ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりに山上の薬師の道を歩いてきました。
近くのナス畑では、外国人のおじさん・おばさんが、ナス畑の片付けを始めていました。
冬が近づいています。
ひめちゃんちの先住犬たちのお墓に、パンジーやビオラが植わりました。
あとはチューリップの球根でも埋めましょう。
あちこちのカテゴリーに散らばった『念仏往生伝』関係の記事を集めて編集中です。
この窪井探訪の元記事は、FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」にあります。
ちょっと遠いカテゴリーですけど、ご容赦下さいませ。
『念仏往生伝』の編者といわれる行仙上人は、上野国山上の窪井に住んでいたと言われます。
そして、「南勢多郡の廃寺」(群馬県勢多中部仏教会)によると、
万福寺(浄土宗)
新川字新宮に存在したといわれるが現在寺院の痕跡はみられない。この地域は古くは山上保といい、現在の山上・武井・新川の一部などを含む広大な地域であった。窪井(久保井)本坊を本居とする念仏僧行仙がおり、窪井本坊は善昌寺の南雷電山にあったとの伝承があり、この窪井本坊が万福寺であったと推定される。行仙は静道の弟子で赤城南麓をフィールドに活動し、世良田長楽寺2世朗誉に大きな影響を受けた。雷電山には二基の傘塔婆があり阿弥陀三尊像が半肉彫り、もうひとつの笠塔婆は阿弥陀三尊の文字が彫られている。笠塔婆は鎌倉時代のものと推定され行仙が活動した13世紀と重複する時期である。
(2020年)12月の末に、雷電山(桐生市新里町新川)の雷電神社に行ってきました。
雷電山のすぐ東に、新宮住民センターがあります。
今回は、ここに駐車して上ります。
雷電山の笠塔婆の脇をのぼります。
サクサク、クヌギの落ち葉踏み分け上ります。
約5分で、鳥居が見えてきました。
「着いたよ」、タバサねーちゃんも上機嫌です。
鳥居をくぐって、探訪です。
ちょっとお疲れの拝殿です。
2礼2拍1礼です
でも、本殿はしっかりした覆屋の中にあります。
さほど広い境内ではありませんけれど、僧房はいくつか建ちそうです
下りもサクサク、クヌギの落ち葉踏み分け、5分ほどで地上に戻りました
里人が行仙上人の往生を聞いて駆けつけることも十分可能です
まあ、里というか集落は現在と同じに、北側に広がっていた可能性が高いように思われます。
今でもそうですけど、南側には田畑が広がっています。
中世寺院には、必ず経済的基盤となる寺領が付随していたといいます。
たぶん南側の田畑がそういうことになりそうです。
ここは、窪井の本坊かもしれません
山の東側にある笠塔婆も確認です。
あれ、阿弥陀三尊にお顔がない
今回初めて気づきました。
しっかりと意図的に削り取られています
たぶん明治の廃仏毀釈の時に削り取られたのでしょう
その頃までは、行仙上人の記憶も、もっとあったかもしれませんね。
新宮住民センターに廻りには、墓地がいくつかあります。
浄土宗・万福寺の記憶でしょうか?
そして、行仙上人の記憶かもしれません