吉祥寺バウスシアターが5月末をもって閉館するという。
正確な理由は公表されていないが、お客が入っていなかったからということではないはずだ。
1984年3月にオープン。30年の歴史に幕を閉じる。
初めからミニシアターを併設していて、都心で公開された小品や当たらなかったが評価の高かった映画を上映してくれた。
ここでやってくれたから見逃さなかった映画が多々ある。
最近で思い出深いのは『ドッグヴィル』だ。
もうだいぶ前だが、昔はレンタルの「アコム」だった隣のテナントを借りて映画館をひとつ増やしたのにも驚いた。そんなことができるのだと感心した。これで3スクリーンになった。
劇場を作ったH社長は演劇に理解のある人だった。オープン当初から「パパ・タラフマラ」がまだ「タラフマラ劇場」を名乗っていた頃に、相当な支援をしていたのは有名な話だ。私が初めて小池博史作品に触れたのはこの劇場だ。オーケストラ付きだったので劇場自体がばかばかしいほど大きく見えた。
最前列に「カップルシート」があった。間に手摺りのない二連席である。最前列だった。確か伊丹十三監督の映画でも撮影に使われていた。『タンポポ』だったか。
劇場のミニコミも作っていた。
演劇に理解があるというのは、本当に徹底していて、屋上に演劇の時に便利なプレハブの楽屋を立ててくれていた。
H社長兄弟は、私が屋上で野外劇をやりたいという要望を聞いてくれた。
『オルレアンのうわさ』という劇である。1984年9月。
そのレンタルの「アコム」だったところの上の屋上に客席とオペルームを作った。イントレを立てて照明を吊った。
劇場の更に奥の高い層を使い、ラストシーンは少女が真っ赤な傘を持ってそこに立った。
商店街に近い小さい棟の上も使わせてもらった。この上で最初メガホンで台詞を言うのが町内会長役で出演しこの作品が舞台デビューだった猪熊恒和である。当時二十五歳。
商店街から観客以外の人も見上げていた。「空中野外劇」と名乗った。
件の楽屋は廃材とトタンで囲って掘っ立て小屋に見えるようにした。
原発の島を舞台にした劇で、私は原発作業員の役だった。
雨が降って一日巡演になった。
本番中に来年一緒に仕事をしようと約束していた舞台美術家の手塚俊一さんが亡くなった。お通夜にも行けなかった。
社長にお世話になったことはもう一つある。そんな秘密にすることではないけれど、時効だろう。稽古場不足に悩む小劇場の私たちに、親しかったらしい某政党の選挙事務所(選挙期間以外は空っぽだ)に話を付け、1時間五百円で提供してくれたのだ。どれだけ助かったことか。
「公共」の充実は、いい。しかし官製の「公共」だけではなく、「民間の人間がする仕事の公共度の高さ」を、ゆめゆめ忘れてほしくない。金と知名度、コネ人脈におもね、官の気まぐれに踊らされていては駄目だ。このままでは多くのものを失ってしまうと思う。
http://www.bakuon-bb.net/
正確な理由は公表されていないが、お客が入っていなかったからということではないはずだ。
1984年3月にオープン。30年の歴史に幕を閉じる。
初めからミニシアターを併設していて、都心で公開された小品や当たらなかったが評価の高かった映画を上映してくれた。
ここでやってくれたから見逃さなかった映画が多々ある。
最近で思い出深いのは『ドッグヴィル』だ。
もうだいぶ前だが、昔はレンタルの「アコム」だった隣のテナントを借りて映画館をひとつ増やしたのにも驚いた。そんなことができるのだと感心した。これで3スクリーンになった。
劇場を作ったH社長は演劇に理解のある人だった。オープン当初から「パパ・タラフマラ」がまだ「タラフマラ劇場」を名乗っていた頃に、相当な支援をしていたのは有名な話だ。私が初めて小池博史作品に触れたのはこの劇場だ。オーケストラ付きだったので劇場自体がばかばかしいほど大きく見えた。
最前列に「カップルシート」があった。間に手摺りのない二連席である。最前列だった。確か伊丹十三監督の映画でも撮影に使われていた。『タンポポ』だったか。
劇場のミニコミも作っていた。
演劇に理解があるというのは、本当に徹底していて、屋上に演劇の時に便利なプレハブの楽屋を立ててくれていた。
H社長兄弟は、私が屋上で野外劇をやりたいという要望を聞いてくれた。
『オルレアンのうわさ』という劇である。1984年9月。
そのレンタルの「アコム」だったところの上の屋上に客席とオペルームを作った。イントレを立てて照明を吊った。
劇場の更に奥の高い層を使い、ラストシーンは少女が真っ赤な傘を持ってそこに立った。
商店街に近い小さい棟の上も使わせてもらった。この上で最初メガホンで台詞を言うのが町内会長役で出演しこの作品が舞台デビューだった猪熊恒和である。当時二十五歳。
商店街から観客以外の人も見上げていた。「空中野外劇」と名乗った。
件の楽屋は廃材とトタンで囲って掘っ立て小屋に見えるようにした。
原発の島を舞台にした劇で、私は原発作業員の役だった。
雨が降って一日巡演になった。
本番中に来年一緒に仕事をしようと約束していた舞台美術家の手塚俊一さんが亡くなった。お通夜にも行けなかった。
社長にお世話になったことはもう一つある。そんな秘密にすることではないけれど、時効だろう。稽古場不足に悩む小劇場の私たちに、親しかったらしい某政党の選挙事務所(選挙期間以外は空っぽだ)に話を付け、1時間五百円で提供してくれたのだ。どれだけ助かったことか。
「公共」の充実は、いい。しかし官製の「公共」だけではなく、「民間の人間がする仕事の公共度の高さ」を、ゆめゆめ忘れてほしくない。金と知名度、コネ人脈におもね、官の気まぐれに踊らされていては駄目だ。このままでは多くのものを失ってしまうと思う。
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