★昭和57年前半は、アメリカ市場低迷による大きな問題はあったのだが、国内市場担当であったのでヨコから応援している立場であった。
その年の7月1日早朝、本社の山田専務から自宅に直接電話があり、神戸本社に出頭するよう指示があったのである。
幾らかは、予想されたことではあったが、山田さんからは、10月から事業部の企画をやれと言うご指示であった。
これは大変なことである、その時点で単車事業部は勿論、国内とオーストラリアを除く直営販売会社は全て赤字、特に主力市場のアメリカの赤字は膨大で、二輪事業そのものの存立さえ危ぶまれていた時期である。本社、企画、財務部門から若手10人ほどのKMC調査チームが派遣されて、KMCの経営状況については詳細に調査されていて実態は解っていたのである。財務対策としても100億円単位の額が用意されはしていたのだが、
『それを実施したら果たして現地は生き返るのかどうか』の判断が、本社のエリートたちにもなかなか難しかったのである。
山田専務からは、『その辺の見解』を中心に聞かれたのである。
私自身はこの時点の二輪事業経営は各部門が部分最適値ばかりを追っかけてトータルの仕組みを考えない、日本独特のタテ型経営の結果の『人災』だと思っていたので、ちゃんとやることさえやれば、そんなに時間も掛らずに大丈夫再建できるとずっと思っていた。
二輪事業経営は世界に展開するトータル事業経営なのであるから、全軍を見つめたトータル企画機能の確立と、中央集権体制が敷けるかどうかがMUST条件だと思っていたのである。
★企画を引き受ける条件を山田専務に、二つだけお願いをした。
一つは、KMCの会長をしておられる高橋鉄郎さんに戻って貰って、企画室長をお願いしたいこと。
もう一つは、企画のメンバーの中に、技術、生産が解る人材を入れて欲しい、と言う二点であった。
私はまだ新米部長で、仮に政策は立案できても、それを中央集権体制で世界の全軍に指示するには、高橋鉄郎さんのような生え抜きの人望のある指揮官がいないと、特に事業部内は個性豊かな先輩部長さんに旗などとても振れないのである。
以前にちょっとだけ、企画を担当したが、本社からの設備のヒヤリングなどの時間が大変だし、事業部内の技術やさんの諸要求に対応するためには此方に技術的知識、判断能力がないとなかなか難しいのである。今回の企画は明石工場よりはむしろ海外の比重が殆どなので、そんな明石での対応を大前太さんに頼んだのである。
私は、異動時点で条件など出したのはこの時だけである。この役職は失敗したら事業がなくなると思っていた。絶対に成功しなければならないのである。本社がこれにかけようとしている対策額も半端なものではなかったのである。
紆余曲折はあったが、10月1日には、高橋鉄郎企画室長をトップに私、北村、大前さんと言う若いメンバーでの企画部門がスタートしたのである。
★この年の7月以降約4年間、企画の職務にあった。
事業本部長も、青野さん、大庭さんそして、高橋鉄郎さんと続いて、いろんなことがあったが、二輪事業再建は成功し、大庭さんは副社長で本社に戻られて、高橋鉄郎本部長の時代に移ったのである。
この4年間の資料がこんな3冊のファイルに纏められて手元に残っている。
一番いろいろなことがあった、大庭本部長時代がこのファイルである。
当時の仲間や先輩たちはみんなそれぞれ偉くおなりになった。
大庭さんと田崎さんは川崎重工業の社長を務められたし、高橋鉄郎さんは副社長、そしていまは相信会の会長さんである。
大前くんも常務さんに、そしてさらに1年下の当時はリンカーン工場にいた佐伯くんは副社長になられたのである。
★こんな単車再建の4年間のスタートがこの年の7月から急遽始まったのである。
この月ごとの纏めに書かれている通りの進行であった。
高橋さんの企画室長はアメリカに行かれたばかりだからダメだと、最初は断られたのである。
そして9月までは、本社主導で対策が練られていた。
ほんの一部の人しかご存じないと思うが9月の初めまでは本社案で、KMC以下の海外販社を、国内のカワ販の子会社にするというような案が本当に進められていた。
これは、とても実務的に無理と言う前田祐作君の進言でボツになって、急遽当方で9月20日までに再建の具体案を纏め、殆どそのままの形で、
10月1日の新体制になったのである。
★いま読み返してみても、短期間によく纏めていると思う。
経営全般に亘っているが、一番特徴的なのは、資金対策、銀行借入金対策、現地販社の営業外対策が骨子になっている。
そして、12月末までの3カ月間に、ほぼその対策は完了して、大丈夫再建できると私自身は確信したのである。
前のスケジュール表に 『DKBの説明』とあるが、当時の第一勧銀の本店への説明なのである。当時の本社の佐藤さんと一緒に出かけたのだが、
KMCの赤字の大きな原因の一つがDKBからの借入金で、300億円もの額に上っていた。当時のアメリカの金利は年率20%に近く、金利だけでも60億円に達していたのである。これを少なくすれば負担は軽くなるのは誰でも解っているのだが、どうしたら少なくなるかが解らないと言うか『出来ない』のである。
このあたりがトータルでどうするのか?本部が旗を振らない限り解決しないのである。この解決には自信があった。
DKBさんはKHIの主力銀行だから、赤字会社でも300億円の貸し付けをしてくれるのだが、貸してくれるから赤字が増えるのである。『DKBさんが貸さないと言って頂いたらいいんですが…』そんなことを言ってDKB本社の担当の方を煙に巻いてきたが、これは10年ほど前の東北での銀行さんとのお付き合いや、カワ販での銀行さんとの経験が大いに役に立ったのである。
★中央集権体制の尤も骨子は、企画室の中に世界の販売会社経営を統括する関連事業課を新設し、直販会社は全て営業部から外し関連事業課の管轄下に置いたのである。 事業計画の立案、出荷台数などのコントロールも、現地の末端消化を見ながら、すべて明石の企画で立案コントロールするようにした。
それには、現地との信頼関係がなければできない。アメリカの社長は田崎さんだったからできたと思っている。レース時代からの付き合いだったし、アメリカは彼が行かなかったら、私が行くようなことになっていたような当時の雰囲気だったのである。
カワ販の富永君を現地に逆出向させたのも、高橋、田崎コンビだったからである。
関連事業課は五百井、湯朝君の専門経理と、私と一緒にずっと国内再建をやってくれた前田祐作くんが担当してくれたし、KMCの窓口担当は繁治君というメンバーだったので、KMCとの信頼関係は万全だったのである。KMCに富永、日野と言うカワ販の二輪のマーケッテングや販社管理を熟知しているメンバーがいたことも大いに機能した。直接は富永―繁治ラインで具体的事項は繋がっていたのである。
12月1日には田崎さんに、KMCの再建計画の骨子案みたいなものを送っている。
この年の後半の6ヶ月、いろいろと大変ではあったが現地のアメリカのKMCも、リンカーン工場にも行ったし、当時はまだアメリカに残っていた、本社の若手メンバーとも会っている。
そして年末の12月24日には60百万ドルのKMCに対する増資と、180日のユーザンス期間の延長を本社財務に申請したのである。
そして、本社資金からお目付け役で明石に派遣されていた小川優君を正式に単車事業部に転籍して貰って、本格的な国際資金機能を事業部が果たせるような仕組みがほぼ出来上がったのである。
多分川崎重工の事業部で、資金機能や、関連事業部などの本社機能を備えたのは、単車事業部が初めてだったはずである。
そんなご縁で、この年から30年経った今も小川君には、NPO The Good Times の監事としてお世話になっているのである。
ドラスチックに二輪事業の事業構造が一変した、激動の3ヶ月だったのである。後の何年かはその具体的な実行だけだった。基本路線は3ヶ月で完成したのである。
山田専務が単車再建委員長であったこと、財務を中心とした本社スタッフが非常に好意的に動いてくれて、殆どの案を、殆どそのまま、スムースに受け入れてくれたので、実現したのだと思っている。
当時の本社松本新さん、私と同期だった横山さん、田中吉正さん、などなど本当にお世話になった。動かして頂いた金も何百億円の単位だったのである。
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● ちょっと余談だが、ホンダやヤマハ、スズキは当然ながら本社があって、その機能を果たしている。
世界展開をする上で、本社機能の充実が必要だとずっと思っているのだが、本社機能はどちらかと言うと事務屋さんの範疇なのである。
カワサキの場合はどうもその辺が抜け落ちてしまっているのでは?