日本国内のある町で頑張って生きている彼が、彼女を連れて上京してきて、私の家の近所まで来てくれて、三人で居酒屋に入って楽しく話したことがある。その彼が、どうやら些細なことで、彼の方から切り出して、彼女と別れてしまったらしいと、先々月に聞いて、しかもけっこう時間が経ってしまっていると聞いて、おまえ本当にそれでいいのかと問うと、おおいに未練があるらしい。だったら再トライしてみれば、とアドバイスした。それはもう自然な流れで。……で、きょう、報告があって、彼女はもう、別な人と結婚してしまったのだという。
ああ。
こちらはこちらで、色恋に関係ない、あきれ果てた出来事が周囲には起きている。
過ぎたことは仕方あるまい。
先のことだけ考えよう。
そう。君もね。
三時間だけでも稽古ができた。
俳優と私の二人だけ。
何回目かな。
稽古の時間の楽しさは裏切らない。
情報公開はいつできるのか。
考えてみれば、俳優の方は、マスクを取ったっていいのだ。
きのう、終わって帰り間際に、そう気がついた。
ちなみによく使われる「稽古は裏切らない」というのは、ちょっと違う意味です。
ラーメンは熱いはずと思うのだが、私が勘違いしているのだろうか。
つけ麺を食べないのは、ぬるいからである。
評判のラーメン、を、ごく、たまには、試してみるが、ぬるいと、ありゃ、と思うのである。
ぬるくたってうまい、あるいは、別な味を感じろ、という場合もあるのかもしれないし、私が固定観念に固まってしまっているのかもしれない。
ラーメンを毎日食べているかんじの、毎年自分が食べたラーメンの全ての感想を公表している劇作家T・F氏に、いちど訊いてみよう。
でもやはりラーメンは熱いはずと思うのだが。
写真と本文の関係は気にしないでください。
来年上演する演目のために、ホテルグランドバレスの喫茶店カトレアでの、打ち合わせ。
話の内容はまだ明かせないが、知る人ぞ知る、知っている人は驚愕するはずの「新人劇作家」の誕生である。情報公開はまだ先。申し訳ありません。
他の喫茶店でも良かったのですが、グランドバレスが六月になくなってしまうというので、ここにしました。
皇居周辺のホテルといえば、竹橋にフェアモントホテルというところがあって、そこは国際電話代を高く取らないので、海外からのゲストがいる仕事では、よく利用していましたが、そこもなくなって久しいのです。
東京のど真ん中に来ると、上京当時の東京に不慣れな自分を思い出すときがあります。
最近、自分自身と出会い直すことが増えたような気がします。
永井潔アトリエ館に、初めて行きました。行こう行こうと思いながら、なかなか果たせなかったのです。
画家・永井潔さんは、劇作家・永井愛さんのお父様であります。
現在は「第8回企画展 92年の自画像」を開催中。
永井潔アトリエ館は、永井潔さんの制作と生活の拠点であった練馬区の住居を改造し、アトリエのある中2階を展示スペースとして公開したものです。建物自体がとても素敵です。
1階には「絵のあるカフェ(et café)」があり、現在は「キヨシ君、よくできました!」と題して、幼少期の絵やコラージュも展示されています。なんと、三歳の時の絵まで!
自画像でたどる永井潔さんの生涯ですが、世代的に、二十代まるごとが戦争の時代であったことに、あらためて思い至りました。自画像は人物画の勉強のために描かれたということでしたが、「アトリエ」誌に書いた自画像の描き方についての文が、そのまま戯曲の描き方にも相通じる部分がありました。この文は愛さんがわかりやすくリライトされているのですが、絵の題名も、ご本人が記されたもの以外は、愛さんがつけたということで、愛さんとの親子関係は現在も続いているといえるのでしょう。
永井潔さんは 2008年9月8日に亡くなられたのですが、私はその前年にお目にかかったことがあります。愛さんとのやり取りが楽しそうで、本当に仲のいい親子関係がうかがえました。
愛さんと久しぶりにお話しし、カフェでコーヒーをいただき、偶然来場された市来邦比古さんともお話しし、ゆったりとした午後を過ごしました。
「92年の自画像」は2022年1月29日まで。毎週土曜日 8月は休館。年末は12月25日まで、新年は1月8日から。
場所は、練馬区早宮4-6-5
有楽町線/副都心線「平和台駅」南口 徒歩9分
都営大江戸線「練馬春日町駅」A1出口 徒歩13分
近くに民間の有料駐車場はあります(あいていればいいのですが)
https://www.nagaikiyoshi-atelier.com
クイズの正解と、久しぶりの三田キャンパス。
半年ぶりに三田キャンパスに行った。去年後期はリモート授業だったからである。今年は、リモートと対面式の共存授業である。できるのか? で、説明を受けに行ったのである。
で、3/30日のクイズ(この写真の場所は、ある有名店の第一号店があった場所です さて、そのお店とは?)の答。
下の写真があるところは、慶應大学三田キャンパス正門近くの交差点の角。かつてはここに、「ラーメン二郎」がありました。チェーン店化する前です。開業地ではなく、移転してきたらしいのですが、長くここにありました。私も何度か行きましたが、体育会の常連が多く、壁にペナントなど貼ってありました。「全部入りおおぶたダブル」とか、そういう注文の仕方は、当時からそうでした。もちろん量も多かったです。
このクイズ、音響家の半田充さんがすぐに当ててしまって、クイズの体を為さなくなりました。半田さん、さすがです。しかしこの写真だけでよくわかりましたね。
原正人氏さんが亡くなられた。彼がプロデューサーだった映画『写楽』で、ほんとうにお世話になった。
『写楽』撮影は、1994年。私は、大道芸の演出を担当した。前年に私の『神々の国の首都』を観た篠田正浩監督の指名だった。ムーブメント場面に感じるところがあったということである。私は『屋根裏』を観たアイルランドのダンスカンパニーの芸術監督にも振付で指名されたことがあって、かの国にしばらく滞在したがその芸術監督が解任されてその話が流れたことがある。いずれにせよそういう方面にもっと進んでいればよかったのかもしれないと思うこともある。
1994年、『写楽』撮影時期と燐光群初のヨーロッパツアーの時期が重なって、本番には予定通りに関われなかった。大道芸一座も燐光群メンバーで構成するはずが、撮影時期に日本にいないため、キャスティングも急遽組み直した。いわゆる小劇場の俳優が初めて映画に出たということの多い現場だったが、私も幾ばくかは貢献している。「映画はキャスティングで大半決まるのですよ」と、監督に言われたことを憶えている。燐光群メンバーもかなりいろいろな場面に出ている。
大道芸一座の振付稽古で、真田広之さん、岩下志麻さんら一座メンバーと、十日以上稽古しただろうか。ジャパン・アクション・クラブの稽古場だった。楽しい日々だった。
撮影本番も、初日にいきなりモブシーンの動きを任され、急遽イントレの上からメガホンで何百人かのエキストラを指揮したりして、映画という世界の厳しさと柔軟さを実感した。蔦屋重三郎の店を襲撃するシーンは鈴木達夫カメラマンと相談しながら、いろいろなことを模索した。話は尽きない。
取り方の役で私も出て、篠井英介さんの鬘をぱかっと外してしまうという動きをした。
そして、大道芸では、その時代にやっているはずのないストロボ・アクション等のワザを振り付けた。原さんや監督の期待に応えなければならないのであった。
そんな日々のほとんど、原さんはドーンと構えておられて、頼もしかった。
『写楽』の頃の原さんの年齢に、今の私が差しかかろうとしているという、時代の推移である。
そして、大学の大先輩で、「ライフワークとして」この映画のもう一人のプロデューサーを勤めたフランキー堺さんと交流できたことも、豊かな思い出である。フランキーさんは映画完成の直後にお亡くなりになられた。
なにしろ、四半世紀以上前なのである。
真田広之さんのストイックさにも、胸打たれた。
原さんの代表作の一つ、『戦場のメリークリスマス』は、忘れがたい。
どうでもいいけど『瀬戸内少年野球団』にも、私は復員兵の役でエキストラ出演している。不破万作さんの後ろを歩いている。夏目雅子さんは美しかった。懐かしすぎる。
あの頃は、厳しかったが、楽しかった。それから今に続いているのだ、と、思う。