イギリスでの暴動に思う

2011年08月15日 | 雑感 -

かの地は、歴史的な背景がある。

昔から階級が存在した格差の激しい国、イギリス。

しかし、何か不穏で、不安定な人々の気持ちが、
伝わってくる。
ため込んだものが爆発してしまって・・・
広範囲に波及してしまったようだ。
貧しさと、厳しい日々の暮らしが、彼らをどのような境地に
追い込んでいったのだろう・・・。



日本人は、がまん強い。
東北の人々は、さらにがまん強い。

理解できないことや、理不尽なことがあっても、
全員が感情的になって、暴動を起こすような国民性では
ないことを願いたい。

暴力や略奪からは、建設的なものは産まれてこない!


しかし、昨今の原発関連活動や、失業者デモを見ていると、
そう甘いものではないようにも感じている。
自分の存在意義を確認して、自分の主義主張をするのも、
何ら悪いことではないと思う。
しかし、そこに「暴力」や「略奪」、「殺生」がからむと
話は根本から違ってくる・・・。


ずっとずっと感情面を抑えられ、記憶の教育に縛られ、
人間的な善悪の判断を重要視してこなかった「日本」は、
いつか同じような暴動を起こしそうな若者を産み出しそうだ。
そんな危険性が皆無ではない。
とても心配である。

テレビゲームにあけくれ、親の言うことに従い・・・
自分で自分の人生を構築する勇気もなく、ただ育ってきた世代が、
鬱積した不満や抑圧を、爆発してしまいそうな想像も成立する。
また、時を同じくして、「資本」や「利潤追求」という構造が、
庶民の暮らしに、人知れず大きな影響を与えている。



わたしが、仕事をしている現場や関係者の中には・・・
誰からも好かれたいと「うすら笑い」を表面上で繰り返し、
心の底ではドロドロとしたマグマのようなものを抱いてる人がいる。
しっかりと前を向いて、自己責任で行動をしようとしない人もいる。
そういう人に降りまわされている今・・・私は、切ない気分になり、
とてもやりきれない気持ちが ぬぐえない。
素敵な素養を持っていても、活かしきれていない人――。
周囲の人の言葉や価値観を常に意識しすぎていて、
自分自身では何も決められない人――。
ため込んでいないことを願うのみだ・・・。



蝉の鳴く、今日という日。
人々は、心静かに、先祖や死者の魂を弔う日である。
そういうことも、30歳までの人々にとっては、
あまり意味を持たないことのようである。
インドア派の・・・一部の高学歴の後輩が、そう言った。
わたしは、とても切ない気持ちがして・・・
哀しくなった。
日本人として、簡素にする部分はあってよいと思う。
しかし、残していくべき大切なことは、引き継いでほしいと
思ってしまう部分もある。
それは、行事そのものではなく、畏敬の念だ。


日本人としての震災後の冷静で賢明な対応は、
世界中の人々を驚かせたように、
もともと遺伝子の中に持っている「謙虚な心」や聡明な部分を、
どうか なくさないでほしい。
自分の意見を社会にアッピールすることについては、
異論はないが・・・「暴力」だけは反対だ。
方法論を選び、熟考し、社会に迷惑をかけないで行動するべきだ。

日本人としての国民性と、素敵な魅力は、残してほしい。
なぜならば、日本という国は、とても素晴らしい国だから・・・。
日本人という民族も、親切で、紳士的で、潔く、素敵だ。
心から、そう思う・・・。



私は、あと数日でウェールズに行くということもあるが・・・
現在、イギリス全土で派生した暴動が、一日も早く収まり、
少しでも気分が落ち着くことを心から願う。
前途有望な若者が、何の迷いもなく、人を傷つけたのだとしたら、
とても哀しい現実だ。
それだけ、心が荒れ、低階級層の生活が困窮を極めているという
現実には変わりはないが・・・・
暴力だけが手段ではないだろう。
気持ちは分かるが、やはり共感できる行動ではない。
決して褒められたものではない。
日本人には、そういう短絡的な行動をとってほしくはない・・・。


わたしは、心静かに、今日という日を過ごそう・・・と思いながら、
我が国以上の失業率にあえぐ多くの国々の暮らしを想像しては・・・
世界情勢の現状にも、とても心を痛めている。



平和祈願と「先祖の供養」

2011年08月15日 | 出来事 -

暑い日となった、今年の「終戦記念日」、
戦没者を追悼しながら、「平和を祈念する日」として
今、私は“敬虔な気持ち”を抱いている。

身体は、寝不足か・・・ ストレスか・・・
本調子ではないけれど、それでも汗を拭きながら、 「心」は・・・
誰よりも真摯でいるつもりだ。


和暦のお盆でもある「8月15日」、
私にとっては「祖先の霊を祀る特別な一日」という意識が強い。
実家では、行事と一緒に「阿波踊り」に浮かれるお囃子が鳴り響き、
この時期のお盆祭りとしての賑わいもあることだろう。



どうにか、今日・・・・
自宅で過ごすことができることになって、何よりだ。

昨夜は、くたくたになって帰り、テレビをつけたまま意識がとん挫して、
今朝はだるい身体を持て余した・・・。

こんな体調と状態で、この日を迎えるのは、心地が良いことではない。
しかし、こういう年もあることだろう――と思い返しては、改めて
フラットな気分に浸ろうとしている私。

お寺からは、不在の実家にも、毎年のように御坊様が来てくださって、
門前で気にかけてくださっていることだろう。
父と一緒に、仏壇前で過ごした気分がよみがえる。



こうした日もあってしかるべき・・・・
こういう風習があるからこそ、死者を思い返して、再び弔うことが
生きている私達にはできるのだ。
何か「きっかけ」のようなものがあると、人は「行動」に移りやすい。
そういう意味でも、一年に一度、大切な人々を思い出しては、
その人々との思い出を胸に抱く時間があってもよいように思う。


時間という壮大なものが気分を軽くしてくれるまで、目をそむけず、
自分の切なく哀しい気持ちにも「向き合うべきだ」と、私は思っている。
こういう繰り返しの感情の連鎖は、新しい関係性を奮い起こしてくれる。
人は、一歩一歩、前に進むようになっているからには、可能な限り、
姿勢を正して、前進していくに限る。
私は、こうして生きてきたし、これからもこうして生きていく。


今夜から、明日にかけて、母の命日を迎えるので・・・・
さらなる敬虔な気持ちが、私の中にも芽生えてくるだろう。
いつも、大好きだった「甘いもの」をお供えして、阿波踊りの終焉と
母の命日を過ごすのが例年の日課である。
私の中に、母の記憶が残っている以上、それまではずっとずっと
この行為は繰り返されるだろう。
母への感謝の気持ちと共に・・・。