大分は温泉県だったらしいのだが、私は部屋でシャワーを浴びてとっとと寝るばかりで、ほんのいちど大会終わって浸かっただけだ。
写真は大分のどこかの良さそうな川沿いの露天湯だが、もちろん私は入っていません。
温泉。ゆきたいものだ。
劇作家大会・大分大会が終わって一週間。
残務多々あり。しかしイベント自体は終わって一週間しか経っていないのにずいぶん遠い日々のように思えてくる。
写真は大分のチャンポン。スープが白濁していなくて麺はふつうの中華麺で、長崎のものとは違う。
アメリカがINF条約離脱。
これはよほどの大ニュースではないのか? 少しでも対等なところがあると思うなら、日本はアメリカに「早まるな」と言うべきではないのか。人間が世界を少しでもマシにしようとしてきた努力が、あっさり反古にされていて、なぜ平気なのか。
どんどんダメになっていく。
さて。
知り合いのバーで、バス・ペールエールが日本で飲めなくなると聞く。アサヒビールが昨秋に輸入販売をやめたというのだ。最後の四本のうちの一本をいただく。私が二十年以上前、初めてアメリカに行ったとき、仕事で四都市を回ったのだが、夏だったし、喉が渇くので、アメリカのビールが薄くて飲めたものではないので、こればかり飲んでいた。
日本で飲めるようになって喜んでいたのだが、二十年経って、飲めなくなるかも?ということらしい。
レーベンブロイがあるじゃないかと言っていたら、そっちも販売終了だという。
それはそれだけのことかもしれないが、これも何か日本がどんどん弱体化していくことの反映のように思えてならない。
で。
公的年金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は1日、昨年10~12月期で14兆8039億円の運用損が出たと発表。
言い訳や、もっともらしい説明は、いらない。「公的年金運用損」という日本語が、もうおかしい。
国民の暮らしのための積立金を、こんなことに使っていいのか。
こんなやり方で金を増やさなければならないと思い詰めるほど、この国の運営はうまくいっていないということではないのか。
二週間ぶりに東京にいる。いや、もっと前に東京を出て、いったん一日だけ戻り、また出かけたのだ。こういう日々がまだまだ続く感じ。
写真は、ちょうど半月前。父の入院手続を済ませて病院を出ると、目の前に気球が浮いていた。そして、あっという間に過ぎ去った。
昨日のブログだけでは、立花さんや『カウラの班長会議』のことがよくわからないという人がいるので、関連記事と関連ブログを挙げる。
カウラの脱走による死の選択は、当時の戦陣訓・教育勅語といった「教育」のもとに起きたことだ。多くの日本の人たちが、誤った「教育」によって、多くの人びとを殺し、また、自らも死を選んだという事実には、胸がつまる。そうした「教育」を再現しようとしている今の日本の異常さに対して、「NO」を突きつけたい。
満田康弘さん制作のドキュメンタリー『立花さんのトランク』では、高校生たちと立花さんの交流が描かれている。立花さんのいらした施設・光明園に、高校生たちが幾度も訪れている。(写真)
「しょうけい館」の資料によれば、
立花さんは、昭和17年、現役兵として第7航空教育隊に入営し、中国戦線での戦闘を経て、昭和18年南方へ派遣され、ニューギニア島ウエワクに上陸しました。戦況悪化の中、「地球が割れた」と思うほどの艦砲射撃で反撃もできないまま、オーストラリア軍の捕虜となります。オーストラリアへ移送され、マラリア発症のため赤十字病院へ入院後、カウラ収容所へ移送されました。収容所は、イタリア兵と日本兵が別々に収容されていました。その後、間もなく体調不良にて診察を受けたところ、ハンセン病と診断されたのです。イタリア軍医から発症を告げられ韓国人の通訳から「らい病」と聞かされました。しかし、当時は「らい病」がどのようなものか全く分からないままでいると、衛生兵から病棟より離れるよう伝えられ、病棟の横にあった炊事場から10mほど離れた場所に張られた天幕の所へ連れて行かれ、そこに隔離されました。これにより立花さんの収容所生活は、一変したのです。
昭和20年8月5日、収容所の日本兵が脱走を図りました。「脱走」というより「自決」を覚悟した行動といったほうが正しいのでは、と思えるほどです。まるで「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず」をそのまま実行したようにもみえます。立花さんは幸か不幸か、隔離されていたため、この「脱走」にすら加わることもできず、ただ傍観せざるを得ない状況でした。その胸中は、複雑なものがあったのではないでしょうか。
そうした複雑な思いを救ったのが、トランク、ギター、マンドリンなどを作る方との出会いでした。その人は道具もない中、器用に手作りしていました。この人に刺激を受けた立花さんは、トランクを作ることを思い立ちました。その時に作ったのが、今回、寄贈されたトランクです。 炊事場の裏にあった木の箱をベースにして空き缶の蓋を鋸代わりにして裁断し、切り口をコンクリートでこすって形を整え、亡くなった人が残したナイフや靴を用いて、炊事場から入手したメリケン粉を糊の代わりにし、医局にあるガーゼを刷毛代わりにするなど、工夫に工夫を凝らして作られています。一見すると手作りであるとは思えないほどの出来映えです。
昭和21年3月3日、やっと日本に帰れることになりました。その時も、全ての人が乗船してから一番最後に乗りました。客室ではなく荷物置き場に押し込められました。そのドアには「特殊伝染病につき立ち入り禁止」と書かれ、ショックを受けたそうです。航行5日目にはラバウルに寄港して残留兵を乗船させ、収まりきれなくなった者を荷物置き場に入れることとなったため、立花さんは甲板の上のロープ部屋に移されました。広さ1畳ほどしかなく雨もあたるため、スコールの時は服が濡れないように裸になって座っていました。この時が人生の中で一番惨めであったと回想しています。
ご寄贈いただいたトランクのほかには、使用されていた身の回りの品々があります。こうしたつらい思いを乗り越えて持ち帰ったトランクは、まさに立花さんの体の一部のようなものです。「これだけは手放すことができなかった」という思いの詰まった資料を、今回、特別にご寄贈いただきました。立花さんは、寄贈するにあたり、「これからはトランクが語り継いでくれる」と、トランクに希望を託されたことを立花さんが入所している施設の担当の方から教えていただきました。
ハンセン病の方の「差別との闘い」があった事実が詰まっている「トランク」を立花さんの思いを語り継いでいけるように活用していきたいと思います。
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ハンセン病に関しては、私は『お召し列車』という劇も書いていて、座・高円寺フリーマガジンに以下のような記事を書いていた。
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「『カウラの班長会議』で、オーストラリア・カウラの捕虜収容所で脱走事件のさい居合わせた、当時ハンセン病患者であった立花誠一郎さんと出会った。私の故郷に住む立花さんとの親交が始まった。昨年カウラ当地で上演したとき、彼がその時ここにいたという事実に、あらためて大きく揺さぶられた。
そして私は、国鉄により幾度となく実施された、ハンセン病患者を強制輸送するため設けられた特別列車=通称「お召し列車」運行の歴史を知った。
……私には列車の中を舞台に劇を作った経験がある。渡辺美佐子さん・串田和美さん共演の『いとこ同志』だ。今回は美佐子さんと、昭和と戦後について、決して忘れてはならない楔を打ち込むつもりで挑みたい。」 坂手洋二(座・高円寺フリーマガジン14号より)
立花誠一郎さん関連のブログは以下の通り
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「竹富兵長」のモデルになった立花さんを囲んで
https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/a307347ad5e44012b1a63a0468b2db3b
『カウラの班長会議 side A』神戸公演開幕
https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/b340d03aafafabc6d328be64ebf98044
ただの偶然ではこうはならない 『お召し列車』伊丹→岡山公演に向けて
https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/6bfe67148b89bf39b75161dd0f6235d0
「しょうけい館」の立花さんのトランクについての記述
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http://www.shokeikan.go.jp/letter/shokei-news153.html