9月から、突然始めた「雑感日記」ですが、大勢のの方に読んで頂き有難うございました。
コメントなども大いに励みになりました。
昨日の夜、突然息子一家が来ることになり、伊丹まで迎えに行きました。
正月三が日は、久しぶりに賑やかになりそうです。
「カワサキ単車の昔話」途中ですが、少しお休みさして頂きます。
皆様、どなた様も、いいお年をお迎え下さい。
ブログが簡単に英訳できること知りませんでした。
正月休みに、英語の勉強でもしてみます。
ヤマハのGPライダーとしての金谷の実績は素晴らしいものがある。
1975年オーストリアGPでの500cc、350ccのダブル優勝など,ロードレースに於ける彼の天性みたいなものを感じる。
1965年6月。カワサキはスズカ6H耐久レースにはじめて正規のロードレースチームとして参戦した。
3チームの出場であったが、歳森康師がパートナーとして選んで連れてきたのが、神戸木の実の金谷秀夫であった。
そういう意味では、金谷がカワサキでの最初のロードレース専門の選手であったと言える。
その時から確かに早かった。片山義美の秘蔵っ子と言われるだけのものを持っていた。
66年10月FISCOでの日本GPのジュニア250でヤマハのG,ニクソンとの勝負は、私の脳裏に焼き付いている。
先日、記録を調べてみたら、3位の三室とは37秒、4位和田とは1分14秒差で、6位以下を一周遅れにしている。
最高ラップを2分14秒27で金谷、G、ニクソンが同タイムで取っている。
その日の350ccの最高ラップが2分18秒56であることからも、如何に二人が飛びぬけて早かったことが窺がえる。
たった2年間ほどの付き合いだったが、当時カワサキはロードレースはまだやり始めたばかりで、マシンは開発途上であったし、安良岡と金谷には本当に苦労ばかり掛けていたと思う。
金谷にはレース以外にも、A1の名神高速での走行テストなども手伝って貰った。
さっぱりした性格で、ちゃんとした意見をはっきりと言ってくれた。
彼が意見を言ってくれたお陰で対処を間違えずに済んだこともあった。
私が東北に行ってからも、いろんなことで手紙など頂いた。
ライダー諸君とはいろいろあったが、手紙をもらったのは金谷だけである。
短い期間ではあったが、私にとって一番印象に残っているライダーかも知れない。
そんなことで、SPA直入のオープンの時には、清原,
和田、宗和、鶴田などと共に、金谷にも来て貰ったりした。
90年11月の彼の恩師、片山義美君の引退パーテイは金谷が取り仕切っていたが、逆に招待を受けて出席しご挨拶などさして頂いた。
清さんに聞いた話だが、先日のオートポリスのレースの前に、往年の名選手たちが走行したという、片山、清原などと一緒に金谷も走ったそうである。
機会があれば、是非一度会いたいライダーの一人である。
先日、ダートスポーツに「MFJ全日本モトクロスの思い出」を紹介して頂いたが、直ぐ下に「日米欧モトクロスチーム首脳、スズキ本社に集結」と題した記事の紹介があり、開いてみた。
そこにチームスズキ全日本モトクロス総監督として吉村太一君が大きな写真で載っていた。
永らく会っていないので、直ぐには「太一ちゃん」とは解らなかったが、よく見ると面影が残っていた。
まさしくあの人懐こい吉村太一君がそこにいた。
レースに関係して、カワサキ以外の方ともいろいろ懇意にして頂いたが、
彼とは何となくご縁があって、特にお付き合いがあった訳ではないのだが、親しくモノが言える「太一ちゃん」と呼べる関係になっている。
先頭を走るのが吉村太一、追っかけてるのが星野一義である。
星野一義と殆どデビューが同じで、当時スポニチの西日本モトクロスなどで二人はしょっちゅうデッドヒートを演じていた好敵手であった。
18才ぐらいの頃、少なくとも20才前の「太一ちゃん」とが最初の出会いである。
その後、二人とも順調に成長し日本を代表するライダーに成長していった。
レース場で出会うのは当然であるが、不思議に彼とは思わぬ処で出会っている。
彼が覚えているかどうか。
1967年、MFJ全日本モトクロスの1~2日前に郡山市内で一人で歩いている彼を見つけて、私は車だったので送ってあげた。(冒頭に書いた全日本モトクロスのときのことである。)
送り先は多分モトクロス会場だったはずだが、それは覚えていない。
ひょっとしたら会っただけかも。人間の記憶は本当に頼りない。
1973年2月11日。カワサキのファクトリーライダーだった竹沢君の結婚式で。
私は別の結婚式に仲人で出ていたのだが、その帰りに見つかって「入れ、入れ」と急遽、披露宴に飛び入りで引っ張りこまれた席で出会っている。
この日の日記に「吉村太一君いい挨拶をした」と記述しているから、これは間違いない。
三度目は、札幌の行く飛行機の中で、「どこに行くの?」「これは千歳にしか行きません」などという会話を交わした。
1回目はともかく、2,3回目の出会いは、「太一ちゃん」の誰とでも幅広く付き合い、世話をする人柄が表れている。
北海道もモトクロス場の開発か何かで、札幌のデーラーの手伝いに行くのだと言っていた。
どういう関係でそうなっているのか、詳しくは解らないのだが、堺の㈱忍者の伊藤さんと名古屋のミスターバイクの斉藤さんとの三人の仲は親密である。
昨年、伊藤さんに呼び出されて飯を食った時も、「太一ちゃん」に電話をしその時久しぶりに私も彼の声を聞いた。
つい最近、斉藤さんにスズカのツインサーキットのことで電話した際、「来春ゴルフセットします。太一も呼びますから」と誘って頂いた。
何となく合うのだと思う。
そんな意味では、私もその仲間に入れて貰えているようで、光栄である。
立派に事業を展開しておられるが、自分の事業だけでなく二輪業界、レース界などと広い視野で実際に幅広く活動されているのがいい。
このブログに登場した若い人たちが立派になり、夫々の分野で活躍されていることは嬉しい限りである。
その若いと思っていた人たちも、考えてみるともう結構トシである。
私が老けるのも仕方がないと思う。
これが最も最近、マウンテンライダース50周年記念パーテイーの時、 私が80歳の誕生日の3月2日のことである。
太一ちゃん、気を使ってくれて私に花束を贈ってくれたのである。