黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

足利紀行総集編・黄金色の大銀杏(鑁阿寺)

2019-10-14 20:54:09 | 足利紀行

小次郎パパがお散歩から家の近くまで来ると、ひめちゃんの怒りの声が聞こえます

実はパパは、台風のさなか体調を崩していました

台風一過とともに少し元気になり、そこらまで気なりにお散歩してきたのです

獅子丸とタバサねーちゃん&ののこねーちゃんが、ひめちゃんを置いてお散歩に出てしまったのです

当然自分も行くつもりだったのに、怒りが収まらないひめちゃんです。

ひめちゃんは、一人で堀之内を北に出てお散歩です。

まだ、怒りが収まりません

今朝の赤城山は、ひめちゃんの気持ちのようにすっきりしませんでした。

山里の稲穂は、台風にもめげずに黄金色(こがねいろ)に色づいていました

 

 

 

足利鑁阿寺(ばんなじ)の大銀杏は11月下旬に見頃になるということなので、都合のついた(2018年11月)20日に行ってきました。

少し早いかな?

 

今回はまず鑁阿寺(ばんなじ)を訪問するので、たかうじ君駐車場に駐車しました。

 

まもなく遠くに鑁阿寺が見えます。

左手に足利尊氏像があります。

すぐそばに足利観光案内図があります。

現在地の左上のPがたかうじ君駐車場です。

今日は少し周りも歩いてみましょう

石畳の古い町並みですね。

どこかの町よりよほど重伝建という感じです。

 

金剛山鑁阿寺、太鼓橋を渡って楼門をくぐります。

池には鴨(かも)、楼門の上には鳩(はと)がいます

楼門の脇の銀杏も色づき始めています

さて、めざす大銀杏やいかに?

 

鑁阿寺伽藍図を確認します。

今日は本堂の後ろも行きまーす

 

いよいよ近づきました

 

少し早いかな?

でも、色づいてます

落葉してしまってからでは元も子もありません。

色づいた銀杏に出会えたことを幸いと思いましょう

あれ、こんな説明板この前あたっけ?

左側にもう一枚常設の説明板もあります。

この大銀杏は樹齢550年ということですね。

古来より避雷針の役割を果たして、諸堂の災厄を守護したとあります。

 

そうだったのですか

実家にも大きな銀杏の木が何本も植えられていました。

秋には、黄金色の木々がかなり遠くからも目立つ光景でした。

あの大銀杏は長い間ずーっと実家を守ってきたのでした。

ありがとう

 

実家には大きな大きなケヤキもありました。

ケヤキの木の下には小さなお宮がありました。

今でいうパワースポットの雰囲気がありました。

 

でも、共にあるとき切り倒され、それからしばらくして実家もなくなりました 

長い間忘れていた光景が、懐かしくよみがえります

 

樹齢550年の大銀杏、とにかく大きいです

ちょっと早いけど、黄金色の大銀杏に出会えて良かった

 

 

 

 

 

 

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足利紀行総集編・続足利忠綱終焉の地?(皆沢八幡宮)

2019-10-11 14:35:35 | 足利紀行

台風の影響で、夕方のお散歩はちょっと心配です

昨日の昼散歩の続きです

ひめちゃんと獅子丸は、七海ママのちい散歩に付き合って、帰ってきました。

ママとひめちゃんは満面の笑みです。

獅子丸がちょっと横を向きました。

「僕は関係ないよ。」というようなポーズを取ってます。

でも、やっぱり「ただいま

先頭に躍り出て、おうちに帰ります

 

 

 

皆沢八幡宮、続きです

本殿の周りを一周した後、後ろの高台に登ってもう一周します。

本殿の屋根がすごーく傷んでいるのがわかります

覆屋の屋根も傷んでいます

本殿の屋根の傷みはすご過ぎです

大げさに言えば、屋根は半分しか残っていない

覆屋もあちこち壊れています。

これからどうなるのでしょう。

地区の人々の力だけで泣く、行政の援助が必要でしょう。

でも、桐生市が援助の手を差し伸べることはなさそうです

 

新里町山上の常広寺の弁財天堂も、合併後改めて桐生市の指定文化財になりました。

けれども、指定はしてやるけれども、一切補助は出ませんということだったそうです

「重伝建」以外にも、護るべき文化財はあるのですけど

 

 

付近を探索です。

 

一級河川皆沢川とあります。

 

右手の辻に、庚申塔群があります。

説明板にあった「皆沢地区の百万遍念仏」の写真は、ここですね

 

こんな光景もありました。

今は何もないけれど、人々の存在が感じられます

 

鳥居の前に、不思議な形の灯籠がありました。

なんとも味わいのある形です。

桜の花とのコラボも素敵でしょう

 

 

ここが足利忠綱の終焉の地だとすると、彼は山上の竜奥(たつおく)なんぞには行かなかったし、玉村を経由して西国に落ちていくこともありません。

 

さて、弱りました

でも、葛塚城堀之内の住民としては、足利忠綱も一時いたかもしれないということで、彼についてもレポートしていきます

 

 

 

 

 

 

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足利紀行総集編・足利忠綱終焉の地?(皆沢八幡宮)

2019-10-10 22:02:51 | 足利紀行

今日の七海ママの昼散歩には、獅子丸も混ぜてもらいました。

わーい

ひめちゃんの準備ができるのを待ちます。

ママとひめちゃんと獅子丸で、ちいさんぽです。

早くもリーダーの気分です

ひめちゃんが前に出ます。

「何言ってんのよ あたちがリーダーよ

本当のリーダーはママです

 

 

皆沢八幡宮(かいざわはちまんぐう)はのある皆沢は、現在桐生市になっています。

でも、かつては桐生川の向こうの下野国だったのです。

足利忠綱ゆかりの地ということで、足利紀行総集編に含めます

 

 

しばらく前に、佐野から帰るときに県道66号線を登ってきたことがありました。

たいへんな山道で、すれ違いができない所もありました

下りになってホッとした時に、右手に神社がみえました。

「皆沢八幡だ」と思いましたけど、入り口が分かりません。

折悪しく後ろから車が来たので、ウロウロするわけにもいかず、捲土重来を期しました。

 

皆沢八幡宮は、足利忠綱を祀っているそうです。

忠綱は源平の合戦で大活躍した後、寿永2年(1183)野木宮合戦に敗れ、その後ここ皆沢で打たれたといいます。

 

忠綱は山上の竜奥(やまかみのたつおく)に逃れ、その後西国に落ちていったともいいます。

『群馬県の中世城館跡』(群馬県教育委員会1988)に、葛塚城の築・在城者(推定・伝承)として、山上氏・足利忠綱・羽生衆があがっています。

文献として、鎌倉図書館文庫・赤堀文書・由良文書・吾妻鏡が記されています。

そして備考欄に、「竜奥館はここか」とああります

ひめちゃんは葛塚城堀之内に住んでいるのです

 

 

今日(2018年10月23日)は、桐生側から攻めました。

本町通りをひたすら北上し、梅田湖を渡ります。

皆沢は、現在桐生市梅田町だそうです。

 

鳥居近くの、道ばたの空き地に駐車します。

正一位八幡宮とあります。

 

鳥居をくぐって、左手に説明板があります。

「宇治川の先陣で名高い上野の武士 足利忠綱を祀っている」とあります。

足利忠綱が上野の武士ですって

下野の足利忠綱ですよね。

合併したからといって、無理しすぎです

本殿は18世紀後半に建立された徒あります。

建物の彫刻は、あの花輪の彫刻師集団の作品です

 

説明板の隣に公衆電話がありました

古くないです。

現役の様です。

もしかして携帯の電波が届かない?(試して見ませんでしたけど)

 

本殿に登ります。

覆屋もかなり痛んでいます

覆屋が痛んでいるので、隙間からカメラが入ります。

あの赤い扉の向こうに、忠綱明神が鎮座しているのですね。

説明板によると、この木造は天文12年(1543)の墨書があるといいます。

なぜこの年なのでしょうか?

本殿も全体的に痛みが激しいです

大げさに言えば、絶滅寸前です。

 

南側から一周してみます。

左上の方々、どこかでお会いしたような。

 

仏様から後光が差しています。

光を彫り物で表現しています

 

こちらは北側なので、彩色が少し残っています。

寿老人(?)・鶴(誰か乗ってます)・松が、迫力でせまります

一応一周してみました。

木の破片が散乱しています。

覆屋も痛んでいます。

それにしても、みごとな彫刻です

さすがに花輪の彫刻師集団の作品です

 

(後半へ、続く

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

 

 

 

 

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足利紀行総集編・大銀杏の足利氏館跡(鑁阿寺)

2019-10-08 19:54:51 | 足利紀行

ひめちゃんは、七海ママのちいさんぽに付き合います。

似ていないような二人ですけど、足はママの足かな?

シッポもママのシッポですね。

犬は母親の遺伝の方が強いとかいいますけど、ひめちゃんたちをみるとそうも言い切れないところがあります。

 

 

勧農城の帰り(2018年9月20日)、鑁阿寺(ばんなじ)にも足を延ばしました。

足利尊氏の像の脇を通ります。

 

付近の地図がありました。

 

クラシックな太鼓橋を渡って、これまたクラシックな山門です

鑁阿寺は足利氏宅跡なのですね。

確か日本100名城にも入っていました

 

 

仁王様もクラシックでしたけど、金網越しにしか対面がかないませんでした

一枚だけまずまずなお写真がありました。

確かに鎌倉時代という雰囲気いっぱいです

 

境内案内図があります。

広いです

ゆっくり散策する時間があるといいんですけど

今日は本堂にお参りして御朱印を頂いて、大銀杏のパワーを頂いて帰りましょう

 

本堂に向かって進むと、何故か『徒然草』216段が彫られた石があります。

最明寺入道鶴岡の社参の次に足利左馬入道の許へ先づ使を遣して立ち入られたりけるに あるじまうけられたりける様 一献にうちあはび 二献にえび 三献にかいもちひにてやみぬ その座には亭主夫婦隆辨僧正あるじの方にて座せられたり さて年ごとに給わる足利の染物心もとなく候と申されければ  用意し候とていろいろの染め物三十 前にて女房どもに小袖調ぜさせて 後につかわされけり その時見たる人のちかくまで侍りしが語り侍りしなり

 

足利左馬入道とは、足利義氏のことで、足利義兼と北条時子の子どもということです。

最明寺入道(北条時頼)に催促されて、足利の染め物を30斤小袖に仕立てて、後で届けたとあります。

足利義兼、足利義氏は開基ともいうべき人物です。

足利は、鎌倉時代から織物・染め物で有名だったということのようです。

 

本堂にお参りして、御朱印を頂きます。

さすがにすごーく厳粛な所です

説明板の設置者も教育委員会ではなく、鑁阿寺です

いただいた御朱印です。

いつか来た時に、お参りしないで御朱印帳を差し出して叱られている光景を見ました。

やはりお参りが先です。

日本100名城のスタンプも今回はしっかり押してきました。

100名城の一つです

 

本堂のそばに大いちょうがあります

諸説あるようですけど、樹齢は550年くらいらしいですね。

パワースポットということですけど、金色に染まる頃はパワー全開でしょう

ぜひその頃に訪れたいものです。

鑁阿寺のHPによれば、11月下旬ということです。

ぜひぜひその頃に訪れたいものです。

 

今はもうこの世に存在しない実家には、大きな銀杏が何本も植わっていました。

遠くからもよく見えて、毎年たくさんの実をならせていました。

業者が買いに来ていましたけれど、それでも食べきれないほどでした。

ところがどういう経緯かわかりませんが、母屋を新築するときに切り倒されてしまいました。

それからしばらくして、実家もなくなりました。

大銀杏のパワーで守られていたのに、そのパワーの源を除去してしまったのかもしれません

 

今でも黄色い大銀杏には心惹かれます

ルーツの一つです

そして、今でも黄色が好きです

 

 

追記

2ヶ月後の2018年11月20日に、また訪れました。

詳細は後日、足利紀行総集編・黄金色の大銀杏で

 

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足利紀行総集編・占いは足利にて伝授か?(足利学校)

2019-10-07 15:13:05 | 足利紀行

今朝のお散歩は、ちょっと遅めになってしまいました。

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出て諏訪神社の方に行こうとしました。

あ、黄色い帽子の集団が来る

ひめちゃんと獅子丸は、慌てて脇道に入ります。

早く行ちゃってくれないかな

ひめちゃんの心配をよそに、獅子丸は大あくび

獅子丸は子どもが苦手ではなさそうです。

 

 

 

勧農城からの帰り、足利学校と鑁阿寺(ばんなじ)に寄りました。

駐車場は、大きな歩道橋近くの太平記館の観光駐車場を利用です。

 

大きな歩道橋を渡って、足利学校の入徳門です。

 

まず、受付に向かいます。

マスコットキャラクターがいます。

不思議な格好です。

受付脇にある赤い垂れ幕の文章は、学校で習いました。

学ぶ喜びを言っているのだと思いますけど、さほどの感動もおぼえませんでした。

受付を済ませ、足利学校についてのビデオをみます。

 

ビデオは前にも見たことがあるはずですが、全く記憶にありません

でも今回はしっかり記憶に残る箇所がありました

 

戦国時代、足利学校は関東の大学であり、『易経』も教えていた

そして『甲陽軍鑑』に「占いは足利にて伝授か?」とある。

つまり足利学校で伝授された占いでなければだめだというように、占筮(せんぜい)の権威であった

戦国時代に活躍した軍師は占筮を学んだのだそうです

 

たかが占いされど占いですね。

帰宅後、書棚に『易経』を見付けました。

 

ビギナーズクラシックスにあったのです。

よくぞ買ってありました

 

古代中国では占いが「一冊のテキストに編集されてゆく過程でずいぶんと化粧をほどこされ、いつの間にか『易経』などと呼ばれて神聖な儒教の経典の仲間入りどころか、そのトップに祀りあげられたのです。」とあります。

儒教の経典のトップだったのです

 

ざっと見ましたが、よくわかりません

足利学校で教える経典なのですものね。

でもビギナーズクラシックスに入ってる

そのうちゆっくり読んでみましょう。

 

 

ビデオを見終わって、奥へ進みます。

 

やはり、孔子像です。

何故か狛犬が、それも中国的な狛犬です。

 

さっき入徳門をくぐりました。

あと学校門と杏壇門をくぐり大成殿にいたります。

 

学校門の前には、またあのキャラクターマスコットがいました

 

 

大成殿は、瓦葺きの大きな建物です。

本来ならば孔子様がいるはずですが、いません。

こんな貼り紙がありました。

「こども釈奠(せきてん)のため」って、子供たちが孔子まつりをするということのようです。

 

茅葺きの方丈の方に行きます。

 

 

孔子像と小野篁(おののたかむら)像があります。

 

こちらの入り口から屋内に上がれます。

 

屋内にはいろいろな展示物があります。

一回りして、マスコットキャラのご本人に会いました。

関東管領上杉憲実(うえすぎのりざね)です。

鎌倉公方足利持氏と対立して享徳の乱を引き起こすのでしたね。

一方で、足利学校を再興していたのです

 

これから関東は戦乱に巻き込まれて、葛塚の地は何度も戦いの舞台になっていくのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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