昨夜なんとか帰京。
三十年前の天皇代替わり時に「反自粛」の表現者活動で接点のあった人たちの集まりに。暗澹たる思いの夜。
昨夜なんとか帰京。
三十年前の天皇代替わり時に「反自粛」の表現者活動で接点のあった人たちの集まりに。暗澹たる思いの夜。
朝刊を見て、うんざり。
今日は元旦じゃないよね?
これってまるで宗教新聞だよね?
まあそもそも天皇代替わり儀式が国事行為・公的行事として行われることは、キリスト教団体の多くも指摘するように、国民主権・政教分離に反し、国家神道の復活に繋がるのは、自明。これは三十年前の代替わり時にも強く多くから指摘されていたことだ。天皇が万世一系であり、現人神という仮説のオリジンを示す儀式なのだから、宗教的でないと言いつのることはできない。
日本会議の強大化、神社の変節という時代の変化は、重い。
私は、天皇的なものに、私の内面も生活も侵蝕されたくはない。
さて、「退位礼正殿の儀」での「天皇陛下の最後のお言葉」なるものには、こうある。
「国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します」。
これ、天皇が「国民を代表して」謝意を表明したと誤解した人がいて笑い話になったけど、確かに一瞬そう読めるね。
だけどこれ、「国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉」に、天皇が深く謝意を表したということなんだ。
国民に謝意を表する存在である天皇は、国民ではない。「天皇陛下の最後のお言葉」は、「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」と、続く。天皇は日本の中に存在するのだとすると、国民ではないということは、ニンゲンではないということになり、「象徴」というものは、限りなくSF的存在でもある。ニンゲンなのであれば、早く基本的人権を与えてあげたいと心から思うのだが。あるいはこの国は、宗教国家であるだけでなく、SF国家だということか。
わかりやすいことだけ言おう。
新旧天皇の「お人柄」を称揚する人たちもいるが、天皇の「人柄」が最悪になったときは、どうするのだろう。受け入れられますか? おかしなシステムだ。慰霊や慰問をしてほしくない者が、それを拒否する権利は担保されているのか。皇室に充てられている高額な費用をなくし、それを被災者や貧困者のために使った方が良いのではないか、という正論は通らないのか。たとえば天皇の存在が「国際親善に役立つ」という声も多く聞かれるが、国民でもなく、国民の民意を反映するとは限らない存在が、海外で独自の動きをすることには、本来多くの疑問符がつくのではないか。
「平成の〜」「昭和の〜」という枕詞は、本来一人一人の人間には関係のない「天皇代替わり」「元号ごとの区切り」に、日本人が感情・心情を左右されたり、仮託したりするということを、前提にしている。
リベラルっぽい表現をしているはずの者でさえ、「平成の〜」「昭和の〜」を平気で使う場合があって、呆れさせられる。たまたま時代の区切りとして使いやすいと思ってなのか、登場人物たちの個人史を重ね合わそうということなのか、「昭和の時代の出来事」をメドレーみたいに見せる場面を作ったりする劇もたまにあったりして、ああ、こりゃだめだ、と思うケースも多い。
私の見た新聞は報じていないが、一部のニュースでは報じられているのが、昨日4月30日、「退位で終わろう天皇制! 新宿大アピール」というデモンストレーションが、新宿東口アルタ前広場で行われた際、右翼が襲撃し、逮捕者が二名出たということ。
今日5月1日夕方からも、「新天皇いらない銀座デモ」が行われる。ニュー新橋ビル地下2Fホール(新橋駅前)、16:00開始/17:00デモ出発。
メーデーにぶつけなくても、という声もありだが。
今日は、ただの五月一日だ。それだけ。