★ 振り返ってみると、結構長い人生なのだが、
自分自身の生活では『お金』とは、
無縁というかあまり関係なく生きてきた。
家内は専業主婦だったのだが・・『お金の管理』など家内に任せきりで、
孫たちも『お金を持ってるのはおばあちゃんだ』と思っているようだ。
月々に決まった『小遣い』など子供の頃から貰ったこともないし、
『お年玉』も貰った記憶がないように思う。
なぜ? と言われてもよく解らないが、
多分、父がそのように躾けたのだと思う。
『こどもは金など持つな』と言われていて、その延長が続いている。
子どもの頃は、自分で金を払って『何かを買った』という経験もない。
子供時代というか小学生時代までは、
結構、裕福な暮らしだったと思うが、
今でも不思議に思うのは、父は『勤めたり』はしていなくて
家で絵を画いたり、旅行に行ったり好きなようにしていたように思う。
生活費をどのようにしていたのか?
服装などは、いつもちゃんとしていて
背広は神戸元町の『柴田』で仕立てたというのが自慢だった。
小学生の頃、自転車を買ってもらったが、
自転車は100円ほどだったし、
当時の勤め人の給料が70円ぐらいの頃だから、
自転車も贅沢品だったのだと思う。
父は伯父との二人兄弟で、
伯父は朝鮮の南鮮合同電力のオーナー副社長で年に数回京城(今のソウル)に来ていたし
当時の内地では明石で『錦江ホテル』という結構立派なホテル経営など
定職があったのだが・・・
伯父と父は仲が良くて、財産分けなどもしていなかったようだから、
伯父から金が出ていたのか? 株の配当でもあったのか?
その辺りがよく解っていない。
伯父と父の写真も戦災で焼けてしまって、この2枚しかないのだが、
これは錦江ホテルの庭で写したもので、
私など、こんなちゃんとした格好で写真など写したことはない。
★ ただ、こんな生活も小学生時代までで、
終戦で内地に1人1000円だけ持って引き揚げてきたのだが、
『1人1000円』は少ないようにも思うが、
戦時中の給与が『70円』だとすると、結構な額だったのかも知れない。
ところが戦後はインフレがどんどん進んで、
引き揚げて戻ってきたころの『闇米』が『一升100円』ぐらいした。
戦後は、伯父も父も多分収入はなくて、どのようにしてたのか?
私が高校の頃、父は『脊髄カリエス』に罹って、
マイシンの注射が『1本 1000円』もしたのだが、
その金は、伯父が土地を売って都合してくれたのである。
『1坪100万円』近くにも高騰したことのある明石上ノ丸の土地だが、
当時は1坪2000円ぐらいだったのである。
父は3年近く寝てたので、
伯父は、結構多くの土地を売って、その金を都合してくれていたのである。
今思うと、日本で土地に値打ちが出だしたのは、
一般の人たちが自分の家を建てだした昭和40年(1965)ぐらいからで、
それまでは土地など大して値打ちのあるものではなかったのかも知れない。
★ 本当に、変化にとんだ『オモシロい時代』を生きてきたと思う。
1円が大金だった『自転車が100円』の時代、
戦前、伯父が乗ってたアメ車『パッカード』が1万円だった。
私が大学を卒業し入社した時の『初任給は12000円』だったのだが、
『日本の高度成長期』に給料はどんどん上がって、
退職する前は、『初任給の100倍』にもなっていたのだが、
そんなに『余裕のある生活』でもなかったように思う。
子どもたち二人が大学を卒業して、自分で給料をもらうようになるまで、
『貯金』などするにもできない時代が続いた。
その間の一番高い買い物は『土地と家』なのだが(1970年頃)
いま住んでいる三木の土地は70坪で280万円だったし
家も400万円ぐらいで建ったから、
周囲や庭を入れても1000万円は掛からなかった時代なのである。
ただ、給料が15万円ぐらいの頃だから苦しかったのだが、
給料が最高に上がった時期で、毎年20%も上がったりしたのである。
お蔭様で、ちょうど家を建てだした時期から
4年後には給料は2倍の30万円ぐらいになっていた。
今では考えられない『ウソみたいなホントの話』である。
★こんな時代を生きてきたのだが、
不思議なほど『金には頓着しなかった』し、
『金を貯めよう』などと思ったこともない。
子どもの頃に、いろいろ可愛がってくれた伯父の派手な生活ぶりを見て、
何となく『お金はないほうがいい』とそんなことを思ったりしたのが
影響しているのかも知れない。
川﨑航空機にはその伯父のコネで入れて貰ったのだが、
現役時代、『給料が安い』などと文句を言う人は周囲にはいたが、
私は、そんなこと思ったこともないのである。
★ただ、現役時代『会社の利益確保』には至極関心があって、
『会社のお金の額』については、二輪事業全体の管理をしていた企画室時代には
売上高ではなく『利益のレベル』で、『百億円』の『単位での貢献』が出来たと思っている。
これは初めて営業第1線に出て、当時の自前の代理店が、
実力以上に販売し『資金繰りが悪化し倒産する』様を見て
『赤字は罪悪』だと身に染みて思ったからである。
このような『事業経営でのお金』については、
間違いなく『人並以上の関心』があって、
結構『ダイナミックな金の使い方』もしたのだが、
事業経営は結果が毎年明確に出るので、それに興味があったのだと思う。
現役最後の10年間に国内販社を担当したが、
年間400億円の売上高だったが、無借金経営で、
総資産100億円だったから、4回転していて、
資本金1億円の会社の純資産が35億円にもなったから、
間違いなく『超優良会社』だったのである。
でも、個人の給与はちょっとボーナスがいいぐらいで、
同期の人たちと変わらなかったのだが、何の不満もなかったのである。
★ 退職後の今は全くの『年金生活』だが、
80歳代にもなると、殆ど金も使わない。
今更、欲しいものもあまりない。
1万円札を使うことが『まずない』ような生活で、
全然不満もないから不思議である。
振り返ってみて、
『裕福だった時代』
『貧しかった時代』
『会社経営で潤沢なお金があった時代』
『普通の生活をしている老後の時代』
を経験できて大満足なのである。
多分これからも『お金が増えたり』することはないし、
『お金が欲しい』と思うようなこともなく、私の一生は終わるのだと思う。