母の親友の女性とは、今もつきあっている。
昨年、「早過ぎたよね、一緒に温泉旅行ができるのに・・・」
と言われたが・・・。
私は、旅行する楽しみよりも、ただ 生きていてほしかった・・・。
そして、話を もっともっと濃密にしたかった と思う。
今なら、女同志になって、言えないことも言える気分だし、
母の愚痴も何もかも 受け止められそうな気がする。
笑顔ばかりの母の背景に、実際には “言葉にできない苦労” が
あったことを、私は知りながら、ずっと見ないふりをしてきた・・・。
誰もが抱えている“込み入った感情” と、自分を取り巻く環境が、
その人の「価値観」や、「生き方の術」を、根本的に形成している。
母にも、そういうものが、歴然とあったと思う。
今の私の心情としては、たくさん対話をして、対:人として
もっといろいろなことが知りたかった。
それが、心残りと言えば、心残りである。
おそらく、母が多くの人から愛された理由の幾つかが、
もっと体感できたかもしれない。
家族旅行は、頻繁に両親を招待し、三人旅をしていたので、
後悔はない。
しかし、旅だけで、絆を深める旅だったか・・・という想いでは
私の中に、物足りない気分がある。
やはり、対話不足ではなかったか と 自分で感じるからだろう。
旅の場所は、東京見物、日光、鬼怒川温泉、箱根温泉旅行・・・、
東京ディズニーランドがメインの旅もあった。
その中でも、50万円と限度を決め、北海道1周旅行をしたが、
とても楽しかったし、思い出深い。
いつもの(週末込み)3~5日ではなく、私も長期休暇をとって、
12日間以上は北海道にいた と 思う。
ただ、網走で気分がわるくなった父は、体調が回復せず、
知床へ向かったのに、斜里の病院へ入院して泊ることに・・・。
点滴をしている父に付き添っていた母が、「申し訳ない」 と言い、
私に「宿へ帰れ 」 と言った。
諭された言葉は 「二人一緒にいても仕方がないから」・・・と。
母の気遣いの中には、私に対する複雑な想いがあったと思うし、
仕事が待っている私に “疲れないようしてあげたい” ・・・と。
けれど、私にしてみれば、あの気遣いが、寂しい言葉に聞こえ、
“一緒にいたい” という気持ちの方が強かった・・・。
「いつも父の世話を、母だけに押し付けて
ごめんなさい!」
本当の私は そう感じていた。
でも、口に出して、母には伝えられなかった。
あの時の感情は、鮮明に覚えている。 今も複雑だ・・・。
結局、斜里町の病院で、三人ともずっと過ごして、
知床には、行かずしまい・・・。
斜里町でUターンだった。
見せてあげたかったなぁ、あの雄大な知床の自然を ― 。
北海道の先端の地を ― 。
だから、何故か・・・思い出の斜里町。
父の七回忌が近く、このごろ、いろいろなことを思い出す。
東京に連れてきて、最初のマンションのオートロックのキ―が
さしこめず、30分近くも玄関口でいた父のことや、
「この風呂はいいなぁ」 と気に入ってくれた大きな風呂窯のこと。
近くの桜並木に花見に言って、見上げて笑った父の声。
今年、早くも七回忌なのか・・・と、感慨は深い。
その分、“自分も年をとっている” ということなのだけれど・・・
人よりも 早く始まり、長くかかった介護生活を 振り返り、
いつも思うことがある。
「年若く始まってくれて有り難かった!」 ということだ。
今からだったら、あんなに過酷な状況を生き抜いていけなかった。
心底、そう感じる。
私は、「お一人様」 だから・・・ 余計に、そうなのだ。
母の介護生活の時には、親戚さえも、誰一人、助けてくれなかった。
そんな状況の時に、たどりついていく先は、途方もない世界だ。
私に体力がなければ、あのようには できなかっただろう。
若かったから、(やみくもであっても)突進していく勇気があった。
私に残された時間・余裕(人生)があるとしたら、今後は 「 社会のため、
人のために、何かをしていきたい 」 と、強く思う。
両親を思い出す時 「あの北海道旅行は楽しかったなぁ」 と常に浮かぶ。
母と一緒に入った露天風呂や、美味しかった小樽の寿司の味も・・・。
それらに対する両親の反応や言葉が、強く残っているのだ。
摩周湖で 母が買った土産の 「まりも」 は、叔母宅で 今も生きている。
その 「まりも」 は、とても 大きくなっているらしい・・・。