Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

レンタルなんもしない人は本当になんもしないってわけじゃなかった

2019-08-31 | Weblog

何しろ自分が「なにもおきない」という新作に取り組んでいるので、「レンタルなんもしない人」という存在を知り、著書「レンタルなんもしない人のなんもしなかった話」(晶文社)と「〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。: スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと」(河出書房新社)を読んでみた。

レンタル無料、だけど「なんもしない」。「ただ1人分の存在だけが必要なシーンでご利用ください。ごく簡単なうけこたえ以外なんもできかねます」という、twitter発「レンタルなんもしない人」という「人材派遣」サービスを2018年6月3日に始めた著者。10ヶ月で10万人ものフォロワーを集めたという、そのネット記事等をまとめ、書き加えたもの。既にテレビや媒体で取り上げられ、コミック化もされているという。

一人で入りにくい店の付き添い、ゲームの人数あわせ、花見の場所とり、自分が被告の裁判の傍聴席に座ってほしい、誰にも言えない話を聞いてほしい、私のお見舞いに来てくれませんか? 謝罪の見守り、離婚届提出の同行、行列に並ぶ、ただ話を聞く、絵画のモデルになる、一人カラオケに付き合う、掃除をしているのを見ている、ドラマに出演する、行けなかった舞台を代わりに見る、カレーを一緒に食べる、ヘッドスパを受ける、映画を見る、ボウリングに付き合う、ブランコをこぐのを見守る、ラーメンを食べる、深夜の徘徊に同行する、言われたとおりのコメントをDMで返す、なんもしないホストになる、⋯⋯等々の依頼が来る。

「“なんもしない" 人にも、存在価値はあるんだろうか? 」「何もしない人が生きてたっていいんじゃない?」というフレーズだが、おそらく物書きとして生きていきたいと思った著者の、ネタ拾いの日々でもある。

芝居の稽古を見てくれという依頼は、けっこう拷問だったはずだと思うのだが、この人は易々とこなしている。りっぱだ。

つまり、この「レンタルなんもしない人」は大真面目な人で、「なんもしない」どころか、しっかりいろいろなことをこなしているように見えてしまうのが皮肉だ。「なんもしない」をきっちり成立させるためには努力が必要ということである。彼は「いま」を象徴的にあらわし、批評してる存在ということになるのだろう。

ただ、残念ながら、私が考えている「なにもおきない」というコンセプトには、ほぼあてはまらず、あまり参考にはならないのであった!

舞台「なにもおきない」の紹介は、以下。

https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/185c59e0343198a7e34233cbf63c6f7d?fbclid=IwAR2VH0-eya65fHXNioWexqgFNiRxt72Gb5cn2u9AJ6vopdj_AKTu3s-XoUU

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南太郎さんの冷蔵庫とのお別れ

2019-08-31 | Weblog

冷蔵庫というものにも寿命があるわけで、私が東京に出てから所有した冷蔵庫の、これは二台目である。さすがに今はもう、どこにもないのだが。

私の一台目の冷蔵庫は、学生時代に寮を出て初めて入った大田区の下宿の下の階の住人が引っ越し時にくれたすごく小さな白いワンドアのもの。その下宿には共同の冷蔵庫と洗濯機があったが、別に自分の冷蔵庫があるというのは嬉しかった。

二台目の緑色のこれは、大学時代に一年だけ在籍した演劇研究会の先輩、南太郎さんがご結婚されたさい、引っ越しを手伝いに行って、新婚の部屋には新しい冷蔵庫が用意されていたわけで、南さんのアパートに鎮座していたのを何度も見かけたことのあるこのツードアを、私がいただくことになったのだ。

やがて私も一九九五年に都営住宅に引っ越して、その時に生まれて初めて冷蔵庫を自分で買った。「安売り王」として当時有名だった「城南電器」本店が、その都営住宅の前の前の住処である西永福時代の私のアパートのすぐそばにあったのであるが、そこで買わせていただいた(この冷蔵庫はおよそ四半世紀の稼動に耐えており、昔の家電はしっかりしているな、と言われるラスト世代のものだろう)。なのでその時に移動させたこの緑色ツードアが、晴れて梅ヶ丘BOXの楽屋の冷蔵庫となったのである。ドアの下部には一九八九年に貼った高橋よしあき君のバンド「THESE」のステッカーが貼られていたのを憶えている人もおられると思う。

写真で御覧になって想像がつくように、そう大きいものではない。ただ、私が学生の頃、ツードア冷蔵庫を持っている人は少なかったのではないか。考えてみれば冷凍庫はそんなに使うこともなかったが、西永福時代に同居していた照明家・竹林功が一気に百個くらい餃子を作ったとき、それを保存したりして、それなりに活躍はしていた。

私の西永福〜永福町のアパートで十年余り、梅ヶ丘で二十年余を過ごしたこの冷蔵庫は、最初の持ち主の南さんの所にいたのは十年未満だろうから、ほとんど私が使わせていただいたということになる。この緑色に慣れてしまったので、私はフツーの冷蔵庫を見ると無意識に「あ、白い」とか「あ、メタルだ」とか、感想を持ってしまうのである。

南さんは上京してすぐにこの冷蔵庫を手に入れたはずだから、一九七八年に購入されたはずである。廃棄したのは二〇一六年の夏である。この冷蔵庫は、三十八年生きたのだ。古い冷蔵庫だから電器消費量が多いはずだとも言われたが、なかなか手放せなかった。

先日、演劇研究会の同期の仲間である、東映ビデオの常務取締役である加藤和夫君が開催した、OBと現役とでやるバーベキューというのがあり、今夏は彼に『熱海殺人事件 VS 売春捜査官』のアフタートークに出てもらったりしたこともあり、初めてそういう場に顔を出した。……やはり南太郎さんのことを思い出してしまった。南さんは加藤君よりも二年前に東映に就職されていたのである。同じ演劇研究会からは関井稔也さんが松竹に就職されていた。映画会社への就職が重なったわけで、やはりそういう時代だったのであろう。その日、S百貨店に就職したYさんが今月定年退職される話も聞いた。ほんとうに、一つ時代が巡ったのだと、思わされてしまった。

この写真をアップする気持ちになかなかなれなかったのは、この冷蔵庫を廃棄したときにも淋しかったのだが、二〇一四年に亡くなった南太郎さんに、なんだか本当にお別れを告げることになるような気持ちにさせられたからである。じつは燐光群が『トーキョー裁判』を初演した頃にお世話になった関井さんも、亡くなられている。

燐光群の人たちにとっては「あの、楽屋の冷蔵庫」なのだろうけれど、私にとっては南太郎さんの思い出と共にあるものだった。

感謝しかない。

一年だけ在籍した演劇研究会の御縁が、ありがたいものだと、最近あらためて思っている。

 

南さんの思い出を記した過去ブログは、以下の通り。

https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/11fdcc1a80f361dd86442c00a78c1c54

https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/26d4b4571494a06cf2bae23891dd7243

 

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