Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

シナリオ作家協会「「表現の自由」に関するアピール ―「表現の不自由展・その後」の中止を巡って―」

2019-08-29 | Weblog

協同組合日本シナリオ作家協会が、本日付で「「表現の自由」に関するアピール ―「表現の不自由展・その後」の中止を巡って―」を出した。

 


「表現の自由」に関するアピール
―「表現の不自由展・その後」の中止を巡って―

 

 私たち協同組合日本シナリオ作家協会は、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」が、様々な圧力や脅迫により中止に追い込まれ、いまだに再展示されないことに危機感を覚えています。

 この企画は、過去に公共の文化施設で「排除」された作品を集めたもので、展示不許可になった理由とともに展示されていました。
「慰安婦」問題、天皇と日本人の戦争責任、政権批判など「タブー」とされがちなテーマの作品なのですから、不快に思ったり、展示すべきじゃないと主張する人もいるでしょう。
 しかし、匿名の抗議や多数の脅迫メール、「ガソリンをまくぞ」というテロ予告もありました。京都アニメーション放火事件があったばかりです。
 こういった状況に陥った時、行政と政治家がやらなくてはならないのは「断固としてテロは許さない」と発信、警備強化などを行い、展示継続できる環境を作ることではないでしょうか?
 ところが、河村たかし名古屋市長は「どう考えても日本人の心を踏みにじるものだ。即刻中止していただきたい」と述べ、菅官房長官は「補助金交付の決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と、むしろ反対世論を煽り、展示会は中止になりました。
 暴力をちらつかせながら抗議すれば表現の場を奪えるという前例を作ったことは許しがたいです。
 菅官房長官は自らの発言が中止の判断に影響を与えたかどうかを問われ「全くない」と否定しています。
 しかし、この発言が看過できないのは影響力以前に、憲法21条で禁じられた「検閲」につながりかねないからなのです。
 行政と政治家は自分と違う意見でも守る立場に立たなければならないのです。自分が不快に思うものにも表現の機会を与えることが表現の自由なのです。
「表現の不自由展・その後」が中止になったことで、それらはなぜ不快なのか、なぜ公共の施設で展示できなかったのかを自由に考えたり議論する機会が失われてしまいました。
 それは表現者だけでなく、鑑賞する機会を奪われた人たちにとっても不幸なことなのです。
 見たくない人は見なければいいのです。それが自由です。しかし、見たい人に見せない、見てはいけないと不自由を押し付けるのは間違いです。
 大村愛知県知事はこう発言しました。
「税金を使っているからこそ表現の自由は保障されなくてはならない」
 なぜか?
 ドイツの国立劇場の方の言葉を引用します。
「ドイツはかつて大きな過ちを犯しました。国家が過ちを犯した時に、最初に声をあげるのは芸術家です。国は、自分たちが間違えそうになった時に声をあげてもらうために、芸術家にお金を出すのです」

「表現の不自由展・その後」の展示再開を求めます。
 すべての表現者、そしてすべての人たちのために。

 

2019年8月29日 

協同組合日本シナリオ作家協会 

http://www.j-writersguild.org/entry-news.html?id=284734&fbclid=IwAR2DS_TgbYDE_BjA24WkyCv02wLqngh5MHddKQdOOZgNBShKdMEh043isUo


こちらは、8月6日に劇作家協会が〈「表現の不自由展・その後」の展示中止についての緊急アピール〉を出した内容

https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/0a8f050e5395e6c1da730d966d3dc71b

 

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映画「WALKING MAN」の「いま」

2019-08-29 | Weblog

今夏、上田映劇での演劇の演出はしたけれど、映画館に、「観客」としては、とんと行っていない。さいきん観た映画は試写室で観たこの「WALKING MAN」だけ。

「WALKING MAN」は、「極貧の母子家庭で育ち、幼い頃から吃音症でコミュ障の青年・アトムが、ヒップホップと出会い、最底辺の生活から抜け出すべく奮闘する姿を描いた青春映画」ということである。映画のアトムの妹の名はウランである。そんなー、と思う方もいるだろうが、私の知り合いの劇作家で本当に子供にアトムとラムとつけた人がいる。カタカナでなく当て字だったはずだが。

若者の成長を描くラップ映画といってもエミネムの『8 Mile』(‘02)とはだいぶ趣が違う。ヒップホップを軸にした映画なら『ドゥ・ザ・ライト・シング』(‘89)という傑作があるが、そういう方向でもない。描かれる世界は、七十年代の東映のB級青春不良映画ふうだったり、『19歳の地図』ふうだったり、『ビリギャル』ふうだったり、いろいろだが、日本青春映画の王道である。主人公の俳優はちゃんと吃音者を演じようとしているし、石橋蓮司の怪演は、せりふは最初の一言だけでいいのにという個人的な感想はともかく、相変わらず呆れてしまうおかしさだ。芦澤明子撮影監督のとらえた川崎の風景は今の空気を映し出していて、奇跡のようなワンショットもある。誰も助けてはくれないという実感、「自己責任」という言葉への反発は納得できる。作り手の真剣さも伝わるし、いろいろ苦労の跡が見受けられる。あと、主人公の職場として、残置物・遺品処理・特殊清掃の仕事を選んだのは、慧眼である。

かなりの試行錯誤の末に作られていることも想像できるが、「いま」を描くという、映画としての主体性のあり方は、理解できる。その「いま」を「ここ数十年」と見ていくべきだという気持ちが、自然と湧いてくる。七十年代以降の青春映画を感じさせる既視感が、巧まずしてそのようなリアリティを持っているのだと思う。私たちの社会は、あれから何も進めることができていないのではないか、という哀しき実態。

日本で「ラップ映画」を成立させたこと自体、評価すべきことだが、 どういう観客層が対象になるのだろう。関心のある方は足を運んでいただきたい。シナリオは梶原阿貴さん。10月11日公開。

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