黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

上杉顕定書状(長享元年12月8日)

2024-06-11 22:09:50 | 山上保の物語・総集編

とても暑い一日でした

でも、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、夜はおうち犬です。

先日、ひめちゃんは雨の夜に2度目の「アタチ挟まってまふ」事件を起こしました

6面サークルのドアのある1枚を押して隙間を作り、脱走しようとしたのです。

ジャンプ力抜群のひめ対策で、上はもちろん塞いであります。

ところが上半身は出たけれど、肉球がパーツの連結部分に挟まって、救出に駆けつけたおとうたんの手をかんでしまったのです

以来、夜は室内犬です。

真夏にはどうしましょう

 

5年前の5月末、獅子丸はまだ実家に帰っていませんけど、実家のみんなとお散歩していました。

大勢でのお散歩、楽しかったね

 

 

 

中世葛塚村に関する5つの文書、3番目は赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享元年12月18日)です

 1、太田貞宗寄進状(建武元年11月27日)
 2、宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(南北朝期年未詳3月18日)
 3、赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享元年12月18日)
 4、赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享2年3月16日)
 5、由良成繁事書案(永禄10年)

上杉顕定書状は2通とも葛塚が出てきます
いずれも長享の乱の中で出された文書です。

長享の乱は、ウィキペディアによれば、
長享元年(1487年)から永正2年(1,505年)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いに寄って上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)の関東進出を許す結果となった。


まず赤堀上野介宛上杉顕定書状・長享元年12月18日を確認です。です


赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享元年12月18日)

去十四日長尾蔵人幷佐野周防守同心ニ、善・山上取立候地へ差懸、終日相攻候處、不移時合力候故、敵退散手負数多、四五人被討捕候由注進、其動誠心地好感入候、於向後も、弥無油断、被加力肝要候、恐々謹言、

(長享元年)          (上杉)
十二月十八日           顕定(花押)
 赤堀上野介殿

              『群馬県史資料編7』




長享元年(1487)12月18日


長享元年閏(うるう)11月に、関東管領上杉顕正の兄・上杉定昌によって足利の勧農城が攻撃され、長享の乱が勃発します。
勧農城の長尾房清は扇谷方に内通していたといいます

いろいろ調べても閏11月以上はわかりません
いずれにせよ約1月後、今度は関東管領方の善・山上が攻撃されるのです。


去十四日

長享元年12月14日、この文書の4日前です。
戦いが行われたのは、長享元年12月14日です。
旧暦ですから今の1月後半になるでしょう、ちょっと寒いかな
この歳は閏11月、つまり2度目の11月があったので、もう少しあとの厳寒の2月かもしれません


長尾蔵人幷佐野周防守同心ニ

長尾蔵人は足利勧農城主、佐野周防守はやはり桐生佐野氏の佐野周防守でしょう。
長尾蔵人と佐野周防守が、一緒に攻めてきたのです


善・山上取立候地へ差懸

取立は、強制的に取ること。または、抜擢すること。
善・山上取立候地(ぜんやまがみとりたてそうろうち)とは、善・山上の(関東管領方が)奪い取った(奪い返した)土地
差懸は、建物に火を懸けたり矢を放つ意味もありますから、真冬に攻撃される方はたまりません
善・山上取立候地で、善城・山上城とは言ってません
まだ、無いのでしょう


終日相攻候處
しゅうじつあいせめそうろうところ

「相」は動詞の前について婉曲を表します
「一日中攻撃が続きましたけど」くらいの意味です



不移時合力候故、
ときをうつさずごうりきそうろう(の)ゆえ

赤堀上野介がすぐに兵を連れて駆けつけたのです


敵退散手負数多、

赤堀上野介の働きで敵は退散しけが人もたくさん出て、


四五人被討捕候由注進
「被」の下の活用語を「討捕」とすると、「うちとらえーず」下二段、すると「被」は四段以外の時は「らる」なので、「うちとらえらる」
「候」が付くので、「うちとらえられそうろう」
「由」は之をともない「~であること」、四五人討ち捕らえられ候の由
「注進」は、報告書。


ウイキペヂアによれば、戦国時代までの注進状は、主に敵の動きや戦いの結果を報告する書状を示す。
赤堀上野介は善・山上へすぐに駆けつけ、敵はけが人たくさんが出て、4・5人が討ち取られたこと、つまり自分は敵をたくさん傷を負わせ、4・5人を討ち取ったことを、上杉顕定に報告したのです



其動誠心地好感入候、
動は働で、そのはたらきまことにここちよくかんじいりそうろう
よくやった、ようがんばったのうと、ほめているのです



於向後も、
こうごにおいても

これから先も


弥無油断、
ますますゆだんなく

「弥」はますます
「無油断」ゆだんなく


被加力肝要候、

被加力は直前の活用語を「加力」とすると「加力す」でサ変なので、かりきせらる
肝要候は「かんようにそうろう」
何がかんようかというと、直前の加力することでしょう。
そうすると、「かりきせらることかんようにそうろう


恐々謹言

戦国武将の手紙の結びのきまり文句です。
恐れながら謹んで申し上げます。



関東管領は、「今後もこんな時には、すぐ駆けつけてね」といいました。
戦いがあったのは12月14日です。
14日に報告をだして4日で、返信が帰ってきたのです

長享の乱の勃発は閏11月に、関東管領方の上杉定昌が足利の勧農城を攻撃したことに始まるといいます。
そして今度は、足利から攻めてきたのです

膳・山上の地は、長享元年の乱で、戦場となったのです。

関東管領・上杉顕定方の最前線で、一日中攻撃が続いたのです。

 

 

 

 

初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー・中世葛塚村考

改稿 2024.06.11

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