Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

大平洋は戦場だった

2023-11-08 | Weblog

新作『わが友、第五福竜丸』は、遠洋マグロ延縄漁船である第五福竜丸が1954年3月1 日にマーシャル諸島・ビキニでのアメリカ軍の水爆実験に遭遇したことを起点にしている。

1954年はまだ終戦後10年経っていない。

そして、大平洋は戦場だった、という事実がある。

第五福竜丸の乗組員の年長組にも戦争体験がある。軍に徴用された魚船に乗っていたのだ。日本に向かってくるアメリカの船を太平洋上で監視する任務である。無防備な徴用船は米軍機に狙い撃ちされ多くが沈没。

そして、第五福竜丸の乗組員の何人かは、ビキニ事件以前に、戦争でマーシャルに行ってるのだ。

甲板員の吉岡鎮三さんはマーシャルで拿捕されハワイへ。

操機手の高木兼重さんは貨物船でトラックからマーシャルに航行中、潜水艦の攻撃を受けた。

操舵手の見崎進さんは海軍軍属として徴用され硫黄島付近で米軍の機銃掃射を受けた。一番若いからマストにのぼれと言われ、上がったら、目前に敵機が迫ってきた。機銃攻撃を受け、下の無線室を見たら全員やられていた。米軍機は軍本隊に連絡させないために無線室を狙うわけだ。近くにいた二十四隻の半分は沈没。自身の「新勢丸」も三十人中十二人が死亡したという。この船には船首に六インチ砲、ブリッジに七ミリ機関銃、操舵室前にロケット砲二門、二十五ミリ機関砲二門が配備され、これは多い例であるが、ただの漁船がにわか戦艦に仕立てられたのだ。

甲板員の増田鏡之助は戦時中各地に鰹節工場を持つ南洋水産に就職、タンカーに乗船、ボルネオからパラオへ。のべ四千機の空襲に遭い洞窟に隠れた。後にタンカーごと徴用されまた空襲で今度は沈み、その後は現地徴用され従兵となり終戦を迎えた。

甲板員の安藤三郎は保戸島でグラマンの空襲を受け機銃掃射を浴びたが生き延びた。

第五福竜丸に乗っていた乗組員たちはみな戦時中は軍属だし若くて使われる立場ばかりだった。年長の元兵士だった漁師や船乗りが威張っている船だと、「何人殺した」とか「どこの女がいい」とか、兵役体験のない若者が聞きたくないことばかり聞かされることになったというが、第五福竜丸にはそういう空気はなかった。本当に、みんな若かったのである。

焼津港から戦争に徴用された漁船は八十五隻、帰還したのは十三隻にすぎない。

そういう歴史が忘れられてゆくということじたいが、戦争の虚しさである。

そして、「記憶」される立場になった第五福竜丸とて、自ら望んで歴史の証言者になったわけではない。

 

写真は、今年三月に訪れた、アメリカ・ニューオリンズの第二次世界大戦博物館の「アイランド・ホッピング」の展示。

アメリカの側から大平洋戦を見ている。

第五福竜丸のいたマーシャルも、かつて『サイパンの約束』で描いた南洋も、そこにあり、それは、米軍からすれば、日本へ進行する途中の、「占領せねばならない地点」だったのである。

 

 

燐光群『わが友、第五福竜丸』 、11月17日より、座高円寺で上演します。

その後、全国六都市のツアーがあります。

 

フィクションである演劇と、現存する本物の第五福竜丸の、邂逅。

こんなことが、実現できるとは。

こんなフィクションのつくり方は、まったく初めてです。

ただただ、大きな感動の中にいます。

 

 

燐光群『わが友、第五福竜丸』上演情報です。

https://rinkogun.com/portfolio/20231117_wagatomo_dai5fukuryumaru/

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