★ずっと書き続けてきた『カワサキ単車物語50年』も
前回の『単車再建最終年』までの30年間で、
カワサキの波乱万丈のオモシロイ時代、カワサキらしい時代は一区切りを告げたのかも知れない。
これは神戸のカワサキワールドに飾られている 青野ケ原のモトクロス優勝の写真と展示である。
左から二人目が若き日の 高橋鐵郎さんである。
このレースで1位から6位までを独占した成果で、カワサキの単車事業は再スタートを切ったと言ってもいい。
1963年(昭和38年)5月、今からちょうど50年前の出来事なのである。
この時期から1988年まで、
マシンで言うなら、B8、A1、F21M、W1 マッハⅢ、カワサキZ、 カワサキKR 、 Ninja などなど、
カワサキの時代を背負った、カワサキらしいマシン が世に出て、『カワサキイメージ』もこの時代にその基盤が創られたのである。
★こんなカワサキの創成期の歴史の中で、 高橋鐵郎さんは事業の中枢をずっと歩き続けられている。
●青野ケ原のレースではその現場監督を務められた当時は製造部の係長時代だったと思う。
●そのあと事業部の技術部山田、営業苧野という当時の部長クラス以下で構成された『レース委員会』では、製造部門の中村課長とともにその中心メンバーだった。
●その後カワサキオートバイ販売に出向され、この第1線経験が高橋さんの『マーケッテングオリエンテッド』への180度転換をもたらしたのである。
●川崎重工の技術本部長に復帰され、Zの開発や、現在のSPA直入の開発試験コースの土地購入などを推進された。
●さらに、東南アジアを中心とする市場調査団長を務められ、そのまま『市場開発プロジェクト室長』を兼務、その後はさらに営業本部長、そして単車事業部長を務められている。
●ハ―レ―のダンピング訴訟で事業部が揺れ、その対策としての国内販社対策案は最終営業部立案となたtが、その実務対策としてカワ販副社長も兼務されている。
●さらにアメリカのKMCの経営悪化で単車事業の危機となった時点で、田崎さんと一緒に、KMCの会長としてアメリカ現地で指揮を取られたのである。
●このKMC対策問題は、川重本体も揺るがす大きな問題にまで発展し、本社首脳を始め財務部隊が総力を挙げての対策となるのだが、その対策に明石の企画室再編があり、高橋さんはその企画室長でアメリカから戻られることになる。
●そして約1年後本社は大庭浩本部長を、単車事業再建に送り込まれ、高橋さんはその副本部長として大庭さんを援ける立場を3年間務められて、大庭さんの副社長としての本社復帰、 高橋鐵郎単車事業本部長の実現となるのである。
ここまでが1988年までの大まかな単車事業の動きと 高橋鐵郎さんのその間の経歴なのだが、
列記した上述の事項に、私自身も後川重社長を務められた田崎さんも密接に関係しているのである。
●『レース委員会』の事務局は私が担当だったし、マシン開発の現場レース職場の責任者が田崎さんだった。
●カワ販出向時に真っ先に現地視察されたのは私が担当していた東北地域だった。当時は未だ実用車のカワサキ時代で、東北や九州が主力市場であった。高橋さんは直営部長としてスポーツ車の市場としての大都市圏を担当され、大阪の営業所の土地購入などに尽力されるのだが、その大阪営業所の責任者として私は仙台から大阪に異動した。
●高橋さんが川重に復帰されてから数年後私も川重企画部に復帰、この部門には田崎さんもいてアメリカとリンカーン工場を担当していた。そこで私が起案したのが小型車の市場開拓としての東南アジア対策で、この調査団団長に高橋さんがなられて、初めて 高橋鐵郎さんとの直接のコンビが実現することになった。
●ハ―レ―のダンピング訴訟を担当したのが田崎さんである。そしてその具体的な国内販社構造対策は私が立案し、そんな関係でカワ販常務となり、 高橋鐵郎さんはその副社長として援けて頂いた。
●逆に高橋、田崎さんがKMCに出向された時に、第1線の経営の解るカワ販メンバー富永、日野君をKMCに送りこんでその経営再建を手伝った。
●川重本社が立案した、単車事業再建の目玉の企画室担当を私は命じられたのだが、引き受けるに当たって出した条件が 高橋鐵郎さんの企画室長復帰である。アメリカに行ったばかりでなかなか本社もYesと言って頂けなかったのだが、結果は高橋さんの復帰となり、アメリカは田崎雅元さんの社長となったのである。
●その1年後に大庭さんが単車に来られて、私はその番頭役みたいなことをやっていた。特に本社財務副社長の大西さんや財務担当の松本新さんなどへの単車窓口は、私だけが事務屋であったこともあって、大庭ー高橋ー田崎さんの担当分野の本社通訳みたいな役割を果たしていて、当時の主力銀行第1勧銀本店などにも状況説明などに伺ったりした。
そんないろいろなことがあって、単車事業は再建され、新しい時代に入って行くのである。
★そんな1988年時代までが、単車事業の創業期と言えるのだろうと思っている。
それ以降のマシンは、これらの時代の車をより洗練した形のものだし、単車事業の経営もある意味落ち着いた安定的な時代に入ったような気がする。
そんな中で、その後の大ヒット商品と言えば、何と言っても ZEPHRE を挙げねばならない。
そのZEPHRE と一緒に写真に収まっているのが、当時の単車事業本部長、カワサキオートバイ販売社長の 高橋鐵郎さん である。
大庭浩本部長時代の単車再建の時代を経て、川崎重工業の事業の中で単車事業は確固とした基盤を造ったのである。
大庭さんは副社長として川重中枢に戻られ、単車事業は高橋鐵郎本部長の時代へと移った。
そしてさらに大庭川崎重工業社長、高橋鐵郎副社長の時代へと移って行くのである。
★私自身も、この1988年までの『単車再建の時代』までは、ほぼ事業の問題点のど真ん中にいることが多くて、
カワサキの単車事業をそんな中枢から眺めたり、ある意味影響力を持ったりしながらの30年であったと言っていいのだが、
1988年以降は、また現場に戻ったこともあって、
その後のカワサキの単車事業そのものについては、ヨコから眺めていたそんな時代だったのである。
単車再建時代に、大きな問題として事業存続の関心事となった事項の一つに『為替対策』があったのである。
為替対策の対応の方向としては、事業の構造的な体質を変える仕組みの再構築の方向が企画室長としての私個人の想いとしてはあったのだが、
その後の企画中枢の取られた方向は、
一つは、『コストのドル化』 など生産拠点の海外移転特に小型エンジンのアメリカへの移転と
もう一つは『為替に影響を受けない国内市場の充実強化』で、私はこの二つ目の課題を直接担当することになるのである。
高橋鉄郎さんにそのことを命じられて、
● 国内市場での7万台の販売目標と
● 国内市場が文字通り事業部の経営を支えるために事業本部の国内から得られる限界利益額100億円
という 二つの非常に高い目標を高橋さんとお約束して、カワサキオートバイ販売専務として、以後約10年間を担当することになるのである。
★これ自体は、私自身の単車事業経験の集大成のようなオモシロイ目標であり、且つそれは実現することになるのだが、
それはあくまでもカワサキの単車事業の一部であって、単車事業そのものではない のも確かなのである。
そんなことで、『カワサキ単車物語50年』も、私の『自分史』に近いもにになってしまう ことをお断りしておきたいと思うのである。
ただ、私が国内販社グループを担当した10年間は、そのトップのカワサキオートバイ販売の社長は、高橋鉄郎さんなのである。
これからの約10年間は、文字通り高橋さんとのコンビで国内市場を担当出来た非常にオモシロイ画期的な10年間であったことも事実なのである。
その当時の二人で写っている写真である。
『あらゆるひとにグッドタイムスをお届けします』 と言っている。
それまで長い間眠っていた
Kawasaki . Let the good times roll !! の基本コンセプトは、この時期国内で復活し、高橋さんによって世界展開となったのである。
そしてこれは NPO The Good Times のメンバー達で主催した
3年前の3月4日、 『カワサキの想い出、そして未来』 でご挨拶をされた高橋鉄郎さんである。
高橋鉄郎さん、 NPO The Good Times の創立以来、その相談役をお願いしているのである。
そういう意味で高橋鉄郎さんとのご縁はまだまだ続いていると言ってもいい。
私個人にとっては、この当時の基本コンセプトをカワサキだけではなくさらに拡げて、
ささやかでもいい『グッドタイムス』の演出が出来ればいいと思っているのである。
そんなことなので、敢えて『カワサキ単車物語50年』 とネーミングしているのである。
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