ミニSLフェアin神戸フルーツフラワーパークの第1日です。
雨が心配されましたが、午後からは曇りになりました。
午前中は順備、午後1時からのスタートでしたが、
神戸フルーツフラワーパークのいい雰囲気の中で、全国から集まった鉄道マニアたちが、自慢の蒸気機関車や新幹線を走らせて、子供たちは大喜びでした。
お父さんたちの運転教室も開催されて童心に戻ったお父さんたちの真剣さがまたよかったと思います。
全てがボランテイアと善意で運営されたのが特徴で、いろんなところが協力して、それぞれの負担はあるのでしょうが『予算0円』で組まれた和やかなイベントでした。
ABCテレビや地元紙の取材もあって、報道されるでしょうし明日は天気のようなので2日目は更に期待が出来ます。
こんな雰囲気でした。
北条鉄道からはホンモノの北条鉄道の制服を着たホンモノの方が旗を持って列車の進行を手伝ってくれました。
日本で一番大きいミニSLフェスタを10月25,26日に開催する福知山市からも応援と宣伝に駆けつけてくれました。(リンクは昨年度のものです)
このフェアの中心として活躍された内山先生の本の学校の教え子たちも黒い制服で参加応援してくれました。
神戸フルーツフラワーパークの場所代は無料ですし、
先日、ミニSLフェアを実施したグリーンピア三木からは、レールなどの補完だけでなく当日ここまでの運搬も手伝って頂きました。
川崎重工関連の鉄道マニアたちが別館での展示もしてくれて、
こんな皆さんの善意でこのイベントが成り立っているのが自慢です。
詳しくは内山さんの書かれた説明書をどうぞ。
一見の価値ありです。時間のある方は是非明日は、神戸フルーツフラワーパークにお出かけ下さい。
日産のゴーンさんにインタビューする『ゴーン道場と言うコラムがある。
今朝のテーマは『共感能力』である。
『リーダーに必要な資質に「共感能力(empathy)」があるという。理屈を越えて相手と心を通わせ合う力、どんなに優秀でも共感能力がゼロなら誰もついていかないでしょう』と言っている。
『全能力を使って相手のことや周囲のことを感じ取る。そうする中で周りの人と繋がる道を探ります。部下に何かをさせたいならば、まずその人の心に触れないとならない』
世の中一般に、リーダーと言われている人に『共感能力のある人』は意外に少ないのではと思ったりする。
自分自身歩いてきた道を振り返っても、
今、周辺にいる人たちを見てもそんな気がするのである。
逆に一見『怖くて、うるさくて、近寄り難い存在』でも『通い合う心』があればついて行こうと思うものである。
外国人で言葉の障壁もあったと思うが、見事日産のマネージメントを成功に導いたゴーんさんの秘密を見たような気がする。
情報発信よりは情報収集能力が問われるのだろう。
心を通わせることの出来ない人には、決していい情報は集まらない。
見せ掛けの『がさネタ』ばかりである。
然し、情報発信しないといい情報が集まらないのも事実である。
基本は『言葉だ』と思うが、その言葉に『心がある』かどうかの問題だろう。
ホンネの言葉こそ肝要だと思う。
このインタビュー
『外国人の知人は、「日本のビジネスマンは退屈。仕事以外に話すことがない。』ゴーンさんは、どう思いますか?』で始まっている。
それに応えて、
『率直に言って、日本もアメリカもフランスも退屈な人間の総数は変わらないですよ。ただ、マネージメントにおいては退屈な人間は避けねばなりません。』
確かに、その通りです。
マネージメントは『例え退屈でも』、何とかそこそこに動くのもまた事実です。
そこそこに動くので。動いていると錯覚するのです。
『面白いか』『退屈か』
『面白い』がいいに決まっています。
若し退屈なら『心を通わせる努力』を
これは、リーダーは勿論ですが、下の人たちからも働きかけることは出来ます。
それがリーダーシップだと思っています。
リーダーシップは上からの一方通行ではないと思っています。
今朝のテーマは『共感能力』である。
『リーダーに必要な資質に「共感能力(empathy)」があるという。理屈を越えて相手と心を通わせ合う力、どんなに優秀でも共感能力がゼロなら誰もついていかないでしょう』と言っている。
『全能力を使って相手のことや周囲のことを感じ取る。そうする中で周りの人と繋がる道を探ります。部下に何かをさせたいならば、まずその人の心に触れないとならない』
世の中一般に、リーダーと言われている人に『共感能力のある人』は意外に少ないのではと思ったりする。
自分自身歩いてきた道を振り返っても、
今、周辺にいる人たちを見てもそんな気がするのである。
逆に一見『怖くて、うるさくて、近寄り難い存在』でも『通い合う心』があればついて行こうと思うものである。
外国人で言葉の障壁もあったと思うが、見事日産のマネージメントを成功に導いたゴーんさんの秘密を見たような気がする。
情報発信よりは情報収集能力が問われるのだろう。
心を通わせることの出来ない人には、決していい情報は集まらない。
見せ掛けの『がさネタ』ばかりである。
然し、情報発信しないといい情報が集まらないのも事実である。
基本は『言葉だ』と思うが、その言葉に『心がある』かどうかの問題だろう。
ホンネの言葉こそ肝要だと思う。
このインタビュー
『外国人の知人は、「日本のビジネスマンは退屈。仕事以外に話すことがない。』ゴーンさんは、どう思いますか?』で始まっている。
それに応えて、
『率直に言って、日本もアメリカもフランスも退屈な人間の総数は変わらないですよ。ただ、マネージメントにおいては退屈な人間は避けねばなりません。』
確かに、その通りです。
マネージメントは『例え退屈でも』、何とかそこそこに動くのもまた事実です。
そこそこに動くので。動いていると錯覚するのです。
『面白いか』『退屈か』
『面白い』がいいに決まっています。
若し退屈なら『心を通わせる努力』を
これは、リーダーは勿論ですが、下の人たちからも働きかけることは出来ます。
それがリーダーシップだと思っています。
リーダーシップは上からの一方通行ではないと思っています。
お手数ですが、ちょっとクリックいて頂けますか。
渡部達也君、『タッチャン』で通っている。
カワサキモータースジャパンのまだ現役である。
KMJが川崎自動車販売という社名であった頃、はじめての定期採用者2人の中の一人である。
それ以降ずっと定期採用は続いたので、その先頭を走り続けた人たちである。
もう一人の冨永邦雄君はもう既にOBで関西のカワサキOB会の会長に就任している。
富永君はカワサキの単車事業が危機的状況の時には、アメリカのKMCに逆出向をしてアメリカの販社システムの構築の中心となったりもした。
カワサキの頭脳のような人だった。
タッチャンは、実力派である。
今、九州のオートポリスの責任者である。
先日のOB会で取締役の大江ちゃんが会社の状況を話したとき、
『オートポリスの経営がよくて』という話をしたのが耳に残っていた。
そんなところに、先週のオートポリスのレースのことが『ひょこむ』で話題に上がったのである。
このレースにチームハラダを出場させた『ハラダさん』
このレースを一家で見に行った『久留米はラーメンさん』
(このブログも面白いのだが、公開範囲がトモダチ限定なので)
いずれもひょこむのメンバーだが、お二人のブログはここ数日、オートポリスの話題で持ち切りである。
60おじさんや、亀田さんがコメントで参加している。
タッチャンに見せてあげたいような内容である。
今レースでの観客動員数は『日本一』『鈴鹿以上』とその集客力を褒めてくれている。
身内が言っているのではなく、一般の世間の方がそう評価しているのである。
これはホンモノである。
オートポリスの緑化計画などと言うものだから環境対策で植樹でもするのかと思ったら、スタンドをカワサキのファンのグリーンで埋めようということのようである。
それが、どうやら実現できたようで『タッチャンおめでとうございました』
改めて、『これが言いたかったのである。』
タッチャンは実力派である。
と言ったがまさに文字通りの実力派で、
7万台に挑戦した私がまだ現役の頃も、いろんな分野で援けてもらった。
日本ではじめてのジェットスキーの販売網
JJSBAのレースの創生期の活動、
カワサキではじめてのソフト会社の運営
KAZE,SPA直入の運営、
全くはじめての経験、二輪の自動車学校設立
お役所対応や初期軌道に乗せるための活動など。
みんな新しい経験のないプロジェクトばかりだった。
こんな難しいプロジェクトには、それぞれ実力派の上司がいるものである。
この時期タッチャンは、NO2の立場だった。
難しい上司を手のひらで転がしていい方向に持っていった。これは特技モノである。
世の中上が難しいと言って何も出来ずにいる人は多い。
十二分に機能した。みんな上手く行ったのである。
そして、今はオートポリスのNO1である。
トップなりの難しさはあるだろう。
掲げた目標を実現するためには努力だけではなく『ノウハウ、ソフト、仕組み』がいる。
それがちゃんと出来ているのだろう。実力派の面目躍如であると思っている。
ちょっと褒めすぎかも知れぬが、
あまりタッチャンをほめたことがないので、『これがはじめの終わりです』
褒めるきっかけを作って頂いた『ハラダさん』『久留米はラーメンさん』に感謝です。
彼とは個人的にもいろいろお付き合いはあるのです。
最近は、九州に行ってしまったのでやれてませんが、ゴルフもやりたいですね。
殆ど動いていませんが、「ひょこむ」にもちゃんと付き合ってくれています。
あの『タッチャン』はこの『タッチャン』です。流石にトモダチは『カワサキの真打』ばかりです。
もう旧い話ですが、松山の出です。タッチャンの結婚式に行きましたが霧で本州に戻れずに一泊しました。四国に橋など掛かっていませんでした。
タッチャンがオートポリスにいるうちに、SPA直入も含めて一度訪ねて見たいと思っているのですが、
そういいながらだいぶ経ってしまいました。
タッチャンお元気でご活躍下さい。
渡部達也君、『タッチャン』で通っている。
カワサキモータースジャパンのまだ現役である。
KMJが川崎自動車販売という社名であった頃、はじめての定期採用者2人の中の一人である。
それ以降ずっと定期採用は続いたので、その先頭を走り続けた人たちである。
もう一人の冨永邦雄君はもう既にOBで関西のカワサキOB会の会長に就任している。
富永君はカワサキの単車事業が危機的状況の時には、アメリカのKMCに逆出向をしてアメリカの販社システムの構築の中心となったりもした。
カワサキの頭脳のような人だった。
タッチャンは、実力派である。
今、九州のオートポリスの責任者である。
先日のOB会で取締役の大江ちゃんが会社の状況を話したとき、
『オートポリスの経営がよくて』という話をしたのが耳に残っていた。
そんなところに、先週のオートポリスのレースのことが『ひょこむ』で話題に上がったのである。
このレースにチームハラダを出場させた『ハラダさん』
このレースを一家で見に行った『久留米はラーメンさん』
(このブログも面白いのだが、公開範囲がトモダチ限定なので)
いずれもひょこむのメンバーだが、お二人のブログはここ数日、オートポリスの話題で持ち切りである。
60おじさんや、亀田さんがコメントで参加している。
タッチャンに見せてあげたいような内容である。
今レースでの観客動員数は『日本一』『鈴鹿以上』とその集客力を褒めてくれている。
身内が言っているのではなく、一般の世間の方がそう評価しているのである。
これはホンモノである。
オートポリスの緑化計画などと言うものだから環境対策で植樹でもするのかと思ったら、スタンドをカワサキのファンのグリーンで埋めようということのようである。
それが、どうやら実現できたようで『タッチャンおめでとうございました』
改めて、『これが言いたかったのである。』
タッチャンは実力派である。
と言ったがまさに文字通りの実力派で、
7万台に挑戦した私がまだ現役の頃も、いろんな分野で援けてもらった。
日本ではじめてのジェットスキーの販売網
JJSBAのレースの創生期の活動、
カワサキではじめてのソフト会社の運営
KAZE,SPA直入の運営、
全くはじめての経験、二輪の自動車学校設立
お役所対応や初期軌道に乗せるための活動など。
みんな新しい経験のないプロジェクトばかりだった。
こんな難しいプロジェクトには、それぞれ実力派の上司がいるものである。
この時期タッチャンは、NO2の立場だった。
難しい上司を手のひらで転がしていい方向に持っていった。これは特技モノである。
世の中上が難しいと言って何も出来ずにいる人は多い。
十二分に機能した。みんな上手く行ったのである。
そして、今はオートポリスのNO1である。
トップなりの難しさはあるだろう。
掲げた目標を実現するためには努力だけではなく『ノウハウ、ソフト、仕組み』がいる。
それがちゃんと出来ているのだろう。実力派の面目躍如であると思っている。
ちょっと褒めすぎかも知れぬが、
あまりタッチャンをほめたことがないので、『これがはじめの終わりです』
褒めるきっかけを作って頂いた『ハラダさん』『久留米はラーメンさん』に感謝です。
彼とは個人的にもいろいろお付き合いはあるのです。
最近は、九州に行ってしまったのでやれてませんが、ゴルフもやりたいですね。
殆ど動いていませんが、「ひょこむ」にもちゃんと付き合ってくれています。
あの『タッチャン』はこの『タッチャン』です。流石にトモダチは『カワサキの真打』ばかりです。
もう旧い話ですが、松山の出です。タッチャンの結婚式に行きましたが霧で本州に戻れずに一泊しました。四国に橋など掛かっていませんでした。
タッチャンがオートポリスにいるうちに、SPA直入も含めて一度訪ねて見たいと思っているのですが、
そういいながらだいぶ経ってしまいました。
タッチャンお元気でご活躍下さい。
mixi には三木のヨネさんに紹介してもらって1年ほど前にジョインした。
1300万人も会員がいるという日本最大のSNSである。
人数が多すぎて、何となくよく解らぬところが多かった。
何度かちょっと手をだしたが、絵文字や昨今の若い人の独特の短い文章についていけなくて、ずっと放っておいたのである。
2,3日前からちょっと気が変わって『カワサキのバイクネタ』に絞って、今までアップしたブログをちょっと修正してアップしてみることにした。
今までも『カワサキワールド』という5000人もいるコミユニテイに入っていたが、ただ入っているだけであった。
もう少し、こじんまりとしたものはないのかと探していたら、
こんなのがあった。『カワサキバカ』である。
よく解らなかったが、ここの『はじめてのご挨拶』に場違いのような自己紹介を載せてみた。
そして、Akiraさんなるこのコミユニテイの管理者に挨拶メールを送ったのである。
こんな返事が戻ってきた。
『コミュニティ参加ありがとうございました。
カワサキOBということですが、もしかしたら北見紀生さんを御存知でしょか。
旧メグロからカワサキになって整備をされていた方です。
御年齢が同じくらいでしたのでもしかしたら御存知かと思いました。
北見さんのコミュの管理人もさせて頂いております。
今後とも宜しくお願い致します。 Akira 』
北見君、懐かしい男である。
東京営業所のサービスを担当してくれていたが、何となく気があっていろいろとお付き合いをした。
当時の東京のバイク乗りは、カワサキの営業所ではなくて、『カワサキの北見さん』にお世話になった人は多いはずである。
ひょっとしたら、まだ有名でなかった頃の岩城洸一などもそうでなかったかと思っている。彼は北見さんのことはよく知っていた。
北見君もコミユニテイを持っていて、その管理人もakiraさんがされているとか。
承認制のコミユニテイだが『承認頂いて』入れて貰った。
北見君と出会えたようなものだから、こんどのmixiはちゃんと続くと思う。
仙台の服部君もそうだが、メグロを触っていたサービスマンの腕はちょっと違っていたように思う。
仙台で一緒に仕事をした田中さんも、メグロではないがメイハツの宇田川君も当時のサービスの人たちは職人肌のプロの見識を持っていたように思う。
今、北見君はある意味有名人である。
付き合った人がみんなほれ込んでしまう『人柄』である。
彼を紹介するユーザーたちの文章にそれが溢れている。
そんなことで、昨日はまたいい出会いのあった一日であった。
『カワサキバカ』の一人としてmixiともつきあって見たいと思っている。
1300万人も会員がいるという日本最大のSNSである。
人数が多すぎて、何となくよく解らぬところが多かった。
何度かちょっと手をだしたが、絵文字や昨今の若い人の独特の短い文章についていけなくて、ずっと放っておいたのである。
2,3日前からちょっと気が変わって『カワサキのバイクネタ』に絞って、今までアップしたブログをちょっと修正してアップしてみることにした。
今までも『カワサキワールド』という5000人もいるコミユニテイに入っていたが、ただ入っているだけであった。
もう少し、こじんまりとしたものはないのかと探していたら、
こんなのがあった。『カワサキバカ』である。
よく解らなかったが、ここの『はじめてのご挨拶』に場違いのような自己紹介を載せてみた。
そして、Akiraさんなるこのコミユニテイの管理者に挨拶メールを送ったのである。
こんな返事が戻ってきた。
『コミュニティ参加ありがとうございました。
カワサキOBということですが、もしかしたら北見紀生さんを御存知でしょか。
旧メグロからカワサキになって整備をされていた方です。
御年齢が同じくらいでしたのでもしかしたら御存知かと思いました。
北見さんのコミュの管理人もさせて頂いております。
今後とも宜しくお願い致します。 Akira 』
北見君、懐かしい男である。
東京営業所のサービスを担当してくれていたが、何となく気があっていろいろとお付き合いをした。
当時の東京のバイク乗りは、カワサキの営業所ではなくて、『カワサキの北見さん』にお世話になった人は多いはずである。
ひょっとしたら、まだ有名でなかった頃の岩城洸一などもそうでなかったかと思っている。彼は北見さんのことはよく知っていた。
北見君もコミユニテイを持っていて、その管理人もakiraさんがされているとか。
承認制のコミユニテイだが『承認頂いて』入れて貰った。
北見君と出会えたようなものだから、こんどのmixiはちゃんと続くと思う。
仙台の服部君もそうだが、メグロを触っていたサービスマンの腕はちょっと違っていたように思う。
仙台で一緒に仕事をした田中さんも、メグロではないがメイハツの宇田川君も当時のサービスの人たちは職人肌のプロの見識を持っていたように思う。
今、北見君はある意味有名人である。
付き合った人がみんなほれ込んでしまう『人柄』である。
彼を紹介するユーザーたちの文章にそれが溢れている。
そんなことで、昨日はまたいい出会いのあった一日であった。
『カワサキバカ』の一人としてmixiともつきあって見たいと思っている。
タテ割り行政の象徴とも思われた公務員制度の改革案が何故か突然衆議院を通過した。
これに独り執念を燃やしていた感のある渡辺さんの涙のインタビューが印象的であった。
日本の中央官僚は極めて優秀である。
個々にはお付き合いのあった方もいるが、間違いなく立派である。
戦後の日本をここまで立て直したのも、優秀な官僚の力に負うところは大きいと思う。
然し、国益よりも省益をと言われたりするタテ型のスタンスやキャリア制度やその結果生じる天下り、それを受け容れるための組織など指摘されている問題点も多い。
その根幹をなしている公務員制度の改革、見直しは時代の要請だと思っていたが、
官僚出身の議員や族議員たちの抵抗もきつく渡辺さんは孤軍奮闘のようであったのに、
何故か突然民主党案も受け入れ修正して可決ということになった。
永く続いた制度であるから法案が通ったから直ぐに解決することにはならぬが、
間違いなく修正の方向に歩みだすことは間違いないだろう。
これとも関連するが、福田さんが熱心な『消費者庁の設置』がある。
朝日も、
『消費者庁―首相は各省を説き伏せよ』と後押しする社説を載せている。
こんな風に書いている。要約すると
『人はだれでも消費者であり、生活者だ。
権限と責任を持った「消費者行政の司令塔」というイメージである。
これまで多くの省庁は、産業の振興や業界の育成に軸足を置いてきた。
消費者を守る部門があっても、役所同士の連携も不十分で、縦割りのすき間に落ちてしまい、対応が遅れるケースもある。
消費者行政の窓口を一本化し、消費者庁をつくることを支持したい。
だが、霞が関の動きや地方の現状を考えると、気がかりな点がある。
ここは提唱者の福田首相が今こそ正念場と考えて、自ら関係閣僚を説き伏せるしかない。
大事なのは、立派な役所をもう一つつくることではない。
消費者の視点に立った行政へと、霞が関の発想を変えていくことである。 』
その通りだと思っている。
福田さんは頑張って欲しい。
この二つは、日本の世の流れを変える『大きな方向』である。
個人的に私は『タテ型』が嫌いである。
視線は常に『末端』に向けられるべきだと思っている。
ブログをアップしだして直ぐこんなことを書いている。
その後も、ずっと言い続けている。
福田さんがこの二つにホンネで取り組むなら、私は『支持する』ほうに態度を転換する。
これに独り執念を燃やしていた感のある渡辺さんの涙のインタビューが印象的であった。
日本の中央官僚は極めて優秀である。
個々にはお付き合いのあった方もいるが、間違いなく立派である。
戦後の日本をここまで立て直したのも、優秀な官僚の力に負うところは大きいと思う。
然し、国益よりも省益をと言われたりするタテ型のスタンスやキャリア制度やその結果生じる天下り、それを受け容れるための組織など指摘されている問題点も多い。
その根幹をなしている公務員制度の改革、見直しは時代の要請だと思っていたが、
官僚出身の議員や族議員たちの抵抗もきつく渡辺さんは孤軍奮闘のようであったのに、
何故か突然民主党案も受け入れ修正して可決ということになった。
永く続いた制度であるから法案が通ったから直ぐに解決することにはならぬが、
間違いなく修正の方向に歩みだすことは間違いないだろう。
これとも関連するが、福田さんが熱心な『消費者庁の設置』がある。
朝日も、
『消費者庁―首相は各省を説き伏せよ』と後押しする社説を載せている。
こんな風に書いている。要約すると
『人はだれでも消費者であり、生活者だ。
権限と責任を持った「消費者行政の司令塔」というイメージである。
これまで多くの省庁は、産業の振興や業界の育成に軸足を置いてきた。
消費者を守る部門があっても、役所同士の連携も不十分で、縦割りのすき間に落ちてしまい、対応が遅れるケースもある。
消費者行政の窓口を一本化し、消費者庁をつくることを支持したい。
だが、霞が関の動きや地方の現状を考えると、気がかりな点がある。
ここは提唱者の福田首相が今こそ正念場と考えて、自ら関係閣僚を説き伏せるしかない。
大事なのは、立派な役所をもう一つつくることではない。
消費者の視点に立った行政へと、霞が関の発想を変えていくことである。 』
その通りだと思っている。
福田さんは頑張って欲しい。
この二つは、日本の世の流れを変える『大きな方向』である。
個人的に私は『タテ型』が嫌いである。
視線は常に『末端』に向けられるべきだと思っている。
ブログをアップしだして直ぐこんなことを書いている。
その後も、ずっと言い続けている。
福田さんがこの二つにホンネで取り組むなら、私は『支持する』ほうに態度を転換する。
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『ヤマハ250』マシンではなくて、ブログの名前である。
そんなヤマハの名前の付いたブログに、先日の私のブログをリンクして頂いて、それ以降何人かの方がアクセスして頂いている。
このブログを書いておられるmiyazaki452002さんから、
昨日書いた『紙単さんからのコメント』の中で触れた「二輪なのに何故単車か」について、ちゃんと調べてわざわざコメントを頂いたのである。
『「単車」の件、「側車」に対する言葉ということで間違いないと思います。
英語もそのようになっていますので、英語がそのまま訳されたのでしょう。
「monday's 250 race was the first solo TT 0f 1965」
「月曜日の250ccレースが1965年最初の単車TTレースだった」
1965年のマン島TTの最初のレースは月曜日午前のサイドカーで午後の250ccレースが単車の最初のレースというわけです。バイクにサイドカーが付いていないことを強調しなくてはならないときに、soloを使います。』
この方のブログも、マシンや技術的なコメントが多くて、多分技術屋さんだと思う。
「ヤマハ250」なのに「カワサキ」も「スズキ」も登場する。昨日はカワサキの稲村さんが登場した。
私のような専門的なことは専門家に任してという徹底的にのんびりした事務屋は、「岡田さんが言うことなら間違いない」と信じてしまうのである。
『単車は側車に対するもの』と言うことで間違いないと検証して頂いて、ある意味ほっとした。
昨日の「紙の単車」に関するブログには紙単さんからもコメントを頂いた。
こんなことから、その後ずっと関係が出来てしまった方はいっぱいいる。
ブログのこんな意外性は面白くて好きである。
年代も、時間も、距離も越えて『何か共感するもの』で人が繋がるのである。
カバン屋さんなどは最近はしょっちゅうお会いする。
ハラダさんや久留米はラーメンさんも先日の日曜日のオートポリスのレースでコメントやメールを頂いているし、『サーキット』について何か書こうかなどと、思ったりしている。
先日、ノンちゃんから依頼のあったエコレーシングカーの話は具体的に動き出した。
山本隆君の息子さん山本明君から改めてご丁寧なメールを頂いた。
日曜日にはBug in Miki の主催者松原さんにも改めてお会いできたし、世の中は本当に面白いと思っている今日この頃である。
『ヤマハ250』マシンではなくて、ブログの名前である。
そんなヤマハの名前の付いたブログに、先日の私のブログをリンクして頂いて、それ以降何人かの方がアクセスして頂いている。
このブログを書いておられるmiyazaki452002さんから、
昨日書いた『紙単さんからのコメント』の中で触れた「二輪なのに何故単車か」について、ちゃんと調べてわざわざコメントを頂いたのである。
『「単車」の件、「側車」に対する言葉ということで間違いないと思います。
英語もそのようになっていますので、英語がそのまま訳されたのでしょう。
「monday's 250 race was the first solo TT 0f 1965」
「月曜日の250ccレースが1965年最初の単車TTレースだった」
1965年のマン島TTの最初のレースは月曜日午前のサイドカーで午後の250ccレースが単車の最初のレースというわけです。バイクにサイドカーが付いていないことを強調しなくてはならないときに、soloを使います。』
この方のブログも、マシンや技術的なコメントが多くて、多分技術屋さんだと思う。
「ヤマハ250」なのに「カワサキ」も「スズキ」も登場する。昨日はカワサキの稲村さんが登場した。
私のような専門的なことは専門家に任してという徹底的にのんびりした事務屋は、「岡田さんが言うことなら間違いない」と信じてしまうのである。
『単車は側車に対するもの』と言うことで間違いないと検証して頂いて、ある意味ほっとした。
昨日の「紙の単車」に関するブログには紙単さんからもコメントを頂いた。
こんなことから、その後ずっと関係が出来てしまった方はいっぱいいる。
ブログのこんな意外性は面白くて好きである。
年代も、時間も、距離も越えて『何か共感するもの』で人が繋がるのである。
カバン屋さんなどは最近はしょっちゅうお会いする。
ハラダさんや久留米はラーメンさんも先日の日曜日のオートポリスのレースでコメントやメールを頂いているし、『サーキット』について何か書こうかなどと、思ったりしている。
先日、ノンちゃんから依頼のあったエコレーシングカーの話は具体的に動き出した。
山本隆君の息子さん山本明君から改めてご丁寧なメールを頂いた。
日曜日にはBug in Miki の主催者松原さんにも改めてお会いできたし、世の中は本当に面白いと思っている今日この頃である。
『サマータイムやっていない日本が異例』
と福田さんが言ったとか。
サマータイムとは、どんな制度で世界ではどんなな状況かWikipediaで調べてみた。
いろいろと書いてあるが、簡単に言うと
『明るいうちに仕事をして、夜は早く寝るようになるから、結果的に省エネルギーにつながるとされている。緯度が高く夏の日照時間が長い欧米諸国などでは一般化した制度である。』
と言うことであるらしい。
省エネルギーが大きな目的になっている。
私は『サマータイム』は経験がある。
出張先のアメリカなどでは何度も経験したが、これはもともと時差があるので特に何も感じなかった。
高校の1年、2年の頃、日本も『サマータイム制』が実施されていた。
日本に於けるサマータイムについてはこんな風に記述されている。
『日本におけるサマータイム
日本は敗戦し、米軍などにより占領統治された。その時期に、1948年4月28日に公布された夏時刻法に基づいて、
同年5月から毎年第1土曜日24時(=日曜日1時)から9月第2土曜日25時(=日曜日0時)までの夏時間を実施していた。
結局、サマータイムは4回(4シーズン)実施された。
それに先立って1952年4月11日に夏時刻法は廃止された。よって5回目の夏時間は実施されていない。
以後、日本では法律に基づく全国一斉の本格的なサマータイムは実施されていない。』
省エネなどには関係なく、アメリカの占領下であったので、アメリカ流にやらされたということであろうか。
私自身の日本のサマータイムは、確か高校3年の時にはなくなったのだが、
『ホントにほっとしたのを』よく覚えている。
当時、野球部にいた。
夏の大会前の練習が厳しくなる時期にサマータイムは始まるのである。
時間に関係なく『暗くなるまで練習する』当時の名門野球部では、サマータイムは1時間練習時間が延びるということであった。
1年生の頃は、毎日晩飯は12時近かった。
8時ごろまでは明るいのである。ボールが見えるまで、そこまではノックがある。
暗くなりかけてからランニングが始まる。練習が終わるのは9時を過ぎる。
1年生はグランド整備、後片付け学校を出るのは10時は過ぎていた。
家に帰って飯が食えるのは12時近かったのである。
3年の時、確かサマータイムはなくなった。
練習時間が1時間短くなって『ほっとした』のをよく覚えている。
省エネなどとは何の関係もない私の『サマータイム』であった。
でも、2年の時夏の甲子園に出場出来た。
サマータイムのなくなった、3年の時は準決勝で負けてしまった。
『サマータイム』のお陰かも知れない。
と福田さんが言ったとか。
サマータイムとは、どんな制度で世界ではどんなな状況かWikipediaで調べてみた。
いろいろと書いてあるが、簡単に言うと
『明るいうちに仕事をして、夜は早く寝るようになるから、結果的に省エネルギーにつながるとされている。緯度が高く夏の日照時間が長い欧米諸国などでは一般化した制度である。』
と言うことであるらしい。
省エネルギーが大きな目的になっている。
私は『サマータイム』は経験がある。
出張先のアメリカなどでは何度も経験したが、これはもともと時差があるので特に何も感じなかった。
高校の1年、2年の頃、日本も『サマータイム制』が実施されていた。
日本に於けるサマータイムについてはこんな風に記述されている。
『日本におけるサマータイム
日本は敗戦し、米軍などにより占領統治された。その時期に、1948年4月28日に公布された夏時刻法に基づいて、
同年5月から毎年第1土曜日24時(=日曜日1時)から9月第2土曜日25時(=日曜日0時)までの夏時間を実施していた。
結局、サマータイムは4回(4シーズン)実施された。
それに先立って1952年4月11日に夏時刻法は廃止された。よって5回目の夏時間は実施されていない。
以後、日本では法律に基づく全国一斉の本格的なサマータイムは実施されていない。』
省エネなどには関係なく、アメリカの占領下であったので、アメリカ流にやらされたということであろうか。
私自身の日本のサマータイムは、確か高校3年の時にはなくなったのだが、
『ホントにほっとしたのを』よく覚えている。
当時、野球部にいた。
夏の大会前の練習が厳しくなる時期にサマータイムは始まるのである。
時間に関係なく『暗くなるまで練習する』当時の名門野球部では、サマータイムは1時間練習時間が延びるということであった。
1年生の頃は、毎日晩飯は12時近かった。
8時ごろまでは明るいのである。ボールが見えるまで、そこまではノックがある。
暗くなりかけてからランニングが始まる。練習が終わるのは9時を過ぎる。
1年生はグランド整備、後片付け学校を出るのは10時は過ぎていた。
家に帰って飯が食えるのは12時近かったのである。
3年の時、確かサマータイムはなくなった。
練習時間が1時間短くなって『ほっとした』のをよく覚えている。
省エネなどとは何の関係もない私の『サマータイム』であった。
でも、2年の時夏の甲子園に出場出来た。
サマータイムのなくなった、3年の時は準決勝で負けてしまった。
『サマータイム』のお陰かも知れない。
お手数ですが、ちょっとクリックいて頂けますか。
昨日『エコレーシングカー』と言うブログをアップしたら、
それとは直接関係はないのだが、『紙単さん』なる方からこんなコメントを頂いた。
お世話になります (紙單)
2008-05-27 00:21:07
その節は当ブログ「45歳からのKawasakiリターンズ」にコメントを頂き誠にありがとうございました。
実は本日、仙台の服部会長にお会いする機会があり、いろいろとお話を伺いました。会長のご実家と、私の妻の実家が隣町というサプライズもあり、世の中は狭いな~としみじみ思いました。近況報告になってしまいましたが、近い将来、お会いできる日があればゆっくりとお話がしてみたいと思っています。今後共、宜しくお願い申し上げます。それでは失礼いたします。
最近は物忘れがひどくて、心当たりがないのである。
『45歳からのKawasakiリターンズ』も紙単さんも。
コメントには服部カワサキの服部君の名前もあるし彼の故郷の岩手遠野とも関係があるとか、ご返事する前に調べてみなければと
『45歳からのKawasakiリターンズ』で検索して見つかったのがこのブログである。
飛び込んできたのが服部カワサキである。
いろんな写真のなかで、看板にある『E-shop服部』と言う文字が私には一番印象的であった。
もうずっと前に消えてしまったカワサキの優秀店かExclisive店のネーミングであったが、何故か服部君はその名前に拘っていたのはよく知っていた。
今でも、残しているのである。
如何にも服部君らしいと思った。
それは兎も角、『紙単』とはどうも紙の単車のようである。
それも、私の営業のスタートの東北の岩手県に関係がおありのようである。
ブログはこんなことがあるから、面白い。
ブログ村にも出てきたので、ひょっとしたらぶろぐ村でお会いしたのかも知れないのである。
いずれにしても『Kawasaki派』であることは間違いない。
カワサキでなくても、二輪業界にとって『紙の単車』は面白い。
こんな方は貴重である。
機会があれば私も是非お会いしたいが、岩手ではなかなか難しい。
当面は、ネットでのお付き合いになるだろう。
ところで、
『二輪車なのに、なぜ単車なのか』ご存知ですか?
私が知っているわけではないのですが、大先輩が私が若い時に教えてくれました。
このブログで『カワサキ単車の昔話』を60回ほどシリーズで綴っていますが、
その第1話にこのシリーズのコンセプトと『何故単車か』と言うことを書いています。
私には何故か『単車』と言う言葉はカワサキだけが使っていたような気がします。
永く『単車事業部』でした。
私にとって『単車』にはいっぱい思い出があるのです。
昨日『エコレーシングカー』と言うブログをアップしたら、
それとは直接関係はないのだが、『紙単さん』なる方からこんなコメントを頂いた。
お世話になります (紙單)
2008-05-27 00:21:07
その節は当ブログ「45歳からのKawasakiリターンズ」にコメントを頂き誠にありがとうございました。
実は本日、仙台の服部会長にお会いする機会があり、いろいろとお話を伺いました。会長のご実家と、私の妻の実家が隣町というサプライズもあり、世の中は狭いな~としみじみ思いました。近況報告になってしまいましたが、近い将来、お会いできる日があればゆっくりとお話がしてみたいと思っています。今後共、宜しくお願い申し上げます。それでは失礼いたします。
最近は物忘れがひどくて、心当たりがないのである。
『45歳からのKawasakiリターンズ』も紙単さんも。
コメントには服部カワサキの服部君の名前もあるし彼の故郷の岩手遠野とも関係があるとか、ご返事する前に調べてみなければと
『45歳からのKawasakiリターンズ』で検索して見つかったのがこのブログである。
飛び込んできたのが服部カワサキである。
いろんな写真のなかで、看板にある『E-shop服部』と言う文字が私には一番印象的であった。
もうずっと前に消えてしまったカワサキの優秀店かExclisive店のネーミングであったが、何故か服部君はその名前に拘っていたのはよく知っていた。
今でも、残しているのである。
如何にも服部君らしいと思った。
それは兎も角、『紙単』とはどうも紙の単車のようである。
それも、私の営業のスタートの東北の岩手県に関係がおありのようである。
ブログはこんなことがあるから、面白い。
ブログ村にも出てきたので、ひょっとしたらぶろぐ村でお会いしたのかも知れないのである。
いずれにしても『Kawasaki派』であることは間違いない。
カワサキでなくても、二輪業界にとって『紙の単車』は面白い。
こんな方は貴重である。
機会があれば私も是非お会いしたいが、岩手ではなかなか難しい。
当面は、ネットでのお付き合いになるだろう。
ところで、
『二輪車なのに、なぜ単車なのか』ご存知ですか?
私が知っているわけではないのですが、大先輩が私が若い時に教えてくれました。
このブログで『カワサキ単車の昔話』を60回ほどシリーズで綴っていますが、
その第1話にこのシリーズのコンセプトと『何故単車か』と言うことを書いています。
私には何故か『単車』と言う言葉はカワサキだけが使っていたような気がします。
永く『単車事業部』でした。
私にとって『単車』にはいっぱい思い出があるのです。
お手数ですが、ちょっとクリックいて頂けますか。
昨日だったか、7万台の挑戦の中でジェットスキーのことにもちょっと触れた。
その中で書こうかと思いながら書かなかったことがある。
89年にジェットスキーのデーラーミーテングをアメリカのオマハで開催している。
ジェットスキーを生産しているリンカーン工場と秋に『レークハバス』で行なわれるIJSBAのレース見学を兼ねてのアメリカツアーのことである。
私は、幕張のモータショーとの日程の関係で、デーラーミーテングだけでレークハバスには行けなかった。
その『レークハバス』と言う名前が思い出せなくて、
『ジェットスキー、レース、アメリカ』 で検索して探していたら、こんなサイトに出くわしたのである。
福井昇君のこんなコラムである。
こんなコラムを出しているのも知らなかったし、中味の話もよく知らない。
このブログにアップすることも彼には言っていないが、ジェットスキー創生期の貴重な面白い話なので、
昔の思い出話として是非残しておきたいと思ったのである。
興味のある方は是非ご一読下さい。
当時、85年ごろカワサキの明石の単車部門ではジェットスキーを担当する部門はなかったのである。
開発は発動機事業部。
エンジン生産も発動機事業部。
エンジンを送って生産はリンカーン工場で行なっていた。
販売はKMCでアメリカ市場が殆どであった。ヨーロッパや日本にもどこからかの輸入で少しは入っていた。
そんなことで明石の単車部門は全然関係なかったのである。
そんな時代であった。福井君は発動機事業部所属でどこにいたのか知らなかったがプライベートでジェットスキーのレースに出場していた。
私は単車の企画室にいた。
日本では西武自動車が輸入しカワサキの孫会社で細々と扱っていた。
その孫会社の社長さんが苧野豊秋さんで私や田崎さんの元上司であった。
ジェットスキー事業のアメリカ以外での展開案を企画するのは仕事の範疇であった。
故武本一郎君が企画にいて、JS400,500のエンジンを450,550ccにするための開発費の捻出や、アメリカ市場以外での販売を画策していたのである。
丁度、鶴谷君(気安く呼んでいるが今彼は川重商事の社長である)がオーストラリアから帰任した時で、企画にそのまま籍を置いて『ジェットスキー担当』としたのである。
単車にはジェットスキーに『乗れるヤツもいない』と福井君を強引に発動機から単車企画に引っ張ってきて鶴谷君の下につけた。
福井君の上司はたまたま私と同期の藤川さんだったので、頼み込んだのである。
国内はもとより欧州でのジェットスキー事業案を
企画室が計画し、市場調査も担当部門がなかったのでその販売までも全て実行もしたのである。
このコラムの話は、そのころのことである。
鶴谷、福井君のコンビは一生懸命であったし、国内の苧野、藤田、宇田川さんたち当時の開拓者の努力で今日があるのである。
国内のJJSBAを正規に立ち上げるべくアメリカのKMCに苧野さんとご一緒したりした、その当時のKMCの社長は田崎さんであった。
私はそんなお手伝いはしたのだが、
福井君が書いているこんなコラムの内容はよく知らない。それにしてもよくあちこちと行ったものである。
中味はよく知らないが、出張申請や出金伝票の決済は間違いなく私がしたのだと思う。世に言う『めくら印』である。
懐かしいいい時代であった。
遊んでいるようだがみんな一生懸命仕事をした。
こんな活動の成果でヨーロッパにジェットスキーの独立会社を後立ち上げるのだが、今のヨーロッパカワサキの前身である。
福井昇君はその後独立して国内ジェットスキー専門店の1号店を開店するのだが、今でもお付き合いがあって、来週はミニSLフェアで神戸フルーツフラワーでお会いする。
彼の想いは『神戸のハーバーランド』や『メリケン波止場』に常設のレールを敷いて蒸気機関車を走らせることである。
何時までも夢があっていい。そんな夢を少し手伝っている。
昨日だったか、7万台の挑戦の中でジェットスキーのことにもちょっと触れた。
その中で書こうかと思いながら書かなかったことがある。
89年にジェットスキーのデーラーミーテングをアメリカのオマハで開催している。
ジェットスキーを生産しているリンカーン工場と秋に『レークハバス』で行なわれるIJSBAのレース見学を兼ねてのアメリカツアーのことである。
私は、幕張のモータショーとの日程の関係で、デーラーミーテングだけでレークハバスには行けなかった。
その『レークハバス』と言う名前が思い出せなくて、
『ジェットスキー、レース、アメリカ』 で検索して探していたら、こんなサイトに出くわしたのである。
福井昇君のこんなコラムである。
こんなコラムを出しているのも知らなかったし、中味の話もよく知らない。
このブログにアップすることも彼には言っていないが、ジェットスキー創生期の貴重な面白い話なので、
昔の思い出話として是非残しておきたいと思ったのである。
興味のある方は是非ご一読下さい。
当時、85年ごろカワサキの明石の単車部門ではジェットスキーを担当する部門はなかったのである。
開発は発動機事業部。
エンジン生産も発動機事業部。
エンジンを送って生産はリンカーン工場で行なっていた。
販売はKMCでアメリカ市場が殆どであった。ヨーロッパや日本にもどこからかの輸入で少しは入っていた。
そんなことで明石の単車部門は全然関係なかったのである。
そんな時代であった。福井君は発動機事業部所属でどこにいたのか知らなかったがプライベートでジェットスキーのレースに出場していた。
私は単車の企画室にいた。
日本では西武自動車が輸入しカワサキの孫会社で細々と扱っていた。
その孫会社の社長さんが苧野豊秋さんで私や田崎さんの元上司であった。
ジェットスキー事業のアメリカ以外での展開案を企画するのは仕事の範疇であった。
故武本一郎君が企画にいて、JS400,500のエンジンを450,550ccにするための開発費の捻出や、アメリカ市場以外での販売を画策していたのである。
丁度、鶴谷君(気安く呼んでいるが今彼は川重商事の社長である)がオーストラリアから帰任した時で、企画にそのまま籍を置いて『ジェットスキー担当』としたのである。
単車にはジェットスキーに『乗れるヤツもいない』と福井君を強引に発動機から単車企画に引っ張ってきて鶴谷君の下につけた。
福井君の上司はたまたま私と同期の藤川さんだったので、頼み込んだのである。
国内はもとより欧州でのジェットスキー事業案を
企画室が計画し、市場調査も担当部門がなかったのでその販売までも全て実行もしたのである。
このコラムの話は、そのころのことである。
鶴谷、福井君のコンビは一生懸命であったし、国内の苧野、藤田、宇田川さんたち当時の開拓者の努力で今日があるのである。
国内のJJSBAを正規に立ち上げるべくアメリカのKMCに苧野さんとご一緒したりした、その当時のKMCの社長は田崎さんであった。
私はそんなお手伝いはしたのだが、
福井君が書いているこんなコラムの内容はよく知らない。それにしてもよくあちこちと行ったものである。
中味はよく知らないが、出張申請や出金伝票の決済は間違いなく私がしたのだと思う。世に言う『めくら印』である。
懐かしいいい時代であった。
遊んでいるようだがみんな一生懸命仕事をした。
こんな活動の成果でヨーロッパにジェットスキーの独立会社を後立ち上げるのだが、今のヨーロッパカワサキの前身である。
福井昇君はその後独立して国内ジェットスキー専門店の1号店を開店するのだが、今でもお付き合いがあって、来週はミニSLフェアで神戸フルーツフラワーでお会いする。
彼の想いは『神戸のハーバーランド』や『メリケン波止場』に常設のレールを敷いて蒸気機関車を走らせることである。
何時までも夢があっていい。そんな夢を少し手伝っている。
お手数ですが、ちょっとクリックいて頂けますか。
環境がやかましく言われる時代である。
レーシングカーもその前に『エコ』が付いてもおかしくない。
ハードは苦手の私だが人脈を通じて『人を繋ぐ』のは得意である。
この話、ひょっとすると面白く発展するかも知れないので、お伝えしておきます。
先日のカワサキOB会の席上『ノンちゃん』から
『レーシングカーの車体が解る人知ってませんか』と言うのである。
四輪の世界は?と思っていたら自転車みたいなものですと言うのである。
自転車ならひょっとして、60おじさんの息子さんなら大丈夫ではないかととっさに思った。
山本隆君の息子さんは、モトクロスバイシクルのような選手でどこかのメーカーの契約選手でもある。
自転車はプロで車体組み立てもやっていると聞いていた。
60おじさんに聞いてみると、今東京のイクサワのレーシングチームからも声が掛かっていて『忙しいかも知れぬが』と言うので。
若し忙しい場合は、息子に話を聞いて『お前がやればいい』と話を繋いだのである。
昨日、『ノンちゃん』から、山本君の息子さん宛てのメールのccが届いた。
上手く行きそうである。
レーシングカーなる写真も貼付してあった。
マル秘でもないと思うので、はしょってご紹介すると、
山本さん
標記の件でお父上にお世話になっています野田です。
本件でお力添えを頂けると聞き喜んでいます。
概要は以下の通りです。
前輪2輪、後輪1輪(駆動)50ccの単車用蓄電池を動力源として、決められたコースを何周できるかを競う競技です。
従って、この車(自転車?)の総重量、フレームの安定性などが何周できるかに影響します。
軽量化をアルミ製の筐体の軽量化(重量減、最適設計による軽量化)により、性能アップを考えているようです。
例年11月下旬に万博会場跡でレースが行われると聞いております。
これを進めているのは神戸の工業高校の学生たちである。ミニSLの内山先生の関係のあった学校である。
そして、仲立ちしておられるのは、(財)神戸市産業振興財団の工学博士の先生である。
『ノンちゃん』は、NPO『産業人OBネット』を立ち上げているのでその線での活動のようである。
それにしても『かえるの子はかえる』である。
山本君の息子がレーシングチーム『イクサワ』の手伝いをしているとは知らなかった。
先日もON ANY SANDAでおやじの応援にきていた息子さんには会ったのだが、
確か『どこ竹の竹とんぼ教室』にも参加してくれていた。
その道では、実力者のようである。
上手く行けばいいと思っている。
環境がやかましく言われる時代である。
レーシングカーもその前に『エコ』が付いてもおかしくない。
ハードは苦手の私だが人脈を通じて『人を繋ぐ』のは得意である。
この話、ひょっとすると面白く発展するかも知れないので、お伝えしておきます。
先日のカワサキOB会の席上『ノンちゃん』から
『レーシングカーの車体が解る人知ってませんか』と言うのである。
四輪の世界は?と思っていたら自転車みたいなものですと言うのである。
自転車ならひょっとして、60おじさんの息子さんなら大丈夫ではないかととっさに思った。
山本隆君の息子さんは、モトクロスバイシクルのような選手でどこかのメーカーの契約選手でもある。
自転車はプロで車体組み立てもやっていると聞いていた。
60おじさんに聞いてみると、今東京のイクサワのレーシングチームからも声が掛かっていて『忙しいかも知れぬが』と言うので。
若し忙しい場合は、息子に話を聞いて『お前がやればいい』と話を繋いだのである。
昨日、『ノンちゃん』から、山本君の息子さん宛てのメールのccが届いた。
上手く行きそうである。
レーシングカーなる写真も貼付してあった。
マル秘でもないと思うので、はしょってご紹介すると、
山本さん
標記の件でお父上にお世話になっています野田です。
本件でお力添えを頂けると聞き喜んでいます。
概要は以下の通りです。
前輪2輪、後輪1輪(駆動)50ccの単車用蓄電池を動力源として、決められたコースを何周できるかを競う競技です。
従って、この車(自転車?)の総重量、フレームの安定性などが何周できるかに影響します。
軽量化をアルミ製の筐体の軽量化(重量減、最適設計による軽量化)により、性能アップを考えているようです。
例年11月下旬に万博会場跡でレースが行われると聞いております。
これを進めているのは神戸の工業高校の学生たちである。ミニSLの内山先生の関係のあった学校である。
そして、仲立ちしておられるのは、(財)神戸市産業振興財団の工学博士の先生である。
『ノンちゃん』は、NPO『産業人OBネット』を立ち上げているのでその線での活動のようである。
それにしても『かえるの子はかえる』である。
山本君の息子がレーシングチーム『イクサワ』の手伝いをしているとは知らなかった。
先日もON ANY SANDAでおやじの応援にきていた息子さんには会ったのだが、
確か『どこ竹の竹とんぼ教室』にも参加してくれていた。
その道では、実力者のようである。
上手く行けばいいと思っている。
昨日5月25日、三木で出会った人たち、私から見ると若い人たちばかりであったが、そんな年代の差など感じない楽しい会話の出会いであった。
またひょっとすると何か新しいことが起きるかも知れない。
そんな1日、後々のために記録として残したおこうと思う。
朝方まで雨が降っていた。
どうかなと思ったが9時前に三木防災公園に行ってみた
『ひょこむ』の『マイスター同好会』が企画したモーニングツーリングの第一回目である。雨天中止はうたっていたが、こんな天候でも来た人はいた。
人数は少なかったが、『やっと実現した』と私は私なりの感動を持った。
多分マイスターの森田君もそんな同じような思いであったと思う。
昨年秋、森田君をひょこむに誘った。
ハンドルネーム『モリチャン』は
三木の出身である。今でも三木に住んでいる。
今でもZ1と密接に関係のあるカバン屋さんの取引先である。
かってチームグリーンでも技術を担当したレース仲間である。
今は独立してマイスターを経営したいる。
お客さんからの評判は至っていい。
何よりも信頼できる人柄である。
来週、神戸フルーツフラワーパークで大規模に開催する『ミニSLフェア』は1月中旬、a850mこと福井昇君に蒸気機関車の話を相談を受けたのが最初だが、その席にもモリチャンはいたのである。何かご縁を感じる。
今の私のいる環境からも、一緒に組んだら何かが生まれると何となく思ったのである。
昨年の秋の話で、カバン屋さんとあい前後して『ひょこむ』に誘った。
来週はミニSLフェアを一緒にやるs850の福井君を誘ったのもこの時期である。
お互いそれぞれ不思議なことに繋がって面識があるのである。
カバン屋さんとs850さんはパソコンは私の先生格だが、モリチャンはもう一つである。それを口説いて新しいパソコンを買わすところから話は始まっている。
『ひょこむ』に入れて、マイスターのホームページも新しくして、
そして今年に入ってようやくひょこむの中に『マイスター同好会』なるコミユニテイを立ち上げたのである。
そのイベントの一つとしてモーニングツーリングを企画した。
場所はモリチャン、カバン屋さん、私の住んでいる三木の防災公園に集まることにしようと決めたのである。
この後もうひとり加わってたった6人であったが、ビーンズドームのビーンズカフェで昼間でだべっていた。
20、30、40、50、70と年代差のある不思議な組み合わせだが、
『バイク』『カワサキ』など共通の話題もあって、尽きることのない楽しいトークであった。
毎月第3日曜日に集まりましょうということに決めた。
午後、三木の市会議員の米田君から電話が掛かってきた。
先生をつかまえて『米田君』と言っているが、君のほうがよく似合う28才のスポーツマンである。
先日の『どこ竹の竹とんぼ』も一緒にやった仲間である。
先日かったミゼットの修理を松原さんに頼んでいるので一緒に行かないかと言うお誘いである。
松原さんとは、つい先日道の駅三木で西日本最大の『Bug in MIKI』を主催した松原さんである。昨年ちょっとお会いしたことはあった。
ここでのトークは『イベント』それも『三木のイベント』に関してであったが、
松原さんは既に大きな実績も持ち経験豊かで、イベント好きの私も久しぶりにレベルの高いイベント話を楽しめた。
Bug in MIKIの今後の展開などが中心だったが、話題は今朝のモーニングツーリングやミニSLフェアやバイクのトライアルなどあちこちに飛んだ。
それがみんな不思議なことに繋がるのである。
先日、ミニSLをやったグリーンピアの井上さんは松原さんの同級生だとか、ON ANY SANDAの貴島さんはバグインミキにも出店している。
バグインミキにも出たトライアルの尾西君は60おじさんが当然ながらよく知っている。などなどである。
松原さんからは、モーニングツーリング4輪で参加をとか、米田君は来週の神戸フルーツフラワーパークのミニSLフェアには是非参加すると言ってもらった。
帰宅して、松原さんを『ひょこむ』のトモダチ招待で正式にお誘いした。
何かまた新しい人の繋がり期待できそうである。
またひょっとすると何か新しいことが起きるかも知れない。
そんな1日、後々のために記録として残したおこうと思う。
朝方まで雨が降っていた。
どうかなと思ったが9時前に三木防災公園に行ってみた
『ひょこむ』の『マイスター同好会』が企画したモーニングツーリングの第一回目である。雨天中止はうたっていたが、こんな天候でも来た人はいた。
人数は少なかったが、『やっと実現した』と私は私なりの感動を持った。
多分マイスターの森田君もそんな同じような思いであったと思う。
昨年秋、森田君をひょこむに誘った。
ハンドルネーム『モリチャン』は
三木の出身である。今でも三木に住んでいる。
今でもZ1と密接に関係のあるカバン屋さんの取引先である。
かってチームグリーンでも技術を担当したレース仲間である。
今は独立してマイスターを経営したいる。
お客さんからの評判は至っていい。
何よりも信頼できる人柄である。
来週、神戸フルーツフラワーパークで大規模に開催する『ミニSLフェア』は1月中旬、a850mこと福井昇君に蒸気機関車の話を相談を受けたのが最初だが、その席にもモリチャンはいたのである。何かご縁を感じる。
今の私のいる環境からも、一緒に組んだら何かが生まれると何となく思ったのである。
昨年の秋の話で、カバン屋さんとあい前後して『ひょこむ』に誘った。
来週はミニSLフェアを一緒にやるs850の福井君を誘ったのもこの時期である。
お互いそれぞれ不思議なことに繋がって面識があるのである。
カバン屋さんとs850さんはパソコンは私の先生格だが、モリチャンはもう一つである。それを口説いて新しいパソコンを買わすところから話は始まっている。
『ひょこむ』に入れて、マイスターのホームページも新しくして、
そして今年に入ってようやくひょこむの中に『マイスター同好会』なるコミユニテイを立ち上げたのである。
そのイベントの一つとしてモーニングツーリングを企画した。
場所はモリチャン、カバン屋さん、私の住んでいる三木の防災公園に集まることにしようと決めたのである。
この後もうひとり加わってたった6人であったが、ビーンズドームのビーンズカフェで昼間でだべっていた。
20、30、40、50、70と年代差のある不思議な組み合わせだが、
『バイク』『カワサキ』など共通の話題もあって、尽きることのない楽しいトークであった。
毎月第3日曜日に集まりましょうということに決めた。
午後、三木の市会議員の米田君から電話が掛かってきた。
先生をつかまえて『米田君』と言っているが、君のほうがよく似合う28才のスポーツマンである。
先日の『どこ竹の竹とんぼ』も一緒にやった仲間である。
先日かったミゼットの修理を松原さんに頼んでいるので一緒に行かないかと言うお誘いである。
松原さんとは、つい先日道の駅三木で西日本最大の『Bug in MIKI』を主催した松原さんである。昨年ちょっとお会いしたことはあった。
ここでのトークは『イベント』それも『三木のイベント』に関してであったが、
松原さんは既に大きな実績も持ち経験豊かで、イベント好きの私も久しぶりにレベルの高いイベント話を楽しめた。
Bug in MIKIの今後の展開などが中心だったが、話題は今朝のモーニングツーリングやミニSLフェアやバイクのトライアルなどあちこちに飛んだ。
それがみんな不思議なことに繋がるのである。
先日、ミニSLをやったグリーンピアの井上さんは松原さんの同級生だとか、ON ANY SANDAの貴島さんはバグインミキにも出店している。
バグインミキにも出たトライアルの尾西君は60おじさんが当然ながらよく知っている。などなどである。
松原さんからは、モーニングツーリング4輪で参加をとか、米田君は来週の神戸フルーツフラワーパークのミニSLフェアには是非参加すると言ってもらった。
帰宅して、松原さんを『ひょこむ』のトモダチ招待で正式にお誘いした。
何かまた新しい人の繋がり期待できそうである。
お手数ですが、ちょっとクリックいて頂けますか。
1990年1月、愈々90年代に入った。
平成2年、56歳である。自分で思っているより若かったのである。
二人の子供たちもまだ独身であった。
当然まだ孫もいない。サラリーマンとしての仕上げの時期であった。
7万台への挑戦は、2年目を迎えていた。
台数実績は1月末55072台。
この1年間で約1万台の増販であったが、目標7万台にはまだ1万5000台足りないそんな時期だった。
この間、ZERHREはずっとバックオーダーが続いて快調に売れた。
2年前にスタートして年間500台であったジェットスキーはこの年のスタート時点で10倍の6000台の売上を記録し、販売会社が同じ陣容で売上高が伸びるとこんなにも儲かるものかと思うほど、利益で満ち溢れていた。
損益分岐点は1000台ほどだから、それを越えた5000台分が丸々利益として残ったのである。
新しい販売網政策、ARK(Authorized & Reriable shop of Kawasaki)を立ち上げ、20年近く続いた従来の特約店契約を破棄して新しくARK契約を締結して再スタートしたのである。
1月24日には新宿ヒルトンホテルで、その政策発表会をM/c、ARK300店を集めて開催した。
川崎重工の大庭社長にも出席頂いて、盛大なパーテーであった。
この年から二輪業界ではじめて、先輩3社に先んじて委託から『受注契約』をスタートさせて業界の注目を浴びたのである。
二輪業界はカブなどモペットの販売が自転車屋さんを中心に売られており、その資金力からずっと委託販売が続いていた。
受注して買い取って、それを販売することはあるにはあったが、それを制度としてMUST化したのは、初めての試みであった。
ジェットスキーは、ヤマハがこの業界に新しく参入した時期であった。
この商品は日本で始めて売られる商品であったので、販売システムも最新のものを造り上げた。
販売会社の従業員は10人ほどにして、拠点も神戸に1店だけ、勿論受注仕切制度、全く新しい商品であったので、ボート屋で売りたいと言うのを全部断わってJJSBAのレース中心の『遊びを売る』というコンセプトの販売網であった。
二輪の販売店からの販売希望もあったが、別店舗の別契約、単に売ることでは契約をしなかった。
こんな効率化された、日本では珍しい販売システムでよく売れたので、
会社もARKも無茶苦茶儲かった懐かしい時期だったと思う。
カワサキとしては珍しくトップメーカであり、ヤマハさんとの協力体制を敷いたが、安全運転活動など率先して会長会社にならざるを得なかった。
カワサキとしては経験のない分野だったのである。
あくまでもボート業界のなかに入らずに、別にPWC(パーソナルウォータークラフト)という新しい業界を形造ることを意図したのである。
大分県直入町のSPA直入は建設中であったが、関東地区に何とか直入と同じコンセプトの一般ユーザーを視野に置いた新しいコンセプトのサーキットを造りたくて、候補地の物色をしていた。
益子町が是非やりたいと手を上げて、この計画の検討に入っている。
関東のサーキットは、この先もずっと続けて建設を計画したが、結局実現はしなったのである。
既に当時ホンダの「もてき」は計画中であった。
90年の幕開け1月頃はこんな時代であった。
1990年1月、愈々90年代に入った。
平成2年、56歳である。自分で思っているより若かったのである。
二人の子供たちもまだ独身であった。
当然まだ孫もいない。サラリーマンとしての仕上げの時期であった。
7万台への挑戦は、2年目を迎えていた。
台数実績は1月末55072台。
この1年間で約1万台の増販であったが、目標7万台にはまだ1万5000台足りないそんな時期だった。
この間、ZERHREはずっとバックオーダーが続いて快調に売れた。
2年前にスタートして年間500台であったジェットスキーはこの年のスタート時点で10倍の6000台の売上を記録し、販売会社が同じ陣容で売上高が伸びるとこんなにも儲かるものかと思うほど、利益で満ち溢れていた。
損益分岐点は1000台ほどだから、それを越えた5000台分が丸々利益として残ったのである。
新しい販売網政策、ARK(Authorized & Reriable shop of Kawasaki)を立ち上げ、20年近く続いた従来の特約店契約を破棄して新しくARK契約を締結して再スタートしたのである。
1月24日には新宿ヒルトンホテルで、その政策発表会をM/c、ARK300店を集めて開催した。
川崎重工の大庭社長にも出席頂いて、盛大なパーテーであった。
この年から二輪業界ではじめて、先輩3社に先んじて委託から『受注契約』をスタートさせて業界の注目を浴びたのである。
二輪業界はカブなどモペットの販売が自転車屋さんを中心に売られており、その資金力からずっと委託販売が続いていた。
受注して買い取って、それを販売することはあるにはあったが、それを制度としてMUST化したのは、初めての試みであった。
ジェットスキーは、ヤマハがこの業界に新しく参入した時期であった。
この商品は日本で始めて売られる商品であったので、販売システムも最新のものを造り上げた。
販売会社の従業員は10人ほどにして、拠点も神戸に1店だけ、勿論受注仕切制度、全く新しい商品であったので、ボート屋で売りたいと言うのを全部断わってJJSBAのレース中心の『遊びを売る』というコンセプトの販売網であった。
二輪の販売店からの販売希望もあったが、別店舗の別契約、単に売ることでは契約をしなかった。
こんな効率化された、日本では珍しい販売システムでよく売れたので、
会社もARKも無茶苦茶儲かった懐かしい時期だったと思う。
カワサキとしては珍しくトップメーカであり、ヤマハさんとの協力体制を敷いたが、安全運転活動など率先して会長会社にならざるを得なかった。
カワサキとしては経験のない分野だったのである。
あくまでもボート業界のなかに入らずに、別にPWC(パーソナルウォータークラフト)という新しい業界を形造ることを意図したのである。
大分県直入町のSPA直入は建設中であったが、関東地区に何とか直入と同じコンセプトの一般ユーザーを視野に置いた新しいコンセプトのサーキットを造りたくて、候補地の物色をしていた。
益子町が是非やりたいと手を上げて、この計画の検討に入っている。
関東のサーキットは、この先もずっと続けて建設を計画したが、結局実現はしなったのである。
既に当時ホンダの「もてき」は計画中であった。
90年の幕開け1月頃はこんな時代であった。
世界記録を連発する英国スピード社製水着が話題である。
『スピード』というブランドの水着があることは知っていたが、それが英国製であるとは知らなかった。
スポーツに道具はつきものである。
靴などは、日本のアシックスなど海外の選手も使っている。
ゴルフの道具なども、これがよく飛ぶ飛ばないと話題になる。
どんな道具を使うのかを決めたり、その会社と契約するのは選手個人の意志だとばかり思っていた。
ゴルフなどは、それこそ国内海外メーカーの数も多く、
アマチュアでもどのメーカーのものにするかは関心事である。
なにか、口コミで人気が出るとどこかのブランドに人気が集中したりする。
然し、ホントにどれだけいいかはよく解らない。
仮にドライバーが少し飛んでもそれが直接成績には直結しないからである。
でも、水泳はタイム競技である。
それもコンマ何秒を争っている。
水着を着るだけで早くなるのなら、『それを使いたくない』と言う選手などいない筈である。
個人がある社と使用契約を結んでいるので使えない、と言うのは仕方のないことである。
何故、日本水泳連盟が日本のメーカーの水着を着ることを選手に押し付けるのか。
お金でそんな契約をしているのであろうが、そのころはこんな水着でタイムに差が出るなどということはなかったに違いない。
いろんな難しいことがあるには違いないが、この問題は選手の意思を尊重」すべきだと思う。
オリンピックは、選手個人の肉体能力を競っている競技で、道具の優秀性を競ったりはしていない。
国の名誉を背負ってもいるのだが、日本の水着を着て負けるよりも英国の水着で金メダルのほうがいいに決まっている。
水連も『何週間で』スピード社に負けないものを開発して欲しいなどという、『無理難題』をメーカーに押し付けずに、ここは水着の選択を選手の自主判断に任せるべきだろう。
日本のことだから、次のオリンピックまでには、世界一速いメイドインジャパンの水着が世に出るだろうと思っている。
『スピード』というブランドの水着があることは知っていたが、それが英国製であるとは知らなかった。
スポーツに道具はつきものである。
靴などは、日本のアシックスなど海外の選手も使っている。
ゴルフの道具なども、これがよく飛ぶ飛ばないと話題になる。
どんな道具を使うのかを決めたり、その会社と契約するのは選手個人の意志だとばかり思っていた。
ゴルフなどは、それこそ国内海外メーカーの数も多く、
アマチュアでもどのメーカーのものにするかは関心事である。
なにか、口コミで人気が出るとどこかのブランドに人気が集中したりする。
然し、ホントにどれだけいいかはよく解らない。
仮にドライバーが少し飛んでもそれが直接成績には直結しないからである。
でも、水泳はタイム競技である。
それもコンマ何秒を争っている。
水着を着るだけで早くなるのなら、『それを使いたくない』と言う選手などいない筈である。
個人がある社と使用契約を結んでいるので使えない、と言うのは仕方のないことである。
何故、日本水泳連盟が日本のメーカーの水着を着ることを選手に押し付けるのか。
お金でそんな契約をしているのであろうが、そのころはこんな水着でタイムに差が出るなどということはなかったに違いない。
いろんな難しいことがあるには違いないが、この問題は選手の意思を尊重」すべきだと思う。
オリンピックは、選手個人の肉体能力を競っている競技で、道具の優秀性を競ったりはしていない。
国の名誉を背負ってもいるのだが、日本の水着を着て負けるよりも英国の水着で金メダルのほうがいいに決まっている。
水連も『何週間で』スピード社に負けないものを開発して欲しいなどという、『無理難題』をメーカーに押し付けずに、ここは水着の選択を選手の自主判断に任せるべきだろう。
日本のことだから、次のオリンピックまでには、世界一速いメイドインジャパンの水着が世に出るだろうと思っている。
キリンカップが始まった。
コートジポアールとパラグアイを迎えて、岡田ジャパンがどんな戦いをするのか楽しみである。
日本のサッカーも強くなって、
今年のアジアカップでは昨年優勝の浦和とともに鹿島とガンバ大阪の3チームが出場することになった。
史上初めての3チーム出場のようである。
世界の本番にも是非昨年に続いて、出場して欲しい。
こんな各クラブチームの実力も、外人選手たちが入って全日本A代表に遜色ない実力である。
特にフォワード陣は得点ランクを見ても、日本人フォワードの上を行く実力である。
そんな連中とずっと対戦しているのでデフェンスの力も付くのだと思う。
日本のサッカーも強くなったと思っているし間違いなく強くなっているのだが、
世界ランクは37位とむしろ一時期より下がってしまった。
世界のレベルが上がっていると言うことであろうか。
今回のキリンカップ出場のコートジポアールは世界ランク22位、パラグアイは24位である。
是非優勝して順位を上げて欲しい。
今回は中村俊輔や松井、長谷部など海外の選手も招集されている。
代表選手を選ぶのもなかなか難しいと思うが、今回は海外、国内、若手、ベテランと面白そうである。
いろんな選手が代表チームに入ってくるが、誰が来ても大丈夫ちゃんとやれるようなレベルに底上げされたと思う。
然し、フォワードだけが昔の釜本のように一頭抜けている選手がいない。
どうも、日本は中盤にはいい選手が育つのだが、フォワードはダメである。
小さい時から、点を取るよりもボール扱いなどの技術的なことに関心がありすぎるのである。
点を取らない限り勝利はないのだが、解っていてもそれに徹底しているのかどうか。
普通のパスはミスすることが少ないのに、何故シュートの時は、枠に行かずに浮かせてしまうのか?
精神的な落ち着きもないようにい思う。
素人の勝手な言い分だが、
サッカーの世界も日本独特の『組織力』などを優先して、『個人のユニークさ』を上回っているし、現実にそれを目指している。
今回代表に入っている19歳の香川などの個人にユニークさをもっと伸ばして欲しいと思っている。
コートジポアールとパラグアイを迎えて、岡田ジャパンがどんな戦いをするのか楽しみである。
日本のサッカーも強くなって、
今年のアジアカップでは昨年優勝の浦和とともに鹿島とガンバ大阪の3チームが出場することになった。
史上初めての3チーム出場のようである。
世界の本番にも是非昨年に続いて、出場して欲しい。
こんな各クラブチームの実力も、外人選手たちが入って全日本A代表に遜色ない実力である。
特にフォワード陣は得点ランクを見ても、日本人フォワードの上を行く実力である。
そんな連中とずっと対戦しているのでデフェンスの力も付くのだと思う。
日本のサッカーも強くなったと思っているし間違いなく強くなっているのだが、
世界ランクは37位とむしろ一時期より下がってしまった。
世界のレベルが上がっていると言うことであろうか。
今回のキリンカップ出場のコートジポアールは世界ランク22位、パラグアイは24位である。
是非優勝して順位を上げて欲しい。
今回は中村俊輔や松井、長谷部など海外の選手も招集されている。
代表選手を選ぶのもなかなか難しいと思うが、今回は海外、国内、若手、ベテランと面白そうである。
いろんな選手が代表チームに入ってくるが、誰が来ても大丈夫ちゃんとやれるようなレベルに底上げされたと思う。
然し、フォワードだけが昔の釜本のように一頭抜けている選手がいない。
どうも、日本は中盤にはいい選手が育つのだが、フォワードはダメである。
小さい時から、点を取るよりもボール扱いなどの技術的なことに関心がありすぎるのである。
点を取らない限り勝利はないのだが、解っていてもそれに徹底しているのかどうか。
普通のパスはミスすることが少ないのに、何故シュートの時は、枠に行かずに浮かせてしまうのか?
精神的な落ち着きもないようにい思う。
素人の勝手な言い分だが、
サッカーの世界も日本独特の『組織力』などを優先して、『個人のユニークさ』を上回っているし、現実にそれを目指している。
今回代表に入っている19歳の香川などの個人にユニークさをもっと伸ばして欲しいと思っている。
最近、1日の内何時間もパソコンの前に座っている。
ブログの発信2時間。
ブログなど情報収集2時間。
パンダ碁で世界の人と碁を打って2時間。
多分6時間はパソコンの前にいる。
起床は大体4時台で、6時には犬と散歩に出かける。
そこから後は日によってまちまちだが、延べ6時間はパソコンの前に居るだろう。
朝4時台にパソコンの電源を入れ夕方6時には切ってしまう。
そんな毎日だが、パソコンの前にいると同時に庭の前にもいるのである。
座ったままで庭が見える。
パソコンの前に座ったまま見える風景である。
そのまま目線を上げるともう少し先が見える。
もう何日かするとアンジェラ、ピエールドロンサール、アブラハムダーブーなどが一斉に咲く。
ちょっと動くとこんな風景になる。
ゴムのマットが見えるが、クラブの素振り用である。
毎日運動のために素振りは欠かさない。ゴルフの飛距離はストレッチとこのお陰である。
奥のほうは日当たりがもう一つなので、白やピンク系のイングリッシュローズなどが中心である。
こんな私の指定席が1年で一番美しくなるシーズンが今週から始まる。
池の循環する水音が四六時中聞こえて心地いい、そんな私の指定席である。
これは秘かな私の自慢である。
心地よい指定席を造り上げるために、庭師の心境で樹木の剪定やバラの手入れなど愉しんでいる。鯉は朝夕餌さえやれば勝手に年々大きくなる。
高いところは苦手なので、大きくなる木も高い梯子が要らぬ高さに、全ての木を切ってしまった。
前庭のほうは、これくらいまで賑やかになった。
これは私の指定席からは見えないが、道行く人たちから一番いい眺めになるようにと思っている。
下が池で睡蓮やせりもある、あまり例のないガレージのバラももう直ぐ満開である。
もっと沢山のバラの写真を、
もっと大きく鮮明に、ご覧になりたい方はこちらをどうぞ。クリックすると大きくなります。
ブログの発信2時間。
ブログなど情報収集2時間。
パンダ碁で世界の人と碁を打って2時間。
多分6時間はパソコンの前にいる。
起床は大体4時台で、6時には犬と散歩に出かける。
そこから後は日によってまちまちだが、延べ6時間はパソコンの前に居るだろう。
朝4時台にパソコンの電源を入れ夕方6時には切ってしまう。
そんな毎日だが、パソコンの前にいると同時に庭の前にもいるのである。
座ったままで庭が見える。
パソコンの前に座ったまま見える風景である。
そのまま目線を上げるともう少し先が見える。
もう何日かするとアンジェラ、ピエールドロンサール、アブラハムダーブーなどが一斉に咲く。
ちょっと動くとこんな風景になる。
ゴムのマットが見えるが、クラブの素振り用である。
毎日運動のために素振りは欠かさない。ゴルフの飛距離はストレッチとこのお陰である。
奥のほうは日当たりがもう一つなので、白やピンク系のイングリッシュローズなどが中心である。
こんな私の指定席が1年で一番美しくなるシーズンが今週から始まる。
池の循環する水音が四六時中聞こえて心地いい、そんな私の指定席である。
これは秘かな私の自慢である。
心地よい指定席を造り上げるために、庭師の心境で樹木の剪定やバラの手入れなど愉しんでいる。鯉は朝夕餌さえやれば勝手に年々大きくなる。
高いところは苦手なので、大きくなる木も高い梯子が要らぬ高さに、全ての木を切ってしまった。
前庭のほうは、これくらいまで賑やかになった。
これは私の指定席からは見えないが、道行く人たちから一番いい眺めになるようにと思っている。
下が池で睡蓮やせりもある、あまり例のないガレージのバラももう直ぐ満開である。
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