Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

現代演劇と舞台美術 ~島次郎の仕事を中心に~ 劇作家大会 2019 上田大会

2019-08-11 | Weblog

劇作家大会 2019 上田大会。

「 現代演劇と舞台美術 ~島次郎の仕事を中心に~ 」

三十年余にわたり現代演劇の潮流に重要な位置を占めた舞台美術家・島次郎。今年急逝された氏の、創作の姿とそのオリジンに迫る。

8月17日(土) 13:00-15:30 サントミューゼ・小ホール

登壇者 = 鵜山仁 松本修 堀尾幸男(舞台美術家) 今村麻子(演劇ジャーナリスト) 坂手洋二

氏と多くの仕事をしてきた演出家の鵜山仁、松本修、坂手洋二。そして舞台美術家の友人・堀尾幸男。氏の仕事を振り返る写真集の編纂に携わり、その足跡をまとめた今村麻子。
ゆかりの人々が「同時代人としての島次郎」の仕事を通して、現代演劇と舞台美術の関わりについて、語り、わかちあう。

演出家・鵜山仁さんは 『コペンハーゲン』『ニュルンベルク裁判』『ヘンリー六世』『リチャード三世』『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』といったスケールの大きな作品で、島さんと組んでこられている。

演出家・松本修さんは「逃げ去る恋」「魚の祭」「プラトーノフ」「城」、2種類の「かもめ」、「イソップ」「会社の人事」など、島さんは仕事上の重要なパートナーだった。

堀尾幸男さんと島さんの友情と相互の信頼は、演劇界に於いてとても大切な絆だった。

私自身も、島さんと多くの仕事をご一緒してきた。「火の起源」「ララミー・プロジェクト」「ブラインド・タッチ」 「ウィンズロウ・ボーイ」 「民衆の敵」 「BUG」「 ハシムラ東郷」「アイ・アム・マイ・オウン・ワイフ」 「兵器のある風景」 「ザ・パワー・オブ・イエス」「 帰還」 「カウラの班長会議」 「白墨の輪」 「野鴨中毒」⋯⋯。

島次郎さんの仕事を語ることは、舞台美術という範疇を遥かに超えて、現代演劇について語ることになるだろう。

 

シンポジウム以外に、エントランスで、島さんが舞台美術を手掛けた写真を、多く展示いたします。

 

島 次郎 Shima Jiro

1946年、北海道生まれ。武蔵野美術大学卒。演劇やオペラ、バレエなど様々なジャンルで舞台美術を手がけた。

1998年にTHE・ガジラ『PW』『温室の前』などで紀伊國屋演劇賞個人賞、2001年に新国立劇場『マクベス』で伊藤熹朔賞、新国立劇場『浮標』『世阿彌』、ひょうご舞台芸術『ニュルンベルク裁判』で朝日舞台芸術賞。地人会『アンチゴーヌ』、新国立劇場『リチャード三世』などで読売演劇大賞・最優秀スタッフ賞を二度にわたり受賞。2003年に紫綬褒章、2016年に旭日小綬章。

2019年、3月に作品集『舞台美術 1986-2018』(著:島次郎 写真:益永葉)を朝日新聞社より刊行。(このたびのシンポジウムに出席される今村麻子さんは、同書の発刊に尽力したお一人である)

本年4月9日逝去。

 
添付の写真は、私と島さんが組んだ唯一のオペラ『白墨の輪』。こんにゃく座。2014年、世田谷パブリックシアター。照明・竹林功。(撮影・姫田蘭)

 

https://jpac2019-ueda.org


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表現の自由を守ろうとすることが「スタッフ・職員へのハラスメント」になってしまう?

2019-08-11 | Weblog

「あいちトリエンナーレ2019」で展示中止になった「表現の不自由展・その後」。

芸術監督・津田大介氏は「作家の許可なく、緊急措置として展示企画を中止する対応をしてしまったこと、現場に混乱をもたらしてしまったこと、その結果として現場の職員や関係各所にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます」というが、本当に、アーティストたちを無視して中止の決定を出したのは言語道断である。愛知県知事はそりゃ大阪府知事よりはましかもしれないが、やはり責任はある。中止にはしてしまったのだ。津田氏は「検閲に屈した」というストーリーにされることを否定して、「大量の抗議やテロの予告などがあることで運営ができなくなる『芸術祭の脆弱性』が可視化された。検閲というよりは、文化・芸術に対するテロの問題です」としている。この国の「検閲」システムの批判をする勇気がないのだろう。  

そんな中、津田氏自身が神戸市内で18日に開催予定だったシンポジウムが中止となった。忖度、自粛の嵐。表現の自由を否定する空気が蔓延し始めている。

津田氏は「僕個人だったら刺されてもいいが、僕だけではなく会場にはお客さんもいるし、アーティストの作品もある。何よりも疲弊するのはスタッフであり、スタッフにまで闘争する覚悟を強いることはハラスメントになってしまう」とする。「ガソリン携行缶を持っておじゃまする」という脅迫、職員を名指しで非難する動きがあった以上、「スタッフにまで闘争する覚悟を強いることはハラスメント」というのは、ある意味正当性があるように感じられる方もいるかもしれないが、こうして脅迫し、不安をあおり、公共であることの弱みを狙った攻撃・圧力によって、いともたやすく行政や外郭団体を自粛決定に追い込むことができてしまうという現在の様子は、異常である。

明らかにこの国では「スタッフ・職員を苦しめること」を正当な理由として、あたかもそれが正義であるかのように「表現の自由」を奪うことが正当性を持つことになってしまう。

スタッフ・職員を苦しめているのは、アーティスト、表現者ではない。苦しめているのは理不尽な犯人たち・姿を隠した攻撃者たちである。なのに、表現の自由を守ろうとする人たちを「スタッフ・職員へのハラスメント」と決めつける風潮が、今後も増してくるだろうと予想される。彼らを守ることができるのかと問われれば、迂闊なことは言えない、ということになってしまうだろう。

もちろん「スタッフ・職員の安全」は、絶対に守られなければならない。

いっぽう、辺野古や高江で基地反対の表現をする人たちの活動を、一日あたり千六百万円をかけて阻止しようとしている日本政府である。であれば、憲法で定められた表現の自由を守るために、機動隊やALSOKに「表現の不自由展・その後」をガードさせればいいのではないか。彼らは「それはハラスメントだ」と、拒否するのだろうか。そもそも一日あたり千六百万円をかけても守りきれないのだろうか。それじゃ一年後のオリンピックなんて開けないじゃないか、という意見が出てくるのも、もっともである。

どう守るのか。どう抑止するのか。

世の中全体の空気をもっとまともにする、という以外には、なかなか思いつかないのだが。

 
 
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