共にジェットスキーの生産を開始し、ヨーロッパでは英国に続いてドイツにも新しく現地販売会社を設立したのである。

その他オーストラリアにも販売会社の設立、イランでのノックダウン生産開始など、事業の幅も広がり世界規模での展開となるのである。

レースの世界でも、フランス・ルマン24時間耐久レースにZ1000が1位から3位まで独占するなど表面的には非常に派手に動いているのだが、肝心の事業の中枢のアメリカ市場が勢いを失いかけていて、その舵取りはなかなか難しかったのである

そんな複雑でムツカシイ時期に、私は川崎重工業の発動機事業本部への復帰ということになり10月1日付で事業部の企画室の課長として事業部に戻ったのである。

 

★ 事業本部への異動は、この年の9月28日に、カワ販の田中社長から直接、突然に言われたのだが、あとでいろいろ聞いてみるといろいろあったようで、結果的に単車の企画室に戻れたのは誠に幸運だったと言っていいのである。最初は当時スタートしたばかりの本社の中国営業部門への異動だったようで、それは私は大学で『必ず優をくれる中国語の先生』の中国語をとっていたので、『中国語が喋れる』とめっこを入れられたようである。

殆ど決まっていたのを堀川企画室長と企画部長の高橋宏さんとで本社人事に交渉して「取り戻して頂いた」ようなのである。

10月初めに本社に挨拶に行った時、山田熙明常務から『古谷くん、今回は大変だな』と声を掛けられて『単車の企画に戻りました』と言ったら、『そうか、それはよかったな』と仰ったのである。それで、高橋宏部長に聞いてみるとこんなことだったようである。

人間、不思議なもので『まさに幸運だったな』と思っている。若しその時本社に動いていたりしたら、中国語など喋れるわけもないので大変だったのである。

 

★そんなことで動いた企画部門なのだが、そこには課長クラスとして、アメリカに行ってた田崎雅元さんがカワ販にいた岩崎茂樹くんとのコンビで、アメリカを担当していたし、ヨーロッパのドイツの販社に行く予定でアメリカから戻ってきていた種子島経さんもいたのである。

私は事業計画や長期計画などを武本一郎・森田進・今城公徳くんなど優秀な部下のいるグループの長として、本社関連などを含めて担当することになるのである。

ちょっと別の角度からこの時代のカワサキの二輪事業を見ると、不思議なほど東大出が多くて会議などでは、『東大出』が一番多かったりするのである。塚本本部長・青野副本部長・堀川企画室長・堀江安全運転本部長・浜脇KMC社長・矢野営業部長とみんな東大出だし、企画の武本一郎くんも種子島経くんも東大出身なのである。過去10年間国内で中学卒の人たちとも一緒に仕事をしていた私にとっては、非常に違った環境だったのだが、二輪事業はひょっとしたら、そんな学歴は不要なのかも知れないと思ったりもした。

 

10月に赴任して、すぐに吉田専務から直接指示があったのが『発本戦略』なる長期計画策定だったのである。

吉田俊夫専務は、非常に厳しくて『怖い』ということだったのだが、二輪事業が気に入っておられて、しょっちゅう明石に来られていたのである。

特に生産構造計画をベースに小型車を低コストで生産しようという『小型車プロジェクト』を生産管理部長の田中さんと進めておられたのだが、それをベースに『発本戦略』を創れというご指示なのである。

このプロジェクトは50万台を効率的に『安く』造るという生産構造的な発想なのだが、『どのように売る』のかが抜け落ちていて、その纏め方はなかなかムツカシイのである。

吉田専務の仰る『小型車で数を売る』というコンセプトで、明石工場に大規模な設備投資をしてというのは少々危険なので、投資は最小限で『数は期待できる』開発途上国でのCKD事業の方向に纏める方向とし、吉田専務ご指示の12月末までに纏め上げたのである。

 

 ★今までの10年間は、どちらかと言えば、国内の販売会社から観た『カワサキの二輪事業』だったのだが、昭和50年度(1975)以降は、川崎重工業の二輪事業部という立場からの私が経験した『カワサキの二輪事業と私』なのである。

この昭和50年代の10年間は、カワサキの二輪事業にとっても日本の二輪車産業にとっても大変な変動の時期だったのである。

 

     

 

日本の二輪産業について、非常に詳しく記述された http://www.geocities.jp/croutonv/  こんな考察があるのだがオイルショック以降(1975年頃-1999 年)についてこのように記述されている。 

抜粋してご紹介するとこんな激動の時代だったのである。

 

高度経済成長によって人々は豊かになり、運転免許保有者数は・・約3,350万人へと約12倍に増加しました。・・交通事故による死者も徐々に増加し、1970年には年間16,000人を越え、戦後最悪となり、「交通戦争」という言葉さえ生まれました。二輪車の保有台数も1960年には約300万台だったものが1975年には約880万台へ、約三倍に増えています。

販売競争の激化1981年から1983年にかけて二輪車生産台数は急激な伸びを示してました。巷間、この競争はホンダとヤマハ間の競争ということで「HY戦争」と呼ばれています。「HY戦争」のきっかけは、1950年代から順調に生産を拡大していたヤマハが1970年代後半に国内市場シェアでホンダに数%のところまで近づいたことにあります。・・・この競争により一時的に国内販売台数は大きく伸びましたが、大量の過剰在庫を抱えるという形になってしまい、「HY戦争」終結後も数年間にわたって二輪車産業全体を苦しめることになります。

海外生産の拡大> ・・日本の二輪車メーカーの技術力が世界的水準に達するのが四輪車に比べると早かったとも言えるでしょう。・・・コスト面を考えると、できるだけ市場に近い場所で生産することが有利であり、本格的に欧米に進出するのも四輪車に比べると早かったのです。 

アメリカ政府による輸入規制> ・・・1983年にアメリカ政府のITCによって、700cc以上の輸入二輪車に課す関税の増額が決定されたことではないでしょうか。・・・当時、日本製の大型二輪車がアメリカ市場を席巻し、アメリカ唯一の量産二輪車メーカーであったハーレーダビッドソン社を窮地に追い込んでいました。ハーレーダビッドソン社は、日本のメーカーを相手取って反ダンピング訴訟を起こしており、アメリカ政府に上記内容の規制を働きかけたのです。

750ccを超える大型二輪車の販売自粛 と 最高出力の自主規制
  前述の750ccを超える大型二輪車の販売自粛と同様に、高性能化による事故増加の懸念から、国内販売される二輪車に対しては最高出力の自主規制がおこなわれました。

  

 10年振りに明石工場に戻って、それも『企画室企画部』という事業の中枢部門に戻ったのだが、これからの10年間は私自身が、上記の激動の波の真っただ中に置かれてしまうのである。 国内の『HY戦争』は、アメリカにも飛び火してとばっちりを受けたし、『ハーレーダンピング』は、カワサキの国内販売会社機構そのものを揺るがすことになるのである。

 そんな激動の時代を『大変だ』と思うか『オモシロい』と思うかは考え方次第だが、『オモシロい』と思って、これら問題を田崎雅元さんとのコンビで対処していくことになるのである。

このような対応が出来たのもカワ販への10年間の出向経験が生きたし、同時にこれから起こる10年間の新たな経験もまた貴重だったのである。

 

 ★国内の販社に出向中は、どちらかというとレース関係や、営業第1線だったので、資料作成よりは「現場での実行」が中心だったのだが、私自身は資料作成や計画立案はそんなに不得意な分野ではなくて、むしろ「得意分野」とも言えるのである。

企画室に戻ってみると、計画や書類作成の機会がめちゃめちゃ多かったのだが、殆どの資料の基本的な骨格は私自身が作ったものである。当時は、未だパソコンなどはない『手書き』の時代なのだが、この昭和50年10月以来の『自分で書いた資料』を纏めたものがこんなファイルで今でも残っているのである。

 このファイルが、50年10月から、53年までの約3年間の資料なのである。

 

  

 

カワサキの二輪事業と私』も昭和50年9月までのカワ販時代は、残念ながらそのような資料はないのだが、この年から現役引退までの1998年までは、すべての自分が作った資料は手元に残っているのである。

 1975年から始まって1998年の現役最後の年までの約30年間がここにある

 

 

 

これから先の『カワサキの二輪事業と私』はこれらの資料に基づいての記述になるので、ご期待頂きたいと思っている。

  

    

 

  

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 

★ https://www.facebook.com/1126074024157186/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

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春はすぐそこ

2017-03-28 06:49:58 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★3月ももう末に近く、桜の咲いたところもあるようだが、この辺りはまだ蕾である。

 

 いつの間にか 馬酔木が こんなに花をつけていた。

 

  

 

 ボケの花ももう少しである。

 

  

 

 

  兵庫県三木は、神戸や明石の海沿いよりはちょっと花の便りも遅れるのだが、春は待ち遠しい感じである。

  多分、もう1週間もすれば、すっかり雰囲気も変わるのだろうと期待している、この1週間である。

 

 

  そんな中で、毎日様子が変わるのが ばらの新芽、 いまはこんな状態である。

 

  

 

 

  ばらは、勿論花は綺麗なのだが、 新芽の葉もまたいいなといつも思っている。

 

  

 

  あかい葉もいいし、緑も美しい。

 

   

 

    つるバラは、その蔓を延ばし始めた。

 

    京鹿の子 の葉も美しい。

 

 

      

 

    

       『ぎぼうし』も 芽を覗かせている。

   

       

       

 

    春は、もうそこまで来ている。

 

   そんな庭の花々だが、今年一番の関心事は、昨年秋に植えた『ぶどう』 である。

   昨秋、枝は伸びてここまで大きくなったが。

   その芽は少し膨らんだが、まだ動いていない。

 

 

     

 

   果たして、どんなことになるのか?

   今年に実が成ったりするのか?

   早く、芽を出しその新葉を見てみたいと思っている。

 

   みかんもまだ動かないし、さくらんぼも、冬のたたずまいである。

  

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早実の清宮幸太郎  雑感

2017-03-26 09:12:59 | 発想$感想

★甲子園春の大会、早実の清宮幸太郎が人気である。

 

    

 

 先日、延長戦で1回戦を突破したから、2回戦以降が楽しみである。

 

つい先日、BSテレビで、その清宮幸太郎のお父さんの清宮克幸さんと松岡修造さんの対談をやっていた。

途中からで、すべてを見たわけではないのだが、清宮克幸さんはラグービーの世界では有名人である。

選手としても活躍したし、監督もいろいろと務めて今は強豪ヤマハの監督をおやりになっている。

 

   

 

 話は、そんなラグビーの有名人だったのに、息子さんになぜ『ラグビーをやらさなかったのか?』というようなテーマだったと思う。

そのあたりから、テレビを見ていたのだが、清宮克幸さんが言われてたのは、日本に於ける野球の広がりとラグビーのそれとは全然違っていて、それを切実に感じていたことなどを言われていたが、息子の幸太郎くんは、自然にコドモの頃に少年野球の世界に入っていったようである。

そんな経緯も語られていたが、清宮克幸さんのこんな言葉が非常に印象に残ったのである。

ラグビーなら兎も角、野球については自分はよく解らない。ただ、スポーツなので、こうやればいいのではということは感じる。

そんなことを息子と一緒に話し合いながら、清宮幸太郎は成長していった

というようなクダリがあった。

 

   

 

それに対して、松岡修造さんがすかさず、多分子どもさんがテニスをされてるのだと思う。

そうなんです。テニスなら、悪いところばかりが目について、なんだそれはと直ぐ文句ばかりになってしまう。』

と言われていたが、子供の頃の成長は自由な雰囲気のほうが、上から細かいことを言うよりもいいのかも知れないと思ったのである。

 

★なぜ、それを感じたというとレベルは違うが、私は野球をやっていた。

息子が小学生の3年生の頃、野球もやってたし、サッカーもやっていたが、何となくサッカーを選びサッカーに没頭していった

それからあとは清宮克幸さんが言われるように、サッカーの世界での相談相手のような形での提案などもよくしたが、それはあくまでも提案でそれを強制できるような知識もなかったのである

自由にサッカーが楽しめたからか、結構なレベルまで、伸びていったのかも知れない。

若し、野球をやっていたら、『微に入り細に亘っていろいろと厳しく言っただろう』ことは間違いないだろう。

 

孫が4人いる。みんな一応はサッカーを選んだ。

息子のほうの孫は、サッカーなのでいろいろ具体的に言われたみたいで、ひょとしたら『ちょっと萎縮した』のかも知れない。

娘のほうの孫たちは、娘婿も娘もバスケットをやっていたのだが、何故かみんなサッカーを選んだので、やはり同じように応援も助言もするのだが、サッカーの技術的なことを教えたりすることはできないのである。

こちらの方はアメリカ流の育て方もよかったのか、実現はムツカシイとは思うが、プロを目指すと頑張っている。

息子は、娘のほうの孫たちがサッカーなので、結構詳しく細部に亘って助言したりするのだが、そこは自分のコドモではないので『文句ばかり』にはならないようで、結構伯父さんの助言は役に立っているようだ。

一方息子のほうの孫は、高校まではサッカーをしていたが、大学に入ってからは、ストリート・ダンスの分野にはまってしまって、これはよく分らぬが結構なレベルにあるようなのである。

 

★スポーツの世界で、親子に二代に亘っての有名選手もいるのだろうが、何となく子供の頃から自由に育つ方が、ひょっとしたら「伸びるのかな」と清宮克幸さんの話を聞きながら思ったのである。

今日の2試合目に早実はでる。 清宮幸太郎くん、頑張って欲しい。

 

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カワサキの昔話と田崎さん

2017-03-26 07:07:19 | カワサキワールド

★このブログを書きだしたのは、2006年の9月だが、このブログ『元カワサキGPレース監督 ケン・鈴木さんのことなど・・・』は、2011年のことで

   

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7237f568dd53b8f8aabf8159181f861a

 

 昨日の『カワサキに二輪事業と私』の中に紹介しているのだが、多分リンクを開かれた方は少ないと思うので、改めてリンクしているのである。

カワサキがヨーロッパで世界GPで活躍したころの『ケン・鈴木』さんの話や、ホンダのレースの関係してた渡辺さんの話など、いろいろ出てくる。

田崎雅元さんの話も出てくる

 

 

★ このブログアップしようと思ったのは。今朝田崎さんからこんなメールを貰ったからである。

 古谷さん

明石工場で、貴方のブログを読んでいる人が大勢いるようで、明石工場勤務の息子がいろいろの人から「お父さん、元気になったようで良かったね」と声をかけられるようです。

相信会の動画を見たのでしょう。 ブログの威力ですね。

 

確かに、私のブログには毎日1000人近い方が訪れて、3000ページほどご覧になるのだが、カワサキのことも多いのでカワサキの現役の方も、多くご覧になっているようだ。

ずっと昔は、気楽に書いていたのだが沢山の方がご覧になるようになったので、最近は内容に間違いがないように、よく調べながら書いている。

 

 

このブログは、2010年末だが、

 

    

 

   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/ae13483f5c6d8bd0250bb4dacbae65c1

   コレ、田崎さんです。 当時わざわざ私に送ってくれたのです。

 

 

★この翌年2011年3月4日、明石で『カワサキの想い出そして未来』という会合を平井稔男さんが主宰してNPO The Good Times が応援した。

東日本大震災の数日前のことだが、高橋鐵郎さんも、金谷秀夫も元気だった。

その『幕開けのご挨拶』を田崎さんがやってくれた。

それを最後に、田崎さん、ちょっと具合が悪かったのだが、今年になって突如元気におなりになったのである。

 

その当時のことが、いっぱいである。

ご関心のある方は、是非リンクを開いてみて欲しい。

カワサキの昔話がいっぱい載っている

 

 

  

 

  この写真、その『カワサキの想い出、そして未来』の時の写真で、私のFacebook に使っている。

私の周りに並んでいる人たち、みんな日本を代表するレース界の人たちだが、

右からホンダの渡辺さん、BSの田中さん、スズキと本田にいた吉村さん、私の左はカワサキとスズキにいた木村夏也さんそして星野一義、金谷秀夫、私は金谷はカワサキのライダーだと思っているのだが、世の中ではヤマハ。

いずれにしても全メーカーの人たちと並んでいるのがいい

昨今は、各メーカーとも、カワサキだ、ホンダだとかこだわり過ぎる。もっと二輪業界の広いお付き合いが欲しいものである。

そういう意味では、いい会合だったと思っている。

その時初めて『ケン・鈴木ご夫妻』ともお会いしたのである。

 

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カワサキの二輪事業と私 その45 昭和49年(1974)

2017-03-25 06:13:24 | 自分史

★昭和49年(1974)私は42歳、3っ年下の長嶋茂雄さんが巨人軍を引退した年である。

未だオイルショックの影響で世界の景気はもう一つだったのだが、カワサキはZ1が世界的に好調で、単車事業本部の業容も急激に拡大して川崎重工業の中でも当時の造船と肩を並べるほどになりこの年の1月には発動機と単車が合併した発動機事業部となるのだが、その主力は単車となっていたのである。

元々川崎航空機時代は発動機のエンジンとジェットエンジンの二つの部門があり、二輪車のエンジンは数多くあるエンジンのほんの一部だったのだが、昭和36年(1961)に明石工場の中で一貫生産がスタートして発動機営業部の中に単車課が出来た時点から私は二輪事業に参画することになったのだが、その後、紆余曲折はあったものの、単車事業として独立しさらに発展して、拡大の一途をたどり特にZの生産・販売が始まってからは急激に伸長して、明石工場の生産体制も発動機よりも単車が大きくなるような経営環境となっていたのである。

この年からは川崎重工業の本社部門の中にも「単車委員会」が組織され二輪事業についての勉強会のような形で当時の本社若手理事だった大西・三宅さん(後お二人とも川重副社長)などのメンバーでスタートし、私などもカワ販企画部長の立場で参画していたのである。

一方明石工場の生産サイドでは、昭和55年までに100ccの小型車を中心に120万台生産構造を目指す『Cプロジェクト』などもスタートするなど、川重本社でも、明石の工場でも、大きな動きがスタートしたそんな年度だったのである。

 

★一方、市場開拓では、2月には英国に販売会社KMUKを、7月にはカナダにCKMを設立したり、フィリッピンのDELSA社の資本参加するなど、いよいよ世界展開が始まった年である。

 

      

 

これら販社の設立に直接関わって、KMUK初代社長になったのはメグロ出身で、カワサキオートバイ販売にいて、北陸や岡山の所長を歴任した『内田道男』さんである。

内田道男さんとはいろいろ国内でも関係があって、『カワサキが初めて鈴鹿を走った日http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8356d318b5dc414c15dd1b7488a09f63 のことはこんな旧いブログにも書いているのだが、この時のライダーがモトクロスの山本隆くんなのだが、もう一人北陸からロードレースを既にやってた塩本くんを乗せたのである。その塩本君を出してくれたのが『内田道男』さんで当時からレース大好きだったのである。

カワサキの初めてのロードレースは『ヤマ3 シオ8 セイコウカワ』と現地の川合さんから私宅に電報が届いて、山本3位、塩本8位の大成功の結果から、カワサキはロードレースの世界に本格的に入っていくのである。

このレースのマシン制作を手伝ってくれたのが田崎雅元さん、塩本を出してくれたのが内田道男さん、会社にこっそりとロードレースに参加させたのはで、その後もいろいろとカワサキの二輪事業の中枢で動く機会も多かったのだが『内田道男』さんは、当時販売の現場第1線をホントに経験した人は川崎重工には居なかったので彼はカワ販から川重に移籍して、このKMUK の設立からいろいろと活動したのである。

 

      

        Mr. Michio Uchida, managing director of Kawasaki Motors UK Ltd.

彼はその後もドイツの販社の設立やヨーロッパ市場の開拓に貢献したのだが、

ずっとのちヨーロッパのGPでカワサキがKR250/350で大活躍した時代にはそのヨーロッパのレース運営の本部はUKで『ケン鈴木さん』なども有名だが、その中心にいたのである。 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7237f568dd53b8f8aabf8159181f861a  こんなブログもアップしている。

そんな内田道男さんだったが、早く逝ってしまわれたのである。

 

★この年カワサキの二輪事業の最大の話題と言えば何と言っても、アメリカネブラスカ州のリンカーンに、自動車・二輪車業界初の米国現地生産工場をスタートさせたことだろう。

その規模は400,000㎡の広大な土地に、6000㎡の建屋でスタートしているのである。

 

  

 

   これは Google Map からの写真で、40年以上経った今は、こんな状態になっている。

 

    

 

     

      

  二輪車の生産から、ジェットスキーも、多分今は4輪バギー車の生産などもやっているのではなかろうか。

 

      

★私自身は、前年から本社管理部長としてカワ販本社に異動し、この年6月からは職制変更もあって企画部長として国内グループ全体の方向立案なども担当しているのだが、第1線の特約店制度推進の対応が大きな分野で、この年には九州・広島・岡山・北陸地域の特約店制度が実現し、最大の市場の関東圏対策としては神奈川県の検討をスタートさせているのである。

社内にはA・B・C の3つのプロジェクトがあって、

Aプロジェクト は首都圏対策で東京を中心とする首都圏という地域を一括に考える市場対策、

Bプロジェクト は明石の部品倉庫からの現地への宅急便による「直送システム」で、今では一般化している配送システムだが当時はカワサキ独自のシステムだった。

Cプロジェクトは、安全運転対策なのである。

当時急激な中大型スポーツ車ブームで、急激にユーザーも増えたのだが、同時に各地に『暴走族』が出現して、二輪業界も大変だったのである。中大型分野ではカワサキの比重も高く、事実『暴走族』にカワサキは大人気で、業界各社から『暴走族対策はカワサキさんですね』などと言われたりしていたのである。

特に『安全運転プロジェクト』は開発・生産が主力の明石の事業本部内には、全くそのような『意識さえ存在していない状況』からの対策だったのである。

開発・生産というハード主体の明石工場の中で、このような『ソフト対策』を講じるためには、理解協力者が必要で、この年の1月、カワ販からの出向を終えて事業部の技術部長に復帰されていた高橋鐵郎さんに安全問題の必要性を話し了解を頂いたのが、10月11日だった。

高橋さんの了解を得た上でご一緒に、谷岡事業本部長・今井副本部長にその基本理念と必要性を答申したのだが、不思議なほどスムースに承認を頂き、11月1日付で事業本部内に『安全運転推進本部』がスタートし堀江本部長でスタートすることになるのである。

11月1日には、カワ販内にも『安全運転部門』をスタートさせたのだが、そのソフト分野は東京にいた秋元さんが二輪業界でもトップレベルの見識を持っていて、それは業界でも認めて頂いていたのだが、カワサキの安全運転=秋元さん以外には何もない、全く白紙の状態からのスタートだったのである。

その具体的な展開のために、安全運転担当に推薦し抜擢したのは、当時大阪母店長だった平井稔男さんなのである。部下が何十人もいる大阪母店長から部下など殆どいない安全運転の分野を平井さんは担当してくれて、平井さんだからこそカワサキの安全運転体制は急速に充実していったのである。

その後カワサキの安全運転本部体制は堀江さんのあとの前田安全運転本部長時代に正門ヨコに安全運転コースが完成し、さらに私が引き継いで二輪専門の自動車学校にまでになったのだが、今はそれも無くなってしまっているのは少々寂しい限りなのである。

二輪車は社会の中を走り回る商品なのだから、それを開発・生産・販売するメーカーは、社会との共存があって初めて本物だと思っている。特に二輪業界をリードされた本田宗一郎さんの安全運転に懸ける想いは格別で、ホンダさんの安全運転に対する基本理念とその実践は素晴らしいと思っているのである。

 

★国内の販売会社カワサキオートバイ販売は、元メイハツを引き継いでカワサキ自動車販売と称していたのだが、岩城良三常務が社長を兼務されて、カワサキオートバイ販売と改称し当時の川崎航空機から多くの若手が出向していたのだが、この年にまでには高橋鐵郎さんも北村敏・岩崎茂樹・野田浩志・井川清次さんなどが次々に川重事業部に復帰していったのである。

これは事業本部自体が大きくなって、多くの人材が必要だったこともあるのだろうが、カワサキオートバイ販売自体は、昭和41年度に初めて定期採用者の採用を開始し、特に昭和42年度は大量の採用者がいて、この人たちが会社を支える中枢の存在に育ってきたこともあったのである。

現在も色濃くお付き合いのある渡部達也くんはその第1期生だし吉田純一・関初太郎・柏原久くんなどはその2期生なのである。

この年私が企画部担当だったが、そこにいたメンバーの中枢富永君は第1期生で後アメリカのKMC再建にも川重に逆出向して活躍したし、特約店制度の実施で現実に動いてくれた古石君は2期生だったのである。

この国内販社での営業部門の採用方針は、それなりに長所もいろいろあったとは思うのだが、日本流の親会社・子会社方式で、子会社の人は親会社の上層部になりにくい仕組みの中では、なかなかカワサキの中にマーケッテングが解る上層部が育ち難い欠点にもなっている。

当時のように、川重からカワ販に出向して若い時代に第1線のマーケットでの貴重な経験をすることができた人たちがいなくなってしまって、今は机の上でしか考えられないところに問題があるように思っている。ずっとのちカワ販が危機的な時期が続いて定期採用者をずっと中断していた時期があったのだが、それを再開しようかとの検討があった時期に定期採用1期生・2期生の人たちから『カワ販の採用復活』は止めて、『川重籍での採用にすべし』という意見もあったのだが、その時点では『定期採用の再開』の方向に動いたのだが、これは私自身の反省にもなっているのである。

この時期に、カワ販に出向していた人たちは、殆ど事業部のほうに戻ってしまって、かくいう私自身も翌年10月には事業部企画に復職することになるのである。

ただ私の場合は、国内市場とご縁があって、この後、2度の国内販社への出向があったのである。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 

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籠池さんの国会証人  雑感

2017-03-24 07:31:42 | 私の生き方、考え方&意見

★昨日は、ホントに終日テレビの前にいた

 籠池康典さんの国会証人の様子は、午前も午後もきっちり見たし、WBCの決勝戦もオモシロかった。

 

森友学園問題』 籠池さんの国会証人の実況は、本当に迫力があった

この論評は、マスコミも与党も野党も、それぞれの立場でいろいろ論評するのだろうが、第三者的に、ホントに正直に私見を無責任に言ってみたい

 

 

      

 

● 国会証人に過去出席した方は、緊張で署名もなかなかできなかった、そんな状景が見られる中で、籠池さん堂々として、時には議員さんに反論などする場面まであって、それをまずびっくりした。 普通の人はなかなかこうはならない。オドオド感が一切なかったのは立派だった。

いい悪いは別にして、これは普通の人にはできないことで、個人的にはずっとそう思っているのだが、『籠池さん、頑張れ』 と応援したいそんな心情なのである。

 

● 午前に2時間、午後2時間、4時間に亘って、与党と野党などいろんな方が、いろんな質問がなされたが、与党は安倍さんを守ろうとするスタンスだし、野党は政府を攻撃できる言質を取りたいと、はっきりと質問の仕方が分かれている

それに対して、籠池さんはいろいろ答えたが、『ウソは言っていない』『真実に極めて近いだろう』というのが私の感想である。

特に、安倍さんからの100万円問題については、今更安倍さん側は「渡した」とは言えないのだろうが、籠池さんの話は細部に亘っていて、これはこちらの方が本当だろうと思っている。

 

 

    

 

  いろんな議員さんが、質問にたったが、自民党は西田議員民社党は枝村議員の質問は、立場は正反対だったのだが、際立って鋭かったなと思った。

  国会議員さんのレベルは、先日の東京都の百条委員会での東京都議会議員とはやはり違うなと思った。

 

● 隣の土地の公園が14億円なのに、なぜ隣の『森友学園』の土地が1億円そこそこなのか? なぜ8億円もの値引きがされたのか?という問題については、自民党議員から3っの国有地の払い下げ価格の例を挙げて、隣の公園は表面14億円だが補助金の支援があって豊中市が実質支払った金額は2000万円だから、この『森友学園』の1億円は決して安くはないのだとパネルを使っての説明まであったのだが、民放各社はそれでは『自らの思いに反する』とでも思うのか、一切報道はしないのである

私は類推するに、隣の土地を実質2000万円で払い下げしているのに、安倍総理夫人が名誉校長をしている森友学園に10億円近い価格で販売するのは?と官僚たちが勝手に忖度して、ごみも出てきたのを理由に8億円の値引きをしたのだろうと思っている。

 

★そういう意味では、籠池さんは、ある意味『被害者』で今回『トカゲのしっぽ切り』にされるのは気の毒だなと思っている。

明日はまた『集中審議』で、官僚が二人参考人で出廷するようだし、安倍さんも出席されるようだから、また新しい事態になるのかも知れぬが、今回これくらい問題になれば、官僚たちの忖度も、国有地の払い下げも、自然に本来の形に戻るのではなかろうか?

それよりも、こんな国有地の払い下げ問題という官僚が起こした事件で、もしも安倍さんがおかしなことになるのは、日本として『大きな損失』だと思うので、この件は野党のツマラヌ思惑などに乗らずに、『いい加減に』終止符を打つべきだと思っている

 

今回、改めて感じたこと

 ● 官僚は賢くていろいろやるが、すぐバレル世の中になってきたので、『いい加減』にすればいい。

 ● マスコミは、勝手に自分の都合のいいようにしか報道しないように思った。

 ● 評論家という人種も、ピンキリで殆ど何の勉強もせずにその場限りのコメントをする輩も居て、そんな人は百害あって一利なしである。勿論、逆に立派な人もいる。

 ● 視聴者も客観的に、そんなことを自ら見極める目を持つことが必要だなと改めて思った。 トランプさんではないが『報道』にはウソが多い

 

終止符を打つ』とは言ったが、『あの建物どうするのか?』

籠池さん、どうなるのか?』などは気になるところだが、それぞれ反省する方も多いのだろうから、この程度で・・・というのが『ホンネ』である。

 

 それにしても、

 安倍さんご夫婦、今夜はどんな会話を交わされているのだろうか?

 盗聴器など、仕掛けられてはいないだろうが、いずれにしても「楽しい会話」にはなっていないはずである。

 安倍昭恵さん、いい方なのに 親切が今回は裏目に出てしまったなと思っている。

 

 

 

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 Good Times Plaza での グッドタイムなひと時

2017-03-23 07:24:27 | NPO The Good Times

★ 3月も彼岸も過ぎて、『暑さ寒さも彼岸まで』東京では桜が咲いたとか。  もう春もそこまで来ている。

 

一発勝負は、ホントにムツカシイ。

WBC 野球の最強国のアメリカとの準決勝、残念ながら2-1と敗退だが、小久保・侍ジャパンはよくやったと思う。

 アメリカの監督からも菅野に賛辞である。

 

  

 

 

    小久保監督、勝負の世界だから仕方がないが、素晴らしい監督だったと、私は思う。

 

 

    

 

   

 

 ★ そんな WBCの野球を観ていた半日だったが、

 

  午後からは、大槻幸雄さんと山本信行さんたちと Good Times Plaza で『バイクの世界の話』が楽しかった。

 

  そんな話の合間に、 登山道夫さんが こんな写真を持ち出してお二人にサインをお願いしたのである

 

    

 

 この写真、そのモノは1971年当時 Z1のアメリカでのテスト段階 の写真だそうである。

 まだ、マル秘段階なので、タンクマークの文字は HONDAと言うマークが貼られている。

 

   先日この当時のことを、当時の開発テストを担当していた 百合草三佐雄さんが、Facebook の私の問いかけに、このように応えてくれているのだが、

 

Misao Yurikusa
 
1971年はZ1のの開発でメーちゃん(山本さん)と一緒にアメリカでテストしたり、Z1が社運をかけた機種だけに設計の稲村さん、糠谷さん、富樫さんと清原さんも一緒に激論を交わしていました。
 
 
この写真の 後ろ向きの『黄色いつなぎ』 (なぜかつなぎには見えないが、クシタニ特製の皮つなぎ だそうである。)
 
そのつなぎの主が メーちゃんこと 山本信行 さんなのである。
この写真談義 だけでも結構長く続いた。
 
 
 
★こんな写真に、サインを頂いたのは まず カワサキのZ1の開発責任者 大槻幸雄さん

  Mr. Horse Power と呼ばれてるので、 HP Ohtuki  とある。

 
 
もう一つのバイクのように見えるのが、これがメーちゃんのサインで、『山本信行』と書かれているそうだが、
ちょっと読むのが大変なので、その横に 漢字で書いてもらったのである。
 
 
こんな貴重な写真の持ち主は、Zのことを語らせたら1日でも喋っている KAWASAKI Z1 FAN CLUB   http://z1fc.com/  の 事務局長、登山道夫さんである。
 
 
 
     
 
 
    
 
 
 
    発売45周年を迎えようとする カワサキZだが、三木の Good Times Plaza には、こんなZの真打たちも、
 
    その開発の 原点の 『大槻さんもメ―ちゃん』もやってくるなど  『世界のZのへそ』的存在になりつつある
 
    この お二人の『サイン入り写真』 もまた 登山さんの宝物になるだろう。
 
 
    野球は負けて残念だったが、 午後からの半日はなかなかの  Good Time な ひと時だったのである。
 
 
 
 
 
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森友学園の隣の公園の土地の価格は実質2000万円??

2017-03-22 07:17:23 | 発想$感想

★ 籠池さんの国会への証人喚問も明日になった。

果たして、どんな結果になるのだろうか?

この問題の本質は、行政というか、官僚というかそんな人たちの構造的な体質のほうに問題があって、ひょっとしたら籠池さんが値引を頼んだのではなくて、官僚が忖度して あのような値段にしたのかも知れない。

 

いろいろあったが、なぜ8億円もの値引きがあって1億円そこそこで土地が売り渡されたのかが問題になっているが、

すぐ横にある公園の土地の値段が、表面上は14億2300万円で売られたと言うのだが、こんな話がネットに載っている。

    

    

 

 この公園は、豊中市に売られているのだが、どうも裏で『補助金』などが動いて実質豊中市が、負担したのは『2000万円』だというのである。

 ホントかな?

 と思って調べてみたが、満更ウソでもなさそうである

 

Google で検索すると、こんなページが現れる。

 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E6%A3%AE%E5%8F%8B%E5%AD%A6%E5%9C%92%E3%81%AE%E9%9A%A3%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%9C%92%E3%81%AE%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E3%81%AF%E5%AE%9F%E8%B3%AA%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%90%E4%B8%87%E5%86%86%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B&*&spf=1

 

   その中にはこの問題をよく解っているのか、こんなブログもある。

 http://ameblo.jp/yarukiaruzou/entry-12255836448.html

 

    

 

  この話は国会でも取り上げられてるので、実質2000万円は、その通りだったのかと思う。

 

    

 

  こんなこともあったので、森友学園にも同じような実質価格に合すように、官僚たちが勝手に8億円を値引いたのではなかろうか?

  その学園の、名誉校長が総理夫人ともなれば、『忖度』するのは当然のような気もする

 

★『森友問題』で、国有地の売却問題が問題になったが、問題にした朝日新聞も国有地を安い値段で購入していると、どこかに書いてあった。

 世の中、いろいろあって、籠池さんが『トカゲのしっぽ切り』にならぬことを願うのだが・・・・

 

 

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100条委員会の質問を見て

2017-03-21 07:21:35 | 発想$感想

 

★豊洲問題について昨日は100条委員会石原さんの証人喚問があり、NHK以下マスコミは大きく報道していた。

 

   

 

 テレビで見ていたが、この問題がなぜこんなに大きく取り上げられるのか、解らなくなってしまったと言うのが偽らざる私の感想である

『百条委員会』と大々的に報道されたが、多分この調子では幾らやっても大した問題解決にはならないのではなかろうか?

 

 一言で言って、質問に登場する議員さんは、石原さんに質問するよりも、自分の姿をテレビに如何に長く、かっこよく映し出すことに熱心すぎるように思えて仕方がない。

何を聞きだしたいのか、石原さんの答えをどのように引き出せば、自分の質問が100点なのか? そのような戦略性のカケラも見られないのである

 

専門の記者諸君に,

仮に9分の質問時間を与えて質問させたら、多分記者諸君だったら、自らが書きたい記事に沿った短い質問を連発してその答えを繋いだら、当初自らが書こうとした記事に近いものを引き出せるのではないかと思うのである。質問時間9分のうち、7分ほどを質問者が喋っているのでは、何も聞きだせないのは当然なのである。

質問に応える石原さんの答えを『想定』してそれを繋いで自らの仮説に導くようにできるはずだが、あんな素人のような質問では何度「百条委員会」をやってみてもダメだなと思ってしまったのである。 

都議会の議員さんのレベルは、その程度のレベルなのかと思った。

 

 

★豊洲問題、いま3月だが、

7月の都議選の時にはどんな結論になっているのだろうか?

今年の年末には、どんなことになっているのだろうか?

 仮に年末に今のままでは、大変なはずである。

 

 仮に解決させるとして、

解決方法としてはどんなことが考えられるのだろうか?

 ● 現状の築地市場のまま、豊洲に移らずに このまま頑張る。

● 築地から、今のままの豊洲に移る。

● 築地にも、豊洲にもいかずに 新しい場所を考える。

● 豊洲に移るが、何らかの対策をする。

● 東京の市場を諦めて放棄する。

等々いろいろあるようで、あまり多くの選択肢などないのに、小池さんは本音でどう思っているのだろう。

いま、いろいろ言ってる評論家や、都議会議員は外から論評はするけれど自分で目指す方向を決める責任もないので気楽なことを言っているのである。

 

★「百条委員会」でどんな結論が出たら、それぞれの議員団は100点なのか?

 小池さんにとっては、『どんなことになったら』100点なのか?

 そんな目指す方向が解らないのである。

 既に知事を止めている石原さんに、仮にペケペケをつけてみても、それがどうなる話でもないし、都民にとって大きなプラスにもならないのである

都民ファースト』というけれど、この問題はどのように転がっても、『プラス・マイナス』の差は あまり大きくない ような気もするのである。

 

このようなときに、まず言われるのが『都民の税金の無駄遣い』だが、『百条委員会』にかかる経費は、1日でも結構な予算が掛かっているのだろう。

結論を遅らせれば遅らせるほど莫大な費用が発生する。

世の中の行政でも、大企業でも『最大のコスト=時間』だということを忘れてしまっている。

どんどん決めて、どんどん実行する』例えそれが『拙速』であっても、早く決めて『早く実行する』ことが一番効率的なのである。

 

だから私は、かっての武雄の樋渡市長や、橋下徹さんや安倍晋三さんは好きだし、同じような意味で『小池百合子』さんもいいなと思っていたのだが、

この豊洲問題』の対応は、小池百合子さん、結果的に対応を間違ったかも知れないのである

石原さんが豊洲問題は青島さんの既定方針を引き継いだように、小池さんもこの問題は、知事を引き受けた時の既定路線だとして昨年11月の移転を決定しておくのが、『最良の策』だったかも知れないのである。

その時点で、そんな対策をしていれば、そこで発生する問題は、前政権からの引き継ぎ事項の『追加対策』で済むのだが、この問題引き延ばせば引き延ばすほど、小池さんの責任問題になってしまうような気がしてならないのである。

 

    

 

★ こんなこと言ってては遅れてしまう。

時間を掛ければ、現状より数段いい『解決策』が見つかるならそれでいいのだが、どうもそれはなさそうである。

ベンゼンなどわざわざくみ上げずに、地下に眠らせておく以外に対策などないのだろう。

 

 小池さんが採るべき道は、石原元知事の意見に沿って、早く『豊洲への移転』を決めることだと思う

 その理由は「百条委員会で」いろいろと厳しく議論してみたが、特に大きな改善点も、問題点も見つからなかった。

 もともとこの問題は、前政権からの引き継ぎ事項だから、特に大きな改善点はないのだから、そのように決定すると言った方がいい。

 それで、小池さんの評価が大きく下がるわけでもないし、やるだけのことはやったと言えばいいのである。

 

7月まで待たずに、もう少し早く決めるほうがいいと思う。

時間を掛ければかけるほど、迷路に迷い込んでしまいそうである。

選挙の争点などにすると、これは出口がなくなってしまう可能性がある。

 

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カワサキの二輪事業と私 その44 昭和48年(1973)

2017-03-20 07:31:42 | 自分史

★『1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発、石油価格が上昇するなど、戦後初めてマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。トイレットペーパーや洗剤などほとんどの物資の買占め騒動、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生した。』

などの記述があるように、1973年は第1次オイルショックもあって、世の中は大変な時代だったのだが、当時のカワサキは実質この年からZ1・Z2の発売があり、『カワサキの二輪事業』としてはアメリカ・国内とも大きく伸長した飛躍の幕開けとも言ってもいい時代だったのである。

二輪車生産累計100万台を達成5月には月産2万台を記録したり、ジェットスキーの生産を始めるなど、まさに「飛躍の年」だった。

特にアメリカ市場の伸長は著しく、この年から2年間ほどが絶頂期とも言える時期だったのである。

 

      

 

 

国内市場においても、この春からZ2の発売が始まり、二輪事業始まって以来初めて「バックオーダー」という事態を経験するなど、兎に角忙しすぎて、世の中の『トイレットペーパー騒動』などにも目を向ける暇もなかったのかも知れない。

私自身もこの1年は激動期と言ってもいい変動の1年だったのである。

前年から東京・名古屋・大阪という大都市担当することになったのだが、この年からは東京営業所長も兼務することになって、大阪営業所の兼務は無理になったので、大阪は平井・藤田くんに譲って直営部全体と東京営業所長を重点に動いていたのである。

3月から発売されたZ2は絶好調で、販売よりは特約店への配分がそれ以上に大変だったのだが、経営的にはカワ販も特約店もその恩恵を120%受けていた、そんな時代だったのである。

最盛期の終わる9月末には東名阪の大市場の特約店制も概ね軌道に乗ったこともあって、直営部を解体し東京・名古屋・大阪をそれぞれ営業部に分割し、日下・小竹・永田部長が担当されることになった。

私自身はカワ販本社管理部長として、7年振りに本社復帰となり、カワ販全体の企画・管理と共に全国的な『特約店制度導入』が最大のテーマで、神奈川・埼玉・千葉・広島・福岡などの地域への導入を現地の所長さんたちと共に展開していくことになるのである。

昭和42年(1967)に仙台事務所長に移動した時には一応3年と言われていたのだが、4年目の異動は明石ではなく大阪に途中下車だったし、この年で6年目に入っていたのである。三木に家の新築をはじめていたこともあって、3月からは直営部の本拠を明石本社内に移して頂いたのも、この本社異動もそれなりに会社が配慮して頂いたのだと思っている。

そんな目まぐるしい動きのあった昭和48年(1973)なのだが、個別的な動きや対策は、年初から大変だったのである

 

★ まず特約店制度対策だが、この制度は当時としては世の中に存在しない『二輪販売専門店』制度なので、その実施対応はそんなに簡単には行かなくて、大阪・京都などの経験者が手伝わないと、とても現地スタッフだけでは難しかったのである。

まずこの年の2月、地元兵庫県の特約店制度の実施を目指したのだが、兵庫県は実用車の時代から平井稔男所長独特のリーダシップで自転車屋さんの販売網だが、カワサキの実績は抜群だったのである。ただ自転車屋さんばかりだから、そんな店との取引中止をとても平井さんには頼めなかったので、かって兵庫県を担当したことのある藤田くんを担当とし平井さんは私のあとの大阪母店長をお願いしたのである。

取引中止はともかく、本当に候補店が少なくてどうしようもないので、社内の従業員から特約店の希望者を募る『のれん分け制度』を創って時間を掛けて進めることとし、その第1号店が財満くんの『灘カワサキ』だったのである。

従来のお店とは殆ど取引を中止して、山本レーシングサービス、西宮カワサキ、明石カワサキ、姫路カワサキなど順次、川重やカワ販出身のOB店を中心に独特の販売網を創っていったのはそんな事情からなのだが、結果的には非常に強固なカワサキ販売網が実現することになるのである。

 

★当時は他メーカーでも社員の独立は行われていて、例えば『ヤマハオートセンター』の杉浦さんや、春日井スズキの斎藤さんは、今では店名も変わって業界を代表する立派な事業展開をされているのだが、当時は販売店を始めたばかりで岡崎と春日井にそれぞれ1店舗だけだったのである。

そんなスタートしたばかりのお店に伺ったのもこの年だったのである。

杉浦さんとは、お会いする度に猛烈な議論の展開が半日以上も続くのだが、お互い結構気は合って我が家には杉浦さんからの立派な絵など沢山の頂き物があるのである。

この絵もその中のひとつである。

 

     

 

斎藤さんも 春日井スズキとして独立開業された頃で特約店を希望されたのだが、その向かい側に大きなお店があって『あんな店を特約店にするのならうちは契約しない』などと言うので、半年ほど待ってもらって、この年からお付き合いが始まったのである。

今は店名も中部ミスターバイクから、いつのまにか『カワサキワールド名古屋』に変わっているようである。

鈴鹿ツインサーキットも経営されているし、特に懇意にして頂いていて、私が名古屋に行くと駅までの送迎をご自身でやって頂けるそんな仲なのである。

 

    

株)忍者の伊藤さんとも仲がいいし、吉村太一さんを含めて この3人とは何か特別のご縁があるように思うのだが、斎藤さんは当初の『春日井スズキ』時代の斎藤さんが強烈に私の印象に残っているのである。

 

この年、東京営業所長を兼務して、いろんな新しい方たちともお会いしているのだが、当時東京営業所のサービス長をしていた『北見紀生』くんと出会ったのもこの年のことで、4月20日の日記にこんなことを書いている。

  

 

なぜ、北見君が張りきったのかはよく解らぬが、彼は当時から抜群の技量は持っていたが、ちょっと変わっていて、所謂会社側からの評価はそんなに高くはなかったのかも知れない。

私はどうもそのような『規格通りの会社側の評価』はもう一つ納得できなくて『私独自の評価』をするものだから、上の方から注意を受けることが度々だった。

この直営部長時代にも、会社の評価が悪かった人を私なりに見直した人が何人もいるのだが、北見君もその一人かも知れない。ビックリされるかも知れぬが、AJ会長をされてカワサキで一番の出世頭と言っていい『吉田純一』さんなども、タイムカードを打たないものだから、当時の会社の評価はめちゃ悪かったりしたのである。

まあ、人間『会社の評価』などよりは『世の中の評価』のほうが数段大事で、お二人の現在の評価がそれを現しているのだろう。

 

     

 

特約店制を実施したことなどもあって、この年には本当に沢山の方たちと出会っているのである。

 

 

 ★1973年、この年に生まれ発売されたZだが、昨日はもう45年以上も経ってるZやカワサキのバイクが、東京・京都・豊岡から、遠く九州から、三木に集まってきたのである。

なかなかのいい雰囲気で、とにかく車はみんな新車より綺麗だと言っていいとても45年経っているとは思えないのである

そんな雰囲気を2分の動画に纏めている。

  

 

こんな雰囲気が、Kawasaki の良さだと思う。

ここは5年ほど前に、NPO The Good Times の事務局長登山道夫さんが開いてくれた拠点だが、世界から有名人がやってくる。私も家から5分の距離なので、いつもお誘いが掛かるのである。

来週にはそれこそZの開発責任者の大槻幸雄さんが来られることになっている。

 

          

 

ちょっといつもと違う雰囲気で『カワサキの二輪事業と私』を纏めているが、カワサキの二輪事業の良さは、いや二輪事業の良さは、こんな末端のファンたちと一緒に『いい時を楽しめる』よさでもある。同じ、量産品でもテレビや、冷蔵庫とは違うし、4輪とはまた違った雰囲気を持っている商品なのである。

Customer Satisfaction』(取引業者)もいいのだが『Consumer Satisfaction』(消費者)末端のユーザーたちの満足や想いを一番に考えないとと思ったりする。

50年前 本田宗一郎さんはまさにそんな姿勢でこの業界を引っ張られたし、カワサキも、Kawasaki Let the good  times roll !  とそれに続いたのである。

私なども現役を離れて15年以上にもなるのだが、こんなユーザーたちと接する機会は大事にしたいと思っているのである。

 

★1973年の話に戻って、当時は『カワサキジャンボリ―』というユーザーを集めた催しを西日本を中心に開催していたのだが、その規模は大体200名前後の規模だったのだが、この年の8月4日に近畿と中部の合同で、特約店を巻き込んで、2000名を集めた『大規模なジャンボリー』の開催を計画したのである。

 場所は大阪からも名古屋からも来れる琵琶湖の北端マキノ町の知内浜をマキノ町からお借りしての開催だった。

当時では珍しかった本格的なジャズメンバーによる『ビッグサウンド・オンステージ』と銘打っての公演も企画、その出演料などに260万円も支払っているので、結構有名バンドグループだったのである。

2000名の食事をどのように調達するかも大問題で、特約店による屋台協力で予想以上の屋台が並んだのである。予備として自衛隊の缶詰なども用意したが、特約店の屋台の売り上げを優先したので、缶詰が余ってしまってその処分がまた大変だったのである。

このイベントの運営形式はアメリカで見学したしたデズニーランド形式の『前売りチケット方式』を採用し、すべて前売りとし、屋台などの販売も一切現金を使わない先進的な方式だったしので、結果的には非常にスムースでスマートな運営となったのである。

スタートしたばかりのジェットスキーを持ち込んで、初めて見るジェットスキーも大変な人気で大成功だった。乗ってくれたのは当時はカワ販でジェットスキーを担当していた現姫路カワサキの社長さん島津龍さんだったのである。

 

  

 

 当時、未だ2000名を集める野外イベントなど日本では珍しい時代だったから、マキノ町もその成功にビックリされて、且つ大喜びで、3年間ほど毎年の恒例行事になったのである。

計画の途中で、この砂浜に2000人分のテントが張れるか? 

などと言う面積問題も出て確かにむつかしそうだったのだが、この年の夏雨が少なくて琵琶湖の水位が下がり、当日は砂浜がちょうどこの倍ぐらいに広がったのである。ヨコの知内川も水が少なくなって、魚のつかみ取り大会をやったら大きな魚がいっぱい獲れたりしたのである。さらに夜はマキノ町の花火大会と重なって、まるでカワサキが花火を打ち上げたような状況にもなったのである。

いろいろと大変だったのだが、運もよかったのである

いずれにしても想い出に残る大成功のイベントだった。

カワ販の従業員諸君も本当によくやったと思うし、それ以上に特約店各位の協力・協働がそのベースにあったのである。2000名の前売り券を販売するのは、この年ではバイクを売るよりもムツカシカッタと言えたかも知れないのだが、これなども特約店が大いに協力してくれたのである。

私自身が大会会長として陣頭指揮をとったが、それを援けてくれたのは、平井稔男・鍋島英雄・藤田孝明それに関初太郎・吉田純一さんなど当時の若手諸君と、大阪・兵庫・名古屋の特約店も殆どの店が協力してくれた大成功のイベントだったのである。

 

この年の大きな出来事を上げるなら『特約店制の実質スタート』と『Z2の発売』であり、そしてもう一つが『このマキノ町のジャンボリー』 だったかも知れない。

 

  

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 

★ https://www.facebook.com/1126074024157186/

 

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パンを焼く

2017-03-19 08:41:52 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 日本のパンはいろいろあっておいしい。

それに比べるとアメリカはもう一つで、娘の家では毎朝、『パンを焼いている』 

去年、1ヶ月ほど滞在して、毎朝そのパンを食していたのだが、昨秋娘が日本に来てた時に、我が家も『パン焼き器』なるものを買ったのである。

いろんなパンが焼けるので、家のことは何にもしない私が『このパン焼き器』でパンを焼くことにした。

 

未だ、何種類しか焼いていないが、パンフレットによると、こんなに沢山いろいろと焼くことができるようである。

 

        

   

 

★前の晩に準備して、焼き上がる朝の時間を予約しておくと、その時間にきっちりと焼き上がる。

 昨日は、7時半の予約だったが、何分前から表示が出て、焼き上がると音で知らせてくれる。

 

焼き上がってから取り出したところまでを動画で撮ってみた。

まずは、その動画をご覧ください。

 

 

 

 今回は「パン・ド・ミ」 を焼いたのだが、ここにあるように準備する。

 ややこしいようだが、慣れると大したことはナイ。

 

   

 

 焼き上がる 44分前である。  そんな表示が出る。

 

  

 

 

 焼き上がりました。  小さな音がする。

 

 

 

  蓋を明けると、こんな感じである。

 

 

 

  上手に焼けました。

 

 

 

 

  焼きたては暖かいし、 そのままで めちゃ美味しい。

 

     

 

 

★ 2人家族だから、3日に一度 焼いている。

 当たり前のことかも知れないが、説明書の通りにやれば、ちゃんと焼ける。

 誰が焼いても同じだと思う。

 パンのレベルは?

 自分で焼くからかも知れぬが、『市販のパン』以上と言っていい。

 

 『食パン』にもいろいろあるが、少しづつ焼き方や、その材料の分量が変わるだけである。

  

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一とくの女将さん

2017-03-19 07:34:09 | 発想$感想

★昨年の7月に『高橋さんを偲ぶ会』ということでこんなメンバーが灘の酒心館に集まった。

   

   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/c67c41b1762e6fc0d6d6d121d7153321

というブログをアップしたのだが、年が明けて今年の2月に『一とく女将です』とこんなコメントを頂いていた。

それを、実は昨日まで見逃していて、ご返事をさせていいただいたところなのだが、

誠に懐かしいし、想い出いっぱいの『一とくの女将さん』なので、その思い出を書き残しておきたいと思って、このブログを書いている。

 

    

 

       Unknown (一とく女将です)2017-02-17 20:44:41

       鐡朗さんが、お亡くなりになり淋しいかぎりです。

       以前、飛燕の復元機について、手紙をお出ししたところ、御返事がなかったのでもしやと思っておりました。

       謹んでお悔やみ申し上げます。

  

★『一とくの女将さん』間違いなく私よりはお年寄りである。

 お幾つにおなりなのか? ブログを見て頂けるほどご健在なのにはびっくりである。

 

私は、明石の上ノ丸で生まれ、今も本籍はそこである。

小学校の頃は朝鮮にいたのだが、その当時から夏・冬の休みには明石に遊びに戻っていたので、戦前の明石もよく知っていて、当時子供の居なかった伯父に可愛がってもらって、いろんなところに連れていかれたので、小学生の頃から、いろんなところを知っている。

当時の花隈も有馬温泉も明石の飲み屋さんなど所謂宴席にも連れていかれたので、当時の芸者さんなどにも可愛がってもらって、就職してから明石の飲み屋に行くと私は覚えていないのに「大きくなったね」などと言われたりしたのだが、『一とくの女将』さんもそんな中のお一人なのである。

私自身はそんなに酒飲みでもないし、独りで出かけることなどはないのだが、何故か「一とく」はカワサキの二輪事業の人たちがよく行ってたので私も一番数多く行った飲み屋さんは「一とく」なのである。女将さんのお嬢さんが確か私の妹と同級生であったりした。

お客の中でも、明石の戦前のことが話し合える数少ない客の一人だったのである。

 

『一とく』に私とよく行ったカワサキの方と言えば、小野助治さん、苧野豊秋さん、田中誠さん、坂口守次さん、小野田滋郎さん、大庭浩さん、それに髙橋鐵郎さんなど私よりみんな上の方ばかりなのだが、もうみんな逝ってしまわれたのである。

 

   

 

明石の銀座通りからちょっと中に入ったこんな場所に『一とく』はあったのだが、今はどうなっているのだろうか?

それはよく解らない。

いま、戦前のことを言ってもどなたもお解りにはならないのだが、この辺り一帯は戦後の明石の大火で焼けてしまって、今の銀座大通りができたのだが、それまでは城下町特有の細い通りの町だったのである。

私の小学生の頃は、今の魚ん棚のある細工町に伯父に家があったりしたので、この辺りのことはな何となく覚えている。

その頃から今もあるのは『先春園』というお茶屋さんぐらいであとはみんな様変わりしているのである。

そんな中で『一とく』があったあたりは、 

 

    

 

  昔の曲がりくねった『山陽道』の今では細い道筋あたりだったと思う。

昔のメイン通り『山陽道』に比べて、今の道がどれくらい広いのかは興味のあるところなのである。

 

    

 

若し私の記憶が正しければ、『一とく』はこの山陽道に面してあったのではなかろうか?

 あれだけ何回も行ったお店の場所でも、今思い出そうとするとなかなか大変なのである。

 

『一とく』によく行ってた頃は、板前さんとも懇意にしていて、当時はまだ中崎の海岸に砂浜があって投げ釣りでカレイなど何匹でも釣れたのだが、それを帰りに『一とく』に寄って板前さんに捌いて貰って持って帰るほど懇意にお付き合いして頂いたお店なのである。

あのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さん小野田滋郎さんが特に『一とく』はお気に入りで、小野田さんの送別会を苧野さんと坂口さん私の4人でやったのだが、そのときに小野田さんが私にくれた言葉が『雑音に耳を貸すな』なのである。

これは今でもちゃんと守れて、信念をもって自らが思うように生きれていると思っている。

 

こんな昔ばなしみたいなこと書いているが、果たして『一とくの女将さん』の目に留まるだろうか?

2月には折角のコメントを頂いたのに、うっかり見落として1ヶ月も放置してしまって失礼をしたので、今回もしコメント頂いたら、確りと対応しようと思って書いている。

いずれにしても『一とくの女将さん』お元気で過ごされること祈ってます。

 

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