日刊ゲンダイの山田勝仁さんがFB上で次のように問題提起している。
〈イラン・イラク戦争のとき、いちはやく演劇人反戦が結成され、デモ・抗議活動をしたが、福島事故後、演劇人がまとまって街頭で抗議活動したことは寡聞にして知らない。「戦争反対」は大義名分が立つけど、「原発反対」とはいえないのは、俳優・作家が資本に深く取り込まれているからだろうか。テレビ、マスコミで働く俳優、作家が表立って「原発反対」と言えない状況。それは事故後1年半たっても変わらない。それぞれのフィールドでしか自己の考えを表明できないのはやっぱりいびつ。「戦争」と「原発事故」は国民、女性・子どもが犠牲になることでまったく同じなんだけど。〉〈これは特定の人を批判してるものではありません、ということをまず断っておきたい。〉
まず山田さんに、「演劇人」「俳優・作家」「テレビ、マスコミで働く俳優、作家」とスライドしているとコメントしづらいですよ、とはお伝えした。私自身は十年近く前に「イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」を始めた一人だが、それを継承する「非戦を選ぶ演劇人の会」に於いては、昨年春、まさにその「反原発」組織作りの必要性についての話題が出た時に、「非戦」団体がそのまま「反原発」団体に移行する、あるいは「非戦」のまま「反原発」に特化した活動をすることには、賛成しなかった。「非戦」「反戦」に絞った視点で続けるべきこともあると思うからだ。そしてごく素直に、「反原発」のためには新たな別組織があって然るべきだとも考えたわけであるが、既に意志と行動力のある演劇人たちの多くは、それぞれのやり方で「3.11後」の活動に取り組んでいたと思う。そういう「広がり」を信じたところで、組織の必要性など考えぬままストップしていたというのが、実情であろう。それでも昨夏、反原発リーディングはやった(http://hisen-engeki.com/110827.ht)。
ただ、「反戦」について、誤解のないように言っておけば、これまでこの国では、具体的に特定の事象・対象、そしてある固有の「戦争」に対して、明瞭な立場と内容を伴って「非戦」「反戦」を発言する者が、いかに少数だったかということである。「過去の戦争」を振り返って言う人や、一般論を言う人はいくらでもいる。だが、今振り返れば、どちらかの国の側に立っての意思表明を「表立って」言う人は、そんなに多くはなかったのではないか。とくにアメリカと立場を異にする時がそうである。そして、どちらかの立場に立つ、ということは、「大義名分」というコトバとは、ほんらい馴染まないはずである。
思い出してみるが、イラン・イラク戦争のとき、幾度かのデモのために集まった「演劇人反戦」じたいは、ただの即席の寄り合いであり、「結成」というものにはほど遠かったのではないか。私はそれがどういう「組織」なのかを説明することさえできない。ほとんど印象がないのだ。
翻って「反原発」に関していえば、少なくとも私が「非戦」「反戦」でも連帯してきた仲間たちに関して言えば、「資本」云々は関係ないと思うし、誰も「原発反対」と言えないわけではない。で、これは言い訳でも何でもなく、昨日「非戦を選ぶ演劇人の会」のS女史とも話したのだが、私たちはあの頃、「演劇人がまとまった組織をつくること」が至急には必要がないくらいに、「反原発」が国民的な広がりを得て拡大している、という気がしていたのだ。迂闊だった。今や毎週金曜の官邸前反原発デモに集まる人も減少しているという。反原発について「演劇人がまとまった組織をつくること」は、今こそ必要なのかもしれない。このような思索の契機をつくってくれた山田さんに感謝する。
そして、くどいようだが、この国では、具体的な進行形の「戦争」について物申す時、ほんとうに「演劇人がまとまった組織をつくること」が必要だったのだ。「イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」に於いては、必要というより、その「効果」を具体的に導き出し、実践したのだ。対象と立場を明確にした「反戦」は、この国では長い間、それほど容易ではなかったし、今もそうなのである。
〈イラン・イラク戦争のとき、いちはやく演劇人反戦が結成され、デモ・抗議活動をしたが、福島事故後、演劇人がまとまって街頭で抗議活動したことは寡聞にして知らない。「戦争反対」は大義名分が立つけど、「原発反対」とはいえないのは、俳優・作家が資本に深く取り込まれているからだろうか。テレビ、マスコミで働く俳優、作家が表立って「原発反対」と言えない状況。それは事故後1年半たっても変わらない。それぞれのフィールドでしか自己の考えを表明できないのはやっぱりいびつ。「戦争」と「原発事故」は国民、女性・子どもが犠牲になることでまったく同じなんだけど。〉〈これは特定の人を批判してるものではありません、ということをまず断っておきたい。〉
まず山田さんに、「演劇人」「俳優・作家」「テレビ、マスコミで働く俳優、作家」とスライドしているとコメントしづらいですよ、とはお伝えした。私自身は十年近く前に「イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」を始めた一人だが、それを継承する「非戦を選ぶ演劇人の会」に於いては、昨年春、まさにその「反原発」組織作りの必要性についての話題が出た時に、「非戦」団体がそのまま「反原発」団体に移行する、あるいは「非戦」のまま「反原発」に特化した活動をすることには、賛成しなかった。「非戦」「反戦」に絞った視点で続けるべきこともあると思うからだ。そしてごく素直に、「反原発」のためには新たな別組織があって然るべきだとも考えたわけであるが、既に意志と行動力のある演劇人たちの多くは、それぞれのやり方で「3.11後」の活動に取り組んでいたと思う。そういう「広がり」を信じたところで、組織の必要性など考えぬままストップしていたというのが、実情であろう。それでも昨夏、反原発リーディングはやった(http://hisen-engeki.com/110827.ht)。
ただ、「反戦」について、誤解のないように言っておけば、これまでこの国では、具体的に特定の事象・対象、そしてある固有の「戦争」に対して、明瞭な立場と内容を伴って「非戦」「反戦」を発言する者が、いかに少数だったかということである。「過去の戦争」を振り返って言う人や、一般論を言う人はいくらでもいる。だが、今振り返れば、どちらかの国の側に立っての意思表明を「表立って」言う人は、そんなに多くはなかったのではないか。とくにアメリカと立場を異にする時がそうである。そして、どちらかの立場に立つ、ということは、「大義名分」というコトバとは、ほんらい馴染まないはずである。
思い出してみるが、イラン・イラク戦争のとき、幾度かのデモのために集まった「演劇人反戦」じたいは、ただの即席の寄り合いであり、「結成」というものにはほど遠かったのではないか。私はそれがどういう「組織」なのかを説明することさえできない。ほとんど印象がないのだ。
翻って「反原発」に関していえば、少なくとも私が「非戦」「反戦」でも連帯してきた仲間たちに関して言えば、「資本」云々は関係ないと思うし、誰も「原発反対」と言えないわけではない。で、これは言い訳でも何でもなく、昨日「非戦を選ぶ演劇人の会」のS女史とも話したのだが、私たちはあの頃、「演劇人がまとまった組織をつくること」が至急には必要がないくらいに、「反原発」が国民的な広がりを得て拡大している、という気がしていたのだ。迂闊だった。今や毎週金曜の官邸前反原発デモに集まる人も減少しているという。反原発について「演劇人がまとまった組織をつくること」は、今こそ必要なのかもしれない。このような思索の契機をつくってくれた山田さんに感謝する。
そして、くどいようだが、この国では、具体的な進行形の「戦争」について物申す時、ほんとうに「演劇人がまとまった組織をつくること」が必要だったのだ。「イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」に於いては、必要というより、その「効果」を具体的に導き出し、実践したのだ。対象と立場を明確にした「反戦」は、この国では長い間、それほど容易ではなかったし、今もそうなのである。