朝から大雨の予報です
ひめちゃんとタバサねーちゃんは、今日は一日仲おうち犬です。
貧乏カッパが始まる前の、レインコート姿があるかな?
2020年の5月の写真探してみますけど、ありません
でも、元気な笑顔の写真がいっぱいです
獅子丸が実家に帰って丸一年、小次郎パパも七海ママも、まだ健在でした
太田貞宗寄進状の本文の最初に、寄進の対象になった場所が上げられています。
597 太田貞宗寄進状
○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書
寄進
上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
建武元年十一月廿七日
前美作権守貞宗 (花押25)
「右、当保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷」の部分です。
まず当保とあるのは、山上保です。
そうすると、この文書の建武元年には山上保という概念は生きていた
実態は分からないけれど、山上保はどこか、みんな知っていた
そして、前美作権守(さきのみまさかごんのかみ)太田貞宗が」支配していた
寄進の対象になった第一の場所は、「田部村新平三入道作田屋敷」です。
田部村はどこかよく分かりませんが、旧粕川村の田面(たなぼ)だろうといわれています
上野国山上の西の膳の南です。
そこの「新平三入道」、人名で男性です。
入道とは、お坊さんになってはいないけれど、深く仏教に帰依している人でしょうか?
「新平三」とは「新・平三」かな
もしかして分家
次は「葛塚村和泉坊作田屋敷」です。
葛塚は葛塚城(館)のある、山上です。
「和泉坊」も仏教っぽい男性の人名です
ともに、彼らは作田屋敷を耕し住んでいます
次は「源六入道跡田屋敷」です。
入道した「源六」さんの子孫(たぶん息子か孫)、源六入道がちょっとした人物だったのでしょう
まあ先の二人は、そこそこの年齢、中高年というイメージです。
源六入道跡は若いかもしれません。
仏教に帰依するにはそれなりにお金がかかる事だと思います。
源六入道跡は、まだそちらのほうにお金をつかっていないのかもしれません。
また、田屋敷と作田屋敷は違います
参考になるのが、岩手県一関博物館の「骨寺村所出物日記事」という文書です。
「骨寺村」は中尊寺の荘園です
確か去年行って企画展のコピーとかもらってきたはずですが行方不明です
webサイトを参考に田屋敷と作田屋敷、人名を考えます
骨寺村では、5人が田屋敷分に課税されています。
13人が作田屋敷分に課税されています。
5人の田屋敷分には、米の他に色々課税されています。
13人の作田屋敷分は、2貫文から2百文の課税です。
こちらはお金で払うのでしょうか?
貨幣経済が、中世骨寺村にまで浸透していたということになりそうです
平泉の奧、達谷窟(たっこくのいわや)のさらに奧、厳美渓(げんびけい)の奧なのです
結論をいうと、田屋敷は自作農というか大きな農家です
作田屋敷は小作農というか小規模の農家です
田部村の「新平三入道」は作田屋敷なので、まあ小作農的です
葛塚村の「和泉坊」は作田屋敷なので、小作農的です
葛塚村の「入道源六跡」は田屋敷なので、まあ自作農です
規模の大きい農民を、最後に出しているのは何か理由があるのでしょうか?
3人とも田畑と家がセットです。
ということは、家族もこれから諏訪神社の為の人生になちゃいそうです
仏教に帰依したのに
どこのお寺が世話してに入道になったのでしょう
作田屋敷の2人も仏教と関わりをもっているので、お金どうしたのでしょう、心配です
不思議なことに、骨寺村の人名も山上の人と似たりよったりです
平三太郎入道、平三二郎、三河坊などです。
田部村は現在の前橋市粕川町の田面(たなぼ)といわれています。
葛塚村は現在の桐生市新里町山上(勢多郡山上村)のあたりといわれています。
明治以降何度も合併が繰り返されましたけど、何故か粕川村と山上村の合併はありませんでした
どうしてなんだろう
けれども不思議なことに、山上の常廣寺の檀家は田面にまで存在します
意外な所に山上保が生きているのです
初出 2019.05.28 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー・中世葛塚村考
改稿 2024.05.28