先週の土曜日、ビートたけしの教育問題番組、皆さんは見ました?
そのテレビを紹介するにあたって、1週間前くらいから“トロッコ問題”が出ていました。
『“ブレーキの壊れたトロッコ列車が猛スピードでこちらに向かってきます。その線路の先には5人の作業員。このままでは5人が跳ねられてしまいます。あなたは線路の切り変え線のすぐ近くにいます。線路を切り替えれば5人は助かりますが、切り替えた先には1人の作業員。さて、あなたなら何もせず5人を犠牲にしますか? それとも線路を切り替えて1人を犠牲にしますか?”という問題を子供から質問されたら、どう答えますか?』
──というものでした。
なんとまぁ、究極の選択なんだ…。
この問題に答えはなく…要は、親がどういう考えで、どう子供に教えるか、というものなんですが。
これって難しいですよね…。自分自身の答えを出す事はできても、それを子供に“なぜそうしたか”という説明はなかなかできない。
どうせ犠牲が出るなら5人より1人の方がいい、と思ったとしても、1人の命が5人の命より軽い…なんて思われても、それは教育的に違うしな、なんて思ったり。
そこで、旦那に聞いてみました。
私 「にーさんなら、どうする?」
旦那 「オレだったら、そうだな……1人の作業員が高度な技術を持っていたら──」
私 「いや、そういうのは考えちゃダメだって。──ってか、この問題に新たな背景考えた
らダメなんだって」
旦那 「そうか? じゃぁ……切り替え線の所で…脱線させる」
私 「だから…二者択一なんだってば」
旦那に聞くと、既に問題が問題でなくなっていきます…。
確か、溺れている話の時もそうだったよな…。
旦那 「なんで二者択一しかないんだ、答えがっ
」
私 「しょうがないじゃん、そういう問題なんだから。だいたい、そうやって素直に問題を読
まないから、数学で“この問題を解くのに、この公式を当てはめたら簡単に解けます”
って言われても、納得がいかず公式使わなかったんでしょ? んで、結局はその問
題が解けなくて、“あー、くそっ、もう知らん
”とかなっちゃって…」
旦那 「なははは…まぁな~」
私 「問題は問題のまま、素直に読んで考えんと」
旦那 「──ってかなぁ、こんな究極の二者択一問題を子供に出すなって」
私 「いやまぁ、だからさ…教育として親がどう教えるか、って事がメインなんだから…」
旦那 「ん~…じゃぁ、オレは自分の答えを言わん」
私 「は? なんで?」
旦那 「だって、親が子供に言ったら、子供はこの先ずっと(自分で考える事なく)そうするじゃ
ん」
私 「う~ん…まぁねぇ…」
旦那 「ただ、(教育とは別に)オレだったら迷わず線路を切り替えて1人を犠牲にするな」
私 「えぇ~、そう? 私だったら“それが運命”とか自分に言い聞かせて何もしないか
な。ってか、実際は、あたふたあたふたして、何もできないんだと思うけど。でも、線
路を切り変えると自分の手で殺した…っていう気持ちがあるもんなぁ。遺族にもそう
いう風に捉えられそうだし。とはいえ、何もしないっていう作業も、ある意味それは自
分がしていることだろうし…」
旦那 「まぁ、ねーさんなら、あたふたあたふたして何もできない、ってなるのが現実だろう
な」
私 「まぁそれもさ、総理ともなれば、人の命の重さを数で決めちゃダメかもしれんけど、
国を守るっていう事を優先しなきゃならないから、映画であるような核爆発とかの問
題が出てきたら、より少ない犠牲を考えて決断するんだろうね。あー、やっぱ絶対に
私は総理とか国会議員とかにはなれんな。ってか、なりたくもないけど」
──そう言うと、旦那が“ニッ”っと親指で自分を指差しました。
私 「いや、だから…絶対無理だって。おにーさんが総理になったら、この国は滅びる」
旦那 「そうかな~」
どっちもどっちのような言い分で、すみません
──とまぁ、そんなバカな話をしてたんですけどね、今になって、旦那の考えってある意味いいのかも、と思ってきました。
学校の教科書問題で素直に問題を読んでくれないと、それこそ“へりくつ人間”って思われて扱い難いでしょうけど──以前の溺れた時の問題もそうですが──生死に関わる問題の時は“へりくつ人間”になってもいいんじゃないか、と。
だって、やっぱり人は、どっちも助かる方法を考えようとするのものでしょうし、現実問題として、こういう場面に遭遇したら、私のような頭の固い人間より、旦那の方がこういう危機を乗り越えられる人間のような気がしたからです。
まぁ、振り返ってみたら、現実問題の対処の方が旦那は強いもんなぁ。
だからこそ、災害とかあった時でも、旦那は家族をちゃんと守ってくれる人だ…なんて、漠然とした信頼があるのかもしれません。
頼りにしてまっせー、旦那っ
そのテレビを紹介するにあたって、1週間前くらいから“トロッコ問題”が出ていました。
『“ブレーキの壊れたトロッコ列車が猛スピードでこちらに向かってきます。その線路の先には5人の作業員。このままでは5人が跳ねられてしまいます。あなたは線路の切り変え線のすぐ近くにいます。線路を切り替えれば5人は助かりますが、切り替えた先には1人の作業員。さて、あなたなら何もせず5人を犠牲にしますか? それとも線路を切り替えて1人を犠牲にしますか?”という問題を子供から質問されたら、どう答えますか?』
──というものでした。
なんとまぁ、究極の選択なんだ…。
この問題に答えはなく…要は、親がどういう考えで、どう子供に教えるか、というものなんですが。
これって難しいですよね…。自分自身の答えを出す事はできても、それを子供に“なぜそうしたか”という説明はなかなかできない。
どうせ犠牲が出るなら5人より1人の方がいい、と思ったとしても、1人の命が5人の命より軽い…なんて思われても、それは教育的に違うしな、なんて思ったり。
そこで、旦那に聞いてみました。
私 「にーさんなら、どうする?」
旦那 「オレだったら、そうだな……1人の作業員が高度な技術を持っていたら──」
私 「いや、そういうのは考えちゃダメだって。──ってか、この問題に新たな背景考えた
らダメなんだって」
旦那 「そうか? じゃぁ……切り替え線の所で…脱線させる」
私 「だから…二者択一なんだってば」
旦那に聞くと、既に問題が問題でなくなっていきます…。
確か、溺れている話の時もそうだったよな…。
旦那 「なんで二者択一しかないんだ、答えがっ

私 「しょうがないじゃん、そういう問題なんだから。だいたい、そうやって素直に問題を読
まないから、数学で“この問題を解くのに、この公式を当てはめたら簡単に解けます”
って言われても、納得がいかず公式使わなかったんでしょ? んで、結局はその問
題が解けなくて、“あー、くそっ、もう知らん

旦那 「なははは…まぁな~」
私 「問題は問題のまま、素直に読んで考えんと」
旦那 「──ってかなぁ、こんな究極の二者択一問題を子供に出すなって」
私 「いやまぁ、だからさ…教育として親がどう教えるか、って事がメインなんだから…」
旦那 「ん~…じゃぁ、オレは自分の答えを言わん」
私 「は? なんで?」
旦那 「だって、親が子供に言ったら、子供はこの先ずっと(自分で考える事なく)そうするじゃ
ん」
私 「う~ん…まぁねぇ…」
旦那 「ただ、(教育とは別に)オレだったら迷わず線路を切り替えて1人を犠牲にするな」
私 「えぇ~、そう? 私だったら“それが運命”とか自分に言い聞かせて何もしないか
な。ってか、実際は、あたふたあたふたして、何もできないんだと思うけど。でも、線
路を切り変えると自分の手で殺した…っていう気持ちがあるもんなぁ。遺族にもそう
いう風に捉えられそうだし。とはいえ、何もしないっていう作業も、ある意味それは自
分がしていることだろうし…」
旦那 「まぁ、ねーさんなら、あたふたあたふたして何もできない、ってなるのが現実だろう
な」
私 「まぁそれもさ、総理ともなれば、人の命の重さを数で決めちゃダメかもしれんけど、
国を守るっていう事を優先しなきゃならないから、映画であるような核爆発とかの問
題が出てきたら、より少ない犠牲を考えて決断するんだろうね。あー、やっぱ絶対に
私は総理とか国会議員とかにはなれんな。ってか、なりたくもないけど」
──そう言うと、旦那が“ニッ”っと親指で自分を指差しました。
私 「いや、だから…絶対無理だって。おにーさんが総理になったら、この国は滅びる」
旦那 「そうかな~」
どっちもどっちのような言い分で、すみません

──とまぁ、そんなバカな話をしてたんですけどね、今になって、旦那の考えってある意味いいのかも、と思ってきました。
学校の教科書問題で素直に問題を読んでくれないと、それこそ“へりくつ人間”って思われて扱い難いでしょうけど──以前の溺れた時の問題もそうですが──生死に関わる問題の時は“へりくつ人間”になってもいいんじゃないか、と。
だって、やっぱり人は、どっちも助かる方法を考えようとするのものでしょうし、現実問題として、こういう場面に遭遇したら、私のような頭の固い人間より、旦那の方がこういう危機を乗り越えられる人間のような気がしたからです。
まぁ、振り返ってみたら、現実問題の対処の方が旦那は強いもんなぁ。
だからこそ、災害とかあった時でも、旦那は家族をちゃんと守ってくれる人だ…なんて、漠然とした信頼があるのかもしれません。
頼りにしてまっせー、旦那っ
