おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

駿河紀行 02

2015年11月04日 | 思い出

駿河紀行 02 

10月12日 原駅から東田子の浦駅まで 天気 晴れ

朝8時頃にはホテルを出てJRローカル線で清水駅から原駅まで。
電車は比較的すいていて、都会の通勤の光景ではない。
清水駅→原駅は30分ほど。車窓から付近の光景を見ながら電車の到着を待つ。

原駅に着き、駅を出て見上げると富士山が冠雪していて驚く。
昨日の11日は天気が良くなく、でも山頂は雪だったということだ。この秋の初冠雪とのこと。
新鮮である。しかし、カメラを向けても建築物や電線が写って不満である。



駅を出てからしばらくは東海道を歩いていたのだが、地図を見て近いのを確認して
駿河湾の湾岸道路に出る。東海道を歩きたかったので、思いを残すが仕方ない。

風はなく天気も晴れ。気温もちょうど良い。海と空が青い。
この辺りの駿河湾の、ゆるやかな湾曲は優美である。立派な湾岸道路は長く
続いているものと思える。私の眼では遠くまでは見えない。
道路の北側は素晴らしい松林が道路に添うように続いている。
防風林の役目を負っているのだろう。松の幹がおしなべて斜めになって
北の方を向いている。
これだけの規模の松林が今も残っていることは素晴らしい。
歌人の若山牧水なども松林保全の運動に関わっていたとか、何かで読んだ記憶がある。
多くの人たちの尽力によって現在の松林が保たれているのだろう。
道路を歩きながら富士山に向けて盛んにシャッターを切る。









湾岸道路だけで5キロほどを歩いたものと思う。
東田子の浦駅の北側に広がる「浮島が原自然公園」に行くべく、湾岸道路に思いを残しながら
進路を北に採る。JRの線路を超えるための踏切にまで行く道がややこしくて、
少し遠回りをしたりする。

「浮き島ヶ原」は湿地帯として知られている。でも平安歌人たちの詠んだ「浮き島ヶ原」歌は
10首ほどと少ない。その中に西行歌もあるが、歌は情感があまり伝わってこない。

西行の富士の歌と浮き島ヶ原の歌。

01 いつとなき思ひは富士の烟にておきふす床やうき島が原
     (岩波文庫山家集161P恋歌・新潮1307番・西行物語)

02 けぶり立つ富士に思ひのあらそひてよだけき恋をするがへぞ行く
       (岩波文庫山家集153P恋歌・新潮691番・夫木抄)

     あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て

03 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
          (岩波文庫山家集128P羈旅歌・新潮欠番・
     西行上人集・新古今集・拾玉集・自讃歌・西行物語)

ア 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
           (岩波文庫山家集73P秋歌・新潮319番・
                    続拾遺集・玄玉集)

イ 思ひきや富士の高嶺に一夜ねて雲の上なる月を見むとは
                   (源平盛衰記巻八)

ウ 富士みてもふじとやいはむみちのくの岩城の山の雪のあけぼの
                     (諸国里人談)

アイウの三首は西行歌というだけの確証がありません。

ともあれ、沼沢地だった名残を残した「浮き島ヶ原自然公園」として、
付近の人たちに親しまれているようです。構造物をできるだけ排して、
しかし自然の運動のままに放置しているわけではなく、きちんと管理されて
いるように感じました。

富士見の名所らしく浮き島ヶ原からは富士がよく見えました。









公園の植物です。最後の画像は(東田子の浦駅)。









JR原駅から清水のホテルまでは35キロほどあります。写真を撮りもっての、あるいは名所を見ながらでは
長すぎると考え、東田子の浦駅で電車に乗車。残念だけど途中を端折って由比駅下車。
赤人の田子の浦も近くですが当時の田子の浦と現在の田子の浦では位置が違うとの説もあり、
かつ古い時代の情趣などは望むべくもないので断念。了以の開削した富士川も渡りたかったけど、
これも断念。
次の03では由比駅から清水までのレポートです。











駿河紀行 01

2015年11月03日 | 思い出


 駿河紀行 01 
 
 10月11日 静岡県清水区  天気小雨

10月11日から2泊3日で静岡県に出向いてみました。
主の目的は西行歌に詠われた地を実際に歩いてみるということです。
西行は一つの宗派に属して特定のお寺に籠って修行していた僧ではなく、
終生、自由に旅をして過ごした僧であるとも言えます。
必然として各地の地名入り歌が多くあります。私の西行のページ。

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankatop.html

私自身は西行の足跡をたどって、かなりの所に行きましたが、
駿河はまだ行っていなくて、いつかはと思っていた地域です。

初めに駿河での西行歌の紹介。

 1 清見潟おきの岩こすしら波に光をかはす秋の夜の月
       (岩波文庫山家集秋歌・新潮版・西行上人集・山家心中集・宮河歌合他)

 2 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
       (岩波文庫山家集秋歌・新潮版・続拾遺集・玄玉集)

 3 同じ月の来寄する浪にゆられ来て三保がさきにもやどるなりけり
       (松屋本山家集)

 4 けぶり立つ富士に思ひのあらそひてよだけき戀をするがへぞ行く
       (岩波文庫山家集恋歌・新潮版・夫木抄)

 5 いつとなき思ひは富士の烟にておきふす床やうき島が原
      (岩波文庫山家集恋歌・新潮版・西行物語)

     駿河の國久能の山寺にて、月を見てよみける

 6 涙のみかきくらさるる旅なれやさやかに見よと月はすめども
      (岩波文庫山家集羈旅歌・新潮版)

     あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て

 7 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
      (岩波文庫山家集羈旅歌・西行上人集・新古今集・拾玉集他)

 8 東路やあひの中山ほどせばみ心のおくの見えばこそあらめ
       (岩波文庫山家集恋歌・新潮版・夫木抄)

このうち、8番歌の「あひの中山」は伊勢とも駿河とも言われていて、
定説がなく、当然に行くことができません。
また3番歌の「三保がさき」もここの三保ではないとする説もあります。
歌自体が西行の詠歌ではなくて伝承歌のような印象も受けます。

この旅行の簡単なメモ書きを紛失していて、記憶に頼らざるを得ないのですが、
すでに1ヶ月近く前のことを思い出しながら記述します。

京都から静岡駅まで新幹線。ローカル線に乗り換えて清水駅に着いたのは昼近く。
天気は良くなくて小雨。少し濡れる程度。駅前からのバスで三保の松原入口まで。
少し歩くと両サイドに松の植えられた「神の道」が続きます。
板敷のその道を歩いて松原まで。画像は「神の道」「羽衣の松」「三保の松原」







この三保地区は砂嘴であり、江戸時代には陸続きではなかったそうです。
西行時代ももちろん舟で渡ったはずです。
伝説の「羽衣の松」も大事に管理されていました。

浜の部分も広くて波打ち際まで歩いてみました。海は駿河湾の海。白砂ではなくて、黒っぽい
砂でしたから鉄分を多く含んでいるはずです。
雲がかかり、雨にけぶっている富士山が見えます。270ミリの最大望遠で撮影。



松原を辞して「神の道」の入り口前にある「御穂神社」拝観。
三保地区を束ねていた神社とのことですが、社殿も古く、いかにも古刹という感じです。

この社には巨大なソテツがありました。福岡の「香椎宮」や京都の「御香宮神社」の
ソテツにも匹敵する大きさだと思いました。





気楽な一人旅でもあるのですが、予約していたホテルへのチェックイン時間のことも
あり、三保の松原以外は多くは行けませんでした。
清水湊の次郎長の生家が残っているということであり、行ってみました。
今の若者は清水次郎長と言っても知らない人が多いでしょう。
私などの世代は多様な娯楽もなかったためか、次郎長の名前はよく聞いたものです。
意外と小さく質素な家でした。100年以上前の話ですし、そんなものでしょう。
小さくて当たり前とも思います。



次郎長生家から歩いたりバスに乗ったりして「鉄舟寺」まで。
時間が遅すぎたためか拝観は無理でした。
このお寺は山岡鉄舟が再興したお寺です。もとは6番歌にある「久能寺」。
だから、かすかにとはいえ西行にもゆかりがあります。
惜しむらくは内部拝観不可だったこと。これは仕方ありません。
外から見ただけですが立派な外観のお寺でした。



かくして一日目は終了。宿にチェックインして、明日に備えて早めに就寝。









ちょっと、そこまで

2011年07月11日 | 思い出


2011年07月11日

自宅発(6.00)→京都駅発(6.33)→近江今津着(7.37)発(8.14)→
近江塩津着(8.34)発(9.28)→余呉着(9.34)

レンタサイクルで余呉湖周遊(約1.00)食堂でザルソバ。

余呉湖発(12.10)→京都着(13.28)→自宅着(14.00)

○ 3時間ほどうつらうつらしていたのだが、眠れそうにもないので思い切って
  6時過ぎに家を出る。6.2キロのカメラバックも持って出る。

○ 路線図や時刻を調べないままだったので、意外に時間がかかることに驚く。
  京都駅から湖西線普通列車を利用。近江今津駅と近江塩津駅で合計1時間半の
  電車待ち。

○ 余呉駅に着いてからレンタサイクル。500円。自転車で余呉湖周遊。約6.5キロ。

○ ゆっくりしても一時間もあれば十分なのでのんびりと行く。
  途中のレストランでザルソバを食す。天女の羽衣伝説に驚く。

○ 賤ヶ岳の古戦場は南になるので行かないことにする。

○ 一周して余呉駅に戻る。彦根に降りて佐和山城址か近江鉄道で多賀大社に行こうかと
  思っていたのだが、暑くて頭の中がゆであがりそうなので断念して帰る。



湖西線車窓から比良の山並み。その下二枚は余呉湖。







合戦図



植物。紫陽花・半夏生・アカツメクサ。







向こうの山が賤ヶ岳の古戦場あたり。最後は余呉駅。






中山道散歩(3)

2010年11月19日 | 思い出

中山道散歩(3)10年11月11日

番場宿を出るとしばらくは北陸自動車道?と並行するように
道が続いています。道は全面舗装されていて車がすれ違える程の幅はありますが、
人にも車にも出会いません。資料によると実際の中山道は高速道路の所との
ことですが、代替として中山道ルートを別に造ったようです。仕方ありません。
途中、彦根のジャンクションの所でミゾソバの群生発見。私は初見のはずです。
たくさんありましたが、丁寧に見ても開いている花は見つかりません。
仕方なく開いていない花を撮影。

さて、そこから摺針峠を越えなくてはなりません。少し急な山の中の道でしたが、
番場宿から鳥居本宿までは4キロほどしかなく、しかも2キロは歩いてきているので、
残りはわずかです。道は立派ですが、歩いている者は一人もいず、ちょっと怖い感じも
覚えます。この峠からは琵琶湖が良く見えるとのことでしたが、見えませんでした。
峠を下りきってしまえば北国街道と交差し、南に行けば鳥居本宿はすぐです。
鳥居本宿も賑やかな街ではありません。道中合羽の販売所が多かったようです。
何にでも効くという赤玉を売っていた神教丸本舗は今も立派な家構えです。

鳥居本宿から道なりに6キロほど歩けば高宮宿です。上質の麻布販売で有名だった
ようです。
ここは多賀大社のお膝元の宿です。ですが大社までは中川道を外れて3キロ以上
東進しなくてはなりません。一応は多賀大社に向かって歩いていたのですが、
暗くもなってきましたので途中で引き返して近江鉄道の高宮から彦根に戻りました。

高宮から草津までは50キロ少し。もし来年にやる気が起きれば、二日に
分けて歩いてみても良いかなーと思い始めています。


ミゾソバの花


北国街道との交差点に立つ摺針峠の道標


鳥居本宿に向かう途中の松並木


赤玉神教丸の説明


有川家。最盛期は80人の店員がいたそうです。


途中のお地蔵さん


高宮宿


多賀大社一の鳥居。ここから3キロ以上あります。


多賀大社の常夜灯。


中山道散歩(2)

2010年11月19日 | 思い出
中山道散歩(2)10年11月11日

中山道散歩レポートその2です。

梅花藻の咲く季節と違って閑散とした醒井宿を後にして、
次の番場宿にと向かいました。
醒井宿から番場宿までは約4キロ。途中には国道21号線と合流していて、
歩いている横をトラックが飛ばして行きます。
街道としての情趣はほとんど味わえないままでした。
途中 、オモトを10鉢ほど植えているお宅があったのでオモトの花を撮影。
「樋口」という所で国道を横切って民家の中の道路を歩き、米原ジャンクションを
越えます。ここから番場宿までは平坦な道を歩いてすぐに到着。

番場宿では「蓮華寺」を見るのも一つの目的でした。番場宿内の北陸自動車道の
高架下をくぐってすぐです。
1333年5月9日、前日に足利尊氏軍と戦って敗れた六波羅探題、北条仲時一行は
鎌倉に落ち延びる途中、この蓮花寺で自裁して果てました。432名といいます。
この時に随行していた北朝初代の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕縛されて、
やがて帰洛しました。この光厳天皇も数奇な運命をたどった天皇とも言えます。
現在の御所に住んだ初めての天皇です。


 オモトの花です。


 番場宿の入口


 蓮華寺山門


 蓮華寺本堂


 由緒説明


 北条仲時一行の墓。少し離れた位置に「番場忠太郎」の像もあります。


 咲き残っていたアジサイ


 「玉の緒」の花。ミセバヤとも言います。


 番場宿の西側入口。番場は馬場とも言っていたそうです。平安時代にはこの「馬場駅」
 は廃されていたものと思われます。もう少し醒井よりに「横川駅」が設置されていました。



中山道散歩

2010年11月18日 | 思い出

中山道散歩 10年11月11日(01)

11月11日、中山道をすこしばかり歩いて来ました。
今年の6月に関ヶ原宿から柏原宿まで歩いたのですが、今回は柏原宿から
醒井宿、番場宿、鳥居本宿、高宮宿までの区間でした。
平安時代までの東山道、鎌倉時代の東海道、そして江戸時代の中山道として
街道筋はずいぶんと賑わったものですが、現在は寂れていると言って
良いでしょう。地方の疲弊ぶりをまざまざと見た思いです。
長い自民党政権の貧困として断罪するだけでは済まされないものを
感じました。
私達、いや、人類はどこに行こうとしているのだろうか・・・。とも思いました。
3回程度に分けて画像を出します。
歌は20日過ぎになります。

万歩計の距離は当日歩いた歩数。距離は26.5キロ。実際はもう少しあります。



柏原宿の案内


柏原宿から見た伊吹山です。無残なことになっています。


これも柏原宿


柏原宿の火の見櫓


柏原宿の西口から見た鈴鹿山脈の北端の山


同じく。


醒井宿に向かう途中で見た花です。アザミと思ったのですがタムラソウ?


醒井宿の地蔵川の川岸にびっしりとヒメツルソバが生えていました。


これは地蔵川です。


京都の紅葉

2008年10月26日 | 思い出
京都の紅葉
今年も紅葉のシーズンまで後一ケ月ほどとなりました。来月の月末ごろには、
すばらしい紅葉が見られることでしょう。

若い頃は紅葉なんて見向きもしなかったと思いますが、50歳を過ぎてからこのかた、
ことに魅惑的なものを覚えます。

画像は全て京都市内で撮影。中にはいつ行っても人が一人もいないと
いう貸切状態で紅葉を楽しめるお寺の画像もあります。
2005年、06年、07年の撮影です。

































奈良国立博物館

2008年09月18日 | 思い出
奈良国立博物館

9月15日、本日は友人達と待ち合わせて奈良の博物館の観音霊場展を見に行きました。
10時30分頃から12時過ぎまで見ていました。
私には仏教を教義として極めるだけの素養もなく、仏像を見た場合でも一番は
芸術としての視点で見ます。造りの華美さ、精巧さ、バランス、インパクト
などなど・・・。芸術家たちが芸術家たらんとして努力してきたことは、
とてもすばらしいことです。

信仰心のない人間ですし、敬虔さは感じたとしても無条件にひれ臥すような
精神構造は持ち合わせていないことが残念でもあるような気もしていて、
それがずっと私を悩ましていたようにも思います。
しかしながら偶像崇拝などは、間違ってもしたくはないものです。

でもまあ、宗教が果たしてきた役割は認めますし、歴史的には意味があった
ものだろうとは思います。

画像は近鉄奈良駅の行基像。博物館の入り口。奈良公園の鹿と奇妙に曲がった松。
「大仏びっくりうどん」という、たいそうなネーミングのうどん。
そして最後は、友達に教えていただいた 本薬師寺のホテイアオイ。
近くの小学生達が育てたそうです。
実は本薬師寺では雨が降っていて撮影どころではなくて、ピント合わせも
いい加減でした。写真は仕方ないと思いますし、ホテイアオイを見られた
だけで良しと思います。

















亀岡平和祭花火大会(2)

2008年08月09日 | 思い出
亀岡平和祭花火大会(2)

それにしても花火の撮影は難しいです。
手持ちのパナソニックのコンデジでもモードを「花火」にして40枚ほど撮影したのですが、
満足できるものがなくて、ここには出せませんでした。
一番下の画像は下側の白いのは「ナイアグラ」なのですが、花火による煙幕が立ちこめて、
きれいには撮れませんでした。

私は自宅に帰らなくてはならないので21時過ぎには会場を後にしました。凄い混雑で、
亀岡駅では積み残しが出ました。でもすぐに臨時列車が出るということでしたので、
さほどの混乱はなかったものと思います。
かくして今年の夏の日の1日が終わりました。















亀岡平和祭花火大会(1)

2008年08月09日 | 思い出
亀岡平和祭花火大会(1)

亀岡の市内を見物してから、花火の打ち上げの始まる2時間以上前には、観覧場所である
大堰川公園に行きました。すでに人々が集まっていて、打ち上げの始まる20時頃になると
凄い混雑振りでした。
私は数年ぶりの花火見物でした。単純に見るだけしかできないとはいえ、やはりいいですね。
合計7000発の花火が打ち上げられるということです。

一番初めの画像は露店です。早い時間から準備をしていました。