黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

上杉顕定書状(長享2年3月16日)・その2

2024-06-17 21:01:44 | 山上保の物語・総集編

2019年6月、獅子丸が帰ってきて、さらににぎやかな犬家族になりました

タバサねーちゃんは、小次郎パパとのお散歩が多かったようです。

8月のある日のお散歩です。

パパと獅子丸の関係は微妙でした

七海ママは、実の息子だと覚えていました。

ひめちゃんも、きょうだいだとずっと覚えていました。

ママとひめちゃんは、時折、獅子丸に逢いに行っていたのです

タバサねーちゃんは、どうだったかな?

ののこねーちゃんは、異性と意識したようです

 

ひめちゃんが、もっぱら獅子丸担当でした。

獅子くん、過酷な環境でも明るく素直な子に育っていてくれました

 

 

 

上杉顕定書状(長享2年3月16日)の解読進めます

 

上杉顕定書状(赤堀文書)

葛塚之要害へ佐野周防守差懸相攻之間、及防戦砌、速有合力得勝利、敵手負死人数多、至于御方も同然、其動心地好感悦候、於向後も無油断、現形成候、不移時刻、可被加力候、周防守事後御方之由 上意、然而如斯慮外之揺、不思議之次第候旨趣、
言上之所、断而可被成御咎之段、被仰出候、恐々謹言

  三月十六日          顕定(花押)
   赤堀上野介殿

                      (『群馬県史資料編7』)

 

 

其動心地好感悦候、

「其動」、「動」は「働」と同じと『群馬県史資料編7』には、註があります。

「そのはたらき」とは、葛塚の要害で佐野周防守を撃退した働きです
「心地好」、「心地好く」、それはそうでしょう、気分いいですよね

「感悦候」、「候」は丁寧で「~です」「~ます」。

活用語の連用形に接続します。

そうすると「感悦」を活用語とすると、「感悦なり」です。連用形は「感悦に」です。

「感悦候」は「かんえつにそうろう」です。

「感悦」は非常にうれしことです。
赤堀上野介の働きを関東管領上杉顕定はとても喜んでいます

於向後も無油断、
「向後に於いても油断無く」、今後も油断しないで

現形成候、
「現形」は「げんぎょう」で蜂起とか出陣です

「成候」は「なりそうろう」です。
今後の話なので、もし出陣になったらということです

「成候」も「未然形+ば」で「げんぎょうそうらはば」


不移時刻
「時刻を移さず」、つまり「すぐ」


可被加力候、
「可は「べし」で、直後にかならず活用語がきます

活用語がラ行変格活用の時は連体形、其の他は終止形に接続します。
「被」は「る・らる」で、ラ変型活用です。

直後に必ず活用語がくるというので、「加」は活用語得「加う」となります。

活用語が四段活用およびラ行変格活用の場合は「る」、その他はは「らる」と訓読します。

「加う」は「くわえーず」え、下二段活用です。
ここまでは「力を加えらるべし」と読めます。
「候」は、活用語の連用形に接続なので、「べし」は連用形「べく」になります。
「可被加力候」は、「ちからをくわえらるべくそうろう」と読めます


関東管領上杉顕定は赤堀上野介に「君の働きはとってもすばらしいよ 」

今後も出陣になったら、駆けつけて加勢してねと言ってます。

赤堀上野介はどこから駆けつけるのでしょう。
赤堀からですね
山上から車で5分から10分くらいでしょうか


周防守事後御方之由 上意、
事後・・・・・この件のあと
御方・・・・・御方
由(よし)・・物事の内容、伝え聞いた事情

佐野周防守が、関東管領方の味方になるというんですね
一字空いています
上意に対する敬意を表しています
この時代、欠字で敬意を表す対象は、関東では古河公方くらいみたいです
そうすると、「周防守事後御方之由 上意」が古河公方から伝わったのでしょうか?
上杉顕定は、上杉定正に対抗するために、古河公方と手を結ぶこともありましたね


然而如斯慮外之揺、

然而(しかれども)・・・・・それなのに、逆説です。
如斯(かくのごとき)・・・・「慮外之揺」にかかるので、連体形に。
慮外・・・・・思いがけないこと、無礼であること
「慮外之揺(りょがいのゆらぎ)」とは、佐野周防守の思いがけない寝返りのことになります

 


不思議之次第候旨趣、

不思議・・・・・怪しいこと、不審に思うこと
趣(おもむき)・・・・・ありさま、言おうとしていること、聞き及んだ様子、やり方・方法


「不思議之次第候旨趣(ふしぎのしだいにそうろうむねのおもむき)」とは、上杉顕定が佐野周防守の寝返りに対して怪しい不審だと思ったのです。


言上之所、

言上(ごんじょう)・・・・・申し上げること
上杉顕定は自分の佐野周防守の行動に対する怒りと不審の気持ちを、目上の人に申し上げたのです
目上の人とは、古河公方しかいませんね

 


断而可被成御咎之段、

段・・・・・直前に「之」を伴い、文の主部を作ります。
「成御咎」はお咎めをなす(処罰する)と読めます。「なす」は「なさーず」四段活用です。
 「被」は四段活用の前は「る」で未然形接続です。この場合は尊敬です。
「被成御咎」は「おとがめをなさる」
「可」は下に来る活用形がラ変形の時は連体形、その他は終止形に接続するので、「可被成御咎」は「おとがめをなさるるべし」。
「断而可被成御咎之段」は「だんじておとがめをなさるるべきのだん」

上杉顕定の言上に対して古河公方が「佐野周防守はぜーたい処分するからね


被仰出候、

おおせいだされそうろう
「佐野周防守はぜーたい処分するからね」と言ってくれたのです。


恐々謹言
戦国武将の手紙の結びの決まり文句です。
恐れながら謹んで申し上げます。


三月十六日
年は書かれていませんが、『群馬県史資料編7』では、長享2年(1488)としています。

長享2年とはどんな年だったのでしょうか?
前年長享元年(1487)に、長享の乱が勃発しています。

長享の乱は長享元年(1487)から永正2年(1505)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いによって上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)の関東地方進出を許す結果となった。(ウィキペディア)


顕定(花押)

差出人は上杉顕定、この手紙を書いた関東管領です。


赤堀上野介殿

宛先は赤堀上野介です。



手紙全体の内容を現代語で確認しておきます

葛塚の要害に佐野周防守がせめて来て防戦したとき、(赤堀上野介は)速やかに駆けつけて顕定軍と協力して戦い勝利した。

敵も味方もたくさんの死者や負傷者が出た。

(赤堀上野介の)働きはとてもうれしい。

今後も油断しないでもし出陣になったらすぐに駆けつけて加勢してほしい。

佐野周防守が今後味方になるとの上意があったけれど、「これは思いがけない寝返りで信用できない」と申し上げたところ、「佐野周防守は絶対処分するからね」とおっしゃいました。



葛塚の要害は、関東管領の支配下にあったのですね。
赤堀上野介は強力な助っ人でした
では、守りの主力は誰だったのでしょう?

山上氏の姿、全くありません

敵も味方も、たくさんの死者と負傷者が出たんですね
その死者は、普通に考えれば、葛塚の要害付近に捨て置かれるか葬られています
葛塚の要害は、怨嗟の声に充ち満ちた場所なのです
その鎮魂のために、常広寺や長安寺が建てられ、薬師堂も建てられたのです

後閑(ごか)の薬師堂墓地には、五輪塔のパーツがたくさん転がってます


薬師堂の床下には、五輪塔がいっぱいあるという話もあります


このころ佐野周防守は、古河公方についていたようです。
すると、佐野周防守を処分できるのは、古河公方です
すると、上意の前の欠字は、やはり古河公方への敬意と考えられます
古河公方は長享の乱の前半は、扇谷上杉方だったといいますが、山内上杉方とも没交渉ではなく、なんらかの連絡を取り合っていた可能性はあります

佐野周防守は処分されたんでしょうか?

手紙の内容はかなり具体的というか、信用していないと、こうは書けないという感じです
佐野周防守は信用できないけど、赤堀上野介は信用しています

 

 

初出  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考

改稿  2024.06.17

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