黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

羽生衆の記憶

2020-04-25 15:56:11 | 旧勢多郡とその周辺・総集編

昨日の夕方、まさかの夕立になりました。

雷の大嫌いな小次郎パパは、晩ご飯も喉を通りませんでした

今朝は寒いけど、晴れました

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北の出てお散歩です。

あれ、赤城山に雪がある

うっすらと、鹿の子まだらというほどではないけれど、雪です

お散歩途中の日陰には、氷があります

もしかしたら、昨夜はみぞれ混じりの雨だったのかもしれません。

 

おうちに戻ると、牡丹が咲き出していました

昨夜の冷たい雨にも負けずに、開花です

 

 

 

『群馬県の中世城館跡』(1988群馬県教育委員会)には、葛塚城の築城者・在城者(推定・伝承)として、「山上氏、足利忠綱、羽生衆」をあげています。

 

『群馬県古城塁址の研究』(山崎一)に、

(天正2年)しかも謙信は羽生城を放棄せざるをえなくなったことが北条氏政から小田氏治への書状に見える。謙信もこれを認め、羽生の将士千余人を引き取って、羽生の木戸忠朝、菅原為繁を置いていた所が善、山上なのである。上州古城塁記は、善城に木戸伊豆入道玄斎居すとし、一方山上にも「其後、木戸大炊頭という者是に居す。蓋し(けだし)上杉の家人ならん。」と記されていて、木戸玄斎は山上、善両城を兼帯し、羽生衆千人は両城に収容」されていたと推定できる。

とあります。

天正2年(1573)閏11月、羽生衆は羽生城を捨てて、山上(やまがみ)目指して利根川を渡ったのです。

利根川を渡り、早川を遡れば、迷うことなく山上に着きます。

2017年12月の写真です。

正面に見える山は、赤城山です。

ここは太田市前小屋町、川の向こうは太田市堀口町です。

右下の少し先で、早川は長い長い旅を終えて、利根川に合流しています。

 

羽生周千余人は、善城(膳城)・山上城・葛塚城に分散して住んだということらしいです。

千余人とは、大変な人数です。

専門家の話によると、将兵1人を養うには1石必要だそうです。

千人だから、1000石必要です

時は真冬、収穫などない

どうしたんでしょう?

まさか、越後から米を運んだなんてことはないでしょう。

 

羽生衆は、羽生に帰れる日を夢見ていました。

ところが、天正6年、上杉謙信は死んでしまいます

越後に行く者あり、武蔵に帰る者あり、または、山上に留まった者もいたでしょう。

 

余計な心配ですけど、膳さん・山上さんは、どうしたのでしょう?

 

『新里村郷土大観』(1933岩澤正作)に、「長安寺墓地に木戸玄斎(上杉氏家臣にて山上城を守れるか)の墓と称する古塔があります。」とあります。

 

冬雑草の勢いが弱まった頃、長安寺跡に人間だけで行き探しましたがみつかりません

長安寺は『南勢多郡の廃寺』(勢多中部仏教会)によると、境内の広さは「東西27間南北14間」とあります。

東西約50m、南北約25mです。

ということは、今は半分以下の面積になっているということです。

東西の東半分は、人家や畑になっています。

もしかしたら、後閑(ごか)の集会所も境内だったかもしれません。

 

長安寺は、獅子丸家(獅子丸が7年間養子にいっていた家)が開基で、経営にも深く関わってきました。

獅子丸家が長安寺を開基するのは、木戸玄斎が山上を去ってから20数年後です。

木戸玄斎は山上を去ってからの足取りがあるということです。

だから、山上で亡くなったのではなさそうです。

獅子丸家のご先祖さまが、旧交のあった彼の訃報を聞いて建立したのかもしれません。

 

その後長安寺は近隣の人々を受け入れて、明治初年まで続きました。

たぶん、おおらかな雰囲気で経営がなされたのでしょう

 

こんなかわいい青面金剛もあります

大久保・山上講中の文字が見えます

大久保は北隣ですけど、今は学区が異なり、何かを一緒にするということもない地区です。

獅子丸家のおとうさんは、大久保も檀家だったといっていました。

長安寺の記録等は残っていないようですけど、かすかな記憶が残っています

 

長安寺には長安寺の物語があり、長安寺以前の物語がありそうです

 

 

 

 

 

 

 

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葛塚城鬼門の長安寺(後閑の五輪塔)

2020-04-24 16:04:48 | 旧勢多郡とその周辺・総集編

昨日の夕方、ひめちゃんは動物病院で狂犬病の予防接種をしてきました。

実はかなりのへたれのひめちゃん、車の中では過呼吸状態でした

でも、フラリアの検査で血液採取をしてその結果を待っているうちに落ち着いて、無事に終わりました

今朝は獅子丸と、諏訪神社の西の高台を歩いてきました

晴れて気持ちがいいね

でも、久しぶりなので、ひめちゃんの耳は情報収集中です。

ここには、時たま犬を放してお散歩するおじさんが出現するのです

耳の向きが変わりました。

大丈夫なようです

今朝は、浅間山がきれいに見えます

まだ、雪があります

菜の花の所の小道を通って帰ります

浅間山が、さらにはっきり見えます

あれ、除草剤の海だ

道ばたに薬師仏が集められています。

薬師様、除草剤のせいで、実力を発揮できません

もう一ヶ所も同じようです

今こそ、出番だと思うのですけど

 

 

 

葛塚城堀之内の外、丑寅(北東)の鬼門に長安寺はありました。

南勢多郡仏教会の廃寺報告書に長安寺があります。

 

長安寺(天台宗新川善昌寺末)

山上に存在した。寛保2年(1742)に『前橋藩領内寺院本寺併所附帳』に記載されている。明治10年(1877)内務省地理局へ出された『上野国郡村誌』に東西27間、南北14間、境内の面積は一反2畝1歩と記されている。明治12年に内務省へ出された『上野国寺院明細帳』には記載が無いことから、江戸時代前期頃に創建され、明治12年までには廃寺になったものと考えられる。

 

獅子丸が7年間養子に行っていた家を、仮に獅子丸家と呼びます

その獅子丸家のおとうさん(元飼い主)によれば、長安寺は、獅子丸家のご先祖・本橋院殿寶輪廣譽大居士(ほんきょういんでんほうりんこうよだいこじ)が建立したといいます。

本橋院殿は、山上城落城の供養の為に、前橋橋林寺末・常広寺を開基し、さらに葛塚城鬼門に長安寺も建立したのだそうです。

そして、常広寺のほうは、実質的開山である常広院殿にまかせ、自分は長安寺に依ったといいます。

長安寺は、獅子丸家の個人経営的な面が強かったようです。

僧侶独特の墓もいくつかありますけど、無住の期間もけっこうあったようです。

いつのころからか、しだいに地域の人々も受け入れるようになったようです。

 

ここに、後閑(ごか)の五輪塔があります。

桐生市のHPによると、この五輪塔は室町時代前期の特徴をもっているとあります。

 

そうすると、長安寺より古いことになります

そうすると、長安寺以前に寺が存在した可能性があります

葛塚城鬼門にあることから、寺があって当然です

五輪塔のパーツもころがってます。

 

長安寺の北東には、額のみ残る八幡宮があります。

地元では八幡様といって祭礼をしているようです

このあたりは、長安寺以前からパワースポットだったのです

 

 

 

 

 

 

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海なし県の鹽竈(しおがま)神社・野の鹽竈神社

2020-04-23 16:01:39 | 旧勢多郡とその周辺・総集編

ちょっと風の冷たい一日です。

ひめちゃんと獅子丸は、七海ママの昼散歩に付き合います

親子・きょうだいなのに、麻呂眉(まろまゆ)の出方が違います

模様も違います

ママも末っ子達とのちい散歩を楽しんでます

 

 

(2018年7月25日)

旧新里村には、海がないのに、鹽竈神社(しおがまじんじゃ)があります

そばをよく通ってますけど、先月塩釜の塩竈神社(しおがまじんじゃ)に行ってきたので、初めて寄ってみました

ここは、新里町野(の)です。

地元では「のむら」と言っています。

 

鹽竈神社の本宮は、言うまでもなく、宮城県塩釜市の塩竈神社です

 

独特の雰囲気です

鳥居もちょっと違います。

沓石がなく、現代的に補強されています。

 

拝殿です。

ちょっと神社という感じではありません。

手作りっぽい額です

心温まる額です

 

右の狛犬です。

嫌みのない手頃な大きさの狛犬です。

慈光の文字のある石造物は何でしょう?

 

左の狛犬です。

こちらには普遍とあります。

狛犬や石造物には、後ろに、昭和7年の銘があります。

 

本殿の西側には、御神木でしょうか?

何百年物の大木のようです

杉かな?

 

境内には、よそによく見られるような庚申塔などの石造物はありません

これは異例な事です

 

海なし県の塩竈神社で、近世の石造物のない神社です

どんな人々が祀ったのでしょう?

 

塩釜の塩竈神社の主祭神は、塩土老翁神です。

塩竈神社は、朝廷から東北平定のために派遣された二柱の神を先導した塩土老翁神が塩釜の地にとどまり、現地の人々に製塩を教えたことに始まるといいます。(ウィキペディア)

 

野に塩竈神社を招聘した人々は、何か東北と関係がありそうです

塩と関係ある人々なのでしょうか?

 

桐生市新里町野の南は、伊勢崎市赤堀町野です

新里の野と赤堀の野の間には、鏑木川の支流が流れます。

でも、さほどの大河でもありません。

本来は、一つの村だったかも知れません。

明治以降、歴史を無視した合併が繰り返されて、歴史が分からなくなってます。

 

 

 

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勢多郡関村の八幡宮

2020-04-22 22:29:59 | 群馬県・旧勢多郡

獅子丸は、昨日の夕方、動物病院で狂犬病の予防接種をしてきました。

さぞかし大変だろうと思いましたけど、わりにいい子で接種できました

「3日間安静に過ごしてください。」と言われました。

今朝は、ひめちゃんと、堀之内北コース短め編をお散歩です。

今朝の赤城山です。

雲におおわれて、うっすらとしか姿が見えません。

ひめちゃんが、変なポーズをしています。

普通女子はしないと言われることをしています

初代黒柴が三四郎という男の子だったからでしょう。

群れの女の子達が、みならってしまったようです

もちろん片足上げたりはしませんし、けっこうしゃがんでもしていますけど。

 

ひめちゃんちに、1本しかない藤の花が咲きました

この藤の花が咲くころ、ひめちゃんたちは1名ずつ動物病院に行って、狂犬病の予防接種です。

明日は、ひめちゃんの予定です

 

 

新着記事です。

4月5日、大間々の長沢薬師からの帰り、国道353号線に出て、前から気になっていた新里北部の関八幡宮(せきはちまんぐう)に寄りました

奥深い所にありそうです。

一の鳥居の額は「八幡大神」です。

 

二の鳥居です。

額は、「正一位稲荷大明神」です。

 

三の鳥居です。

邪魔なおじさんがいますけど、桜と鳥居のコラボいいですね

 

右奥に灯籠が見えます。
その奥に階段です

でも、手すりが付いているのは、ありがたい

 

手すりを伝って、やっと登りきります。

社殿の左側は狭くて、何もありません。

右側(東)から、社殿を望みます。

本殿、清浄な雰囲気です

 

石造物が集められています。

灯籠には、文化10年(1813)とあります。

奥深い所なので、神社が守られているのかなという感じがします

 

階段を降りて、灯籠の年号が眼に入ります。

寛政2年(1790)です。

 

ここは、旧新里村関です。

関には、あの瀧沢不動尊への道に丁抗を設置した龍興寺もあります

瀧沢不動尊への道の丁抗を設置したのは、天明8年(1788)です。

関には摩崖仏もあります

 

関村はどんな村だったのでしょう?

資料を整理していたら、『上野国郡村誌』勢多郡のコピーが出てきました

勢多郡関村は、江戸時代以前は、「古昔不詳」とあります。

江戸時代には領主は度々変わっています。

 

「社」として、

八幡社 村社東西十三間南北十五間三尺反別廿五歩村ノ丑ノ方ニアリ誉田別命ヲ祀ル祭日ハ八月十五日境内杉老樹アリ

ほかに、天神社と稲荷社があります。

 

そうすると、後に八幡社に天神社と稲荷社とか集められたのでしょう。

だから、鳥居が3つなのでしょう。

でもどうして、軍神である誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)を祀る八幡宮がここにあるのでしょう?

関に武将がいたという話も聞きませんし

 

「物産」として、

米麦大豆粟稗蕎麦薪炭繭糸等ナリ各種自用ノ外山田郡大間々町ニ鬻ク

とあります。

自家用の他に、大間々町にも売っていたのです

山を下りた向こうの大間々と、深い関わりを持っていたのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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眼を治す薬師様・孫兵衛辻子(まごべえずし)の長沢薬師

2020-04-21 15:52:52 | 群馬県・東毛

晴れましたけど、雲の多い朝でした。

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内の北を歩いて来ました。

赤城山には重く雲が懸かってます。

 

帰り道のひめちゃんです

ひめちゃんもシャンプーしました。

湯上がり美女に見えますか

 

南の方には、幻想的な秩父の山々が見えます

こんな光景は見たことありません

 

 

 

新着記事です

4月5日、大間々の長沢薬師の縁日です。

時節柄、やってないだろうと思いましたけど、どうしても行くのだというおじさんがいます

この日だけの御朱印も出るのだとか。

大間々駅隣のコンビニにちょっと駐車です。

「あとで、お買い物しますね

 

なにやら、クラシックな雰囲気です

この細い通りが、高津戸の渡しから大間々宿に入るメインストリートだったんですか

高津戸の渡し跡は、里見兄弟の墓の奥にあります。

そうだったんですか

 

後で気がついたのですけど、このブロック塀の向こう左に、長沢薬師があったのです

いわば、孫兵衛辻子の長沢薬師だったのです

 

地理不案内のおじさんにしたがって、近くの大通り・まま通りに出ます。

赤い元気な幟(のぼり)が旗めいています

でも、人影はありません

半紙に「め」の字を書いて奉納するんだそうです。

おじさん、ちゃんと用意してきました

薬師様のお姿がかすかに見えるような気もするのですけど

まあ、とにかく合掌

 

まま通りを振り返ります。

なんとなく駐車できそうです。

濃いピンクのしだれ桜が、咲き始めていました。

 

しだれ桜の奥は、稲荷神社です。

桜が大きくなったら、もっと御利益ありそうです

 

まま通りには、大間々の大きな案内板です。

下中央の赤いところが現在地です。

ちょっと、おじさん邪魔

おじさんの右手首辺りが、高津戸の渡し跡です。

確かに、孫兵衛辻子からまっすぐです

 

大間々町は、町誌編集の際、町内の石造物も細かく調査しています。

長沢薬師あるかな?

ありました

「眼を治す薬師様」として、あります。

やはり、なんとなくお姿があるように思えます。

 

大間々は、町の歴史を大切にする町なのですね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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