★ 私の人生はちょっと変わっていて、
考えようでは「運が悪かった」とも言えるが
私自身は「結構運のよかった人生だな」と心底思っている。
私が今住んでいる三木市緑が丘には1973年に移住したのだが、
そこは、広大な山林をダイワハウスが大規模開拓して出来た街なのである。
私がその土地を購入した1971年当時は丁度開拓の最中で、
具体的な家の場所など全く解らないまま、広大な開拓中の土地を見ただけで、
この件を紹介してくれたダイワハウスの担当者を信用して購入を決めたのである。
それもまだ東北の仙台にいる頃で、明石工場に出張で来ている時に、その担当者に口説かれたのである。
その担当者は、私が広告宣伝課時代に印刷屋にいて出入りしていたのだが、ダイワハウスに転職していたので、知らぬ仲ではなかったが、彼の言うことを「信じた」のである。
こんな土地の購入の仕方をする人など皆無だと思うが、
どうも私は「物事をカンだけで即決する」ところがあるのだが、
少なくとも「あまり間違った判断」には結果としてなっていないのである。
世の中には「流れ」と言うのがあって、
1970年当時は土地を買い家を建てるのがブームの時代で、そんな流れの中だからそんな決断をしたのだろうが、
結果としては「よかったかな」と思っている。
当時は今と違って毎年給料は上がっていたのだが、
土地を購入した1971年以降の5年間が20~25%も給料が上がった時代で、
5年で給料は2倍になる、給料も上がるが物価も土地の値段などもどんどん上がるそんな時代だったのである。
当時の「緑が丘の土地の価格」は80坪が280万円ぐらいの頃で、
私の給料は15万円ほどだったので、家の建築費も含めて500万円ほどの借り入れをしたのだが、
その返済が始まる5年後には、私の給料は30万円になり土地の値段は500万円ほどに高騰していたのである。
別にそんな計算をしていた訳ではないのだが、全くの「予期せぬ幸運」に恵まれたのである。
★ 来年は90歳になるのだが、
私の人生で財布の中は多くて3万円ぐらいで、大金があったことはない。
子供のころから今まで金には無縁で生きてきたように思う。
子供の頃は裕福だったのだが、父が「こどもは金など持つな」とお年玉も貰ことがなく育った。
人生で「運が悪かった」と思うのは、父が52歳で亡くなってしまったことである。
私の高校3年の時だった。
終戦では家・財産すべてを残して一人1000円だけをもって朝鮮京城(いまのソウル)から引き揚げ、戦後は大変な生活だったのだろうが、
中学1年だったのでそんな変わった生活をむしろ楽しんで生きてきたようなところがある。
学生時代は野球ばかりに熱中して川崎航空機にはコネで入社したのだが、
初任給は月給12000円だったそんな時代だったのである。
現役時代はカワサキの二輪事業一筋で、仕事自体はめっぽうオモシロかったが、
子どもたちが独立するまでは苦しか家計を何とか切り抜けて、
子供たちが独立して金が要らなくなった頃から1回目の退職金など頂いてやっと余裕が出来たのである。
振り返ってみると私は人生で「小遣い」なるものを貰ったことが無い。
現役時代は、結構出張が多くて世界中を飛び回っていたので「出張旅費のあまり」で十分だったのである。
そんなことで自分でも不思議に思うほど「金には無欲」で生きることが出来た。
★ 現役時代も非常にオモシロイ会社生活が出来て、何の不満もなかったのだが、
定年後も、もう20年にもなるのだが、結構面白く過ごせている。
定年になってから初めて「パソコン」に出会い、
2006年からはこのブログを開始するなど「ネットの世界」に入ってからどんどん新しい友達が増えて、今に至っているのだが、
ひょっとしたら「定年後の生活」のほうが、充実しているのかも知れない。
そんな人生を支えてくれているのは、庭のある住居と家内なのだろう。
庭があるから「庭仕事」が出来るし、
小さな池があるから「メダカ」も飼える。
そんな好きかってをさせてくれる「家内」がいい。
毎朝、スロージョッギングに行ける公園がいっぱいある。
三木のそんな立地が良かったのだろうが、
この土地を購入するときには周囲は山ばかりで何もなかったところなのである。
あったのは日本一の「廣野ゴルフ倶楽部」だけで、今沢山あるゴルフ場などもなかったのである。
兎に角、毎日気分よく過ごせているのは
「運がよかった人生だった」ということなのだろう。