★昭和64年、この年で昭和は終わって新しい年号の平成となった。
私自身も前年10月1日から、カワサキオートバイ販売に3度目の出向となったのである。
昭和32年(1957)に川崎航空機に入り30年ちょっと、昭和36年以来一筋に二輪事業に携わっていたのだが、国内販社には二度の出向があって10数年間を第1線の末端市場と向き合ってのものだったので、マーケットを見る目というか態度は、明石工場育ちの方とはちょっと違った、独特のものが身についていたのである。
川崎航空機と川崎重工には3度の経験があるのだが、入社早々は償却計算のIBM化に明け暮れたし、単車では初めての本格的な広告宣伝やファクトリーレースなど新しい仕事ばかりだったし、東北の代理店営業も仙台に初めて事務所を作ったり、そのあとの大阪ではカワサキで初の特約店制度を立ち上げるなど、殆どが『引き継ぎのない新しい仕事』ばかりで、そんなことで身に付いたノウハウが、出向から戻った時には大いに役に立って国内販社からメーカーに逆出向したようなそんな感じのサラリーマン生活だったのである。
今回の国内カワ販出向は、カワサキの二輪事業も円高対策などいろいろとあって、国内市場の重要性が見直された時期でもあり、当時の事業本部長であり、カワサキオートバイ販売社長を兼務されていた高橋鐵郎さんからは、国内市場で400億円の売り上げと7万台の販売台数目標という途方もない課題を頂いてのものだったのである。
★ 当時の資料がこんなファイルにいっぱい残っている。
『新しいカワサキの創造』 そして 副題として 『7万台の挑戦』と位置付けている。
単なる数値目標ではなく、国内グループの『新しいイメージ創造』に取り組まない限り、単に数値目標だけを追っかけたのでは、7万台400億円などと言う大きな数値目標など実現しないと思ったのである。
結果的にはこんな高い目標も実現することになるのだが、これは単に頑張ったからとか、方策がよかったからではなくて、『運』も大いにあるのだと思っている。
私自身は3回目の第1線なのだが、その3回とも商品にも運にも恵まれていたのである。
最初の実用車のカワサキ時代は、東北という当時のカワサキの最有力市場を任されたし、大阪に来たころは『中大型のスポーツ車』への転換の時期で、W1やZ2という商品に恵まれて特約店制度も実現したし、2度目の時は、あのFX400が出て、何もしないうちに10億近い累損の消去もできてしまったりしたのである。
そんないい商品に恵まれることが、非常に大きいのだが、3回目のこの時には ZEPHYR が大きな要素になったのである。
その ZEPHYR はこの年の5月末から発売されるのだが、当初はそんなに期待などされていなかった車なのである。その年のメインの車はシーズンの始まる3月に合わせて発売されるのが通例で、5月末発売などはそんなに期待などしていない普通の車ということなのである。
こんな ZEPHYR がどのようにして生まれたのか?
実は私もホントのところはよく解っていなかったのだが、ごく最近田崎さんがこんな話をメールで送ってくれたのである。
私が帰国後、1987年4月~1989年6月までCP事業本部で仕事をしていた時の事だとおもいます。1989年7月には本社海外営業総括本部副本部長として東京勤務になり、12月にはKHIニューヨークの社長に就任しています。
さてゼファー400 ですが、帰国後、製品がすべて先鋭化されていて、俺みたいな少し腹の出た熟年ライダーがもう一度乗ってみたいとおもうようなバイクはないのか?などと言っている中に、新聞や雑誌に同じような記事が出るようになった。
そんな時若い技術者が、こんなバイクをやらせて下さい、開発費は600万円で結構です。と申し出てきた。 つまらないバイクだとは思ったが、そんなに安くできるのなら、と背中を押した。ゼファーというネーミングはカワ販の提案であったがたまたま資生堂の男性化粧品のネーミングと重なり、プロ野球の球場の一等席にゼファーの名前が出るようになった。
カワ販の最初のオーダーは500台だったように思う。 急速に売れ始めたが、他社は、あんなものはそのうちに消える、と2年~3年程対抗車をださなかった。モーターショーで、他社の幹部がジーッと見つめてどうしても分からん、と呟いた、と云われている。 大変ラッキーな製品だったように思う。
『大変ラッキーな製品』と田崎さんは言っているが、そんな商品を売ることになった私も『大変ラッキー』だったのである。
レーサーレプリカ全盛時で、とてもこんな車があれほど売れるとは、誰も考えなかったのである。
★それは兎も角、私自身はこの年は本当に頑張ったのである。
前年度の10月に就任以来、まず最初にカワサキファクトリOB会を開催し『レースに強いカワサキの復活』をまず誓って、それ以降『新しいカワサキの創造』のための施策を矢継ぎ早に打ち出しているのである。
営業本部時代に手掛けた直入サーキットの建設承認も出て、経営基本方針と新しい価格体系は前年末までに全グループに徹底したのである。
1月には、新しいユーザー組織KAZEをスタートさせたが、JCBと組んでその対象は単に二輪のユーザーだけでなく広く一般社会の人たちまで広げたのである。そんな内容は、30年近く経った今でも生きていて、バイクにも乗らない84歳の私は今でもKAZE会員なのである。
4月にはKAZEのユーザー管理や、SPA直入の具体的な運営などを目的に、川崎グループで初めての末端一般社会を対象にしたソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』を立ち上げて、グループの中に独特のノウハウの蓄積をめざしたのである。
この『ソフト会社』が果たした役割は大きくてこのソフト会社がなかったら、7万台の目標は達成できなかったと思っている。
4月にはSPA直入の建設着工が始まっているし、5月には、ZEPHYR が発売された。ZEPHYRはカワサキの新しいイメージだったので、『新しいイメージのZEPHYR広告』に小林くんなどが取り組んでくれたのである。
これは2年程後、CP事業本部の課長以上の集会で『カワサキの新しいイメージの創造』について話をした時の記録で、小林課長が広報について話したくだりである。
7月には、鈴鹿8耐の前哨戦の4耐・6耐 に優勝しているし、
10月にはKHIの企画当時にスタートしたジェットスキーの国内販売も順調に推移しているのである。
同時に新しい販売網構想 ARK(Authorised & Reliable shop of Kawasaki) を立ち上げている。
★順調すぎる推移だったこの年だが、個人的に一番嬉しかったのは、前年度10月一番最初に取り組んだ『レースに強いカワサキの再現』がこの年の鈴鹿8耐シリーズで実現したことである。
7月23日の6時間耐久レースでは、北川・鶴田、藤坂・林とワンツーフィニッシュと結果を残した。
7月29日の日記には、『4耐ビート高橋が優勝、2週続けての優勝』と書かれている。高橋としか書いていないが先日ゴルフを一緒に回った 髙橋芳延さんだと思う。
8時間耐久レースには宗和・多田組は転倒棄権となったが、塚本・前田組が4位入賞を果たしているのである。
カワサキのレースの世界での復活は1年目にして、こんな結果に終わっていたのである。
★その鈴鹿8耐が7月30日だったのだが、8月2日には大庭社長に指示されて、川崎重工の全役員と関係会社社長会の社長さん70名を前に『カワサキの国内販売活動』について1時間ほどお話をさせて頂いたのだが、準備する日は7月31日1日だけという忙しさだった。
そのテーマは『新しいカワサキのイメージ創造』で主として、KAZEや、ソフト会社ケイ・スポーツ・システム・サーキットSPA直入などなど、川崎重工で育たれた方々にはすべてが『目新しい』ことばかりだったので、非常に話し易かったのである。この話は10日ほど前に、大庭社長から突如指示があったものだが、何か予定していた話が急にダメになってのピンチヒッターだったのである。
大庭さんが単車本部長時代に企画室長として支えたので、大体『大庭さんがどんなことを私に話させたいか』は想定できたので、この手の会議で話される講演とは全く『差別化した』大がかりな大人の紙芝居のような話をさせて頂いたのである。大庭社長が単車の知恵を川重全体の経営にも取り入れようとされていた時期だったのである。
あとのパーティーでもいろんな方に褒めて頂いたし、この年通産省から来られた山田常務には『川重に来て初めて感動した』とまで言って頂いたのである。
この翌日8月2日には、6年前に建てた目標『KMCの累損消去』が実現しての祝賀会が当時の関係者を中心に元副社長の大西・山田さんもお招びして神戸の川崎山荘で開催されたりしたのである。
6年前とは様変わったカワサキの二輪事業の時代で、このあと国内市場も絶頂期を迎えてゆくのである。
順調すぎる国内市場担当の1年目だった。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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