ひめちゃんの夕方散歩は、ほぼ毎日南の方に行きます。
中学校の信号付近、またはさらに南の町組・集会所付近まで行ってきます。
この集会所付近には、宿(町組)に入る木戸があったといいます。
宿は旅籠はないけれど、酒屋や桶屋・豆腐屋・下駄屋・紺屋などがある商店街だったそうです。
ミニミニの白井宿みたいなイメージかな?
ひめちゃんが大好きだったケンくんちは、商店街からちょっと外れます。
今日は、ケンくんアーカイブでいきましょう
2022年の6月、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、朝散歩の帰りによくケンくんちに寄りました
時には道で感激の出会いもありました
タバサねーちゃんも、いつの間にかケンくんが好きになってました
太田貞宗寄進状・その2
597 太田貞宗寄進状
○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書
寄進
上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
建武元年十一月廿七日
前美作権守貞宗 (花押25)
まず冒頭の「上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事」をしつこく考察します
山上は山上保(やまがみほ)だったところという事でしょう。
範囲はどこらへんまでかよくわかりませんけど、西は旧粕川村の膳・田面(たなぼ)、東は旧新里村新川(にっかわ)あたりまでだったとする見解があります
保は国の荘園という事なので、山上氏は最初は朝廷に寄進して、その保を管理していたのでしょうか
山上保についての研究というか、保についての研究が、待たれるところです。
葛塚村とは普通に考えると、古墳がいくつもあって葛が生い茂っている村と考えられます
ひめちゃんちのあたりには、桜塚・塚越など塚のつく地名が残っています。
桜塚は、堀之内のすぐ東です。
かつて大きな桜の木がある塚(墓地)があったそうです。
堀之内の南・塚越には今も古墳があります。
地元では庚申塚古墳と呼んでいます。
墳丘上から滑り降りて遊んだという老人もいます
葛はつる性の植物で、今はあまり歓迎されていません。
けれど、かつては飼料として重宝されました。
牛馬を飼うには重宝な植物だったのです。
葛が豊富だということは、たくさんの牛馬の飼育ができます。
また、肥大した根のデンプンはくず粉として食用になりました。
さらに葛の繊維で編んだ葛布は新石器時代から存在するという事です。(ウイキペデイアより)
葛が生い茂る村は、産業がいっぱいある豊かな村だったかもしれません
諏訪神社は、山上高光が諏訪まで行って勧請してきたというのが定説になっています。
でも、証明する文書は存在しません
いつからそう言われているのかもわかりません
上下二つの諏訪神社が、建武元年には存在したのです。
諏訪神社は大きな力を持っていたようですが、この時代山上氏はどうしていたのでしょう?
この時代諏訪神社と共に大きな力を持っていたのは、太田貞宗です。
山上の諏訪神社に太田貞宗が大きな影響力を持っていたのです
諏訪神社は本当に山上氏が勧請したものなのでしょうか?
山上六郎左衛門が新田義貞に従って鎌倉責めに出陣する際は、絶対に戦勝祈願をしていなければなりません。
そんな話聞いた事ありませーん
それに、山上さんは新田義貞に鎌倉責めに誘われるような勢力を持っていたのでしょうか???
ええッ、上野国山上に山上六郎左衛門さん存在したの
危うし、山上六郎左衛門の存在
神社としてやっていくにはそれなりの収入が必要ですから、税金を納めてくれる田んぼ等が必要です。
燈油料とは、御灯明や屋外の灯篭の油を買う資金用という事でしょうか?
明治時代に電気が来るまで、あかりは菜種油を燃やしてとっていたようです。
ところが菜種油が、一般的になるのは江戸時代になってからです。
それ以前はエゴマ油でした。
諏訪神社もこの時代はエゴマ油を使っていたと思われます。
エゴマは最近健康食品として注目されているようです。
初出 2019.05.25 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー中世葛塚村考
改稿 2024.05.26
(つづく)