黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

東の飛鳥・道鏡塚

2021-05-06 20:38:21 | 下野国

ひめちゃんと獅子丸は、東の牧場に行こうとしました。

あちゃあ、小学生の集団登校です

 

急遽道を除けて、今朝はサマンサ坂を下りて、ヤギさんに逢いに行きます

いるかな?

「えさをあげえないで!」の掲示が、空しい

もう逢えないかな?

 

 

 

下野薬師寺からの帰り道、道鏡塚のある、龍興寺に寄ります。

 

 

仁王さま、ボケボケの写真になってしまいました。

又今度お会いしたときに、アップします。

 

さて、山門をくぐってみたものの、道鏡塚は何処だろう

 

手水舎があります。

向こうに、「史跡道鏡塚」とあって、説明板もあります

道鏡は、宝亀元年(770)八月、下野薬師寺の別当にされて、都からやって来たのです。

日本史の授業で、何となく覚えていた出来事でした。

まさか、道鏡が左遷された下野薬師寺を訪れるとは思ってもみませんでした。

「道鏡を守る会」、ご活躍を祈ります

「既にあった円墳を墓標として手厚く葬りました」ということは、後ろのこんもりした所が古墳で道鏡塚だということでしょうか?

 

すぐ近くに登り口かな?

まあ、やめておきましょう。

とりあえず、合掌

 

さて、ついでだから境内を散策です。

色々ありそうです。

 

「とちぎの名木百選、龍興寺のしらかし」です。

かわいい御三方がいます

 

何だろう?

不思議な光景になってきました。

天庭ですか

難しい。

 

聖観音です。

迫力有ります

大いなる慈悲の心と慈愛の眼差しをもって観守り、一切の苦しみを取り除いて心の安寧を与えて下さる母性具有の観音様です。

合掌

 

何だろう?

難しそうです。

 

境内の裏の方を廻ります。

本坊とあります。

 

鐘楼堂も落ち着いた雰囲気です。

 

本坊の前にある建物が本堂です。

弘法大師の像があります

真言宗のお寺ですね。

 

御朱印を頂きたいけど、時節柄、次の機会を待ちましょう

 

東の飛鳥・下野薬師寺付近、かなり地理不案内で、見落とした所があります。

日光開山・勝道上人父の藤麿墳を始として、未訪問がいくつもあります。

またの機会に

 

 

 

 

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東の飛鳥・薬師寺八幡宮

2021-05-05 20:10:13 | 下野国

ひめちゃんと獅子丸は、岩神沼に到着です。

何かいます

アオサギです

しっかりこちらを見ています

 

いつもいる黒いカモさんが、飛び立ちます。

初めて、かっこよく飛ぶ姿をカメラに収めました

 

後には悠然と泳ぐお客様です。

 

おかあさんは、サギさんの飛び立つ姿を狙いたいのです。

おかあさんのシャッターチャンスを邪魔する2人です

 

 

 

薬師寺の山門から出ます。

下野薬師寺と並んで控えめに旧安国寺とあります。

長い間安国寺だったんですね。

 

付近を散策です。

横断歩道を渡って東に行きます。

 

こちらも下野薬師寺跡のようです。

ずいぶん広く、史跡として指定されているんですね

 

突き当たりは、薬師寺八幡宮でした。

清和天皇御勅定創建ですって

 

鮮やかな社殿です

人皇五十六代清和天皇の御勅定により東北守護の大神として、京都石清水八幡宮の御分霊を下野仮夷国大内山郷朝日ヶ丘の地に、貞観十七己未歳(西暦875年)九月鎮座した。この時より関東北の総社となる。~(中略)~源頼義、義家公等奥賊阿部一族を平定し帰路奉賛、特に鉄弓三張、鏑矢六本を奉納したという。

東北守護の大神だったんです。

源義家が、奥州征伐の帰りに寄ったのです。

 

神楽殿も現役のようです。

 

拝殿の隣には、八坂神社です。

 

裏に回ってみます。

 

本殿も、鮮やかで生き生きしてます

 

後ろにはいくつかの境内社があります。

 

金精様(こんせいさま)ですって

「八幡宮の金精様、弓削の道鏡様(伝)」とあります。

どっちが道鏡様かな?

大きい方でしょうね。

御利益は、「夫婦円満、子孫繁栄」ですって。

明るくおおらかな金精様に、2礼2拍1礼です

 

庚申様です。

みなさん個性的な青面金剛です。

一番右は、不動明王ですね。

元禄12年の文字が見えます。

 

拝殿・本殿の周りを一回りしてきました。

向拝の獅子くん、元気です

 

社殿の右前方に、おめでたい方々がおいでです

 

趣がある手水舎です。

この武者は、源義家かな?

 

かわいいフクロウが、いっぱいです

後ろのケヤキは御神木なのです。

この御神木も、義家の奉納だとも言われているんですね。

この木に、おめでたい梟(ふくろう)が住んでいたのです。

 

さて御朱印をいただきましょう。

残念、鍵が閉まってます

ちょうどお昼休みの時間です。

またの機会にしましょう

 

参道を少し歩いてみます。

 

振り返ると、元気な薬師寺八幡宮です

源義家の伝説がいっぱいの、薬師寺八幡宮です。

 

そろそろ、歴史館の駐車場に戻りましょう。

車でもう一つの目的地、道鏡塚を目指しましょう

 

後で知ったことですけど、このまままっすぐ進んでいけば、道鏡塚のある龍興寺だったのです。

次回は歩いてみましょう

 

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続・東の飛鳥「下野薬師寺跡」

2021-05-03 20:01:15 | 下野国

今朝、ひめちゃんは小次郎パパとお散歩です。

道ばたのアブラナは、種ができ始まっています。

今パパが一番モコモコ、換毛真っ盛りです。

 

ジャーマンアイリスも、大輪が咲き始めました。

元気が出そうな配色です。

 

 

(4月11日)

下野薬師寺・復元回廊を出て、六角堂の方へ行ってみます。

 

正面に廻ると、ブルーシートで覆われています

「鑑真さまとご縁を結びませんか」ですって

「鑑真和上像開眼法要」ですって

 

戒壇堂の説明もあります。

この六角のお堂は戒壇堂といわれ、江戸時代に在りし日の戒壇院をしのんで建てられたものです。

平成の大修理を記念して戒壇堂の修理と彩色を施しました。

奈良唐招提寺のご理解を得て、このお堂に鑑真和上の坐像を奉安すべく、現在製作を進めています。

 

確かに、やさしくきれいに彩色されています。

 

 

六角堂の前方には、瓊花(けいか)です。

鑑真和上の故郷・中国揚州の花だそうです。

検索すると、白いガクアジサイのような花です。

もう少ししたら開花するのかな?

日本で瓊花があるのは、鑑真さんのゆかりの地だけのようです。

咲いている時に、鑑真さんに逢いにきたいなあ

 

 

隣には、鑑真さんの宝塔です。

瓊花にちなんで、白い菊かな?

考えすぎかな

 

天平の面影の残る薬師寺跡です

 

竹藪の前を通って、薬師寺へ参拝です。

筍がでてる

 

薬師寺本堂です。

合掌

 

本堂の右下に説明板です。

 

天平宝字五年(761)に戒壇院が建てられ、日本三戒壇といわれ大いに栄えました。

暦応2年(1339)足利尊氏は国ごとに安国寺を建てましたが、下野国では新たに寺院を作ることなく、下野薬師寺の寺名を安国寺に改称しました。

それ以来、ずーっと安国寺だったのですね

 

平成29年より3年をかけて、「本堂」・「山門」・「庫裏」・「本尊諸仏菩薩の修理」を行いました。

これを機に寺名を創建当初の下野薬師寺に戻し、寺名復古の記念事業として境内に鑑真大和上の法灯を建て、奈良唐招提寺よりいただいた「大和上御廟の霊土」と「金堂薬師如来基壇の霊土」を奉納しました。

薬師寺の寺名に戻って、間もないのですね

 

本堂右下の現在地の所に、説明板があります。

梅の季節も良さそうですね

 

 

庫裏に寄って、御朱印をいただきました。

瑠璃光(るりこう)如来、薬師如来ですね。

薬師寺ですものね

 

和尚さんからも、「六角堂には、唐招提寺の許可を得て、鑑真和上の像を制作中で、10月頃にはできあがります。また、来てください。」

 

鑑真さんに逢いに、又来まーす

 

 

下野薬師寺歴史館でもらった資料「史跡下野薬師寺跡~指定100周年のあゆみ~」によれば、

本市には、下野薬師寺跡を建立した下毛野国造の墓域であるしもつけ古墳群や下野国分寺跡・国分尼寺跡など、倭国から古代日本が誕生する飛鳥時代から奈良時代にかけての東国を代表する遺跡が多く存在します。本市では、こうした歴史的特性を生かした「東の飛鳥プロジェクト」によるまちづくりをすすめています。

 

上野国の住民、真っ青です

上野国の住民は、下野の国について、知らないことばかりです。

時折訪問して、学習しなければなりませんね

 

 

さて、もう少しそこら辺を散策です

 

 

(つづく)

 

 

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東の飛鳥・下野薬師寺跡

2021-05-02 17:21:10 | 下野国

ひめちゃんと獅子丸は、第一陣でお散歩に出ました。

タバサねーちゃんと小次郎パパは、第二陣で諏訪神社の向こうの高台目指します。

晴れて気持ちがいいね

パパのシッポも、久しぶりに、少しだけど上がってます

 

榛名山は見えますけど、浅間山は雲に隠れています。

ハイシニアの2人は、ここでUターンです。

ひめちゃんたちは、右折したり、その先を右折したりしてから帰ります。

 

諏訪神社に、黄色い花が咲いています。

今まであったっけ?

 

 

4月はよく栃木県に行きました

4月11日、日光開山の勝道上人が戒を受けたという、下野薬師寺に行きました

google検索と、車のナビで、ちょっと違うルートを示しました

なにせ地理不案内、車のナビに随ってやって来ました。

長い長い道中でした

やっと下野薬師寺歴史館に到着です

かわいいキャラクターがいます。

歴史館で、少し事前学習をしましょう。

 

おじさんが2人、何か話し込んでいます

「こんにちは。」

「こんにちは。」

「どうかしましたか?」

「双子の梅の実だよ。」

「えッ

確かに双子の梅の実です

「この木は、毎年こうなんですか?」

「いや、今年初めてだよ。」

「どうしちゃったんだろう?」

「何かいいことが起きるおしるしだといいですね

 

歴史館では、下野薬師寺について分かり易く解説しているビデオが上映されました。

一応学習したはずです。

たくさんの資料もいただききました

その中で、一番分かり易くまとまった下野薬師寺の説明です

 

今から約1300年前の飛鳥時代後半に、大宝律令の制定に深く関わった下毛野朝臣古麻呂とその一族が「氏寺」として建立した寺が下野薬師寺の創建と言われています。

その後、730年代の天平年間には国立の寺(官寺)として東国随一の巨大寺院に大改修が行われました。761(天平宝字5)には、東国出身で僧になることを目指した優秀な人の受戒の場として「戒壇」が設置され、東大寺(奈良県)・筑紫観世音寺(福岡県)とあわせて「三戒壇」と呼称されました。

その後室町時代に安国寺と改称し、法灯を伝えますが、古代の壮大な伽藍は、中世などの戦乱により灰燼に帰してしまいました。

 

下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)から、さっきのキャラクターこまろが生まれたのですね

 

本も2冊購入です。

子ども向けの本ながら、『下野市の伝説』は、とても情報いっぱいです

 

さて、付近の案内図を確認して、薬師寺跡に行きましょう

歴史館の脇から行きます。

広い

回廊跡の先に天平イメージの復元建物です

 

周辺の案内図もあります。

古墳がたくさんあります。

ここは南河内町、国分寺のあたり国分寺町、下野国府のあたりは栃木市なのです。

南河内町と国分寺町は、今は下野市です。

市名に納得です

 

薬師寺跡の案内図です。

西回廊の突き当たり部分が復元されています。

 

復元回廊から、振り返って回廊跡です。

突き当たりを右に出ます。

何となく、みちのく仙台の陸奥国分寺(むつこくぶんじ)の復元回廊を思い出します

わが第2の故郷は、どうなっているでしょう。

また何時の日か、訪問できる日がくるといいなあ

 

先には、六角形のお堂が見えます。

戒壇院跡だという六角堂です

 

 

(つづく)

 

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円仁の旅は『宇津保物語』俊蔭のモデルか?

2020-07-21 20:01:22 | 下野国

昨夜は激しい雷雨に見舞われました。

「すわー、梅雨明けだ」と思いきや、今日もぐずついたお天気です

昨夜、小次郎パパと獅子丸が騒ぎ始めました。

まだ雨も降らず、普通の夜でした。

そのうち、雷鳴が一つ

犬の耳には、遠くの雷鳴が聞こえていたのです

朝見ると、獅子丸の小屋は大改造されていました

でも、本人は大満足です

 

ひめちゃんは、小次郎パパとお散歩に出ます。

でも、ひめちゃんがヘメロカリスの下の草に夢中で動きません

上手に笹のような草を食べています。

お腹の調子を調えるのでしょう

パパは早く行こうよ

 

雨と草の中でも、季節の花はきれいに咲いてくれてます

 

 

 

慈覚大師円仁は、最後の遣唐使一行と共に、唐に渡りました。

大慈寺のHPより、唐での修行の様子を引用させて頂きます。

・43歳になったとき、円仁様は遣唐使一行とともに短気の留学僧として、唐にむかて出発します。天台宗の密教を完成しようと、また延暦寺未決三十条を解決したいという、強い希望を持っての出発でしたが、実はこれは足掛け9年にもわたる大冒険への出発の時であったのです。

・唐に渡った円仁様は、時を惜しんで仏法の修行に励みましたが、留学の条件など、さまざまな制約があったため、天台宗の発祥地である天台山へゆくための許可をうることはかないませんでした。本来ならばそのまま遣唐使一行と共に日本に帰らなければなりませんでしたが、円仁様の求法の飯井は強く、その情熱はついに、遣唐使の一行を離れ、自力での旅を続ける事を決意させたのです。

・異国での、許可を得ない旅は危険であり、想像を超える困難の連続でありましたが、弟子の惟正、惟暁、従者の丁雄満とともに歩き続けた円仁様は、天台山同様、名だたる仏教の聖地、五台山に辿り着き、修行をすることができたのです。

・五台山巡礼を終えた一行は、さらに世界最大の国際都市である長安に向かいました。長安での修行と求法を通じ、密教の転で大きな成果を上げました。

 

この後、たくさんの経典をもって、波瀾万丈の旅をして帰国します。

最終的には新羅人の援助によって、新羅商人の貿易船に乗って、朝鮮半島沿岸の90日間の旅で、帰国したといいます。

そして、出発の日からの帰国までの日記、『入唐求法巡礼行記(にっとうじゅんれいこうき)』を残しました

 

そこで、ハタとひらめきました。

これは、俊蔭の旅だ。

宇津保物語の主人公・清原俊蔭(きよはらのとしかげ)は、遣唐使副使として旅立ちますけど、大嵐で流され波斯国(はしこく)に流れ着きます。

波斯国とは、ペルシャだろうと思われます。

そこで、天女から琴と技芸を伝えられて、二十余年の後、貿易船で帰朝するのです

 

昔、諏訪緑さんの『うつほ草紙』という作品がありました。

『宇津保物語』をもとに、でもオリジナルな作品に仕上がっていました。

現在手に入るのは小学館文庫です。

『うつほ草紙』の種本、『宇津保物語』にも凝った時期がありました。

結局長すぎて、途中で挫折ですけど

 

『宇津保物語』は最古の長編物語と言われます。

成立についてははっきりしませんけど、平安時代中期というです。

作者もはっきりしません。

けれども、作者は平安時代初期に書かれた『入唐求法巡礼行記(にっとうじゅんれいこうき)』を読んでいる可能性はあります。

俊蔭の物語は、遣唐使が廃止され国風文化の平安中期には、奇想天外というか全く想像できない世界の物語です。

参考テキストがあればこそと思うのですけど。

 

ライシャワーさんの『入唐求法巡礼行記』の研究、講談社学術文庫にありました。

岩波ジュニア新書『仏教入門』と一緒に、アマゾンで購入しました。

折を見て、じっくり読みたいと思います。

ちょっと難しそうだけど

成仏って、仏になることだったんですね

 

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