晴れました
強い日差しの中で、ひめちゃんは天神田(字・天神の田んぼ)を歩いてきました。
昨日はお天気が悪く、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、夜は室内犬をしました。
でも、廊下で寝たり、犬用ベッドで寝たり
そろそろ毛皮を着たひめちゃんたちには、お外のお部屋の方がいいみたいです。
5年前の5月、みんないました
七海ママも小次郎パパも、ののこねーちゃんも獅子丸も。
大勢の犬家族で暮らせてよかったね
中世葛塚村考
ひめちゃんちのあたりは、中世には葛塚村(くずづかむら)と呼ばれていました。
それ以前には、山上保(やまがみほ)と呼ばれる、国の荘園だったと言います。
山上保の記事を集める前に、山上保・葛塚村について確認しておきましょう
山上保・葛塚村については、FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」に、いろいろ書いてます
整理しながら、山上保・葛塚村について確認していきましょう。
ちょっと遠い総集編から始まりですけど、まあ「ひめブログ」なのでご容赦くださいませ
平安時代後期、天仁元年(1108)7月21日、浅間山の大噴火が起こりました。
火山の噴出物で、赤南麓南麓の田畑は壊滅的な被害を受けました
そんな状況の中で、藤姓足利氏の武士団は復興に立ち上がりました。
そして、開発された土地は、有力貴族や寺社に寄進されて荘園と成、国衙領(保)になりました。
上野国山上(こうずけのくにやまがみ)のあたりは、山上保(やまがみほ)となりました
山上保は、旧勢多郡新里村の山上・新川から旧勢多郡粕川村の田面(たなぼ)あたりまで及んでいたようです
そしてこの区域の中に、中世には葛塚村と呼ばれる村が出現したのです。
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」の「葛塚村(中世)」で、葛塚村関連の文書として5つの文書があがっています。
1、太田貞宗寄進状(建武元年11月27日)
2、宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(南北朝期年未詳3月18日)
3、赤堀上野介宛上杉顕定書状(年未詳3月16日)
4、由良成繁事書案(永禄10年)
5、赤堀上野介宛上杉顕定書状(年未詳12月18日)
3の文書は『群馬県史資料編7』では、長享2年3月18日としています。
そして、5の文書は『群馬県史資料編7』では、長享元年12月18日としています。
そうすると、葛塚村関連の文書を年代順に並べ替える必要があります。
1、太田貞宗寄進状(建武元年11月27日)
2、宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(南北朝期年未詳3月18日)
3、赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享元年12月18日)
4、赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享2年3月16日)
5、由良成繁事書案(永禄10年)
1の太田貞宗寄進状(建武元年11月27日)と2の宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(南北朝期年未詳3月18日)から、南北朝期に、この葛塚を支配(領有)していたのは、太田氏だと知れます
そして、後者の文書から、葛塚には違乱の輩(いらんのやから)がいて、太田氏の支配に反抗していた事がわかります。
それは、たぶん山上氏のことだと思われます。
平安時代の終わり頃に、山上にやって来た山上さんは、没落していたけど、「おらっちは古りーうちなんだから」と、太田さんの言うことをきかなかったのです。
3の長享元年(1488)12月18日の書状は、長享元年12月14日、善・山上の地へ長尾蔵人と佐野周防守が攻めてきた時、赤堀上野介が駆けつけて活躍した報告書にたいする返信です。
4の長享2年(1489)3月16日の書状は、葛塚の要害へ佐野周防守が攻めて来た時、前回と同じように赤堀上野介が駆けつけて活躍した報告書にたいする返信です。
葛塚の地は長享の乱の戦場の一つだったのです
5番目、永禄10年(1567)の由良成繁事案書は、上杉謙信と袂を分かち北条氏邦の陣に駆け込んだ時、善・山上氏について「あいつらいいったいなんなんだい?」と聞かれたときの報告書です。
山上には古墳がいくつもあったようです。
現存するのはわずかですけど
弘安8年(1285)、安達騒動で上野の国の御家人達は没落します
得宗勢力連なる実務官僚の三善氏は、安達氏が守護だった上野・武蔵の御家人領や生活が困窮して売られた土地などを手に入れ、あちこちに進出してきます。
山上さんの土地も三善さんのものになったのでしょう
やがて、三善さんは太田さんとなり善さんとなったのでしょう。
もしかしたら最初から三善さんの一族の太田さんがやってきたのかもしれませんね。
善に住んで善さんとなりました。
よく三善から善になったと言われますが、太田さんが善に住んで善さんになったのです。
ちゃんとした文書もあるのに、太田さんのことは、忘れられているようです
これらの5編の文書をじっくり眺めてみたいと思います
素人なりに、でも地元の強みで眺めてみます
初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考