雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私 その56 昭和60年(1985)

2017-05-31 05:43:14 | 自分史

昭和60年(1985)は、8月12日、日航123便が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落。乗客、乗員併せて520名もの犠牲者を出したあの年である。

私は高橋鐵郎さんと一緒に、その翌日8月13日にJALでアメリカに出張したのだが、流石に飛行機はガラガラだった

日本は夏休みの真っ最中だが、海外のカワサキの販社は関係ないので、毎年夏休みの期間に海外出張することも多かったのである。

 

大庭浩本部長の3年目、前年に販売会社30億円、事業本部30億円合計60億円の利益をめざそうと『ATTACK 60』なる目標を掲げたその1年目であった。

長年問題であった海外販売会社の経営は安定し、あとは事業本部の利益をと臨んだのだが、3月に253円であった為替相場は11月には200円を割るという急激な円高で、事業部の利益の黒字化はともかく、目標30億円を確保するのに担当の企画室としては大変な1年であったことを思いだすのである。対策しても次から次に円高になってしまうのである。

この時期になると単車事業部に対する川重本社の信頼も万全なものになって、5月には大庭さんの専務昇格高橋鐵郎さんの取締役昇格が決定した年で、『本社が単車を認めた』と大庭さんは言われたのである。

私自身も企画室長に昇格し、KMCの田崎社長のあとの人事には百合草三雄さんが内定したのである。

前年度に決定したKMCの新社屋構想も具体的に進んで、建設業者は日本の鹿島建設に決まり、5月には地鎮祭が行われて、アメリカの新聞にも取り上げられている。

これらの写真を田崎さんが送ってくれた。

 

 

 

  

 

 模型を前に検討中の大庭本部長と田崎さん、コーヒーを入れているのは、造船からKMCに応援に来てくれた奥寺さんである。

あれほど問題であった単車事業部が見事に再建されたと言っていいそんな昭和60年だったのである。

 

★造船や川重の大きな構造物などを長年担当されてきた大庭さんは単車の量産部門に来られていろんな新しい体験・発見をされるのだが、私にこんなことを言われたことがある。

単車はホントに独りで造ってしまうな』と。 

勿論、いろいろな周りの人たちが関わるのだが、基本設計や構想はホントに主務者が一人で決めていくのである。 この辺りは『決められたものを受注して創る』船や、新幹線とは全く違うのである。

同じような話で、『単車では試作車を何台も造って実際の公道テスト』をやるのだが、この試作車が結構高くつくのである。まだ単車が赤字続きの時に本社の人に言われたことがある。

そんなオモチャみたいなものをいっぱい作って走らせたりするから、単車は赤字になるのだ』と。確かに船も新幹線も試作車などは造らずにぶっつけ本場で1台の船や車両をを創り上げるのである。

この辺りが、受注産業と量産事業の違いだと思うのだが、大庭さんが単車に来られたお蔭で、川崎重工業の中で単車事業が理解される端緒になったと言えるのだろう。

 

大庭さんが単車に来られて、具体的に一番力を入れられたのは『ニューモデルの開発』であったと言っていい。

川重の技術研究所との密接な連携も図られて、これは当時の開発計画書の一部抜粋だが、86年モデルとしてはこんな機種がこんな主務担当者の下に開発されていたのである。

 

  

 

 ★この年から、ジェットスキーも発動機事業部ではなくて、単車事業部の中で開発されるようになるのである。

ジェットスキーは、元々アメリカ人が特許を持っていたものを買い取って、発動機事業部がそのエンジンを作っていてリンカーンで生産し、発売元はKMCだったのである。

正確に言うと川崎重工業製ではなくて、当時の明石の単車事業部にはジェットスキーに関係する人は一人もいなかったのだが、この前の年から企画の武本一郎課長単車事業本来の事業にすべく、企画室企画部の中でいろいろと画策し、まず400・500㏄のエンジンを440・550にボアアップすることからスタートしたのである。

エンジンをボアアップしたからか、そんな時代になったのか販売台数は6000台から一挙に2万台近くまでになったのだが、ジェットスキーに乗れる人は明石工場の単車には一人もいなかったのだが、それを言うと、KMCの田崎社長が『俺が乗れる』とホントに彼はアメリカで、ジェットスキーに乗ったりしていたのである。

 

         

 

当時日本では、西武自動車がアメリカのKMCから輸入して、日本国内でもレースをスタートさせていたのだが、そんなジェットスキーレースに参加していた福井昇くんが発動機にいることが解って、たまたま私と同期の藤川部長のところにいたものだから、彼を貰い受けて企画室・企画課でジェットスキー関連をスタートしたのである。

そしてこの年8月にオーストラリアの社長をしていた鶴谷将俊さんが戻ってきたので彼をジェットスキーの担当になって貰って、ジェットスキーの本格ビジネスに入って行くのである。

そして上記の表にもあるように、JS440の車体にKX250ベースの300ccの高性能エンジンをつけた新ジェットスキーの開発に取り組んだのだが、これは見事に失敗するのである。

その機種の基本コンセプトに『底辺層(初心者や女性等)の需要創造のためのエントリーレベル型のジェットスキー』と書かれているのだが、この辺りが二輪車と『海の乗り物』との決定的な違いで、二輪のモペットのように量販しようと思ったのだと思うのだが、海では小型は安定しないのである。

 

この時のことを田崎さんはこのように書いてくれている。

 300CCは、大きな問題だった。

もう少し小型でコストも安いものをと、モトクロス用エンジンを搭載して明石で開発し、試作艇がKMCに持ち込まれた。 ところが、陸上のバイクとは違って、浮力不足で小型になると非常に乗りにくく、私なんかではとても乗れないし、全然面白くない。日本の福井さんからも、内々で、乗りにくいという評価が寄せられ、KMCは販売しないと決めた。 これには安藤さんがかなり怒って、間に入った武本さん(九大の後輩)が板挟みになり困っていた。

結局KMMで生産させヨーロッパで売るという技術部主導の意思決定で、佐伯さんには、KMCは売らないから生産しないようにと忠告したが明石からのプレッシャーで結局、KMMは生産させられた。何台生産したのかは覚えていないが、殆ど売れなかったと思う。

 

こんな裏話があったのを私は知らなかったのだが、安藤佶郎さんが『何とかものにしたかった』という気持ちはよく解るのだが、やはりこれは難しかったのである。

 こんな失敗もあったのだが、当時のジェットスキービジネスは利益性もよかったし、アメリカでは2万台近くも売れたし、鶴谷課長がそれこそ熱心に日本市場や、ヨーロッパ市場の開拓をやったので、ジェットスキーがカワサキの本来の事業として世界展開されることになったし、当時の事業部の利益にも大いに貢献するようになるのである。

そういう意味では、カワサキの『ジェットスキー元年』とも言える年で、その担当部門は営業部門ではなく、企画室・企画部だったのである。

私もそういう意味では、ジェットスキービジネスは『企画室・企画部』が言い出した話なので、この年以降10年程は鶴谷さんと一緒にジェットスキー・ビジネスには、大いに関与して、この年の9月には鶴谷課長とヨーロッパのジェットスキーの市場調査にドイツ―スイスースペイン―フランスーUKと回って、スペインではジブラルタル海峡からの避暑地の有名な海岸線を延々と走ったりしているのである。

そのあと日本市場の開拓には、鶴谷さんはレース協会JJSBAの会長もしてくれたし、私も国内のジェットスキー販売網の設定には自ら担当して、国内でも最盛期には年間7000台を販売するビジネスにまで発展するのである。

 

★この年の12月には、クライスラーのトップが明石工場に来られて、大庭本部長以下出席して『小型スポーツカーの共同開発』の話があったのだが、これは陽の目を見なかったのである。

このプロジェクトを担当した百合草三佐雄さんは『カワサキZの源流と軌跡』の中で書いておられるが、その概要をご紹介する。

1985年KMCの田崎社長とクライスラー本社を訪ね、スパーリック社長と面談した。「クライスラーは若者に弱い。若者にアピールする車を若者に評判のカワサキのエンジンを搭載した小型スポーツ車を共同開発したい』という

先方からの申し出でこの話はスタートし、

明石工場にも招待した。・・・そしてカワサキとの話も急ピッチで進んだ。早速プロジェクトが組まれ、クライスラー社ではボルツ副社長が担当、川崎重工業側からはKMC社長に就任した私が担当することになった

この車には6気筒のKG1300エンジンが搭載されることになり、『・・・一次試作車がつくられ・・・』と順調に進んでいたのだが、クライスラーのアイアコッカ会長とスパーリック社長との間で、この車の開発についての意見があわなかったのか、スパーリック社長の突然の退任でこの話も消えてしまうのである。

大庭本部長も乗り気だったし、百合草さんも一生懸命だったのだが・・・残念なプロジェクトだったのである。

 

そんないろいろなことがあった1985年なのである。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

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姫路ばら園に行ってきた

2017-05-30 06:00:33 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 姫路ばら園 いろんなバラ園があるが、間違いなく一般のばら園とは差別化されていて、

 3500種以上の薔薇が市川沿いの絶好の立地に、見事に育てられている。

 

    

 

いろんな『薔薇園』があるが、その種類の多さと何よりもその育て方の見事さ加減は、他のバラ園を寄せ付けない『プロのレベル』であることは、誰しもが認めるところだろう。

シーズンには、ウイークデイでもいっぱいの人である。

土日は、どんな状態なのか、他人事ながら心配したくなる。

 

  こんな動画も撮ってきた。

 

 

 

  写真を並べるので、ご覧ください。

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

  

 

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

 

  

 

  

 

  

 

  今日は。文字よりは写真をゆっくりご覧ください。

 

 

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宗和孝宏

2017-05-29 08:50:33 | 発想$感想

★ついさっき、突然、宗和から電話があった。

 

     

あの宗和孝宏である。

年に数回、いつも突然電話してくるのである。

特に、何の用事がある訳ではないのだが、『近況報告』というのだろうか。

いま、彼は『チームイワキ』でまだ走っている。

 

 

これらはみんなFacebook の彼のページ  https://www.facebook.com/takahiro.sohwa?fref=ts から頂いた写真だが、

電話をかけて来て、17歳の岡本裕生くんが今度チームイワキに入ってきて、先日のレースで優勝したという。

最近は、若い子を育てたいと、いろいろやってるようである。

 

   

 

       

   

 

 もう幾つになるのかな?

 昔の宗和のイメージからは、ガラッと変わって、なかなかいいと思っている。

 岩城滉一さんも、元気におやりのようである。

 

Facebook に今日は岩崎茂樹のことアップしてるから、コメントでもと言ったら

早速『コメントといいね』をくれたので、私も早速ブログをアップしているのである。

 

    

 

 こんな昔ばなしを書いてくれたのである。

 いつまでもレースの世界で頑張って欲しい宗和である。

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SPA直入の名付け親 岩崎茂樹くん

2017-05-29 06:23:05 | カワサキ単車の昔話

★ SPA直入は、大分県直入町にある。 

炭酸泉で名高い長湯温泉にあるカワサキのサーキットである。

 

   

 

    

 

 こんな大自然の中にある小さなサーキットだが、『SPA直入』のSPAは、誰しも温泉のSPAからだと思うのだが、このサーキットの名付け親、岩崎茂樹くんは、確かにその意味もあるのだが、ベルギーの世界的な名門サーキット、スパ・フランコルシャン とかけての『スパ』だというのである。

 岩崎茂樹は、バイク好きで、なんでも知識豊富で、何をやらしても器用にこなす、『カワサキの名物男』だったからご存じの方も多いだろう。カワサキが唯一、鈴鹿8時間耐久に優勝した時の『スポーツ・推進部長』でもある。

いい男だったのに、退職後早く逝ってしまった。

 

   

 田崎さんがそんな岩崎君と私も一緒に写っている写真を送ってくれたのだが、それが92年10月直入町とあるので、冒頭のネーミングの話も、思い出したのである。

彼はカワサキの中で、特に上の人、それもTOPレベルの人に気に入られていた。

別に『おべんちゃら』を言うわけではないのだが、ほんとに『役に立つ』のである。

川崎航空機入社当初は本社の監査室にいた。生野高校野球部出身、多趣味で、狩猟もやるし、その頃からハーレーに乗っていて、バイクにも詳しかったので単車事業を本格的に始めた昭和38年からカワ販の販売促進部に異動してきたのである。

それ以来、『彼のお世話になった上司』というのはちょっとおかしな表現かも知れぬが、間違いなくみんな『彼のお世話』になったのである。

まず最初は、本社人事課長からカワ販の販売促進部長に来られた矢野昭典さん、次いでカワ販に出向されてきた高橋鐵郎さん、矢野さんは九州で、営業部門は初めての高橋さんをあちこちに案内したのは岩崎で、高橋さんはマーケッテングに大いに関心を持たれるようになったのである。今もある大阪プラザの土地は、高橋・岩崎コンビで見つけて来たものである。

カワ販から川重に戻ってからは、企画で田崎雅元さんとのコンビで、リンカーン工場などアメリカを担当し、そのあと高橋鐵郎さんが『市場開発推進室』に来られた当時は、イランを担当して、テヘランに駐在してイラン語を喋ったりしていた。

そのあと、広報を担当して大庭本部長時代の『ニューモデル発表会』を世界を舞台に展開したので、このお蔭で世界の各地に取材に行かれた日本の雑誌社の記者さんやカメラマンもいっぱいおられるはずである。大庭さんも勿論岩崎くんはお気に入りだったようである。

その頃、田崎さんはKMC社長をしていて、彼はしょっちゅうアメリカにも行っていた。

 

★ 私も彼とはいろいろと接点があって、まずはレースのマネージメントを引き継いでくれたのが岩崎である。

そして、何よりも SPA直入は私と岩崎の二人で造ったと言ってもいい。 

起案したのは私だが、具体的な絵を描いたのはすべて岩崎茂樹なのである。サーキットコ―スなど大きな建築会社でもやった経験はなかったので、コース設定から勾配まで殆ど基本設計構想は岩崎茂樹なのである。

別にサーキットの玄人ではないのだが、やるというと無茶苦茶勉強して、短期間に自分の知識にしてしまうのである。

博学者』なのだが間違うこともあるにはある

 

その間違いの代表例を一つ、田崎雅元さんとのコンビでやってた企画の頃、田崎さんが『顧問の問』には口があったか?と聞いたそうである。

まだパソコンのない手書きの時代、それも塚本本部長に提出する書類に『顧問』という字が要ったらしい。

岩崎即座に応えて、曰く『顧問の問には口はありません。あれは会社を辞める時ですから、その会社を懐かしんで門を何度も振り返ってみるから門ですから、口はないのです。』と言ったらしい。

相手が悪かった。

塚本さんの趣味の一つは『辞書を引くこと』だったのである。

田崎君、顧問の問が違う。これは顧みて問う から来ているので問である』と言われたそうである。

ただ、岩崎茂樹は物知りで通っていて、なんでも『尤もらしく』いうので田崎さんもつい引っかかってしまったのである。

この話、田崎さんにさせるともっと面白く、延々と続くのだが・・

 

 

   

 

ドイツ人の熱烈なZ1愛好家のミッキー・ヘッセ がこの本の取材に日本を訪ねた時、親切に面倒を見たのが『岩崎茂樹』くんである。 この本の見開きには『恩顧知新』という文字が書かれてある。

旧いZのことなどよりも、今の新車のことばかりを言う人が多かった中で、岩崎だけが ミッキー・ヘッセ に親切にして『恩顧知新』を彼に説いたのだという。それを甚く感じ入ってその日本語を本に大きく書いているのである。

 

2007年に『岩崎茂樹』のことをブログにアップしたら、沢山のコメントを頂いたのだが、その中に、登山道夫さんからこんなコメントを頂いたのである。  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/cb3b1d385dd20b2ef0deacc4d4f7605d

 

登山さんも、熱烈なZ1ファンで、ミッキー・ヘッセともよくご存じなのである。

   

 

 そんなことで繋がって、いま登山さんはNPO The Good Times の事務局長をお願いしている。

 

  

 

 これは、2年程前のことだが、 Z1開発責任者の大槻さんとも、山本隆くんとも、ミッキー・ヘッセさんは繋がったのである。

 

  

 

 みんな、岩崎茂樹が繋いでくれた、『ご縁』なのである

 

 

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American Kawasaki Mortorcycle Corporation

2017-05-28 05:45:21 | カワサキ単車の昔話

★このところ、毎日、田崎雅元さんとメールのやり取りをやっていて、沢山の写真を送ってくれている。

田崎さん、川崎重工業の社長もしたエライサンだが、私にとっては若い頃から退職するまで一緒に仕事をした『いろんな想い出を共有する仲間』なのである。

カワサキが二輪事業を始めてもう50年を過ぎているのだが、二人ともそのスタートの時代から単車に異動して、田崎さんは生産、私は営業だったのだが、『レースチーム』をご縁に繋がったのである。

田崎さんは、何回もアメリカ勤務をしているのだが、最初のアメリカ行きが決まったのは、1965年6月のことで、その時は『レースチーム』から大槻幸雄さんがドイツに留学されるということでで、お二人の送別会を明石デパートの屋上のビアホール行っている。

会費は1000円だったと思うが、当時の1000円は結構高かったそんな時代だった。

 

★ 田崎さん、写真と一緒にこんなメールを送ってくれている。

 

1965年8月日本出発時の為替レートは、360円、一人当たりの持ち出し限度額は、500ドル、で闇ドルの価格は、400円だった。9月に最初の渡米地シカゴで、渡邊さん、と二人の出張所を設けた。

その後、種子島さんがやってきた全米をカバーするサービス体制を強化するには、まず部品センターが必要だという事になって、その後、黒田さんもやってきて翌年1966年3月に部品センターを設立した。』

 

 

 

シカゴに『部品センターを設立した』などと大きなことを言ってるが、この時田崎さんは係長にもなっていない『ペイペイ』の頃なのである。

当時、第1線に出た連中はみんな若かった。単車事業自体がスタートしたばかりで経験者がいなかったから、若手がいろいろとやったのである。

 

アメリカ市場開拓の旗を上げたのは当時本社企画にいた浜脇洋二さんである。

渡辺くんは日本で本社の浜脇さんの企画にいたので、一緒にアメリカに渡ったのである。彼は大学の後輩だったので、アメリカに行く前に挨拶に来たのを覚えている。それにアメリカ市場のトーハツにいた杉沼浩さんが加わっているのだが、田崎さんは日本人としては4番目、明石工場の単車事業部としては、初めての人材派遣だったのである。

世に言われる『7人の侍』が揃うのは明石から種子島・黒田くん、本社から久保勝平くんが加わってからのことなのである。

 

 

AKM(American Kawasaki Mortorcycle Corporation)である。これがKMCの創立という事になっている。

会社である以上、税務のこともあり経理屋さんが必要だと要請したら、ノートにつけて時々DKBで見て貰え!などと乱暴な返事がきたが、さすがに5万ドルの資本金と部品のコンサインメント(日本からの委託販売で売れたら支払う契約)もあり、田中 誠さんが、久保勝平掛長(カケ長と呼んでいた)を連れてきて、置いて帰った。』

 

久保勝平くんは、私と同期だから田崎さんより1期上、この年係長になったばかりの時である。 久保勝平君、大学では法科だったのに、川崎航空機ではなぜか本社経理に配属されて、経理学校に通って経理を勉強したのだが、その学校で開校以来『こんな真面目で熱心な生徒は初めて』と言われる逸話の持ち主なのである。

田中誠さんは当時は本社の財務担当取締役だった。 久保勝平君がそんな経緯でKMCに行ったとは、今まで私も知らなかったのである。

 

 

当時の『7人の侍』のうちの6人で、もう一人が杉沼浩さんである。

7人のうち杉沼さんは、元トーハツのアメリカ市場の経験者で、英語も話せたしアメリカの事情もよく解っていたのである。

 

   

 

  

 

車で言うと、WIだとか、A1 の時代である。

W1は、何故かアメリカ市場では、通用しなかった。

 

アメリカで、カワサキが認知されだした最初のマシンはA1なのだろう。 その開発当時、アメリカを走り回ったというのが百合草三佐雄さんで、シカゴの事務所が拠点の一つだったようである。

田崎さんは私へのメールでこのように書かれている。

A1のテストは、百合草三佐雄さんが担当していたのだが、シカゴから南部へ向けてプロのライダーに走行して貰い、私が車のチェックをしたものです。1966年1月の事で百合草さん、種子島さんも居たのですが、二人ともまだ車の運転ができなかったので、杉沼さんがライダーと契約し私が伴走車を運転しながらのテストだったと思います。

 

 当時のことを百合草さんは、『カワサキZの源流と軌跡』の中で、このように書いている。

『1965年、A1のテストをアメリカで実施した。各代理店を訪ねた時最大の要望は『故障しない』ことであった。広大なアメリカ大陸では『故障で止まること』は日本では想像もできない危険に遭遇する。砂漠の真ん中のハイウエイで故障したら大変である。夏では40度を超す猛暑、冬は零下になる。いずれの場合も生命に影響する。・・・・』

百合草さんは、昭和35年(1960)年入社で種子島さんと同期だから、未だ入社5年目の若手だった。

 

★カワサキのアメリカでのスタートは、田崎さんがシカゴで造った部品会社AKMが今のKMCの前身なのである。

浜脇洋二さんがリーダーで、杉沼・渡辺・田崎・種子島・久保・黒田の日本人『7人の侍』に、アメリカ人のアラン・マセックが加わって、カワサキのアメリカでの二輪事業はスタートするのだが、アラン・マセックが加わったのも66年で、田崎さんはその経緯をこのように書かれている。

 

1966年に種子島さんと一緒にネブラスカ、スコッツブラフのMASEK AUTO を訪問した。

浜脇さんから頼まれていたのだと思うが、オーナーの息子のALAN MASEKに カリフルニアで働かないかと打診した。たまたま フランスのソルボンヌ大卒のエリートの奥さんがこんなド田舎の生活はもう嫌だといって、喜んでカリフルニアに行きたい、と言っていたので、それを浜脇さんに伝えた。このヘッドハンティングの成功が後の浜脇社長ーALAN MASEK販売担当筆頭副社長コンビのKMC長期政権の誕生となった。ちなみに、ALAN も ハーバード大卒のエリートである。

 カリフルニアにもAKM支社が出来、安藤佶郎さんも出向してきた。次は東海岸だと米人マネージャーと後のEKMの建屋を探したりした。

 安藤佶郎さんは、大槻幸雄さんのあとのカワサキのレース監督で、1966年まで私と一緒にレースを担当されF21M のエンジンなどを創られたのだが、この年の末、レースチームから安藤さんはアメリカに、私は仙台に行くことになるのである。

1967年の1月のことで羽田からアメリカに発たれる安藤さんを当時は伊丹では沢山の人たちが見送ったのだと思うが、羽田空港では私一人で安藤さんのアメリカ行きを見送ったのである。

 

単車事業のアメリカ進出時は、後川重社長にもなられた四本潔さんが未だ川崎航空機時社長の時代だが、直接浜脇さんの後ろ盾になって応援して頂いたのである。

田崎さんのメールは、こんなことも書かれている。

 『浜脇さんも時々やってきて、四本社長、中南さん、も来社した。四本社長を空港で遅れて走らせたり、お前たち金がないのだろう、と我々のエアーチケット代を払って貰ったりしたら後で聞くと日本で経理に苦情を言われたらしい。とにかく外貨不足で、現地の日商で借りたりして、後でお前たちは外為法違反だ!と叱られた。

 商社安宅との縁切り話もあり、浜脇さんの指示でNYへ行くことになり、それならついでに東部販売店のサービスを、とシカゴからニューヨークまで一人で車を走らせた。  安宅の高木社長はカナダの石油に手をだし安宅を潰し、(ザ・商社)という映画にもなった有名な人だが、カッコイイ,ビジネスマンだった。

全米の関係商社、ディストリビュウターから、一度渡した販売権を返して貰うのが浜脇さんの戦略で、ユーザーに迷惑をかけないためにはメーカー直接のサービス網の拡充が重要な課題になっていた。

 1966年末に、岸田課長から帰国命令が出たが、1967年早々に、また大仕事が命じられた。商社、ディストリビューターの変更でカナダに売った大量の製品を梱包状態のまま転売することになり、かなりの期間も経過しているので品質の保証に立ち会え!というのである。最後の仕事として、それを片づけ、西部支社の安藤さんに、サービス業務を引き継いで、3月に帰国した。

 

★田崎さんも67年3月には帰国して、今度は日本で部品を担当することになるのだが、その時やっと係長昇格でいろいろアメリカでやってた時代は『大きな仕事』だったがぺいぺいの時代なのである。こんな貴重な経験が、いろんな形でその後に生かされていくのだと思う。

この時代、初期のカワサキのレースを担当していた人たちが、初期のカワサキの事業も引っ張ったのである。

山田熙明・苧野豊秋・中村冶道・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎・古谷錬太郎・田崎雅元・百合草三佐雄 年次順で並べるとこうなるが、この中から川崎重工業社長と副社長が二人出ているのである。

 

 

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日本人の平均寿命 雑感

2017-05-27 09:47:05 | 私の生き方、考え方&意見

★ 今年84歳になった。家内も80歳である。

お蔭様で結構元気である。

私は、何事も『あまり気にしない』太平楽なところがいいのだと思うが、家内は結構神経質で、いろいろ心配しているようである。

 

 

 

 『人間、誰しもいつかは死ぬ』ということは解っているのだが、少なくとも今『元気にしている人』は『すぐ死ぬとは思っていない』のである。

 日本人の平均寿命も、どんどん延びて、男性もとうとう80歳を超えている。

 

84歳になった今も、60歳の頃と同じように、『人間、誰しもいつかは死ぬ』と思っているのだが、『すぐ死ぬとは思っていない』のである。

現役を止めて、引退してからも15年になる。

現役の頃は、それなりに『大事なこと、大きなこと』をしてきたと思ったりしていたが、引退後の15年を経験してみて、現役時代やってたことが、そんなに『大きな、大事なこと』でもなかったような気もするのである。

まあ、兎に角『一生懸命生きる』ことだなと思っている。

一生懸命生きれてますか?』と問われたら、胸を張って『Yes』と答えられると思う。

生き方の基本の一つを『差別化』としているので、『ちょっと普通の人とは違った生き方』をしたいと思っているし、それも『できている』と思っている。何事も結構『一生懸命』やる性格で、その対象はその時々『移ってゆく

ちょっと人と違ったことを一生懸命やれなくなったら』自分の寿命というか人生は終わりだと思うのである。

 

★103歳まで生きた母が、101歳を超えたころから、自分の思う通りのことが出来なくなって、『早く死にたい』が口癖になったのだが、若しそのような気持ちになったら、『私の寿命』も終わりなのかなと思っている。

それまでがあと5年なのか、10年なのか、20年なのか? そんなこと言ってても突然、死んでしまうかも知れないのである。

でも、こんなことちょっとでも考えるようになったのは、それなりに歳をとったかなと思うのだが、ベースは体力だろうから、今やれている『50メートルダッシュ』がスムースに走れなくなったら、『年寄りにホントになったな』と自覚しようと思っている。

人間鍛えたら何とかなるもので、今は間違いなく60歳の頃よりはスムースにばたばたせずに、『小学校4年生の女の子と同じくらいのスピードで』走れているのである。

 

 

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憲法改正  雑感

2017-05-27 05:45:23 | 私の生き方、考え方&意見

 ★ Yahooの意識調査で 安倍さんが述べた憲法改正案 についての賛否を聞いている。

その結果は、大勢が『賛成』となっているのだが、若し私に『聞かれたら』質問の意味がよく解らなくて『答えられない』のである。

単純に『憲法改正に賛成ですか?』と聞かれたら。『Yes』と答えるのだが、『憲法9条の条文を維持した上で自衛隊の存在を明記する案』というのがどういうことなのか、よく解らないのである。

 

    

 

 

★私は、昭和20年(1945)8月の終戦の時は、中学1年生だった。その年に朝鮮から引き揚げてきたが、翌年昭和21年4月に旧制中学に入学し直したのである。

少なくとも中学校では、歴史の授業もなかったし、日本国憲法など学校で習った覚えはないのである。

歴史の教科書』がなかったのだと思う。『歴史の授業がなかった』と家内に言うと『そんなことはナイでしょう』というのだが、この戦後の数年間の差は、今の人たちには考えられないような時代の差があるようだ。

中学校では修学旅行はなかった。食料事情も悪かったし、なによりもホテル・旅館がなかったのだと思う。

昭和22年6月11日~13日に 昭和天皇の兵庫県行幸があったのだが、天皇陛下がお泊りになるホテルが神戸になくて 天皇陛下は当時の神戸一中(今の神戸高校)の3階の教室の何室かを改修されてそこにお泊りになったのである。未だ男女共学にもなっていなかったが、私のクラスは『天覧授業』を受けたりしたのである。

少なくとも男女共学になるまでは結構戦前教育の流れがあって、伝統の運動場での立食も経験しているのである。日本国憲法が施行されたのは、昭和22年5月3日だから、その行幸の1ヶ月前のことで、中学2年生の時である。

 

★昨日は、ちょっと『日本国憲法の勉強』をしてみた。

憲法の全文を読んだのは初めてのことである。

最近はGoogleで 検索すると何でも出てくる。

日本国憲法』を検索すると憲法全文が出てくるし『日本国憲法Wikipedia』は詳細に書かれている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95

 

Wikipedia の冒頭の記述の概要である。

1945年(昭和20年)8月15日に、連合国に対し降伏した日本政府は、要求された「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」などにより、憲法改正の法的義務を負い、連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し起草された新憲法案は、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て、11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。  

国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を定め、基本的人権の尊重を掲げて戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。

日本国憲法は施行されてから現在まで一度も改正されていない。そのため、日本国憲法の原本は歴史的仮名遣いであり、漢字表記は当用漢字以前の旧字体を使っている。2017年3月15日現在、改正されていない憲法としては世界最古の現行憲法である。

と書かれている。

 

第1章の天皇から始まって、第11章の補則まで103条から成り立っている。

第一章 天皇    第二章 戦争の放棄    第三章 国民の権利及び義務     第四章 国会     第五章 内閣    

第六章 司法    第八章 地方自治     第九章 改正     第十章 最高法規      第十一章 補則

 

その中で、問題の憲法改正の焦点は 第二章 戦争の放棄  の 憲法第9条でそれはこのように書かれている。

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない
 
 
ムツカシイ 学者先生の憲法論議は別にして、『自ら戦争は仕掛けない』というのは解るが、『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』を素直に読めば、今の自衛隊の持っている『航空機や戦車が戦力でない』というのだろうか? こんなことを言ってるから、不思議な言葉の解釈論争にばかりなるのだろう。
自衛隊』は間違いなく『戦力』だろうと思うが、でないとすればそれは『一体何なのか?』と思うのである。
 
 
9条があれば『日本が守れる』などは錯覚だろう。
世の中の環境はどんどん変わるのに、憲法はそのままにしているのも不思議である。どこの国でも憲法は時代と共に修正されていくのが普通のようなので、『無理な解釈』をするよりは、素直に現状に合うように、憲法の文章を変えたらいいと思うのだが・・・
 
 
でも、第9章の憲法改正の条件がなかなかムツカシイ。
 
第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
 
 
 
憲法の改正は、この第96条の改正手続きも変えたほうがいいのではないかと思う。
自衛隊が軍隊でない とか戦力でない などと言うのでは、普通に考えると解り難くて仕方がないのだが、今のようなムツカシイ改正条件だと、つい用語の解釈変更でお茶を濁してしまうのではなかろうか?
 
 
勉強ついでに『主要国の憲法改正要件』がどんなものか調べてみた。
 
 
 
● アメリカは、連邦議会の両院で3分の2以上の賛成によって、憲法改正を発議します。ただし、州議会の4分の3が要求した場合は、特別に「憲法会議」を召集しなければなりません。国民投票はありません。州にはそれぞれ憲法があり、人々はこちらの改正について直接参加することができます。

● カナダでは、(1)連邦議会の上院・下院の議決(2)3分の2以上の州議会の議決、ただし議決した州人口が全体の過半数あること、によって憲法改正ができるとされています。カナダの州も国家なみの権限を持っています。

● ロシアも州などの意思を尊重します。連邦議会上院の4分の3、下院の3分の2が承認し、さらに共和国・州・地方などの連邦構成体議会の3分の2の承認が必要となっています。

● ドイツ憲法は国会両院の3分の2以上の多数で改正できます。もっとも、上院にあたる連邦参議院は州が代表を直接送り込む議会ですから、やはり州の意思を重視しているといっていいでしょう。
 
● フランスでは、基本的には国会(二院制)による過半数の議決ののち、国民投票による過半数の承認で憲法改正が成立します。

● ベルギーでは、憲法改正の宣言を連邦議会(二院制)が宣言した後、両議院は解散・総選挙を行い、次の国会で両議院の3分の2以上の多数で可決すれば改正が可能となります。
 
どこの国でも、憲法はあるのかと思ったら、『イギリスには憲法がない』そうで、これにはびっくりした。
 
 
 
こんな日本の『憲法改正論議』だが、果たして私に生きてるうちに、『憲法改正』は行われるのだろうか?
 
 

 

 
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三木市長選挙

2017-05-26 06:28:50 | 政治

★ 突然の薮本吉秀市長の辞任表明で、7月2日に市長選挙が行われることになってる『三木市長選挙

 薮本さんは、辞めるのかと思ったら、やり残したことがあるからと再度市長に『立候補』すると言う。

 時間も短いし、対立候補を立てるのが難しいので、それも『薮本さんの狙いのうちかな?』と思っていたのだが、

 ずっと、三木市のことを追っかけている『田舎記者さん』が昨日、こんなブログをアップしている。

 

 

      

 

 田舎記者さん、面識もあるし、お話をさせて頂いたこともあるのだが、ここまで書かれるということは、ほぼ100%間違いないという情報を掴んでおられるのだと思う。

 私は、選挙など元来あまり関心はないのだが、先日こんなブログ『薮本吉秀三木市長 雑感』もアップしているので、

      http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/02bcaa2ff227460379280043a2db2caf 

  今回の選挙に関しては『無関心』というわけにもいかないのである。

 

 私自身は『三木市長』は『薮本吉秀さん以外なら誰でもいい

薮本さんだけにはなって欲しくない』と思っているのである。

 

前回のブログにこんなことを書いたので、仲田さんを知ってるわけではないのだが、

若し仲田さんがホントに立たれたら、少なくとも1票は投じることになるのだろう。

 果たして、どんなことになるのだろうか?

 

 

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カワサキの二輪事業と私 その55 昭和59年(1984)

2017-05-25 06:18:22 | 自分史

昭和59年(1984)当時の出来事を見ると、こんなのが並んでいる。

  • 1万円・5千円・千円の新札発行 ●グリコ・森永事件 ●世界一の長寿国に ●日本初の衛星放送始まる ●日経平均株価が初めて10,000円の大台を突破

日本も新しい時代に入った時代だが、『カワサキの二輪事業』もようやく危機の時代を乗り越えて、新しい時代に入っていこうとする年だと言えるのだろう。

 大庭本部長・高橋副本部長・田崎KMC社長 の時代である。

 

     

 

 

再建屋として単車事業部に来られた大庭浩さんは2年目で、新発売の Ninja 900R も好調だった。

    

     

 

 本社財務に支えて頂いて、特に当時の松本新さん(後川重副社長)は、良き二輪事業の理解者だったし、毎月の取締役会ではKMC報告を直接なさっていて、その資料を私が作成して松本さんに報告をしていたのである。

 

   

 

 こんな懐かしい写真をみんな田崎さんが送ってくれたのである。

 

 

前年度に懸案であった販売会社の経営改善は全世界の販売会社の期間損益はの黒字化が達成されて、その目玉のKMCも何年か続いた大幅赤字で当時はまだ38百万ドルもの累損を抱えていたのだが、83年度には5百万ドルの黒字化が達成され、その累損消去の第1年度が始まったのである。

そんな上向きの兆候が見え始めたのだが、その経営改善の第一は財務対策による営業外損益の改善で、固定費の削減なども大きかったし、特に売上高が増えた訳でもないのだが、対策の方向としては間違っていなかったのである。

当時のKMCは事業所がサンタアナ市の4か所に分散していて、経営効率も悪かったし、経費節減などでムードもあまりよくないし、『何か前向きなことはないかな』と思っていたのだが、

83年の7月にKMCに出張して、アナハイムでゴルフをした帰りの車の中で、田崎さんと二人で、『4か所に分散している事務所を1か所に統合しては・・』という話をふとしたのだが、この『新社屋話』は、その後トントン拍子で進んで、84年の後半には、川崎重工本社の承認を得て、『土地の取得と社屋の建設計画』が具体的に進むのである。

 

★そんな『新社屋話』について田崎さんが写真とこんな文章をメールして頂いているのでご紹介する。

 

1983年の終わり頃になると、次の課題は、電算センター、R&Dセンター、西部支社兼部品センターと本社の4か所に分散されている機能の集約、新本社ビルの建設であった。本件は、古谷さんとは内々に話し合っていたように思う。1月早々に、とても良い土地が見つかったというのですぐ下見をした。素晴らしい環境で、一目で惚れ込んだ。この新しい土地は、当時保有していた土地社屋と、おおむね等価交換できるものだったので、こんなチャンスを見逃してはならないと、KHIには事後承認をとることにして、すぐ手付をうった。新社屋が完成したのは、1986年の4月である。

このプロジェクトは、大西副社長の意向もあって、鹿島建設と決めていたが、米人役員の手前もあって、一応フェアーな競争という形をとった。米人役員に「忖度」というメンタリティがあったかどうかは知らないが、幸い全役員が鹿島建設の提案を支持してくれた。早速、鹿島建設が造った模型をもって日本へ飛び本社のOKを貰った。後は1985年5月の地鎮祭、1986年4月の竣工と移転、6月のKMC20周年記念を兼ねた開所式(Grand Opening)と順調に進んだ。

 

その当時の写真を送って頂いている。

 

これは、川重の承認を得た直後、現地を視察された大西副社長を、田崎さんと二人でご案内した時の写真である。この年の10月中旬のことである。

元々、この地図の左上のサンタアナの55号線沿いに4か所の事務所があったのだが、右下のアーバインの5号と405がぶつかった右上が当時はまだ広大な土地を開拓中で、そこに移ることにしたのである。

 

     

  

     

 

 これは Google マップ からの写真で、今はまた別の土地に移ったがこんな土地と建物だった。このGoogle の写真だけはまだKMC時代で、建物の向う側にいるトラックの屋根には拡大すると Kawaswaki の文字が見られるのである。

 

 

  こちらはたまたまだが、2年前にアメリカに行ったときに、懐かしいので私自身が撮ってきた写真である。

 今はKMCの事務所は、この近くだが別のところに移転している。

 

    

 

     

  地鎮祭などの写真もあるのだが、翌年のことなので、85年の話は、次回に・・・

 

★この年の幕開けは、ハワイでの全米のデーラーミーテングだったのだが、大庭本部長ご夫妻が出席されている。

 日本では考えられないほどの規模と豪華さなのである。

 

       

 

田崎さんは、その時の様子と、その時起こった大変な出来事をこのように記している。

 

さて1984年は1月末にハワイで全米ディーラーミーティングを開催、2000人を超えるディーラー夫妻と関係者を前に、大庭本部長夫妻の初登場、NINJA900」をフラグシップとした新生KMCの晴れやかな幕開けであった。ところが、打ち上げ花火で盛り上がりの真っ最中、とんでもない情報が入り冷水を浴びせかけられた。

KMCが販売したポリスバイクに対するPL訴訟が敗訴となり「100億円の損害賠償が課せられた」というのである。これはテキサス州における、8人のライダーによるクラスアクション(集団訴訟)で、場所がテキサス、相手がポリス集団、という最悪の状況での陪審員による評決であった。すぐ部屋で休養中の大庭本部長に報告したが、第一声は「モーターサイクルは危険商品だな」「これはすぐに本社の支援を要請せねばならん」というものであった。これが大西副社長を経由して、本社法務部の小里さんの出馬となるのである。

この問題にはかなり手こずった。高速ワブリング(揺れ)現象でライダーが転倒負傷し、製品欠陥であるとされ、NHTSA(運輸省調査局)、CHP(カリフォルニア ハイウエーパトロール)、LAPD(ロス市警)、さらにはCPSC(消費者安全委員会)が関与、そしてカナダにまで飛び火するのである。

カワサキの立場は、車の整備不良、ライダーの技量不足、無理なライディング、が原因であるとするものであったが、相手を納得させるには、高速で安全に走ってみせる事が一番だと、後に田村品証部長が清原ライダー、(坂上?)メカニックと共に、全米各地に販売されたポリスバイクのサービスキャンペインを展開した。2年以上かかった困難なプロジェクトであった。田村さんなら一冊の本が書けるだろう。その後、これを見た原告側の姿勢が軟化し始め、早く示談金を貰って離婚に備えたいというメンバーも出てきて、PL保険会社の東京海上と相談しながら、10億円(KMC負担は1億円)で和解し、リコール問題も消えた。 以後KMCのリーガル部門は小里さんを中心に強化されていく。

田村さんには本当にご苦労をかけたKMCの一大事件であった。清原ライダーがポリスバイクに乗ってフリーウエイを走行中に、ポリスに捕まり、以後彼は「I can not speek English!]と書いた札を首にぶら下げて走った、というエピソードもあります。

 

田崎さんのあとのKMC社長であった百合草三佐雄さんも、この100億円の白バイ訴訟の件を、『カワサキZの源流と軌跡』の中でこのように披露している。 当時の小里さんの名前も出てくる。

  

 

 ★この話にもあるように、当時のアメリカは、PL真っ盛りの時代で、あまりにも多くのPL訴訟が起こりその金額が膨大なので、その後日本の保険会社も軒並みアメリカPL保険は除外するというようなことになったのである。

そんなこともあって、当時のカワサキの職制には『PL班』もあってその長は田村一郎さん、アメリカに、自らPL保険会社を創ったりもした。川重法務部の専門家小里弘道さんがこの年以降数年KMCに出向して手伝ってくれたのである。

兎に角、ただ二輪車を売ってたらいいという時代ではなくて、次から次にいろんなことが起こって、その障害を乗り越えて行った時代だったと言っていい。

 

 

     

 

 ★この年の6月、大庭本部長は『ATTACK 60』という経営目標を指示されるのである。

 前年度で、全販社の黒字健全化は達成できたが、この『ATTACK 60』とは、販売会社30億、事業本部でも30億、合計60億円の利益をめざそうというものである。

この対策を全グループでそれぞれ目指しその統括は企画室で担当したのだが、具体的な方策として『ジェットスキーのエンジンのボアアップ』と『GPレースからの撤退』は、私自身が関係したことだったのである。

 

ジェットスキーは、当時はアメリカだけで売られていて、年間6000台ぐらいの安定販売だったのだが、カワサキ独自の製品だったし、その利益性もよかったので、その倍増を狙ってそれぞれのエンジンのボアアップを図り、60年度には15000台を狙う計画を組んだが、現実にはそれ以上2万台の販売実績となって、大きな新市場が出来たのである。

 

     

 

 同時に、日本国内でもその販売の拡充を狙って、そのレース組織 JJSBAの設立のために、苧野豊秋KMS社長と一緒にアメリカに行って、田崎さんがアメリカのジェットスキー協会との橋渡しをして頂いたのである。

 この年、日本のJJSBAは設立され、その初代会長には苧野さんがなられて、当時の西部自動車のメンバーたちと一緒に日本のジェットスキー・レースの基礎を創られたのである。

 

      

 

 

もう一つの『GPレースからの撤退』は非常に苦しい判断ではあったが、GPレースはやりかけると幾らかかるか解らないようなところがあって、事業本部の黒字化をめざすには、『撤退』は一時的には仕方がなかったのである。

 

    

 

当時は KR250/350の全盛期でヨーロッパGPを席巻していた時代で、ほんとに苦渋の決断だったのだが、この話をアメリカで田崎・古谷・百合草のかってのレース仲間で話し合ったのである。百合草さんは猛烈に反対したのだが、事業部の黒字化のためには、仕方がなかったのである。

ただ、全くレースの世界から撤退したのでは、復活が大変なので国内のレース活動費として、『Team Green 』を創って平井稔男さんに数千万円を渡しその運営を託したのである。 

これ以降数年、カワサキのファクトリーチームの活動はなかったが、国内はTeam Green が、ヨーロッパではカワサキフランスが耐久レースでの活動で、カワサキのレースを支えてくれたのである。

当時のカワサキフランスは伊藤忠の資本で、遠藤治一さんが社長だったのだが、この方がまためちゃめちゃオモシロくて、山田副社長とも親しかったし、私も懇意にして頂いて具体的にその経営のお手伝いもしたのである。

そんな関係で、遠藤さんは今でもZ1会のメンバーで年に何度かお会いして旧交を温めているのである。

 

いろんなことがあった1年だが、やはり『KMCの新社屋』が一番大きな出来事だっただろう。

社屋の完成は86年4月なのである。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

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神戸商大のこと、久留島さん、小山くんのことなど・・

2017-05-24 06:40:54 | 発想$感想

 ★昨日、大学の野球部のOB会のゴルフコンペのことを書いた。

その打ち上げ会の席上で、幹事の川口君がこんな神戸高商・神戸商大運動部のことなど書いた16ページにわたる文章を渡してくれたのである。

 

  

 

  読んでみて、不思議なほど私も関係のあることが書かれているので、ちょっとその感想を纏めてみたい。

 

★この文章を纏めているのは、ラグビー部の学部7回卒の野田五郎さんで、よく知っている。

私も学部7回卒にはなっているのだが、大学に5年行ったので野田さんはホントは1年後輩、私はOB会会長をしている滝川博司さんと同期の学部6回の年次なのである。

卒業後も野球部とラグビー部のゴルフ対抗コンペなどあったので、その幹事役もしていた野田さんをよく知っているのである。

 

 この冒頭の文章に『宇治電』とか『田口政五郎』さんの名前が出てくる。

 『宇治電』は山陽電車の前身だが、その設立には当時、電力事業をやってた祖父が関係していたようだし、私は明石で生まれ、本籍も明石で、戦後は朝鮮から戻ってきて、田口政五郎さんは私の高校・大学時代の市長さんなのである。

 

 

  

 

そのあと、各運動部のことが書いてあるのだが、戦前・戦後は神戸高商は、結構野球は強かったようである。

ここに出てくる久留島良三さんは、私にとっては明石高校・神戸商大とも野球部の先輩で、久留島さんが全日本代表に選ばれたころのメンバーは華やかで、後タイガースに入った別当薫さん、後藤次男さんなどもいた。明石球場で試合があったりしたので、私は中学生だったが、久留島さんの現役時代を知っているのである。

 

★そのあとに出てくる 小山修身くんが神戸商大に入学してきた年は、実は私は5回生で野球部の監督をしていたのである。

ホントにたまたまだが、先日巨人の菅野投手の連続無失点の話題があったので、それにひっかけて『書いたブログ』をもう一度再掲してみる。

 

 ★ 実は私自身は、『連続完封』をやったわけではないが、1年間神戸商大の大学野球の監督をやってた時代に、当時1回生だった小山修身くんが『53イニング連続無失点記録』を達成してくれたのである。

点を取られなければ、『野球は勝つ』と言っていい。 だから『野球はピッチャーだ』と思っている。

この小山投手のことを ずっと昔に、こんなブログで紹介している。

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/d21821198f26da39c70d83cfbe7c6d12

 

 ちょっとはしょって紹介すると、

 

 
旧い日記をめくっていた。昭和31年、1956年のこと。

大学の5回生の頃である。5年大学に通った。卒業できなかったわけではない。
卒業を1年延ばしたのである。・・・・・・・・

野球部のキャプテンをやっていたが、満足できていなかった。
もう1年延ばして監督をと野球部長に奨められたりした。ちょっと身体を壊したりしていて、それも理由の一つであった。
結局、野球部長のゼミだけ残して、卒論を書かずに残留して野球部の監督をしたのである。・・・・・・・・


秋のリーグ戦のことである。
1回生の投手小山修身君が凄い記録を作っている。これは、意識的に『造った記録』である。

11月2日市大戦。7-1で勝つ、小山完投、ここからスタートしている。

1週間空いて後半戦
11月7日市大戦。2-0と快勝した。
11月8日工大戦。1-0で勝利、小山の連投で順調にリーグ戦を立ち上がった。
11月9日工大戦。0-09回引き分け、3連投である。

ここまでは、惰性できた。3連投も凄いし無失点も凄い。前週の市大戦からだと29イニング連続無失点である。
7-1と1点を取られた1点もエラーからだから、36イニング連続無自責点である。ひょっとしたら『新記録ではないか』と思った。

ここからは正直記録を意識した。本人もひょっとしてチームメイトも記録については知らなかったと思う。
翌日の経大戦は『行けるところまで』と記録を意識して小山でスタートした。

11月10日経大戦。4-0 9回2,3塁の危機を見逃しの三振で完投完封。


そして翌週、ここまできたら小山しかない。
11月14日経大戦。4-0とまたも完封勝利。5試合無失点である。
11月15日薬大戦。13-3ここで記録は途切れた。

小山修身君の記録は53イニングス連続無失点61イニング連続無自責点である。
薬大戦の1点目も野手の悪投によるもので自責点記録は更に2イニング伸びて61イニングだったと思う。

これは、間違いなく学生野球の記録で、たぶん今も残っているのではないだろうか。
少々、無茶苦茶だが連日連投、記録の間一切他のピッチャーは投げていない


小山君とは今でも家も直ぐ隣町で、年に何回かゴルフもするし野球部のOB戦でもお会いする。
この話も昨年出た。彼は記録のことは途切れるまで知らなかったと言う。

昔はホントに記録など眼中になかったのである。
明石高校の頃、チームが夏の予選で灘校相手にパーフェクトゲームをやったが、試合終了後球場の『この試合は完全試合でした』というアナウンスで初めて知った。
同期の溝畑圭一郎投手である。


そんな時代だった、当時は新聞などでも取り上げられなかったと思う。
もう50年以上も前である。
小山君の名誉のためにこのブログを贈りたい。
 
 
 
★こんなブログをアップしているのだが、最後のほうに書いている、明石の『パーフェクトゲームの話』その相手校は灘高校なのだが、冒頭の野田五郎さんは『灘高校出身』なのである。
そんなことは知らなかったのだが、何時だったか野田さんのほうから私に『明石には完全試合をやられた』と言っていたのである。
 
それは昭和25年の夏の予選のことで 5-0で明石が勝っているのだが、若しもう2点でも取っていたら、コールドゲームになっていて、完全試合にはなっていないのである。
昭和25年は、私は高校2年、野田さんは高校1年生だったのだと思う。
 
 
 
 
 
 こんな写真が私の手元にある。
 
 野球部のOB総会の前の、野球やソフトボール大会の時の写真だが、顔は見えないが一番左が小山修身くんである。
 そして、真ん中後ろ姿が、久留島良三先輩である。
 
 こちらを向いてる方が、私の2年先輩OB会長も勤められた太田武郎さん、昨日のゴルフもご一緒した。
 
 黄色いジャンパーはご存じも方も多いかも知れない。川崎重工業の後輩でもある、原田紀男くんである。野球部OB会の前会長、この当時は多分、会長を務めていた。
 
 そんな久留島さんと、小山くんが顔は見えないが一緒に写っている珍しい写真なのである。
 

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野球部のOB会の ゴルフコンぺ 雑感

2017-05-23 06:11:55 | スポーツ

★ 播磨カントリークラブで大学の野球部のゴルフコンペがあった。

 

     

 

最近は、ゴルフも最高で年6回、カワサキのZ1会の年4回のコンペと、大学野球部のOB会の年2回のコンペ以外は一切やっていない。 今年はこれが2回目のゴルフである。

ゴルフをすると言うよりも、旧友たちに会えていい時間が過ごせるというのがいい。

Z1会が三木セブンハンドレッドクラブ、野球部のOB会のコンペは播磨CC と家から20分以内のゴルフ場だということも参加している理由の一つだし、播磨はかってのメンバーコースなので、攻め方などはよく解っていて、そういう意味でもオモシロィ。

昨今は、全然スコアに拘らないゴルフだったのだが、4月のZ1会のゴルフのスコアが散々で、大槻さんにも負けてしまったので、昨日は結構ちゃんとスコアに拘るゴルフをしたのである。

今は、年寄りで前から打たせて頂けるので、ドライバーを使わずに5番アイアンでテーショットを打ってみたのだが、そのほうがスコアとしては纏まって、昨日はアウト・インとも40台で回れたし結果準優勝で、グロスでも3番目によかったので、気分がよかったのである。

野球部のコンペだから、ボールを打つことには慣れている人たちだが、野球部の連中が必ずしもゴルフがうまいとは限らないところがオモシロい。 野球部でゴルフの上手いのは不思議なことにプレイヤーよりはマネージャーの人のほうがローハンデイなのである。こちらは止まっているボールを打つので、やはり練習をしないとダメだと思う。

私は42歳でゴルフを始めたのだが、最初の頃は熱中して練習もしたので、ゴルフを始めて2年目で播磨の会員になって、半年ちょっとでハンデイ10までにはなったのだが、それ以降はシングルは目指さずに、月例にも出なくなってしまったのである。

そんな性格なのである。何事も『そこそこのレベル』までは一生懸命やるのだが、それ以上の上は目指さない。そこから先は『専門家の分野だ』と思ってしまうのである。

囲碁初段の免状を取れと言われて止めてしまったし、ダンス教師の免許をとれと言われて止めてしまった。ゴルフもシングルには成れると思ったが、片手シングル5以下はムツカシイと思ったし、碁も2段は取れても、それ以上は無理というか、『楽しい世界』からは遠ざかってしまうと思うからである。

 

84歳になってるが結構飛ぶ。

昨日も後半3回ほどドライバーを打ってみたが、50歳代の頃と殆ど変わらぬ飛距離が出る。メンバーコースであった播磨なのでそれがよく解るのである。

ただ第1打が飛んだからと言ってスコアが必ずしも良くなるとは限らないのがゴルフで、スコアはやはり『寄せとパット』かなと思う。今、スコアが纏まらないのは『パット数』が40を超えたりするので、よかった頃の30~33と比べて8~10打も違ってしまっているのである。スコアに拘って、寄せとパットを真剣にやらないと、アマチュアのゴルフでも、80台で上がるのは難しくてすぐ90台のゴルフになってしまうのである。

それでも昨日は、アウト・インとも40台後半で回れて、後輩たちを差し置いての準優勝だったから気分良かった。

4組のコンペで、私より年上の先輩が二人おられるが、私は上から3番目である。優勝者は同じ組から出たのだが、彼が私がアイアンばかりでテーショットをするものだから、『ドライバーを使えと』言うので、ドライバーを使ったら3回ともオーバードライブしたのだが、スコアがよかったわけではなかったので、やはり寄せとパッとかなと思う次第なのである。

  

  

 

 ご覧の通り、結構若いのである。

 テーショットを前から打ったのは、4人だけであとはみんなレギュラー・ティーからである。

 そんなハンデイを貰っているので、スコアがよくても当たり前なのかも知れない。

 

 今年のゴルフ、6回のうち2回は終わった。

 来月、Z1会のゴルフがあって前半終了。 そのあとは9月からである。

 6月のZ1会は、すでに申し込んであるので、今年も3回は間違いなくゴルフをすることになる。

ホントにやるなら『84』で上がれば『エイジシュート』でそんなにムツカシクはない『普通のスコア』だとは思うのだが、何故か気合がそこまでは入らないのが、今の私のゴルフなのである。

それが、やはり『ムツカシイのかな』と思うのである。

 

 ★ちょっとだけ撮った動画と写真を幹事に送ってあげたら、すぐ参加者に送られたようで、

 

 

 後輩の中に、元川重の社員で、私の最後の勤めの北海道川重建機で一緒だった『花房くん』がこんなメールを送ってくれた。

早速、本日のコンペの動画をお送り頂きありがとうございました。数年ぶりにお会いしましたが、昔と変わないお元気なご様子何よりです。現在も色々な事にチャレンジされている事をお聞きし、小生も何かにトライしたいと感じました。体力面でも色々努力をなさっているご様子、感心しております。これから益々暑い日が続くと思いますので、お身体ご自愛頂き、秋のコンペで又、お元気なお顔を拝見したいと思っています。  花房 

 彼は野球は川重でも硬式野球部にいた『本チャン』なのだが、何故か北海道時代から、ゴルフは私のほうが上だった。でも、こんな懐かしい人に会えるのがいいし、すぐこのように反応してくれるのがいい。

花房が、こんなに言ってくれるのなら、ほんとにゴルフも『頑張ってみるか』と思ったりするのだが・・・

 

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大西畔さん と 山田熙明さん 

2017-05-22 05:42:23 | カワサキ単車の昔話

★このところ、ずっと『カワサキの二輪事業と私』と題した 自分史を田崎雅元さんが手伝ってくれている。

昨日は写真をいっぱい送ってくれたのである。 

そんな中に写っている 大西畔さん、山田熙明さんは、お二人とも当時の川重の副社長で、私や田崎さんはなりたての新米部長で、職位だけでで言うと、直接話をすることすら普通ではないのだが、この時代は『KMCの大赤字対策』が即『川崎重工業の最大の経営対策課題』であったことから、私も田崎さんも副社長直接にいろいろと対策案などのお話が出来たりしたのである。

 

アメリカのKMCで、新社屋の土地を見たり、そのあと大西さんをリンカ―ンまでご案内したことはよく覚えているのだが、それがいつのことだったか、どんな経緯だったのかは全然覚えていないので、人間の記憶などは頼りないものである。

当時の日記をひっくり返して調べてみると、84年の10月8日に、田崎さんが日本に来てKMCの事務所の件など検討していて、翌日川重本社に大西副社長を訪ねてこの件のご説明などして、社長・副社長の承認をとっていて、翌週17日に大西副社長がアメリカ出張されるのに合して、田崎さんと私がアメリカまで同じ飛行機でお伴して、そのあと私はリンカーまでご一緒しているのである。

 

    

 

これはアメリカ市場視察でKMCの新社屋用地をご覧になった時の写真である。

 

大西畔さん はずっと本社財務育ちで、私は1979年に『カワ販再建』のためにカワ販常務になるまでは、お目に掛ったこともなかったのである。

ハーレーダンピング訴訟』対策を担当していた田崎さんが、その対策として『国内の販社の構造対策の必要性』を提言したのだが、その具体的な対応策の立案がなかなか、ムツカシクて最後に私にお鉢が回ってきて、その対応案は『私が創った』のだが、まさか自分がやるとは、全然思ってもいなかったのである。それまでのカワ販を統率しておられたのは、元川崎航空機の取締役をされていた田中誠社長だったのである。

そんなグループの長を、まさか課長の私がやるなどは、『考えられなかった』のは当たり前のことなのだが、その指名を髙橋鐵郎さんに直接されたのが、大西副社長で、川重副社長のご指名だったので、私のカワ販常務が実現したのだと思う。

ただカワ販再建問題も大問題だったので、その後は毎月大西副社長にカワ販の状況報告をしていたので、79年1月以降は毎月お会いしていて、非常にラッキーだったには、FX400が出てバカ売れしたので、カワ販の損益は黒字どころか、かっての累損も消去できて、そんなことで『信頼』が得られていったことは間違いないのである。

販売会社にも非常に興味を持たれて、何度もカワ販の会合に出席いただいたりしていたのである。

サンタナでも、翌日のロスの銀行挨拶周りでも、夜もご一緒したのだが、田崎さんは『社長』と呼ばれ、大西さんは『副社長』と呼ばれるものだから、『やはり副社長よりは社長のほうがいいな』などと、仰っていたのである。

 

   

 

これもその時の写真だろうと思うが、ヨコにおられるのは田崎夫人なのである。

この出張は、大西副社長とご一緒だったので、South Coast Plaza や、ロスでは『ホテル日航』など一流ホテルに泊めて頂い    たのである。

 

 ★こちらは山田熙明さんで、至極くつろいでおられるが、KMCの運動会の会場だそうである。

 

    

 

山田さんとは レース創世期には、単車の技術部長だったので、ライダー契約やレース現場でもご一緒したりしたので、当時の田崎さんや私には、何か『仲間意識』のようなものをお持ちなのだろう。

この写真の当時は、川崎重工業副社長で、『単車事業再建対策委員長』という厳しい要職にあったのだが、田崎さんとこの運動会での山田さんのこの表情からは、ホッとされているところがみえて、ほんとに山田さんらしさが出てるなと思っている。

 

山田さんには、特に私は神戸一中の後輩だということで、特別に目をかけて頂いたように思う。旧い神戸一中の先輩たちの意識の中には何か『男女共学になってからの神戸高校』は『神戸一中ではない』という不思議な感覚をお持ちのようなのである。

確かに、かっての神戸一中は『昼飯は校庭で立ったまま食う』というようなところがあって、男女共学になってからは、『立食』の風習は残っていたが、流石に運動場で食う立食風習は無くなっているのである。

昔の男女共学ではない神戸一中だけが、ご自身たちの母校だと思っておられる節があって、『お前は旧制の神戸一中か』と言って、面倒を見て頂いたのである。ちなみに私は旧制中学の最後の学年なのである。

確かに、中村冶道さんという明石高校の先輩もいたのだが、かって女学校だった明南高校が甲子園に出た年に『女学校が出てるのに明高は何をしとるのか』と明石高校野球部OBの私に文句を言われたりしたのだが、同じような感覚かも知れない。

中村治道さんは、あのカワサキの青野ヶ原のモトクロスの旗を振られた 熱血漢である。

 

   

 

 田崎さん、こんな写真も送ってくれている。

これは、その翌月、KMCのデーラーミーテングの機会に、当時国内にジェットスキーのレース組織、JJSBAを立ち上げるべく渡米された苧野豊秋さんをアメリカのジェットスキー協会と田崎さんが繋いでくれた時の写真である。

苧野さんは、田崎さんはジェット時代、私は単車に来てから国内関係ではずっとお世話になった上司なのである。

奥寺課長や石川薫さんなどの懐かしい顔も見える。

私も50代前半だから、結構スマートなのである。 懐かしい時代である。

 

カワサキの二輪事業と私』は、このほかの写真もいっぱいなので、別途アップしたいと思っている。

  

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 父の絵 と 人の運

2017-05-21 06:20:47 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★土曜日の朝、北鈴蘭台に住んでいる妹のところに、『京鹿の子』を二株届けてあげた。

 玄関に先日家に遊びに来た時にあげた 我が家のバラを生けていた。

 

    

 

 応接間に、父の画いた掛け軸があった。

 

    

 

 戦前、朝鮮京城の桜が丘の家にいたころ画いたものである。

 母の妹宅にあげていたのを、戦後妹が貰い受けたそうである。

 

  

 

 素雪は父の号だが、遠い親戚の画家 橋本関雪に絵を習ったようで、そこから頂いたようである。

 絵は関雪に、書は関雪の父の橋本海関 に習ったというのが自慢の父だった。

 私が小学生の頃だったが、父は勤めてはいなかったので、家で絵を画いたりして過ごしていた。

  

   

 

 関雪の絵がいっぱいあって、この絵も橋本関雪の絵の模写だと思う。

 

 橋本関雪は著名な画家である。

 

      

           

父は、何年か病気で寝ていたが、私の高校3年生の正月1月2日に他界した。

マイシン1本が当時の土地一坪に値する時代で、その治療費が大変な時代だった。伯父が治療費が要らなくなったから大学に行けというので、突如私は大学を受けることにした

高校からすぐ社会に出るつもりだった。私を大学にやるために父は突如正月に死んでしまったのかも知れない。確か1月1日は、機嫌がよくて書を書いたりもしていたと思ったのだが・・・

 

 ★昨今つくづく思うのだが、人の人生はひとえに『その人の持ってる運』のような気がする。

そういう意味では私は『めちゃめちゃ運がいい』と思っている。

父が若しもう少し長く生きていたら、『私の人生』はまた違ったものになっただろう。

昨日は『カワサキの二輪事業と私』 大庭浩本部長のことなど書いて、Facebook では沢山のコメントや『いいね』を頂いたが、83年当時お世話になった方々、大西さんも、山田さんも、大庭さんも、高橋鐵郎さんももうこの世にはおられない。

私自身は、お蔭様で元気だがもう84歳にもなる。人生で2度ほど死にかけたが、いずれも何となく『いい巡り合わせ』で助かった。 

田崎雅元さんが今年突如、元気になった。田崎さんも『いい運』をお持ちだと思う。昨年末から突如以前と同じように復活して、『カワサキの二輪事業と私』を手伝ってくれてるのは、私にとってもほんとに幸運である。

昨日も当時の写真と共に、次回84年のことメールでいろいろと書いてきてくれたのである。

昨年から書きかけた自分史だが、ちょうど田崎さんとの協働が始まるところから、田崎さんが復活したのも、本当に不思議なご縁だと思うし、『運がいい』としか言いようがない。

 

★ いまは、1日のうち10時間もパソコンの前に座っていることが多いのだが、現役の頃はパソコンは一切使わなかったが、引退後娘婿に余ったパソコンを買わされて、『パソコンの世界』に入ったのである。

もし、いまネットの世界に入って居なければ、この10年の生活は間違いなく違ったものになったのだろう。

1月に田崎さんが復活して、川重のOB会の相信会に行こうと誘ってくれなければ、相信会には行っていないし、ロボットの橋本さんの講演も聞いていない。

ロボットなど興味も持っていなかったのに、これがご縁で3月、4月、5月とロボットの方とお会いした。

そのロボットの『情報発信』には、Instagram がいいのではと 4月に勝手に Instagram を始めてみたのである。

 

    

 

 1ヶ月経って、いまフォロワーは、3200人ほど、フォローしている人は今は14人と、娘や孫や、ほんとに親しい人だけに削ってしまったが、半月前は『フォローのMAX7500人まで極めたのである。

 若し、田崎さんが復活していなかったら・・・ロボットに出会っていなかったら・・Instagram  などやっていないのである

 ブログ・ツイッター・Facebook とそれなりにいろいろやってるが、Instagram  はルールは、単純だが反応は Facebook やツイッターより『早い』し、なんとも言えない面白さがあり、繋がる末端の『ユーザーの人柄や、性格』が『写真』を通してより鮮明に解る。=マーケッテングできる楽しさがあるのだが、こんなことはこれくらい『一生懸命』やってみないと解らないのである。

さて今から、具体的にどのように対応しようか、と思っている土曜日である。

この辺の『差別化できている発想』は、若い人に絶対に負けていないと、自負しているし、そんな勝手な自信が健康に繋がっている。

 

努力もあるけど、そんなのはみんな『その人についている運』だし、その小さな『キッカケ』を見逃さないことである。

殆どの方が、そんな『いい運のキッカケ』を見逃してしまっているのではないかと思っている。

 

 

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カワサキの二輪事業と私 その54 昭和58年(1983)

2017-05-20 05:27:05 | 自分史

昭和58年(1983)は、アメリカのKMCの経営の危機が言われ始めて3年目に入っていたと言える時期で、『カワサキの二輪事業再建の目途が立った年』なのである。

80年あたりから川重本社財務部門が乗り出してその『対策』を建てたのだが、81年度もその効果は現れず、82年4月からは当時の単車出身の山田専務が対策委員長となってその具体策に乗り出されたのである。

82年10月には高橋鐵郎さんがKMC会長から企画室長に戻られ、私もカワ販常務から企画部長に呼び戻されることになるのである。

この時期の問題点『海外販社の赤字』を止めることであって、別に製品や明石の生産構造などには大した問題もなく『販売会社の経営対策』だけだったのである。

そういう対策だったので、明石の企画の政策立案とそれを受けてやる現地の販売会社社長との連携が中心課題であったことから、その対策に当たった人はホントに限られていて、大勢いた技術屋さんには何の関係もなかったのである。

中でも一番問題であったのがKMCだったので極言すると、『私と田崎さん』の二人の新米部長がその対策の焦点だったのである。そしてそれを陣頭指揮されたのは83年6月までは山田専務で、7月からは再建屋と言われた大庭浩本部長が来られるのだが、対策の中心は『財務対策』であったことから、私や田崎さんの報告先は事業本部長ではなくて、川重本社の大西副社長、堀川常務、松本取締役であり、その方たちと一緒に さらに川重社長への経営会議を経て、取締役会に報告するという普通では考えられない体制だったのである。

83年の株主総会は、この単車事業の影響で川重は無配転落ということだったので、川重自体の対策として進められていたのである。この年の4月からは毎月取締役会でKMC問題が報告され、その報告者は単車事業本部長ではなく財務担当の松本取締役で、その報告書は、KMCからの報告を受けてが作成し、それを松本取締役に報告するという状況が続いていたのである。

 

★こんな状況に追い込まれてしまった理由はいろいろ考えられるのだが、HY戦争がアメリカまで飛び火して、4メーカーの競争が激化したこと、それ以前から日本の4メーカーのアメリカ市場への進出が厳しくて、ハーレの経営を圧迫したことなどがいろいろ重なったりしたことなどが原因なのである。

当時アメリカを担当された田崎さんは、このように言われている。

 1983年は、またもやハーレーの要請にもとづく米国ITCによる救済処理勧告で幕をあけた。ハーレーを救済するために、日本の大型二輪車の輸入を6千台に制限し、それを超えるものには追加的な高関税を課す、というものである。米国当局は、我先にと輸出してくる日本四社に公平を期するため、西東の港湾、時差などを考慮した特別プロジェクトチームを立ち上げ対処しようとしていた。それが何と、6001台で輸入がピタリと止まったのである。ちなみに高関税を支払った1台はカワサキであった。

 唖然とした当局は、ライバルどうしで話し合いによる調整が出来る日本の業界に不信感を抱き、そんなことが出来るのならと、後の自動車の対米輸出自主規制要求へとつながっていくのである。 政府の介入による数量割り当ては、独禁法違反にはならないのだが、そもそも米国では、政府が生産数量を割り当てる事などあり得ない事なのである。 

 

これはこれでまた大変だったのだが、82年までのKMCの赤字の原因は、スノーモービルの赤字や、在庫過多によるリンカーン工場の生産減少による赤字が大きな原因の一つだったのだが、この年からはその対策は終了していて、

この問題は米国産業として認められているリンカーン工場を持つカワサキには追い風であり、他の三社には無言の圧力をかけていた事になる。こんなこともあり1983年は、大きな改革の山場を越え、KMC,KMMともまずは順調なスタートを切ったのである。

 

★いろいろあったが、前年10月からは海外販社の経営対策は、明石に関連事業課を創って、中央コントロール体制で世界の販社の事業計画の骨子は協働して創るという方向を徹底していて、83年度の事業計画は全販社黒字計画が組まれたし、前年まで大赤字であったKMCの事業計画も288千ドルの黒字計画が組めるまでになっていて、ほぼ計画通りの推移をしていたのである。

こんな販社やKMC対策を具体的に進めてくれたのは、新設した関連事業課の五百井・湯朝さんやカワ販から復帰した前田裕作と繁治コンビ、それに何よりも本社から参画してくれた小川優さんなど、財務・経理・販売に詳しい人たちやそれを受けてくれたKMCのカワ販から逆出向してくれていた富永・日野コンビ造船から援けてくれた実務家の奥寺課長、本社財務の当時は若手の中村・松岡さんなどホントに川重の事務屋の総力を挙げての対策だったから出来たのだと思っている。

この年の前半までは、本社サイドからも未だ100%の信頼はなかったのだが、7月大庭浩本部長が来られるころには、それなりの信頼が芽生え始めていたのだと思うのである。

3月頃に次期本部長には『大庭さん』という噂が出たころには、大庭さんと一緒に来る人の名前がいろいろ取りざたされていたのだが、最終的に大庭本部長が来られるということを6月大西副社長から伺った時は『大庭くん独りで行くからよろしく』と髙橋さん、私、小川優さんに直接仰られたのである。その頃には何とか単車の印象も幾らかよくなっていて、『その信頼』も幾らかは芽生えていたのかも知れない。

 

★大庭浩本部長は、7月に単車に来られた。前評判は無茶苦茶怖い』ということだったのだが、単車の何事も本音で言う雰囲気が気に入られたのか、アメリカなど海外での展開の規模などもご覧になって、2か月後の9月には、川重本社の会議で『単車は思ったより確りしている。将来川重の柱になる事業になるだろう。』と発言されるまでになったのである。

それは、まずKMCとリンカーンをご覧になって、田崎さんと佐伯さんという今まで川重の中ではお会いになっていないタイプの人たちを見て、印象はだいぶ変わったのではないかと思うのである。

田崎さんは、このように書いておられる。

 

ここで、大庭本部長の登場となる。 

   

 

7月には大庭本部長が来米、米国人役員を含めた経営幹部が集められ「事業には団結が必要である、一か所でも弱い所があれば全体が崩壊する」とお得意の「溶接部の脆性破壊」の話になった。これを的確に通訳せよ!といわれてモタつく私を横に、白板に英語で「Brittle Fracture 脆性破壊」と書いた。 後でアメリカ人に、判ったか? と聞いてみたが答えはあいまいだった。

 

     

 

 『脆性破壊 ぜいせいはかい』 は、しょっちゅう口にされた。大庭さんの博士論文のテーマなのである。

 どんな理論かは、聞いてみないと解らないから、そんな英語を知ってる人はアメリカ人でもまずいないだろう。

 

11月には1984年モデル、待望の「GPZ900R」のUSテスト、プレスイントロで大庭本部長以下高橋さん、安藤さんも来米し、1984年1月にハワイで開催する、全米ディーラーミーティングに備えた。 

Ninjaのネーミングは、当初は本部長以下日本サイドはネガティブであった。イメージが「忍びの者」で暗いというのである。私は弁護士や医者といったインテリ層にも聞いてみたが、イメージは「007」、「スーパーマン」に近く面白いという意見が多く、たまたまニューヨークで「the NINJA]という本が600万部売れた、という情報も入り、少々の反対があっても、これで行こうと決め、日本から送ってくる広告宣伝物の上に貼る「NINJA]のステッカーを大量に用意して、日本側の説得にかかった。 

この「NINJA」が以後カワサキの重要なブランド資産になるのである。

 

 この11月には、私もアメリカに行っていて、この田崎さんと大庭さんの話には同席しているのである。

以前にこんなブログをアップして、同じようなことを書いている。

  

 

当時、日本側では Ninja のネーミングは不評で、83年モデルで『Ninja』と名付けたのはアメリカモデルだけでヨーロッパ仕様は、GPZ900R だったのである。

若し、あの時田崎さんが大庭さんを口説かなかったら、カワサキに『Ninja』は生まれていないのである。

ほかの事業部なら本部長がダメだというものを無理やり口説き落とすようなことはないし、而もその相手が大庭さんだったことが当時の単車の面目躍如たるところなのである。

 

   

 

    

 

10月には北村さんが組合の田中支部長とともに来米し、駐在員の日本人学校(補習校」)アサヒ学園の運動会も視察して貰い駐在員子弟の特別教育費をPRした。 

   

 

  田崎さん、こんな写真も送ってくれたので・・

 大庭さん、田崎さん、佐伯さん、北村さん。

 

 

 

 

 

 杉沼 浩 さん、大庭さん、砂野耕一さん、田崎さん。 杉沼さん、田崎さんは『7人の侍』でもあるのだが、杉沼さんは英語が達者なので、大庭さんの海外出張には常に同行されていた。後 MFJ常務理事もされてるのでご存じの方も多いかと思う。

砂野常務は、砂野仁さんのご長男で私の神戸一中の先輩なのである。砂野さんも私も当時は明石で、砂野さんが神戸一中に行かれてたので勧められて私も入学したのである。現役時代ずっとお世話になりました。

 

★この年は、海外販社対策が主力だったので海外出張も多く、私はアメリカには2月、7月、11月の3回、ヨーロッパに4月と行っている。同時に田崎さんも川重本社報告などに2回ほど日本に戻ってきていて、私はKMC担当みたいなものだったので、田崎さんとこの年から数年、一緒に過ごすことが多かったのである。

この年の秋には、海外全販社の黒字化が実現して、翌年からは事業本部の黒字化と、KMCの38百万ドルの累損消去が目標になっていくのである。

本当に順調に回復して、この秋には サンタナの事務所から Irvine への新事務所構想なども具体的に動き出すなど、83年はアメリカ事業が再スタートしたともいえる記念すべき年になったのである。

 

 

 最後になりましたが、

 大庭さん、ご自身の写真にもうるさい方だったので、ずっと使っておられた写真を掲載しておきます。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

  https://www.facebook.com/1126074024157186

 

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薮本三木市長辞任の挨拶

2017-05-19 11:05:23 | 発想$感想

 ★一昨日、『薮本吉秀三木市長 雑感 』というブログで私の本件に関する感想を書きました。

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/02bcaa2ff227460379280043a2db2caf

 非常に多くの方からの反響もありました。薮本市長の議会での『辞任挨拶』がりますので、ご一読の上、それぞれご判断下さい。

 

 私は先日のブログで書いた通り

薮本さんの市政は『利権』とそのための『選挙の票集めの市政』だと言っていい。

薮本吉秀は日本一美しくない市長』であることは間違いないのである。

 昨今の三木市政の一連の出来事を見ても、とても『美しい』とは思えないのだが、三木はいい環境だし、いい人も多いし、私自身は『三木市長』は『薮本吉秀さん以外なら誰でもいい』 『薮本さんだけにはなって欲しくない』と思っているのである。

 

 

市 長 閉 会 挨 拶(5 月 15 日) 

 閉会に当たっての挨拶にあたり、ここに議員各位はもとより、市民の皆 様に重要なことをお話しさせていただきます。

1 はじめに 平成28年 1 月 3 日に市が発行した「市民へのお知らせ」につきまして は、事実と違う虚偽の記載が一部含まれているということです。 すなわち「2 次会に参加した部長達は、民間の方が参加することを全 く知らされていないことから、倫理違反には当たらない」との記述につき ましては、内容は虚偽のものとなっております。

また、この 1 月 3 日の「お知らせ」だけではなく、その端緒となった平 成 27 年 12 月 8 日の記者発表資料、12 月市議会での 2 次会に係る市長答 弁、平成 28 年 3 月 4 日の記者発表資料のうちメールの存在に気づいた部 分等に係る記述、そして 3 月市議会での市長答弁についても、それぞれ虚 偽のものが含まれていることを認め、ここに市民の皆様や市民の代表であ る市議会、あわせてマスコミ関係者に対しまして、深く謝罪を申し上げる 次第です。

市民の皆様への背信の責任は、来年 1 月の任期満了を待つのではなく、この時点において市長の職を辞することにより取らなければならないと 考えております。経緯は次のとおりです。

2 経 緯

部長会 2 次会が開かれたのは平成 27 年 11 月 18 日。その 1 週間前の 11 日の朝、部長会2次会の開催場所が決定したことを部長達に伝えて欲しい旨、私から秘書に依頼しました。この際、民間人 2 人のことは秘書との会話の中で出ていましたが、民間 人2人が2次会に参加することを部長達に伝える依頼まではしておりませ んでしたが、秘書の判断で各部長にメールで伝えたようです。なお、そのメールは私や北井副市長には送信されてはいませんでした。 また、後日判明したことですが、北井副市長からも秘書に対して、2 次会 の開催場所を部長達に伝えて欲しい旨の依頼をしていたとのことです。 

11 月 18 日に、利害関係者となる民間人 2 人を誘った職員倫理規程に違 反した 2 次会を開催してしまいましたことは、ご存じのとおりです。   翌月の 12 月 3 日、沖縄出張時に A 新聞の記者から、「市民からの通報に より、2 次会には民間人が参加しており、利害関係者に当たることから、 部長達は倫理規程に違反しているのではないか」との電話取材がありまし た。 

突然の取材に対し、私は恥ずかしながら当初から倫理規程への抵触その ものに気づいていなかったことや、民間人の名前まで記載されたメールが 秘書から発信されていることを知らなかったことから、 「市長と北井副市長以外の職員は民間人が来ることを知らずにたまた ま同席しただけ。部長達は倫理違反には当たらない。悪いとすれば誘った 市長にあり、説明責任は市長が果たす」と答え、その内容が翌日 4 日の朝 刊記事となりました。 

4 日、視察を終え那覇空港で北井副市長との電話の中で、数名の部長が 副市長室に来て、「自分達はメールで民間人の参加を知らされている。市 長に連絡して欲しい」と言っていることを初めて知らされました。 

①前日の A 新聞からの取材に答えてしまった直後であること 

②前理事兼企画管理部長の飲酒運転による逮捕という市を揺るがす大 きな事件のあった 2 週間後に、部長の大半が倫理違反に当たることとなれ ば、二重に市の信頼を損ねてしまうこと 

③倫理違反になることを知らずに誘ったのは市長であり、部長達に迷惑 を掛けられないこと から、「そのメールは関係部長達にしか出ていないのか、それとも他の者にも発信されているのか」を尋ね、「関係部長だけなら無かったことに してしまったらどうか」という指示を北井副市長に行いました。

したがって、12 月 8 日に入院先の北播磨総合医療センター内で行った 「部長達は利害関係者の出席を全く知らされていない中で同席したもの であり、倫理規程違反に当たらない」との記者発表の内容は虚偽に当たり ます。その後、それに基づき翌日の 9 日から 11 日まで 3 日間の市議会本会議 で答弁。 

トップバッターに立った 9 日のB 議員から、「このたびの件についての 市民への説明責任をどのように果たすのか」とのご質問に対し、前日来の 高熱のため考えもまとまらない中、「広報のお知らせのような形で行いた い」と答弁してしまいました。これを受けて、翌年 1 月 3 日の「市民へのお知らせ」を発行することと なった次第です。 翌 10 日の C 議員から数名の部長や教育長に対し、「本当に利害関係者が 出席することを知らなかったのか」との質問に、彼らは「知らなかった」 旨答弁しておりますが、これは彼らが市長答弁に合わせる形で仕方なく追 認したものと思われます。

21 日に、年明けの 1 月 3 日発行予定の「市民へのお知らせ」を印刷所 に持ち込む最終リミットが迫る中、部長達を市長応接室に集め、「お知ら せ」についてのゲラを見せ意見を求めました。 「市民は十分に新聞報道等により知っているから」という理由で発行そ のものを否定する意見も出る中、ある部長から「引き返すタイミングは何 回かあったはず。引き返すのは今しかない」との意見も出ましたが、結局 は引き返すことなく発行するに至った次第です。

なお、平成 28 年 3 月 4 日に、市長として利害関係者と飲食したことに つき自らの倫理責任に対する自責処分を行う記者会見の中で、メールの存 在を認め、記者会見、市議会でのやり取りや1月 3 日の「市民へのお知ら せ」により世間を惑わせたことについて謝罪を行っています。しかしながら、案内メールの存在を市長が知った時期や、部長達のメー ル確認についての記述は事実と異なる虚偽のものとなっています。 したがって、3 月 4 日の謝罪は、市民に対する心からの謝罪とはなって おらず、大変申し訳ないと思っております。 

また、このことから「市長等倫理審査会の開催を求める署名有志の会」 から平成 28 年 11 月 18 日付けで提出された署名については、市長等倫理 条例に定める「疑い」が存在していたことになり、本来ならば受付すべき ものでありました。 なお、11 月 25 日付けで審査請求書等を返却した文書は、これまで市が 前提としてきた一連の流れで、市長が作成し、決裁区分により企画管理部 長名で出したものです。このたび真相をすべて明らかにし、そのことにより「疑い」が無くなる とともに、市長が辞任する以上は、結果論となりますが、市長等倫理審査 会を開催する必要性は無くなります。しかしながら、昨年の夏の暑い頃か ら約 4 ケ月近くにわたり熱心に署名活動をされた有志の会はもとより署 名された市民の皆様に対しまして、ここに重ねて深くお詫びを申し上げる 次第です。 


3 辞任の決意

以上、経緯につき縷々述べてまいりましたが、今まで隠してきたことと その真実について、改めて整理いたしますと次の 2 点です。

①部長達は、秘書が送信した  2 次会案内メールにより利害関係者となる民 間の方の参加を知っていたにも拘わらず、「メールの詳細までは確認し ていない」などと、部長達に虚偽の陳述をせざるを得ない状況に追い込 んでしまったこと。

②市長は秘書がメールを送信した平成 27 年 11 月 11 日の時点ではその存 在に気づいていなかったものの、12 月 4 日の副市長との電話でのやり 取りの中で知ったにも拘わらず、外部流出した当該メールをD新聞の記 者が取材のため持参した後の平成 28 年 1 月 14 日にメールを知ったと偽 ったこと。市長自身が招いた利害関係者との同席の場に部長達を巻き込んでしま ったことから部長達を救いたいということに端を発した、今振り返れば十 二分に引き返し得た過ちが、私自身の自己保身も加わり、記者会見や市議 会などの場において①、②の偽りを繰り返してしまい、三木市の名誉と信 用を著しく失墜させたその責任は、すべて私にあります。 私の「組織防衛」の考えが強すぎ、市民目線での公正な判断を欠き、「た かが飲み会の案内メール」「関係者以外にそのメールを見ることが出来る 者はいない」と侮り、誤った軽率な判断をしたことがすべての原因であり ます。

本来ならば、市民目線でもって市民第一義で考え行動すべきであり、そ のことはいくら反省の弁を述べても足りないものがあります。1 月 3 日の「市民へのお知らせ」を発行して以来、いつか市民に本当の ことを打ち明けなければならないという「自責の念」。

一方で、今やりか けている仕事を一定の軌道に乗せる責任がトップの自分にはあるという 「使命感」。この狭間に苛まれた日々が続いておりました。平成 28 年 3 月市議会において市長の自責処分としての給与カット(約 100 万円)が議決された後、三木市の待ったなしの地域再生に向けて一年 間、職員と一緒になって必死に歩みを進め、ようやく一定の筋道をつけ、 新年度の新たなスタートを迎えることができました。

 広報 5 月号にも取り上げていますが、現在、市を挙げて取り組んでいる 三木再生に向けてのビッグプロジェクトは目白押し。 ①人口減少社会に適した「ごみ処理の民営化」 ②「生涯活躍のまち構想」の実現としてそのモデルとなる緑が丘のまち の再生 ③スマートインターチェンジの実現と合わせた「大型集客施設の誘致 など。

どれも緒についた事業ばかりであり、いずれもが将来の三木市の明暗を 分ける重要施策であります。 これらの重要施策を実際に実行していくに当たり、上述した一連の虚偽 はこれら施策とは全く関係はしないものの、政治とは「信」の上に成り立 つもの。市民にお伝えしていない、隠してきたことについて、真相を語る のは今がラストチャンスと判断いたしました。

 新年度になって最初の市議会が開かれた本日。全ての真相を市民に話し ケジメをつけるべきだと、私としての心の整理がようやくついた次第です。 市長の職を辞任した後の市長選挙が、折りしも来る 7 月 2 日に執行予定 の兵庫県知事選挙に合わせた同日選挙となる可能性があるこの時に辞任 し、私の責任による選挙執行という市民負担を少しでも軽減していくこと が最善のものであると考え、本日付けで、新議長に対し辞表を提出するも のであります。 


4 再立候補の決意

なお、辞職後の選挙に再度立候補するかどうかにつきましては、①市民の皆様への背信の責任は極めて重いものがあり、立候補する資格 は自分には無いという気持ちと②やりかけた仕事が一定の軌道に乗ったとは言うものの端緒についた ものばかりであり、ここで投げ出すのは却って市民にご迷惑をお掛けする という気持ち とが錯綜し、苦悩し、身が引き割かれ、よじれる思いです。

まずは市民の皆様に深くお詫びを申し上げたいという気持ちで、ただた だいっぱいでございます。市民あっての藪本でした。それを忘れてしまっ たから、このたびのことを惹き起こしてしまったのです。 しかしながら、今やりかけている仕事を全て放棄して逃げ出してしまう ことは、却って無責任極まりない身の退き方ではないのか?

それの方こそ 「実質的な市民への裏切り」に当たるのではないかと、何度も何度も己に問いかけました。 一度市民の「信」を失くした私ですが、今こそ初心に帰り、10 年前の 原点に立ち戻り、今やりかけている仕事を投げ出さずに目鼻立ちをつけ、 最後まで貫き通したいと考えています。

 私は、このふるさと三木を誰よりも愛してやみません。自分が原因で、この三木市が再び「元のもくあみ」になってしまうこと は避けなければなりません。 「嘘つき市長」と呼ばれて当然のことを私はしてしまいました。 しかし、施策で市民に嘘をついたこと、裏切ったことはこれまで一度も ありません。この 11 年間余り、三木市のために我が身を捨て、粉骨砕身 取り組んできました。 

強い舵取り役が、今こそこの三木市には必要です。 自分の行ったことには十二分に深い反省をいたしております。反省して いるからこそ、本日の真相の告白に至りました。 この反省の上に立って改めてチャレンジする、いわゆる「信任を問う機 会」をお与えいただきたいと考え、再度の立候補に踏み切った次第です。

5 おわりに

なお、6 月期のボーナスや辞任に伴う退職手当につきましては、それら を受け取る資格は自分には無いことから、それらの債権は放棄する意向で す。 また、北井副市長からは、この一連の件で私と一緒に責任を取りたいと の申し出があり、本日付けで私あてに辞任届が提出されています。新市長が誕生するまでの間は、市長代理は井上副市長が、教育の分野に おいては松本教育長がそれぞれ対応し、行政の停滞を最小限に留めてまい ります。                        

新体制が整った臨時市議会の閉会の挨拶には、大変ふさわしくない内容 になりましたことを平にお許し賜りますとともに、この一連の件に関して 議場でのこれまでの虚偽の陳述に対し、ここに改めて深くお詫び申し上げ ます。 

新議長を中心として、三木市議会がますます三木市のため、そして三木 市民のためご活躍されますことを心から祈念いたしております。 あわせて、この後、午後 5 時から臨時の緊急記者会見を行う予定として おりますことを申し添えまして、閉会の挨拶といたします。 

                                             以 上

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